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2009/10/31

ノウエンボクジヨウタノム

朝からマイミク諸君のみん農とサンシャインは二度ずつ周回し、水遣り等しておいた。今から旅に出る。マイミク諸君、明日まで僕の農園と動物たちの水遣り等、よろしく頼む。

みん農の猟番ヤブリョーノフの独り言:

「黒ウサギの野郎だけは、最近、頭が良くなりやがったな……ちっとも弾が当たりゃ、しねえ!……」

2009/10/29

腋下カテーテル抗癌剤治療見学

大腸癌切除後、肺に転移した患者さんの腋下からのカテーテルによる抗癌剤治療、CTスキャン等を用いたオペを、手術着を来た上に放射線プロテクトを着て、高校1年生の女生徒3人と一部始終、約3時間見学。生徒はもとより僕にとって有意義であった。こんな体験は、ちょっと出来ない(勿論、患者さんの個人情報開示許可も得ており、何より、患者さんは僕と気が合う肝っ玉母さん風の方であった)。術後、拝見した患部のスキャン画像3D処理システムも驚愕の極みだったし、たまたま来合わせた製薬会社のインフルエンザ新薬売り込みのプレゼンテーションの現場にも手術着のまま立会い、提示データへ立て続けに疑問を投げかけて、先生に褒められてしまった。――素晴らしい体験であった――しかし、あの鉛のプロテクト3時間装着――なかなか足腰に来るぞ!

ブログ190000アクセス記念 ツルゲーネフ作 中山省三郎訳 森と曠野

ブログ190000アクセス記念として、Иван Сергеевич Тургенев“Лес и степь”ツルゲーネフ作・中山省三郎訳「森と曠野」(「猟人日記」より)を正字正仮名で「心朽窩 新館」に公開した。これこそ、國木田獨歩が「武藏野」で手本としたルーツでなくて、何であろう。

190000アクセス突破

2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、

190000アクセス

を昨日深夜突破した(現在190036)。記念テクストは本日、社会見学で1年生の選ばれし女生徒三名と肺疾患(又は大腸疾患)のクランケの手術見学から戻った後に作成する。

耳囊 金精神の事 / 陽物を祭り冨を得る事

 

「耳嚢」に「金精神の事」及び「陽物を祭り富を得る事」を収載した。

 金精神の事

 

 津輕の豪士の語りけるは、津輕の道中にカナマラ大明神とて、黑銅にて拵へたる陽物を崇敬し、神體と尊みける所あり。いかなる譯やと尋問ければ、古老答て、いにしへ此所に壹人の長ありしが、夫婦の中にひとりの娘を持、成長に隨ひ容顏美麗にして風姿艷なる事類ひなし。父母の寵愛斜ならず、近隣の少年爭ひて幣(へい)を入、妻にせん事を乞ひ求めけるが、外に男子もなければ聟を撰て入けるが、いか成故にや、婚姻整ひ侍る夜卽死しけり。夫よりあれこれと聟を入けるに、或ひは卽死し又は逃歸りて、閨園空しくのみなりし故、父母共に驚き大方ならず。娘に譯を尋れば、交りの節或は卽死し又は怖恐れて逃歸りぬれど、我も其譯知らずと人して答へければ、父母も因果を感じて歎き暮しけるが、逃歸りし男に聞し者の語りけるは、右女の陰中に鬼牙ありて、或は疵を蒙り又は男根を喰切りしといふ。此事追々沙汰有ければ、娘もいぷせき事に思ひける。或男此事を聞て、我聟にならんとて、黑銅にて陽物を拵へ、婚姻の夜閨に入て交りの折から、右黑銅を陰中に入れしに、例の如く霧雨に乘じ右黑銅物に喰つきしに、牙悉く碎散て不殘拔けるゆへ、其後は尋常の女と成りし由。右黑銅の男根を神といわひて、今に崇敬せしと語りけり。

 

□やぶちゃん注

 

・「金精神」「こんせいしん」と読む。木製・金属製の男性の陽物(リンガ)の形をした御神体を祀古いる性器信仰の一つ。以下、ウィキの「金精神」によれば、全国的に見られるが、特に東日本の東北から関東地方にかけて多くみられ、その起源は『豊穣や生産に結びつく性器崇拝の信仰によるものから始まったとされている。子宝、安産、縁結び、下の病や性病などに霊験があるとされるが、他に豊穣や生産に結びつくことから商売繁盛にも霊験があるとされている。祈願者は石や木や金属製の御神体(男根)と同じものを奉納して祈願する』とある、また、『金精神を祀る神社としては、金属製の男根を御神体としていた岩手県盛岡市巻堀の巻堀神社や、巨根として知られる道鏡の男根を御神体として祀ったのが始まりとされる栃木県日光市と群馬県利根郡片品村との境の金精峠に鎮座する金精神社などが有名で』、更に『古来より温泉は女陰であるとされていることから、温泉が枯れずに湧き続けるように男根である金精神を祀っているという温泉も多い。金精神を祀っている温泉としては、岩手県花巻市の大沢温泉や秋田県鹿角市の蒸ノ湯温泉などが知られ』る、と記す。この岩手県盛岡市玉山区巻堀字本宮にある巻堀(まきぼり)神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)なるものが、この話のモデルとしては相応しい気がする。古いネット記事によれば、この神社は長禄三(一四五九)年に創立されたと伝えられ、古くは「南部金精大明神」と呼ばれていた。御神体は高さ約六十センチメートルの金色の金属製金勢大明神で、古来より縁結び・子宝・安産の神様として信仰されており、境内には至るところに金勢様が祀られている(但し、御神体は宮司の自宅にあり、本社にはないらしい)。また、本祠を東北地方の金精信仰のルーツとする説もある。――ただ、これが本話のモデルとすると、これ、やや、デカ過ぎる気がする(但し、ここの旧社は慶応ニ(一八六六)年に焼失したとあるので、現在の御神体が本話柄当時のものであるとは私には思われない)。但し、底本で鈴木氏は『津軽のそれでは、東津軽郡平内町狩場沢の金精様が有名で、懐妊を祈願する』とある。それはここの熊野宮である。但し、語り手は津軽藩士ではあるものの、道中と言っているから、必ずしも津軽藩に限定する必要はない。

 

・「黑銅」黒銅鉱という銅酸化鉱物があるが、ここは単に黒光りした銅製の意であろう。

 

・「幣を入」贈物をすること。結納を結ばんとするための進物を送ること。

 

・「閨園」底本には「(閨縁カ)」という右注が附くが採らない。岩波版では「閨闥」(けいたつ)とあり、「夫人のねや。」と注する。しかし、私には(このような熟語は未見であるが)素直に意味が分かる。「園」という字は、ある特定の場所・地域を指す接尾語でもあるから、特に違和感はないのである。いや、まさに文字通り、夫婦の「愛の園」である所の「閨」(ねや)の意でよいではないか。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 金摩羅大明神の事

 

 津軽弘前藩のさる武家が語ったこと――津軽帰藩の道中に、金摩羅大明神と称し、黒光りした、銅で拵えた陽物を崇め奉り、御神体と尊(たっと)んでおる場所がある。どういう謂われがあるのかと訊ねてみたところ、土地の古老が答えて、

 

「――昔、この地に一人の長者がおったが、その夫婦には一人娘が御座って、成長するに従い、見目麗しく、その風姿の上品な艶っぽさと言うたら、比ぶるものとてない。夫婦の寵愛も一方ならず、また、近在の若者も、数多(あまた)競って進物を送り、是非とも我が妻にと請い求めたのじゃった。夫妻には息子もおらんかったから、沢山の求婚者の中から選り取り見取りで婿を選んで、目出度く婿入りとはなった――じゃが、一体、何が起こったものやら――婚礼の儀式を致いた、まさに、その晩のこと――婿は――ぽっくり――いってもうたんじゃ――それからというもの、さても何人も何人も婿入り致いたのじゃが――悉く――その、まさに初夜の晩――ある者(もん)は、同じようにいてまい、また、ある者は実家へ逃げ帰る――愛の園となるべきその閨は、空しく娘独りきり――父母の驚き嘆きも一方ならず――思い余って娘に訳を尋ねてみるも、

 

『……あの、交わりの折り……あるお方は俄かにお亡くなりになり、または何やら……ひどく懼れ戦いて、逃げ帰ってしまわれます……が、私も……何故かは存じませぬ……』

 

という答え。父母はこれも因果の法によるものかと、嘆き暮らしておった――じゃが、逃げ帰った男に聴いたという者の話によると、実は、

 

『……あの女の火登(ほと)の内には……鋭く尖った犬歯のような牙が……両側にずらりと生えておっての……あの、折りには……一物にひどい疵を受けるか……でなければ、男根を丸ごと喰い千切っちまうんじゃ……』

 

とのことであった。あっという間にこれが噂となって、娘自身の耳にも入り、もはや誰(たれ)とも添い遂げられぬと悲嘆に暮れるばかりじゃった。

 

 ところが、ある男がこの噂を聞きつけて、

 

『私が婿になろう。』

 

と名乗りを挙げよった。親は勿論、ありがたくは思うて受けはしたものの、あの折りにはまたしても……と思うと喜びも半ばじゃった――しかし、その男は事前に黒く硬い銅を以って陽物を拵えると、さても婚礼の夜、閨に入り、交わらんとする、まさにその折り――手にしたその黒い銅造りの張形を娘の火登にぐいと挿し入れたところが――いつものまぐわいと同様に――ガッ!――とかの一物に喰いついた――ところが――それらの牙はすっかり砕け散って残らず抜け落ちてしもうた――故に、その後(のち)は普通の女となった、ということじゃ。……爾来、この黒い銅造りの男根を神と言祝ぎ、今に崇め奉って、おる……」

 

と語った、ということである。

 

*   *   *

 

 陽物を祭り冨を得る事

 

