耳嚢 兩國橋懸替の事 / 盲人かたり事いたす事
「耳嚢」に「兩國橋懸替の事」及び「盲人かたり事いたす事」を収載した。
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兩國橋懸替の事
吉宗公御治世の頃、兩國橋懸替有けるに、或は出來不足の處有之、懸(かかり)役人不念(ぶねん)の義度々に及びければ、懸り役人も數度引替に及びし故、巷(ちまた)の説にも此度も又合口(あひくち)行違候抔色々口説(くぜつ)有けるを、御聽被遊けるや、近日御成の刻(とき)御覧可被遊旨被仰出、其節は懸りの者も場所へ相詰候樣被仰渡(おほせわたさらるる)故、何れも如何可被仰出哉(おほせいださるべきや)と心にあやぶみいける。其日限にも成ければ、御船を右場所へ被留、得と御覺の上、宜(よろしく)出來(しゆつたい)いたし候、何れも骨折の段上意有、何れも一同難有存ける。夫よりして彼浮説も忽(たちまち)止りけるとかや。
□やぶちゃん注
・「兩國橋懸替」隅田川に架かる両国橋の架橋は、万治2(1659)年説と寛文元(1661)年説の二説がある。以下、ウィキの「両国橋」より引用すると、『江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまう。事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に』火除地としての役割も担った、とある。その後も度々火災や洪水により、流失・破損を繰り返した。底本の鈴木氏の補注に『広文庫に引用する耳嚢の本文では「有徳院様御治世の頃、享保十三年九月洪水にて両国橋落つる。同十二月より掛替有りけるに」とある。実紀によれば、同十四年七月六日隅田川に御狩、船中にで昼食をとり、大銃、水泳、烽火を見たとある』ことから、まさにこの享保14(1729)年7月6日こそが、この記事の一件があった日ではないかと推定されている。この後、鈴木氏は吉宗在任中の後の再度の両国橋の洪水による崩落による架け替え(延享元(1744)年)をも記しながら、総合的に考えて本件は享保時の際の出来事と同定されている。堅実にして美事な注である。なお、本橋の名については、ウィキに貞享3(1686)年に『国境が変更されるまでは』武蔵国と『下総国との国境にあったこと』に由来するとある。
・「不念」不注意による過失。
・「合口行違」両岸から伸ばして建造した橋梁が中央で食い違って合わなくなる。
・「口説」お喋り。噂。岩波版は「こうぜつ」とルビするが、不審。
・「あやぶみいける」の「い」はママ。
■やぶちゃん現代語訳
両国橋架け替えの事
吉宗公御治世の折、両国橋の架け替えがあったのであるが、しばしば工事が遅延する場面があり、また、橋普請担当の役人の度重なる過失もあって、何度も担当官の交代があったりした故、世間でも、
――今度も岸から延びた二つの橋が合わねえらしい――
なんどという噂がたっていたのを、上様もお聴き遊ばされるや、急に、近々両国へ御成りになり、その際、親しく橋普請の現場を御覧遊ばされる旨仰せになられ、その時には総ての担当官もその場に控えおるよう、と申し渡されたので、担当官はもとより御家来衆も、一体、どのようなきついお達しがあるのであろうか、と内心、戦々恐々としておった。
御成りのその当日になると、上様は御船を普請場の岸に泊め置かれ、仕上げにかかっていた橋普請の様子を凝っとご覧になった上、一言、
「よく出来ておる。皆の者、何れも御苦労。」
との御意であった。
担当官御家来衆一同、何れも皆、上様の慈悲に満ちたお優しさに、心から打たれたということじゃった。また、それからというもの、かの流言蜚語も忽ちのうちに消え失せたとか聞いておる。
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盲人かたり事いたす事