 或商人西國へ行とて、中國路の旅泊にて、妓女を相手として酒抔呑みけるが、夜中と思ふ頃、彼のはたごやの亭主片陰なる神棚やうなる所に至り、燈明を燈し神酒(みき)を捧げて一心に祈るやうなれば、俱に臥したる妓女に其譯を咄して、何を祈ると尋れば、さればとよ、あれはおかしき神也、此家の主じ元は甚貧しく朝夕の煙もたヘだへ成しが、或時途中にて石にて拵へたる男根を拾ひ歸りしが、男根は陽氣第一の物にて目出度(めでたき)ためし也(や)といゝし由、夫より朝夕右男根を祈り渇仰してけるが、日增に富貴と成て、今は旗籠屋をいたし、我ごときの妓女も百人に餘る程也と語りければ、可笑しき事に思ひて臥たりしが、夜明前に眼覺て風與(ふと)思ひけるは、右の神體を盜取らば、我又富貴ならんと伺ひけるに、下も寢鎭り相ともなふ妓女も臥しける故、潛に右の神棚を搜、かの男根を奪ひ隱し、知らぬふりして翌朝暇を告て歸りしに、實(げに)右神のしるしにや、日ましに身上(しんしよう)殊の外宜(よろしく)、富貴に成しとかや。

 

□やぶちゃん注

 

・「陽物を祭り冨を得る事」前掲「金精神の事」の「金精神」の注を参照されたいが、金精神は古くから遊郭や旅宿に、通常、神棚と別に縁起棚と称した神棚に似たもので祀られた。遊廓の場合は、まさにそのものズバリの「商売繁盛」を願ったわけである。

 

・「西國」近畿から以西を言うが、この場合は九州を指している。

 

・「夜中と思ふ頃、……」このシーン、男が階下に下り、主人の行動を実見しているのであるが、本文はその辺りがうまく説明出来ていない。そこで現代語訳では便所に起きたという設定を恣意的に設けた。

 

・「神棚やうなる所」前注で言った縁起棚である。

 

・「たヘだへ」は底本では踊り字「/\」の濁点附きであるが、正字に直した。

 

・「ためし也といゝし由」の「いゝし」はママ。底本ではこの部分の右側に『(尊經閣本「ためし也迚)』とある。「迚」は「とて」。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 陽物を祀り富を得る事

 

 ある商人が西国へ向かう途次、泊った山陽道の旅籠(はたご)で、妓女を相手にして酒を飲んだりし、さても雲雨の交わりと相成った……後に、とろとろと眠って、丁度真夜中かと思う頃おい、手水(ちょうず)の帰り、階下の部屋をふと覗くと、その旅籠屋の亭主が家の片隅に設けた神棚のようなものの下に参り、お灯明を点し、お神酒を捧げて、何やらん、一心に祈っている様子――一男が部屋に戻ったその音に、添い寝していた妓が眼を醒ましたのに、今し方見たことを告げて、

 

「ありゃ、何の神様を祈っとるんや?」

 

と訊いた。すると妓女はにっと笑って、

 

「……ああ、あれね。あれはね、おかしな神さまでね……この家(や)の主人は、もとはそりゃひどく貧乏でさ、朝夕の飯の炊く煙りも途絶えがちって言うざまだったんよ……ところがね、ある時、道端に誰かが石で拵えたらしい男の一物が落ちててさ、そいつを拾って帰っきたんさ……おっさん、『こいつぁ、陽の気、第一や! 目出たいお印やがな!」とか言っちゃって……それから毎日、朝晩、その一物にさ、お祈りしてさ、仏さまを崇めるように奉ちゃってるわけ……でも、そしたらさ、ほんとに日増しにふところぐあいが良くなってさ……あっという間に大金持ち!……今じゃ、この旅籠を生業(なりわい)にして、あたいみたいな遊び女(め)も百人に余るほど抱えてるって、わけ!……」

 

と話した。男は、けったない話やな、と思ったぎり、また寝込んだ。

 

 ――それから数刻の後(のち)である。夜明け前に目を覚した男は、ふと考えた。

 

『……あのご神体、盗みよれば、俺も大金持ちになれるやも知れんて……』

 

 男は――暫くの間、凝っとして伺ってみる――階下はしんとして寝静まり、隣の妓も静かな寝息を立てている――男はそうっと起き出すと、階下に下り、密かにあの神棚の奥を手探りして、例の一物を奪い取ると、おのれの荷物の中に押し隠した上、そ知らぬ振りで、翌朝、亭主に別れを告げると、旅籠を出たのであった。

 

 誠(まっこと)――その御神体の効験ででもあろうか――日増しに男の商売はうまく行き、財物いや栄えに栄えて、美事大金持ちと相成った、とか言うことである。

 

 

2009/10/27

思い出の動物広場 そして スーへ感謝

夕刻、帰ってからパソコンを立ち上げると、哀しいかな、ミクシイの「みんなの動物広場」はもう普通に戻っちまってたんだ。

「みんな」と言いながら、その実、みんななんか見れないことにも気づいた。先のリンクも殆んどの人には無意味であったな。

でも、今朝、プリント・スキャンで記念写真を撮っておいたんだ。

以下が僕の「ありえないみんなの動物広場」の、今はない面影だ――

Omoidenouenn  

 

 

映像には溢れんばかりの動物が蠢いているが……左上の数値を御覧頂けただろうか……右側の分母が、放牧可能エリア……左側の分子が、実際に飼っている動物のエリア占有率である……放牧可能エリアを越えてショップから動物を買うこと自体……不可能なのだが……

(ネット御用達の心霊動画のナレーションをパロってみた)

今はもう懐かしい――

――そうして僕は「僕の」サンシャイン牧場にもう行けるようになっていたことを知らなかった……教え子の最初の担任をしたスーが教えてくれた……スーはついでに、デコレーションにお金を遣っていると牧場は経営出来ないですよ、と忠告も呉れた(僕はサンシャインの僕の農園に金のかかる秋の暮の大道具を買い込んでいる)……ありがとう! スー!……でも、この秋の夕景……文字通り、目に染みるほど気に入っているんだ……それは僕のノスタルジアなんだ――

スーよ 我儘を言うと――カフカが永遠に改築を頼まれた「城」に入ることが出来なかったように、僕も僕の恋焦がれている牧場に、永遠に入れないというシチュエーションにこそ――実は どこかで エクスタシーを 感じていたのだと告白する――

2009/10/26

搾乳

今、僕の牛が乳を出してる……いいもんだね!

私の話が信じられない方へ有り得ない事実をどうぞ!

ならば、ここへ(ミクシイに登録されていない方は残念ながら見れません)。

どうぞ……妙に一杯いるでしょ……

左上の放牧エリアの数値を御覧なさい――有り得ないことがお分かりですね――分母より分子がでかいんです――35/18です……

http://mixi.jp/run_appli.pl?id=8359

これが異星人の放射能を受けた結果……インプラントされた結果でなくてなんでしょう! でも……でもね僕は、でも、この子たちを、育ててやりたいのですよ……

やぶちゃんの隣人熊さんの感想

てえへんだ! てえへんだ!

ご隠居によると、やぶの野郎の変な機械の中にある、「動物広場」とかに、レティクル星人とか、ウンモ星人とか、クラリオン星人とか言う、けったいな物の怪がよ! 来たって話だぜ!

小作人の話じゃよ――牛や鶏が光の柱みたようなもんの中でしゅうーっと空に浮かんだ車みたような奴に吸い込まれた――ちゅう話、だが!

くわばら、くわばら!

やぶには、近寄らねえに、越したことはねえな!

ロシアからのメール

【本日、僕が親しくしているロシアの著名なUFO研究家アンドレイ・アンドレイヴィッチ・ヤブロンスキ氏よりメールがあった。それを機械翻訳で、ここに紹介する。】

ディア、ヤブ。

アナタノ体験シタ出来事、大変興味ガ深イ。

ソレハ、電脳世界ニ進出シタETノ痕跡ダ。

アナタノ牧場、恐ラク“キャトル・ミュティレーション”ニ遭遇シタデアル。

ヒル夫妻事件ヲ遙カニ凌駕スル大事件ト評価スル必要ガアル。

詳細ナ続報ヲ欲スル。

農園主の証言

「私は小作人の言葉に息を呑んで、牧場に駆けつけました……ところが……みんな、確かに、いなくなっておりました……一匹残らず……私は呆然としました……実は……今日から、私の仕事が始まり、早朝と深夜の、餌と水遣りしか出来ない……せめて、これからどうすればこのものたちを、飢えさせずにいられるかと……それしか考えていなかったのです……一日に消える牧草を測ろうと……ところが、何も……何も……もう、いなくなって……おりました(激しい啜り泣き)……私は、しかし……一から出直しの思いで、また、牛や羊を買ったので御座います……」

小作人の証言

「へぇ……今朝方のことでごぜえますだ……牧場に参りましたら……昨夜の12時には40時間も生きることになってたはずの牛も……いえ、それどころか、ヒヨコの鳥も……まだまだ刈り入れることが出来たはずの羊も……みんなおらんことに……なっとた、です……儂は、すぐ農園主のやぶさまに、報告したとです……」

2009/10/24

耳囊 怨念無之共極がたき事

 

「耳嚢」に「怨念無之共極がたき事」を収載した。僕は以前、「耳嚢」の抄訳を試みようと考えて、第三巻までで自分が訳してみたい好きな作品を一度選び出してみたことがある。その際、一番にドッグ・イアを附けたのが、本件であった。僕はこの妓女の語りが、好きなのである。ヴィジュアルで話柄巧みなホラーの佳品である。

 

 

 怨念無之共極がたき事

 

 聖堂の儒生にて今は高松家へ勤任(ごんし)しけるが、苗字は忘れたり、佐助といへる者、壯年の頃深川邊へ講釋に行て歸る時、日も黃昏(たそがれ)に及びし故、其家に歸らんも路遠しと、中町の茶屋へ泊り妓女を揚て遊ける。【此中町土橋は妓女多き青樓のよし。】夜深(よふけ)に及び、二階下にて頻りに念佛など申けるに、階子(はしご)を上る音聞へしが、佐助が臥しゝ座敷の障子外を通る者あり。頻に恐ろしく成て、障子の透間より覗き見れば、髮ふり亂したる女の兩手を血に染て通りけるが、絕入程恐ろしく、やがて※(よぎ)引かむり臥し、物音靜りし故ひとつに臥たりし妓女に、かゝる事のありしと語りければ、さればとよ、此家のあるじは其昔夜發(やほつ)の親方をなし、大勢かゝへ置し内、壹人の夜發病身にて一日勤ては十日も臥りけるを、親方憤り度々折艦を加へけるが、妻は少し慈悲心もありしや、右折鑑の度々彼は病身の譯を言て宥しに、或時夫殊外憤り右夜發を打擲しけるを、例の通女房とりさへ宥めけるを、彌々憤りて脇差を拔て其妻に切かけしを、右夜發兩手にて白刃をとらへさゝへける故、手の指不殘切れ落て、其後右疵にてはかなく成しが、今に右亡靈、夜々に出てあの通り也。かゝる故に客も日々に疎く候と咄しけるが、夜明て暇乞歸りし由。其後幾程もなく右茶屋の前を通りしに、跡絕て今は家居も見へずと也。

 

□やぶちゃん注

 

・「聖堂」湯島聖堂。本来は、元禄3(1690)年に上野の忍が岡(現・上野恩賜公園)にあった林羅山邸の孔子廟を移築、第五代将軍徳川綱吉から「大成殿」の称を授けられた建物を指す。ここは林派の儒学を私的に教える場であったが、根岸の晩年に当る寛政9(1797)年には幕府の官立学校として昌平坂学問所=昌平黌(しょうへいこう)となった。学問所となってから、そうした付属建物全体「聖堂」と呼ぶようになった。現在の文京区湯島一丁目(御茶ノ水駅の聖橋を渡った右手の森の中)(以上はウィキの「湯島聖堂」によった。前掲「長尾全庵が家起立の事」で引用した「林大學頭」(林鳳岡)の中での湯島聖堂の記載内容(ウィキの「林鳳岡」による)と有意に異なる記述部分があるが、敢えてそのままとしておく。正確な知識をお求めの方は自律的にお調べあれ)。

 

・「儒生」儒学を学ぶ学生。

 

・「高松家」讃岐高松松平家。初代水戸頼房の長男頼重を祖とする。

 

・「講釋」深川辺りの武家の青少年に出張講義をしに行っていたのであろう。

 

・「中町」深川門前仲町のこと。現在の江東区門前仲町、富岡八幡宮の南の門前町で岡場所(吉原以外の非公式遊廓)であった。深川には岡場所が多く、深川七場所(仲町・新地・櫓下・裾継・石場・佃・土橋)と呼んだが、その中でも最も高級とされたのが仲町で、特に深川芸者(辰巳芸者)の名で知られた。

 

・「茶屋へ泊り妓女を揚て遊ける」岩波版の長谷川氏の「仲町」の注に、『子供屋より女を茶屋に呼んで遊ぶ』とある。「子供屋」については、以下にウィキの「子供屋」の記載を一部引用しておく。『深川の娼婦には、娼家にいて客の来るのを待つ伏玉(ふせだま)と、出先の茶屋からの迎えを受けて派出する呼出しの2種類あった。後者は、その所属する子供屋に寄宿していた。子供屋と出先の茶屋との関係は、一時期の吉原における置屋と揚屋の関係と同じであり、子供屋は娼婦を寄宿させるのみであり、ここに客を迎えることはない。呼出しは茶屋と子供屋との往復に軽子(かるこ)という下女の送迎を受けた。軽子は呼出しが茶屋に行くときに、夜具包を背負ってこれに従った』。なお、そもそも妓女そのものを「こども」と呼んだ。

 

・「【此中町土橋は妓女多き青樓のよし。】」「この仲町及び土橋は評判の芸妓の多い遊廓であるという。」という割注。訳文では省略した。

 

・「土橋」岡場所。仲町の東に隣接した東仲町にあった。前注参照。

 

・「※(よぎ)」=(ころもへん)+「廣」。岩波版で長谷川氏は「綿」を意味する「纊」という字と、小夜着(こよぎ:袖や襟のついた小形の掛け布団)を意味する「*」[やぶちゃん注:「*」=「衤」+「黄」(旧字体)]の字を混同した誤字であろう、とされるが、これらは余りにもレアな漢字であると思う。私はもっと単純に、夜着・布団の意味を持つ「被」の誤字ではないかと思う。

 

○妓女の話について:本話は殆んどが間接過去の「けり」を用いた伝聞過去として語れており、この妓は死んだ夜発の件の出来事を実見しているわけでは、勿論、ない。しかし、上質の怪談である本話を、そのホラー性を十全に出した現代語訳にしようとする場合、ここを伝聞にしてしまうのは如何にも雰囲気を殺ぐことになる、と私は思う。従って、私の現代語訳では、この妓女が直接見知っている事実として、確信犯で訳した。古典教材としてお読みになる場合は、その点にご注意戴きたい。

 

・「夜發」夜に路傍で客を引いた最下級に属する売春婦。夜鷹・辻君・総嫁(そうか)と同じ。

 

・「跡絕て今は家居も見へずと也」つまらないことであるが、ここの部分、やや分からない。「今は」は「其後幾程もなく右茶屋の前を通りしに」の時間と同じ時間を指し、「数日を経て通ってみたところ、茶屋は跡形もなくなっていていた、とのことである」というシンプルな意味にもとれるが、そうすると「今は……見へず」の現在時制表現が死んでしまう気がする。私はこの「今」を、この話を根岸が聴いた(若しくは書き記した)時点での「今」ととって訳した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 死者の怨念というものが存在しないとは言い切れぬ事

 

 もと聖堂の儒学生、今は高松家に伺候している者で、名字は忘れたが、佐助という者がおる。

 

 若い頃、深川辺に出張講義に行き、さて帰ろうとしたところが、はや陽も黄昏となっておった故に、自分の家に帰ろうにも最早遅しと、仲町の茶屋へ泊まり、芸妓を揚げて遊んだ。その夜更けのこと――

 

――佐助の寝ていたのは二階であったが、その階下でこんな時刻に頻りに念仏を唱える声が聞こえてくるのに、彼は眼を醒ました――と

 

――ぎしっ――ぎしっ――

 

と、誰(たれ)かが、階段を登って来る音が聞こえた。

 

 佐助の座敷は階段の上がった直ぐの部屋であったが、その廊下向きの障子の外を、確かに誰か、通る者がある。

 

 深夜の念仏といい、曰言いがたい不気味な足音といい、佐助は何やらひどく恐ろしくなって、そっと障子の隙間から、廊下を覗いて見た……

 

――ぎしっ――ぎしっ――

 

と……

 

……暗い廊下……そこを……

 

……髪を振り乱した女が……両の手を……真紅の血に染めたままに……通ってゆく……

 

 佐助は気絶せんばかりに恐ろしく、矢庭に夜着を引っかぶってうつ伏しになると、小刻みに震えながら、ぎゅっと眼を瞑ったまま、ただただ凝っとしていた。

 

――ぎしっ……きしっ……

 

……やがて、廊下の足音がしなくなり、いつか、念仏の声も途絶えて静かな夜となっていた。

 

 そこで佐助は、がば、と、起き直るや、添い寝している妓女を揺り起こし、今、

 

「しかしかのことが! あったんだ!」

 

と咳き込むように話したところが、妓女は眠そうな表情に、せせら笑いさえ浮かべ、事もなげに、

 

「あ、はん……あ、れ、ね……この茶屋の主(あるじ)ってえのはね、その昔、夜発(やほつ)の親方をしてたんさ……そりゃもう、たんと女を抱え込んでたもんさ……そん中の一人の夜発がさ、いたく病弱な子でね、一日勤めちゃ、十日臥せるって按配な訳さ……気の短い親方は、怒って、何度も、何度も、その子に折檻加えてた……そんな親方だったけど、その奥さんてぇお人は、親方と違って、ちっとばかり、お慈悲の心があったもんか……親方が折檻するたんびに、『この子は病身ですから。』って言っちゃあ、親方をなだめてたっけ……そんなある時んこと、親方の機嫌が、そりゃもう、最悪でさ、その夜発の子を、拳固で、ぼっこぼっこ、殴り始めたんだ……いつもん通り、奥さんが、その手をとりおさえて、なだめたんだけど……その日に限って、親方、ますます怒り狂ちまってね……腰の脇差を抜くと、あろうことか、その奥さんに斬りかかった……思わず、殴られてた夜発の子は、両手でその白刃(はくじん)を摑んで止めたんさ……もちろん……両の手の指は、残らず、ぽろ、ぽろって、切れ落ちたさ……。……そのあと、その子は、その傷が元で、死んじまった……。……死んじまったけど……けど、今もその亡霊が、夜ごと、ああして出てくるって、わけ……。こんなんだからさ、客足も、日に日に、遠のいちまうばっかなんよ……」

 

と、語ったとのことである。

 

 佐助が夜が明けるのを待ちかねて、お愛想するや、早々に茶屋を去ったのは言うまでもない。

 

 その後(のち)、幾日も経ぬうちに、佐助はその茶屋のあった辺りを通りかかったのだが、既に、これ、空き家となっておった――もう今は、家屋も、すっかり、取り壊されて、その跡を訪ねることも出来なくなっている、とのことである。

 

2009/10/23

耳嚢 微物奇術ある事

 微物奇術ある事

 日下部丹波守其昔咄しけるに、同人の庭の池に、秋の此蜻蛉多く集りて飛廻りしに、池中の鮒數十、右蜻蛉を見入たるや、くる/\と水中を右蜻蛉に付て廻りしに、後は蜻蛉も同じく廻りけるが、おのれと水中へ落入しに、數多の鮒集りて喰しといへる事を、曲淵(まがりぶち)甲州の咄也き。

□やぶちゃん注

・「日下部丹波守」日下部博貞(ひろさだ 明暦4・万治元(1658)年~享保131728)年又は享保191734)年)。大坂城勤番・長崎奉行(享保2(1717)年~享保121727)年)を歴任。赤穂事件では受城目付に命ぜられたが、浅野長矩と遠縁とのことで辞退している。