安永九年の事成りしが、淺草邊とや、年若の武家僕從兩三人召連れ通りしに、壹人の盲人向ふより來り、懷中より封じたる状壹通差出し、丁寧に右武家の側へより、國元より書状到來の處、盲人の儀少々心掛りの儀有之候間、恐入候事ながら讀聞せ給るやう願ひければ、家來抔彼是制しけれども、其主人、盲人尤の儀と、憐の心より何心なく封おし切讀遣しける。其文段に、金子無心の事申越候得共、在所も損毛にて調達いたし兼候間、漸(やうやく)貳百疋差遣候趣の文面也。盲人承り、扱々忝候。在所にても才覺調兼(ととのひかね)候段無據(よんどころなき)事といひて、右金子渡呉侯樣申ける故、彼若き人驚、文面には金子差越候段は有ながら、右金子状中には無之、別段に屆來(とどけき)侯には無之哉(これなくや)と答ければ、盲人聊承知不致、何とやら盲目故掠(かすめ)ける趣に申募る故、品々申なだめけるといへども疑憤候間、無據屋敷へ召連金子差遣侯由。憎き盲人ながら、若きものは右樣の折から心得有べき事なり。
□やぶちゃん注
・「安永九年」西暦1780年。
・「損毛」損亡とも。広く損失を受けること、利益を失うこと、を意味する。岩波版で長谷川氏は『農作物が被害を受けること。』とする。必ずしも、絶対的に承服出来る語釈とは言い難いが、訳では大変都合がいいので、これを採用した。
・「貳百疋」「疋」は錢を数える数詞。匹とも。古くは10文(後に25文)を1疋とした。ここでは10文とすると2000文=2歩で、丁度1両の半分に相当する。
■やぶちゃん現代語訳
盲人が詐欺を仕組んだ事
安永九年のことであるが、浅草辺りでのことだったという。年若い武家が従僕二人を連れ通りを抜けてゆくと、一人の盲人が向うからやって来る。と、徐に懐中から封をした手紙一通取り出し、慇懃にその武士の傍らに寄ってきて、
「実は……国許より書状が到来致しましたが……御覧の通りの盲人で御座いますれば……実は……少々気に懸かることも御座いますれば……恐れ入りまするが……誠に勝手ながら文面をお読み戴いて拙者にお聞かせ戴きたく……」
としきりに乞う。二人の従僕はあれこれ言って追い払おうとしたのだけれども、この若主人、盲人の儀なれば、尤もなること、と同情心から素直に手紙を受け取ると、ふつっと封を切って、中の手紙をとり出だし声を出して読んでやった。
その消息文は、
『――金を無心したき旨の申し文であったけれども、在所も不作続きでとても望みし全額は調達致し兼ねる故に、何とか工面した金二百疋分を差し遣る――』
といった旨の文面なのであった。
盲人は謹んで聴き終えると、
「さてさて忝(かたじめな)きことで御座いました……在所も不作なれば手元不如意、思うように金を揃えることが出来ぬというも、尤もなこと……」
と独りごちたかと思うと、静かに、
「それでは、その金子(きんす)二百疋、お手数ですが、この手にお渡し下さいませ。」
と言った。かの若主人は驚いて、
「……いや、その確かに……文面には金子を差し遣るという段は、ある……あるが、その金子は状袋の中には入っておらなんだ……いずれ、別送か何かで送って来るのではないかのう……。」
と答えたのだが、盲人はその答えに、いっかな承知致さず、却って、
「盲目(めくら)だからと馬鹿にして! 金子を掠め取るッ!」
と言った、激しい剣幕で喚(おめ)き立てるので、従僕二人も一緒になっていろいろと宥(なだ)めてはみたものの、もうひたすら一方的に憤激するばかり。往来のことで世間体もあり、止むを得ず主人の屋敷へと連れ行き、結局、この盲人に金子二百疋分を渡した、ということで御座った。
誠(まっこと)性悪(しょうわる)の盲人ではあるけれども、若い者たちは、今時、このような新手の詐欺もあるものなのだということは、この話から重々心懸けておく必要があるのである。