・「曲淵甲州」曲淵甲斐守景漸(かげつぐ 享保101725)年~寛政121800)年)のこと。以下、ウィキの「曲淵景漸」によれば、『武田信玄に仕え武功を挙げた曲淵吉景の後裔』で、『1743年、兄・景福の死去に伴い家督を継承、1748年に小姓組番士となり、小十人頭、目付と昇進、1765年、41歳で大坂西町奉行に抜擢され、甲斐守に叙任される。1769年に江戸北町奉行に就任し、役十八年間に渡って奉行職を務めて江戸の統治に尽力』、『1786年に天明の大飢饉が原因で江戸に大規模な打ちこわしが起こり、景漸はこの折町人達への対処に失態があったとされ、これを咎められ翌年奉行を罷免、西ノ丸留守居に降格させられた。松平定信が老中に就任すると勘定奉行として抜擢され、定信失脚後まで務めたが、1796年、72歳の時致仕を願い出て翌年辞任した』。天明の大飢饉の際に『町人との問答中に「米がなければ犬を食え」と発言し、この舌禍が打ちこわしを誘発するなど失態もあったが、根岸鎮衛と伯仲する当時の名奉行として、庶民の人気が高かった』とある。この注のために誰かが書いてくれたかのような、美事な末尾である。根岸の先輩である。

■やぶちゃん現代語訳

 たかが鮒にも奇術のある事

「日下部丹波守博貞殿が、その昔、語ったという話――同人の屋敷の庭の池に、秋の頃おい、蜻蛉が沢山集まって飛び回っておったのだが、眺めておると、池の鮒が数十尾の鮒が、水面近く浮き出でて蜻蛉を凝っと見つめておる……見つめておると思うたら、急に鮒どもが……くるくる……くるくると、水中で、宙を飛ぶ蜻蛉に合わせて回り始めた……いや、よく見れば、今度はその鮒の動きに合わせて……蜻蛉も同じように、くるくる……くるくると回っておったところが……見る間に、次から次へと自然、水中に落入ってゆく……そうして、落ちたかと思うたら……数多の鮒が群がって……それを貪り食ってしもうた、そうな。」

とのこと。これは私が曲淵甲斐守景漸殿から聞いた話である。

「耳嚢」に「微物奇術ある事」を収載した。

2009/10/22

耳嚢 藝は智鈍に寄らざる事

「耳嚢」に「藝は智鈍に寄らざる事」を収載した。

 藝は智鈍に寄らざる事

 今の鷺仁右衞門祖父の仁右衞門は、甚病身にて愚に相見へ、常は人と應對は物言(ものいひ)はしたなき程に有しを、其比上手と人のもてはやしける七太夫又は金春太夫抔は、唯今亂舞の職たりし内、名人と申は仁右衞門也と語りし故、心を付て見たりしが、不斷は物もろく/\不申男也。狂言に懸り御舞臺へ出れば、格別の氣取に見へしと、安藤霜臺の物がたりき。

□やぶちゃん注

・「鷺仁右衞門」「鷺」家は、鷲仁右衞門を宗家とする狂言三大流派(大蔵流・和泉流・鷲流)の一派。江戸時代、狂言は能と共に「式楽」(幕府の公式行事で演じられる芸能)であった。大蔵流と鷲流は幕府お抱えとして、また和泉流は京都・尾張・加賀を中心に勢力を保持した。但し、現在、大蔵流と和泉流は家元制度の中で維持されているが、鷲流狂言の正統は明治中期には廃絶、僅かに山口県と新潟県佐渡ヶ島、佐賀県神埼市千代田町高志(たかし)地区で素人の狂言師集団によって伝承されているのみである。岩波版の長谷川氏の注によれば、この『今の鷲仁右衞門は仁右衞門定賢(文政七年(一八二四)年没、六十四歳)、祖父は仁右衞門政之(宝暦六年(一七五六)没、五十四歳)か。』と記す。「定賢」は「さだまさ」と読むか。

・「七太夫」能役者喜多七太夫。能の喜多流は江戸初期に興った、金剛流の流れを汲む新興流派。ウィキの「喜多流」によれば、『流派の祖は徳川秀忠に愛好された喜多七太夫。七太夫は金剛太夫(金剛流の家元)弥一の養子となり金剛太夫を継承したが、弥一の実子・右京勝吉の成人後に太夫の地位を譲った。その後、徳川秀忠、徳川家光の後援を受けて元和年間に喜多流の創設を認められ、喜多流は四座の次に位置する立場となった』とある。岩波版で長谷川氏は喜多七太夫、『あるいは十太夫親能か』と注す。「栗谷能の会」HPの「『喜界島』を演じて」他幾つかの頁を読むと、ここで長谷川氏が挙げる最初の七太夫は七太夫長義(おさよし)で、七世喜多十太夫定能と八世十太夫親能との間で八世を継承する人物であったが、部屋住みのまま早生した人物で、九世喜多七太夫古能(健忘斎)の父親であると記す。同じく長谷川氏が『あるいは』とする十太夫親能は、今見た通り、喜多流八世である。因みに、ここで登場している九代目古能健忘斎は喜多流中興の祖と称せられる人物で、文政121829)年頃に没している。

・「金春太夫」「耳嚢」前々項「金春太夫が事」注参照。

・「亂舞」中世の猿楽法師の演じた舞。近世には能の演技の間に行われる仕舞に変化し、それが狂言となった。「らっぷ」とも読む。

・「氣取」そのものの気持ちになってみること、他の者の様子を真似ることを言う語。

・「安藤霜臺」「耳嚢」前々項「金春太夫が事」注参照。

■やぶちゃん現代語訳

 芸事の達者は必ずしも知的能力に関わる訳ではない事

「当世の鷺仁右衛門の祖父であった仁右衛門という男は、甚だ病弱にして、失礼乍ら、如何にもぼうっとした感じに見えての――常日頃、人と応対する折りも、ちょっとした会話もままならぬ体(てい)で御座った。ところが、その頃、世間で能の名人と誉れ高かった喜多七太夫や今春太夫などは、

『只今、お能乱舞の生業(なりわい)をなす者の内、名人と申せば、やはり仁右衛門じゃ。』

と口を揃えて語る。さればこそ、その後は、儂も彼にそれとなく目を配って御座ったが、やはり普段は、ものもろくろく喋れない――いや、正直、愚鈍ではなかろうかとさえ感じる――男で御座った。ところが、いざ、狂言芝居が始まり、舞台に出た途端、これがまた、格別に役になりきり、いや、美事、役にはまりきって見えたもんじゃ……。」

とは、安藤霜台殿が私に物語った話である。

2009/10/21

耳嚢 鼻金剛の事

「耳嚢」に「鼻金剛の事」を収載した。

 鼻金剛の事

 

 金剛太夫の家に鼻金剛といへる面(おもて)あり。いつの事にやありけん、金剛太夫身持不埒にて、先租より傳はりし面をも失ひ、御能有之時急に面にこまりけるが、或る寺の門にありし仁王の顏をうちかき、右を面に拵へ御能相勤、其業を出(でか)しけるが、佛罰にや、金剛太夫鼻を損じけると也。右面は永く金剛家に寶としたりしが、俗家に難差置、京都何れの寺社とやらへ納置、代替りに一度づゝ右面を拜し候事の由。二度拜し候へば罪を蒙ると、彼家に申傳ふると也。

 

□やぶちゃん注

 

・「鼻金剛」ウィキの「金剛流には、『法隆寺に仕えた猿楽座である坂戸座を源流とする流派で、坂戸孫太郎氏勝を流祖とする。六世の三郎正明から金剛を名乗る。華麗・優美な芸風から「舞金剛」、装束や面の名品を多く所蔵することから「面金剛」とも呼ばれ』、『豪快な芸風で知られた七世金剛氏正は「鼻金剛」の異名を取り、中興の祖とされる。しかし、室町から江戸期においては他流に押されて振るわず、五流の中で唯一独自の謡本を刊行することがなかった』と記す(シテ方「五流」は観世・宝生・金春・金剛・喜多)。金剛氏正(永正4(1507)年~天正4(1576)年)について、岩波版の長谷川氏の注では、『瘴気で鼻がふくれ鼻声であったのでこのように呼んだ。また『隣忠見聞禄』には、奈良の寺の不動尊の木造を打割って盗み、面に打って「調伏曾我」を演じたが鼻に腫物が出来て先が腐れ落ちたという。』とある。「瘴気」とは、熱病を起こす山川の毒気、「隣忠見聞禄」は「りんちゅうけんもんしゅう」と読み、紀州藩の能役者であった徳田隣忠(延宝7(1679)年~?)が記した随筆集、「調伏曾我」は曾我兄弟の仇討ちを材としたもので、河津三郎の子箱王丸(曾我十郎祐成の弟曾我五郎時致)の不動明王に纏わる霊験譚である。前シテは兄弟の敵工藤祐経であるが、後シテが、ここで問題となっている面を用いた箱根権現の不動明王となる(箱王丸は子方)。なお、長谷川氏は「瘴気」、発熱性疾患による鼻部の腫瘍及び鼻炎とするが、私は、彼が「身持不埒」であった(故にこそ「豪快な芸風」でもあったのであろう)ことから考えると、極めて高い確率で、潜伏期を経て晩年に発症した梅毒の第3期のゴム腫による鼻梁脱落であろうと考えられる。

 

・「仁王の顏」の「顏」は、底本では(「白」(上部)+「ハ」(下部))の字体であるが、通用字に改めた。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 能面鼻金剛の事

 

 金剛太夫の家には鼻金剛という面が伝えられている。何れの代の出来事であったか、ある金剛太夫、身持ちが大層悪く、先祖伝来の面をも失ない、よりによってそんな折り、貴人より急なお能の申し付けこれあり、舞おうにも面がなく、困り果てていたところが、あろうことか、通りかかったとある寺の門に立っておった仁王の、その頭をたたき折って、これを急ぎ面に拵え上げると、それを以って命ぜられたお能を相勤め、美事妙技を披露致いた。じゃが――仏罰にてもあろうか――その直後に、その金剛太夫は、鼻が欠け落ちた、とか言うことである。

 

 さてもこの面は永く金剛家家宝として伝わっておったのじゃが、その曰因縁から、俗家(ぞっけ)にさし置くは相応しからずということと相成り、京都のとあるの寺に納め置き、その後は、代々、金剛流太夫代替わりの折りにのみ唯一度だけ、その面を拝顔致す慣わしとなっておる、との由。万一、二度拝顔致いたならば、かの金剛太夫同様、必ずや仏罰を被る、と言い伝えておる、とのことである。

 

「僕の牧場」 ヨーゼフ・Y

その牧場は僕の牧場である。しかし、僕の牧場には道標もあるのだが、僕はそこへ行ったことも見たこともない。訪れた知人は――あなたの鶏の卵を一つ戴きましたわ――ヒヨコ? あなたの鶏はもう雛ではなくてよ――いいえ、もうとっくに代替わりしていてよ――ほら! これがあなたの牧場なの。36933812_4193008156  素敵でしょ!?――あなたも早くいらっしゃいな、ねえ……僕は時々煙草をふかしながら僕の農場のはずれに立っているその道標まで行ってみるのだが、そこには高く聳える彼方の山を覆うように、不思議に巨大な看板が立ち塞がって、また、そこには『レベル10未満者接触不能』という文字が記されているばかりなのである。僕は吸殻をその看板に弾き飛ばし、舌打ちをして僕の作業小屋へ戻る。――僕は僕の農場に行けない。

2009/10/20

耳嚢 金春太夫の事

 金春太夫が事

 今の金春より曾祖父にも當りけるや、名人の聞へありしと也。安藤霜臺など右金春が藝を見たるとの事故、古き事にも無之。此金春壯年の頃は至て任俠を好み、職分をば等閑にして常に朱鞘(しゆざや)の大小を帶し、上京の折からは嶋原の傾城町(まち)へ日々入込み、人も目を付(つけ)しくらひなるが、或時嶋原にて口論を仕出し、相手を切殺し逃歸りけるが、右の折節朱鞘を取落し歸りし故、正(まさ)しく金春が仕業と專ら評判いたしけるを聞及びて、肝太き生質(たち)なれば、朱鞘の同じ差替を差て又嶋原の曲輪(くるわ)へ立入し故、扨は切害人は金春にては無しと風説して危難を遁れしとかや。右樣の者故、職分とする所の能は三四番の外覺へざりしに、或時奧に御能有之、來る幾日は御好の能其節に至り被仰付との御沙汰故、金春大きに驚歎、鎭守の稻荷へ祈願をこめ、明日我等覺へざる御能の御沙汰有とも、曲て我覺し御能へ被仰付候樣、斷食をなして一心に祈りければ、不思議の感應にありけるや、我覺へし御能被仰出、無滯(とどこほりなく)勤けると也。夫より武藝を止て職分に精を入しかば、古今の名人と人も稱しけると也。

□やぶちゃん注

・「金春太夫」底本の注で鈴木氏はこの本文冒頭の「今の金春」を十次郎信尹(のぶただ 天明4(1784)没)であろう、とされ、本文の主人公は、その信尹の曽祖父であった八郎元信(元禄161703)年没)であるとする。元信は『徳川初期の禅曲安照につぐ同流の上手といわれた』とある。しかし、これは直後の「安藤霜臺など右金春が藝を見たるとの事故、古き事にも無之」という叙述と矛盾する。元信は安藤の生まれる11年も前に没しているからである。岩波版の長谷川氏も注でその矛盾を指摘され、安藤が実際の演技を『見得るのは信尹前代の八郎休良(元文四年没、三十四歳)までである』と記されている。因みに休良(やすよし?)の没年元文4年は西暦1739年、安藤が20歳の1734年前後ならば、休良は29歳であり、話柄としては自然な印象ではある。もしそうだとすれば、後半に登場する将軍家は第八代将軍吉宗ということになる。しかし、金春流のサイトにもこうした過去の太夫の細かな事蹟は示されておらず、「今の金春」を「十次郎信尹」と同定し、本話主人公をその先代太夫「八郎休良」としてよいかどうかは不分明である。私は「古今の名人」と呼ばれたとある以上、この逸話自身は十次郎信尹のものであったように感じられる(八郎休良であるとするには34歳の夭折が「此金春壯年の頃は」とあるのと聊か齟齬を私は覚えるからである)。言わばそうした「金春太夫伝説」なるものが、代々同名の金春太夫を名乗る者に付随して(時系列を無視して)都市伝説化していったもののではあるまいか。なお、能楽の金春流自体は、江戸開幕後は家康が愛好した観世流に次いで第二位の地位を受けたものの、旧豊臣家との親縁関係が災いして不遇をかこった。因みに「太夫」という称号は、本来は、神道にあって主に芸能によって神事に奉仕する者に与えられたものである。後に猿楽座の座長の言いとなり、江戸時代以降は、観世・金春・宝生・金剛四座の家元を指すようになった(それが敷衍されたのが芸妓の太夫である)。古くは能のシテ役の名人に与えられる称号であった。序でに言うと、多少なりとも演劇に関わってきた私の人生の中で、かつて金春流襲名披露で見た「道成寺」――その乱拍子から斜入(しゃにゅう:体を捻って飛び込む鐘入り。)の間、私は窒息する程にずっと息をこらえずにはいられなかった――程の素晴らしい感動は、洋の東西を問わず、今後も、二度とない、と思っている。

・「安藤霜臺」(正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)安藤郷右衛門(ごうえもん)惟要(これとし)。先行する「有德院樣御射留御格言の事 附御仁心の事」に既出。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。

・「嶋原の傾城町」とは現在の京都市下京区に位置する花街。「島原」とも書く。正式名は西新屋敷。室町時代に足利義満によって官許された日本最初の公娼地をルーツとする。ウィキの「嶋原」によれば、『能太夫、舞太夫をルーツに持つとされる嶋原の太夫にとって「舞踊」(ここでは「歌舞伎舞踊」または「上方舞」をさす)は』最重要必須芸であったとあるから、能役者との繋がりは非常に深いと言える。

■やぶちゃん現代語訳

 金春太夫の事

 今の金春の、曾祖父にでも当たる金春であったか、世間で、ともかく名人の呼び名高い者があったという。安藤霜台殿などは、その金春の芸を実見したことがあるとのことであるから、それ程、古い話ではない。

 この金春、若い頃は専ら任侠気質(かたぎ)の荒っぽさを好み、継ぐべき金春の芸道なんぞ何処吹く風と、能楽修行も等閑(なおざり)のまま、常に真っ赤な鞘の大小を差して町を闊歩し、京へ上った折などは必ず、嶋原の遊郭街に日々入り浸り、京雀の噂にならぬ日がない位の、如何にも派手な暮らしぶりであった――

 ――が、ある時のこと、この金春、その嶋原でちょっとした口論が元で相手と大喧嘩となり、果てはその者を斬り殺し、周りに人無きを幸い、こっそりと宿へと逐電してしまった。

 ところが、現場から遁走する際、例のド派手な朱色の鞘を落としておったがため、もう、その日のうちに、

……「この下手人、もうほんまに金春はんの仕業やて」……

と専らの評判になってしもうた。

 ところが、それを聞き及んだ金春は――元来、肝っ玉が恐ろしくぶっとい性質(たち)なれば――何と全く同じ朱鞘を秘かに素早く仕立てさせ、それを腰に差して、これ又、一両日中(うち)に、平然と再び島原の廓(くるわ)へと繰り出した。すると、

……「さてもあの下手人、金春はんとは、ちゃいますやろ」……

との噂が立ち、辛くも危難を脱した、とかいうことである。

 まあ、若き日はこういったとんでもない者であったから、継ぐところの金春の能など、実は二、三番ほどしか知らぬのであった。――

 ところがある時、上様がお城にて金春の能をご上覧遊ばされることとなり、

「上様は、当日、その場にて、お好みになられる能をそちに申しつけらるれば、そう心得、用意怠りなく致すべし。」

とのお沙汰であった。

 日頃は肚の座った金春も、これには天地がひっくり返って肚も吐き出す程に吃驚仰天、普段は屁にも掛けない金春代々の鎮守の稲荷へと駆けつけ、願掛けをするに、

「……明日、私めの知りませぬお能の沙汰が下されることと、既に決しておりましたと致しましても……そこのところを、稲荷大明神様……どうか、曲げに曲げて……私の知っておりまする能を仰せつけ下さいまするよう……相願い奉りまする……」

と、何と断食までして一心に祈ったのであった。

 ――さても、これを摩訶不思議の感応なんどというのであろうか――当日、上様は、金春が僅かに覚えておった二三の内の、その一つのお能をお申し付けになられ、首尾よく舞いを勤め上げ申し上げた、とのことである。

 これより後、かぶいた武芸への執心をやめ、只管、芸道に精進したため、今に古今の名人と称せらるるようになった、ということである。

「耳嚢」に「金春太夫の事」を収載した。

2009/10/18

耳嚢 燒床呪の事 / 蠟燭の流れを留る事

190000アクセス記念テクストは昨夜午前2時迄、今朝6時より始めて9時に完成出来た。短いが、美しい。ネット上には存在しない。しっかりオリジナル注も附してある。まずは、ご期待あれ。

という訳で「耳嚢」の再開が出来る。「耳嚢」に「耳嚢 燒床呪の事」及び「蠟燭の流れを留る事」二篇を収載した。

 燒床呪の事

  大澤に大蛇(をろち)がやけておはします其水を付けるといたまずうまずひりつかず

 右の通唱へて水をかけあらへば、極めて痛をさまると、人の物語なり。

□やぶちゃん注

・「燒床呪」「やけどこまじなひ」と読む。「燒床」は火傷のこと。「やけど」とは「焼け処(やけどころ)」の略であるから、それが訛って「やけどこ」となったものか。

・「大澤に大蛇がやけておはします其水を付けるといたまずうまずひりつかず」の上の句は大蛇が丸焼けになって死んでいるのではあるまい。「大きな沼沢の中でオロチが負った火傷を癒していらしゃいます」であろう。その邪神の致命傷にさえ効くとする神聖なる水の霊力を、言上げによって眼前の現実の水に呼び込むものであろう。この大沢中の大蛇というヤマタノオロチ的シチュエーションには興味がある(ヤマタノオロチは洪水の象徴ともされる反面、噴火した溶岩流とする説もあり)が、不学な私にはこれ以上の分析は不能である。識者の御教授を乞う。なお、狛江市公式HPの歴史のページの「火傷の薬」に、火傷に効くまじないとして真言密教系由来もの二つを掲載している。

猿沢の池の大蛇が火傷して水なきときはアビラウンケンソワカ

いじゃらが池の大蛇が火にすべりそのともらいはタコの入道アビラウンケンソワカ

「アビラウンケンソワカ」は大日如来の真言である。

また、ネット上のQ&Aで回答者が愛知県額田郡本宿村(現在の岡崎市本宿町)に伝わるものとして、

「猿沢の池の大蛇が火傷をして、伊勢・熊野へ参詣する」と三唱して火傷の跡を吹けば痛みが去る。

というジンクスを揚げている。なお、本件は軽度の火傷には効果的である、まじないを唱えるだけの一定時間、火傷部位を清浄冷水で洗浄する有効性に加えて(二次感染の予防にもなる)、まじないの下句のプラシーボ効果も期待出来よう。

■やぶちゃん現代語訳

 火傷のまじないの事

  大澤に大蛇(をろち)がやけておはします其水を付けるといたまずうまずひりつかず

 右の通りのまじないを唱えて、火傷の箇所に水をかけて洗浄すると、ぴたりと痛が治まるとは、ある人の話である。

*   *   *

 蠟燭の流れを留る事

 風に當る所、蠟燭片口出來て流候節、小刀の先にて叶(かなふ)といへる文字を左字に三遍書き候得ば、流れ止るとある人の語り侍る。

□やぶちゃん注

・「叶といへる文字」叶姉妹のグロテスクな巨乳と共に本字が「かのう」と読むことは人口に膾炙しても、この「叶」という字が「協」と同字、その古字であることは、余り知られているとは思われない。即ち、本字は「合う。一致する。和合する。調和する。馴れ親しむ。」の意として存在した。国訓の中でこれに「希望通りになる。実行可能である。匹敵する。及ぶ。」という意味が付与された。本件は「偏頗しない」「望みがかなう」という本字の意味を用いた類感呪術の一種である。

・「左字」左右を反転させた文字のことを言うのであろう。「叶」は他の字に比して容易に書け、同時に反転させた字は存在しない文字であるため、呪言としての結界を手っ取り早く誰にでも形成出来るという訳であろう。

■やぶちゃん現代語訳

 蠟燭の流れを留めるまじないの事

 外気の当たる所に置かれている蠟燭は、しばしば片方に口が出来て蠟が早々流れてしまい、原型を保てずに直ぐ溶け崩れてしまうことがあるが、このような際には、蠟燭の本体の小刀の先で「叶」という文字を反転させて三遍彫り込みますれば、きっと一度起こった流れもぴたりと止まりまする、とある人が語って御座った。

2009/10/17

現在188093アクセス

現在、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、

188093アクセス

今朝より190000アクセス記念テクストに取り掛かっている。

そのため、「耳嚢」等の更新はやや遅れるので、悪しからず。

耳嚢 羽蟻を止る呪の事(☆既公開分を全文掲載方式に改造の上、ブログ・カテゴリ「耳嚢」創成した)

「耳嚢」に「羽蟻を止る呪の事」を収載した。

記事が25件を越え、ページで読むのが面倒な方のために、今回より、ブログでも楽しんで戴けるよう、こちらにも公開する方式に変更した。ついては、過去のものも総てそのように改造して、それぞれの記事をブログに表示、且つ、ブログ・カテゴリ「耳嚢」を創成した。偶々、今回のものは退屈な短編であるが、本頁に行かずに未だこれよりも前の「耳嚢」を未読の御仁は、どうぞ、過去の改造したブログでお楽しみあれ。

 羽蟻を止る呪の事

 

 羽蟻出て止ざる時、

  双六の後(おく)れの筒に打負て羽蟻はおのが負たなりけり

 右の歌を書て、フルベフルヘト、フルヘフルヘト唱、張置けば極(きはめ)て止と、與住(よずみ)氏の物語なり。

 

□やぶちゃん注

・「呪」は「まじなひ(まじない)」と読む。

・「双六の後れの筒に打負て羽蟻はおのが負たなりけり」この双六は盤双六のことと思われ、そこで用いられる賭博用語や特殊なルールに掛けられた意味と類推するが、幾つか調べてみたものの、賭博やゲームと縁が薄い私には和歌の意味は全くの不詳、お手上げである。識者の御教授を乞う。

・「フルベフルヘト、フルヘフルヘト」不詳。底本では後者の三文字目には濁点がない。岩波版及びネット上の本記載を載せるページもすべて「フルベフルヘト、フルベフルヘト」となっているが、訳では底本を尊重した。骸子を「振る」と関係があるか? それとも梵語かポルトガル語かスペイン語か? これも完全にお手上げである(底本・岩波版共に本記事には注を附していない)。識者の御教授を乞う。

・「與住」先の「人の精力しるしある事」にも登場した与住玄卓。根岸家の親類筋で出入りの町医師。「耳嚢」には他にも「巻之五」の「奇藥ある事」や、「巻之九」の「浮腫妙藥の事」等にも登場する。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 羽蟻を止めるまじないの事

 

 羽蟻が出て止まない時、

  双六の後れの筒に打負て羽蟻はおのが負たなりけり

 という歌を紙に書いて、「フルベフルヘト、フルヘフルヘト」と唱えつつ、壁に張っておけば、一発で止む、とは与住氏の談である。

2009/10/15

耳嚢 石谷淡州狂歌の事

「耳嚢」に「石谷淡州狂歌の事」を収載した。これは「大陰の人因果の事」の前にある(公開でもその位置に置いた)。実は、非常に訳し甲斐のあった「大陰の人因果の事」の作業に入れ込んでしまった結果、単純に落としてしまった。名役人石谷淡州(いしがいたんしゅう)氏に謝す。

 石谷淡州狂歌の事

 石野初(はじめ)備後守后(のち)淡路守は和歌をも好みてありしが、御留守居に成て依田豊前守と同役たり。豊前守は剛毅朴訥の人にて、老て後は筆頭故我儘もありし、関所手形等の事にて兎角利窟つよくこまりし事多きゆへ、密に口ずさみけると微笑して予に咄されけるが、至極其時宜に當り面白き故、爰(ここ)に戲書(たはぶれかく)のみ。

 治れる代にも關路のむつかしはあけてぞ通す横車かな

□やぶちゃん注

・「石谷淡州」石谷清昌(いしがやきよまさ 正徳3(1713)年~天明2(1782)年)。「淡州」は「たんしふ(たんしゅう)」と読み、淡路守のこと。以下、個人ブログ『佐渡ヶ島がっちゃへご「ガシマ」』に相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』に収載する児玉信雄氏の当該人物の記載から孫引きする。『宝暦六(一七五六)年から同九年までの佐渡奉行。宝暦六年四月、宝暦大飢饉の最中に就任し、年貢減免・御救米・夫食米の給付など、飢民の救済に尽力した。翌年老中に、佐渡の仕法改革について意見書を提出、鉱山・民政・奉行所機構など、多方面にわたる大改革を断行した。寛延一揆後、奉行の隔年交代の弊害と、農民支配の強化をめざして採用した代官制が、かえって圧政の一因であるとして、二代官のうち一代官を廃止し、全廃に向かう糸口を作った。また、奉行隔年交代の弊を補うため、江戸より常駐の組頭二人を来任させたり、広間役を一○人から六人に減らし、内二人を江戸から派遣するなど、奉行所の機構改革を断行した。このほか役人の待遇改善、鉱山施設の集中的経営、軍事力の強化、殖産興業と国産の他国移出策など、多方面の改革を行った。田畑からの年貢増徴に限界があれば、年貢増徴によらない民生安定の方策は何かというのが、石谷奉行の発想の原点であった。その方策を提供したのが、広間役高田久左衛門備寛であった。石谷は高田備寛に命じて、佐渡の治政と社会の問題点を、歴史的観点から報告させ、また、殖産興業と国産他国移出の立場から、郷村の実情を調査報告させた。これが『佐渡四民風俗』である。これを基礎に据えて、石谷の佐渡支配が行われた。宝暦九年勘定奉行になり、田沼意次の商業重視の幕政をすすめた背景には、石谷の佐渡での施策が、少なからず影響していると考えられる。』。『佐渡四民風俗』の作者高田備寛は「たかだびかん」と読む。石谷清昌というこの人物、大変有能な行政改革者である。

・「后(のち)」は底本のルビ。

・「御留守居」江戸幕府の職名。老中支配に属し、大奥警備・通行手形管理・将軍不在時の江戸城の保守に当たった。旗本の最高の職であったが、将軍の江戸城外への外遊の減少と幕府機構内整備による権限委譲によって有名無実となり、元禄年間以後には長勤を尽くした旗本に対する名誉職となっていた(以上はフレッシュ・アイペディアの「留守居」を参照した)。

・「依田豊前守」依田政次(よだまさつぐ 元禄141701)年~天明3(1783)年)。以下、「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の「依田政次」から引用する。『旗本。将軍徳川吉宗の食事を試食する膳奉行となる。医師が問題なしとした献上品の鶴を、新鮮ではないといって食膳にださなかったところ、この話に感心した吉宗に重用された。宝暦3年(1753)江戸町奉行、明和6年大目付、留守居とすすんだ。通称は平次郎。』。

・「利窟」理屈。

・「爰(ここ)に戲書(たはぶれかく)のみ」底本は「咄に載事のみ」とあるが、如何にもそっけなく、ダブった言い方である。岩波版に「爰(ここ)に戯書のみ」とあるのを採り、「戯書」の訓は私が振った。

・「治まれる代にも関路のむつかしはあけてぞ通す横車かな」「横車」は、前後にしか動かない車を横に押すように、道理に合わないことを無理に押し通そうとすることを言う。最早、名誉職でしかない留守居役で、殊更に注文をつけるまでもない関所手形関連業務等について、依田政次が杓子定規なことをぐだぐだ言うのを「横車」に譬えた。更に、棒・長刀などの扱い方の一つで、横に振り回すことをも「横車」と言う。ここでは関所役人が、持った棒を横に振って旅客を押し止めている「横車」の様子にも引っ掛けたのではないか、と私は解釈している。

やぶちゃん通釈:

太平楽のこの代でも

   関所を通るは難しや

  横車した棒 開けては通す 開けては通す

    押し通す 押し通す横車を 通さずば成らぬとは

■やぶちゃん現代語訳

 石谷淡州の狂歌の事

 石谷備後守――後の淡路守――清昌殿は和歌を好む方であったが、御留守居役となって依田豊前守政次殿と同役になった。ある時、石谷殿が、

「豊前守殿は剛毅木訥なお方であったが、老いて後の筆頭の御留守居役就任故に、我儘もよく言われ、関所手形などにつきても、とかく理屈を弁じ立てては、大いに困らせられたことも多く御座った。――そんな折り、秘かに口ずさんだもので御座る……。」

 と、微笑まれて私に教えて呉れた歌。至って当世にぴったりとしており、如何にも面白いので、書き記すまで。

  治まれる代にも関路のむつかしはあけてぞ通す横車かな

2009/10/14

僕の先生の「円」

――此時先生は起き上つて、縁臺の上に胡坐をかいてゐたが、斯う云ひ終ると、竹の杖の先で地面の上へ圓のやうなものを描き始めた。それが濟むと、今度はステツキを突き刺すやうに眞直に立てた。すると、その突き刺した杖の周りに黑い塊が膨れ上がると、それは一匹の尾を銜へたウロボロスの黑猫となつて、さつさと地面から拔け出すと、縁臺の下をさつと潜り拔け、先生と私の間を圓を描いて走り拔けると、ふつと消えてしまつたのである。私はフアウストのやうにどきりとした。すると先生は、

「君の氣分だつて、黑猫一つですぐ變るぢやないか」

と言つて杖を私に突きつけて笑つたのだつた……

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Mefist

耳嚢 大陰の人因果の事 ≪R指定≫

「耳嚢」に「大陰の人因果の事」を収載した。≪R指定≫――は勿論、冗談である。そもそも未成年はそうした「覗き見」を経てこそ、大人という愚劣な存在を批判的且つ正常に知覚し得るのである。自己責任というどっかで使われた言葉は、こういう時にのみ有効であると僕は考えている。どうぞ、自己責任で以下、お読みあれ。

 大陰の人因果の事

 

 信州の百姓成由、夫婦に一兩僕召過ひ相應に暮しけるが、近郷より用事ありて、二里計も脇へ至り、急雨にて甚難儀せし故、其邊にありし一ツ屋へ立寄、晴間を待けるに、奇麗成住居にて馬も繋ぎ置、年比二十斗成男たば粉呑(のみ)ながら、雨の難儀など念此に訪(と)ひいたりしが、着座しながら衣類しどけなかりしに、兩膝の間より男根の見へけるが、膝とひとしき迄に見へて驚きければ、亭主も其氣色(けしき)を悟り甚困りける樣子故、扱々珍ら敷一物かな、人事は如何いたしけるやと尋ければ、何か隱し可申(まうすべき)とて、右陽具を見せしに、最初ほの見しに増(まさ)りてあやしき迄に思ひければ、彼人答て、我等此一物故に、哀成身の上也、元來某(それがし)は此一二町脇に、見もし給ん酒商ひする者の倅也、身上も相應に暮しける故、妻妾をも貯(たくはへ)ん事なれど、いか成事にや、此陰莖人並ならざるの品故、生れて人事をしらず、金銀を費し所々配偶を求さがせども可有樣(あるべきやう)なければ、空敷(むなしく)月日を過し、責(せめ)ては煩惱を晴さんと、あれに繋ぎ置(おく)馬を我妻妾と心得、淫事の起るごとに右馬を犯し思ひを晴し、生ながら畜生道に落(おち)しと、何ぼう悲しき身の上と語りければ、百姓もあきれ果、雨も止ぬれば暇乞して歸りけるが、妻に向ひて今日かくなる所に至り、不思儀の陽物を見し事かな、汝が常に我を拙(つたな)しといひしが、かく大物も又捨(すた)り物と戲れ語りしに妻の云けるは、かゝる不思儀の片輪ある物哉、物にたとへたらんにはいかやうなりと尋しに、床に掛有し花生(はないけ)をさして、凡あの通也と語りければ、いかでさる物あらんと笑ひぬ。其日もくれ翌日も立(たち)て翌朝に成て、其妻いづちへ行けん行衞不知故、心當りの所尋けれど一向相知れざるゆへ、召仕ひの丁稚に常に代り狂氣ばししたる樣子もありやと尋ければ、外に心當りも無し、若(もし)亂心もしたまひしや、きのふ晝頃床に餝(かざ)りし花生をとりて持(もち)なやみ、膝の上へ當て拜し給ふをほのみしと語りければ、彼(かの)夫始て心付、一昨日大陰の人の物語したる折から、花生にたとへしを、婬婦の心より好ましく立出るならん、語るも恥しと、強て尋るに及ず、某心當りありと晝頃より出て、彼の大陰の人の許に至り音信(おとづれ)ければ、最初と違物靜成るが、彼の男立出て、これは此程雨舍りの人なるか、いか成用事にて參られしと尋ければ、此間雨舍(やどり)の禮に寄たり迚(とて)、四方山の咄しの上、主(あるじ)は色もあしく何か物思ひの姿成るが、何ぞかわりし事もあるやと尋ければ、さればとよ、無慘にも哀れ成る事ありて自然と面(おもて)に顯(あらはれ)しならん、先に足下(そこもと)歸り給ひし後、一兩日の後にも有けん、夜四ツ時此と思ふ頃、表を音信るゝ者あり、扉を開き見侍れば、年此四十斗成女の、旅の者なるが頻りに腹痛いたしなやみけるが一夜の宿を借し給へと申ゆへ、獨身の譯など斷りけれど頻に腹痛の由を申、達(たつ)て願ひける故、此一間に置て湯など與へ介抱いたしければ、右女聲をひそめ、其が陽物拔群のよし聞侍る、一目見せよと乞ける間、埒もなき事を申さるゝ物哉、如何して我が身の上の事知りたるやといなみければ、御身の陽物尋常ならざる事は往還の馬士(まご)又は荷持(にもち)迄もしりたる事、何か隠し給はんといへるゆへ、何となくこわけ立て、若(もし)や魔障のなす所ならんかと、暫くいなみしが、曾てあやしき者にはなし、旅の者ながら此近隣に暫し彳(たたず)みし身也と語り、其樣化生(けしやう)の者とも見へざるゆへ、いなみ難く出し見せければ、しきりに手を以て撫廻し、或は驚き或は悦び狂亂の如くなる故、頻に我も婬心を生じ、夫なき身ならば我と雲雨の交りをなさんやと尋しに、斯る陽物を受んとも思はれねど其業(わざ)なしみ給へと終に高唐夢裡(かうたうむり)の歡をなしけるに、いかなる大海にや、事なく芙蓉の影を移し何卒妻として旦夕(たんせき)契りをなさんと右女のいゝ願ひけるゆへ、我も生れて人道をしらず、始て此德人を得しと悦びけるが、朝も速(はやく)に起出てまめ/\しく働き、飼置る馬にも秣(まぐさ)などかはんといいけるを、我等かはんと申せしをも不用、厩に至り秣をかひけるが、馬に妬氣(とき)や有けん、只一はねに右女を押へ喰殺しける。我も生涯の不具因果を感じ出家せんと思ひけるなり、此事人に語(かたら)んも面(おもて)ぶせ故、裏なる空地へ右女の死骸を埋(うめ)けると、涙と共に語りしを彼百姓聞て、さながら我妻也といわんも面目なければ、哀れなる咄承る物かなと云て立別れけると也。

 

□やぶちゃん注

・「訪ひいたりしが」ママ。

・「不思儀」ママ。

・「舍(やどり)」は底本のルビ。

・「足下(そこもと)」岩波版では「そつか」とルビするが、採らない。

・「夜四ツ時」午後10時頃。

・「彳みし」底本では右に「(專經關本「かかり居し」)」とある。どちらも、以前長く住んでいた、の意である。

・「化生」底本は「化粧」で、右に「(化生)」と注。補正した。

・「雲雨の交り」男女の情交(楚の懐王が、朝は雲となり夕べには雨となると称する女に夢の中で出逢い契りを結んだという宋玉の「高唐賦」に基づく)。

・「高唐夢裡」前注参照。

・「いかなる大海にや」底本は「大海」が「大開」となっているが、如何にも直接的でお洒落じゃない。何より続く「芙蓉の影」との繋がりが悪い。その観点から岩波版の「大海」を採用した。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 巨根の人の因果の事

 

 信州のある百姓の話の由。

 ある百姓夫婦、下僕二人を召し使って、相応に豊かな暮しをしておった。

 ある時、夫は近くの村に用足しがあって出掛けたのだが、帰りがて、家からは未だ二里ばかりも離れた辺りまでやって来たところ、急な大雨に見舞われ、ひどく行き悩んだため、その附近にあった一軒家へ立ち寄り、晴れ間を待つことにしたのだが、そこは小奇麗な住居で、屋敷内には馬も繋がれており、年の頃三十ばかりの男が煙草をのみながら、百姓が受けた、この雨の難儀を頻りに慰藉など致しておったのだが、その胡坐をかいて座っている、その衣類の裾が乱れて、その両膝の間から、その男の一物が見えた。それが何と――太さも長さも膝と同じほどに見えて驚いたのだった。また、亭主の表情には、百姓が己が一物を覗き見て、驚いているらしいことに気づき、甚だ困惑している様子も見てとれた。そこで百姓は思い切って、

「……さてもさても、珍しい一物をお持ちじゃ……されど……夜の交わりの方は如何(いかが)なさっておられる?」

と訊ねたところ、

「……お気づきになられては、何の隠しようも御座らねば……」

と言いつつ、亭主は服をめくると一物を見せた――

 ――その巨大にして長大なること、先程、ちらと見た時にも増して、不気味なものとまで感じられる「もの」であった。呆然とした百姓に向かって、男は徐に語り始める――

「……私は、この一物故に、哀れなる身の上に御座る……元来、私めはこの先一、二町のところで――ここにいらしゃる途中、御覧になられませなんだか――酒商いをしておる者の息子で御座る。商いも捗り、相応の暮らし向きで、何不自由ない身の上で御座った……さて、そこで妻や妾の一つや二つと思い立ちましたが……如何なる因果か……この陰茎が人並み外れたものであります故に、未だ生まれてこの方、女との交わりというものを知りませぬ……金品を費やし、あちこちに連れ合いとなれる女を探し求めましたが、この一物に見合う女など見つかるはずもこれなく、空しく月日を過ごしておりました……が、かくなる上は、この日々募る色欲の煩悩を何としても晴らしてやる!……と、あれに繋いでおります馬を……私めの妻だ妾だと心得……淫らなる気持ちが沸き起こるごとに、あの馬を犯しては思いを晴らし……正に生きながらにして畜生道に落ちておりまする……どれだけ悲しき身の上か、お察しあれかし……」

と。

 さすがの百姓もこの話には呆れ果てた。気がつけば、雨もとっくに止んでいた。百姓は亭主へ早々に暇乞いをして家へと帰った。

 その夜、百姓は、妻に向かうと、

「今日、これこれの場所に雨宿りしたが、そこで不思議な巨根を見たんじゃ。お前は常に儂の一物を小さいと馬鹿にしよるが、あのような大物も、これまた、役立たずの不用品じゃて。」

と冗談半分に語った。すると妻は、

「そんな不思議な片輪もんなんぞ、あるもんですか。……でも、因みに物に譬えてご覧になるなら……それって……どれ位の、「もの」……でしたの?」

と訊ねたので、夫は、丁度、床の間に掛けてあった花瓶を指さし、

「そうさな。あれと太さも長さも同(おんな)じだ。」

と言ったので、妻は、

「どうして! そんなもの、あるわけ、ないわ!」

と笑った――

 ――その日も暮れ、翌日も経ち、翌々日のの朝となった。

 と、その妻、一体何処へ行ったものやら、行方知れずになったため、夫は心当りを訪ね回ったものの、一向に所在が知れぬ。困り果てた夫は、召使っていた丁稚に、

「この数日、普段と変わって、何か気が違ったかのような素振りなどなかったか?」

と訊ねたところ、丁稚は、

「……これといったことは特にありませぬ、と申し上げたいところですが……そう言えば、もしや、少しご乱心なさったのでは、と思うたことが一つ、御座いまして……昨日の昼頃のことで御座います……床の間に掛けてある花瓶を取り外し、頻りに苦しそうな御様子で……その……その花瓶を、ぎゅっと膝の上に押し当てなさっているさまを……垣間見まして御座います……。」

と語った。

 夫はそこで初めて、妻の失踪の意味を了解した。

『一昨日、巨根の男の物語した折りから、それをかの花瓶に譬えたが……あの女、淫らなる心からそれを求めて出奔致いたのであろう……いや、これは丁稚に語るも恥かしいことじゃ!』

と思い、落ち着いた風を装って、丁稚には、

「強いて探すには及ばぬ。今、思いついたが、別に、儂に心当たりがあるでの。」

と言い置き、昼頃になって家を出でて、例の巨根の男の家に至り、満を持して、戸を叩いた。

 先日、雨宿りをした時に比べると、家の内が何だかやけに森(しん)としていたが、暫くしてあの亭男が家から出て来た。

「……これは……先だっての雨宿りなさった御人(おひと)で御座ったか……さても……如何なる御用で参られた?……」

と丁重に、しかし如何にも沈んだ声で応えたので、

「いや、先日の雨宿りの御礼に立ち寄って迄で御座る。」

と、何気なく、とりとめもない話などした後、思い切って、

「……ご亭主には如何にもお顔も色が悪く……何かご心痛の体(てい)なるが……何ぞ変わったことでも御座ったか?」

と切り出した。

「……さればこそ……無惨にも哀れなる出来事が御座いました……それが、自然、面(おもて)に表われたので御座ろう……」

と、亭主は語り出す――

 

……先だって、あなた様がお帰りになってから、さても二日程たってからのことでしたか――余りの悲しさに時の移ろいも忘れ果ててしまいました――いえ、そう、昨日の夜の四つ時頃のことでしたか、家の表戸を頻りに叩く音が致しました。扉を開けて見てみますると、年の頃四十ばかりの女が、

「……旅の者なれど、頻りに腹痛致し、苦しゅう御座いますれば、どうか、一夜の宿をお貸し下さいませ……」

と申します故、私が独身(ひとりみ)であることなど申して断わったので御座るが、頻りに腹痛の向き申し訴え、たっての願いと縋る故に、この一間に寝かせ、白湯(さゆ)など与えて介抱してやりました――

 ――ところが――暫くして、腹痛などなかったようにけろりとした女は、やおら声を潜めると、あろうことか、

「……あなたさまの一物、抜群の由、聞き及びまして御座います……一目……お見せ下さいませ……」

と乞うてきたのです。勿論、私は、

「埒もないことを申される! そもそも私の身の上の、一事に附き、何故にそのようなものと思ったか!?」

と断わり質しましたところ、女は、 

「……御身の一物の尋常ならざること……街道を往き来する博労や荷持ちといった下餞の者に至るまで知らぬ者とて、ない……何を今更、お隠しなさるのか!……」

と、逆に激しい口調で迫って参りました――

 ――私には、何とも言えぬ、恐ろしさが湧き上がって参りました――これは、もしや魔性のもののなす仕儀にてはあるまいかと感じ、ただひたすらに断わり続けておったのです――が――

「……私は決して怪しい者では御座いませぬ……旅の者では御座いますが……この近辺に暫く住んだことのある者に御座いまする……」

と、少し落ち着いて、優し気に語り出すその様子は、化生のものとも思われず――

 ――つい――断り切れずに一物を出して見せました――すると女は頻りに手で撫で回しては、或いは驚き、或いは喜悦の声を洩らして、狂ったようになり――その中、私めも頻りに欲の渇きが昂じて参りまして――己が一物のことも忘れ、つい――

「……あなたも夫なき身であるならば……私と……雲雨の交わりをなしては……下さらぬか……」

と申しました。女は、

「……このような一物を私が受け入れらるるものとも思はれませぬが……どうか、その雲雨の交わりを、お試みあられよ……」――

 ――そうして――終に高唐夢裡の歓びを――成しました――美事、成したのです――どのような広大無辺なありがたい海であったことか――私の、この大輪の芙蓉の花は、その姿を少しも欠くこともなく、その水面に映し出すことが出来たのです――

「……どうかあなたさまの妻としてお迎え戴き……日々の契りを致しましょう……」

とこの女が願い出ました故、私めも生れてこの方、人の女を、高唐夢裡の歓びを知らず、初めてこの美人を得た、と心より喜びました――

 ――夜が明けた――今朝のことで御座いました――

 女は、朝も早くから起き出だし、何やかやとまめまめしく働いてくれ、飼っている馬に秣(まぐさ)をやりましょう、と言うので、

「秣は私がやるよ。」

と申したのも聞き入れず、女は厩に行き、あの馬に秣をやろうとしました――

 ――馬にも――妬心というものがあるのでしょうか――

 ――ただ一跳ねに、女を床に押さえつけ――私が駆けつけた時には、既に――女を、喰い殺しておりました……

 

……私めも、持って生まれたこの不具……私めを巡る、この忌まわしい因果の法に感じ……出家を遂げる覚悟にて……このような話、人に語らんも恥なれば……哀れとは思えど、今し方……女の骸(むくろ)を……裏の空き地に埋めまして、御座る……」

と、亭主が涙ながらに語るのを聞いて、しかしながら、その女は私の妻だ、とも言えず、余りの恥かしさに、

「……哀れなる、話を、承った……」

と言ったまま、立ち別れた、ということである。

2009/10/13

教え子が僕に贈ってくれた至福

「ジョアン・ジルベルトの伝説」を――今――聴いてる!

これは奇跡なんだ!

――正直、僕は生きている内に、こいつを聴けると、実は、思っていなかった……生のジョベルトを聴けなかったけれど……これで、僕は人生を三倍生きた気が、確かに、してる……好きな女にバラの花を渡して、丘を下る……それほど……こいつは「いい」んだ、ゼ!……これは確かにレジェンドなんだ!……僕の貧しい人生にあっても、ね!……どんな貧しい人生にあっても、「伝説」は、確かに必要なんだ!――

耳嚢 御力量の事

「耳嚢」に「御力量の事」を収載した。

 御力量の事

 恐多き御事ながら、當時將軍家の御力量拔群にあらせられ侯由。然共聊常にその御沙汰もなく、其程を伺(うかがひ)候者もなきが、或時品川筋、御成の折柄、御馬にて御殿山邊、通御(つうぎよ)の處、右山の樹枝に烏一羽泊り居しを御覧の上、錢砲を被召(めされ)、御馬上にて御覗ひありて、仰ぎ打に被遊ける所、矢頃遙に隔りけるが、礑(はた)と中りて鳥は止りぬ梢より遙に飛上りくる/\と廻りて落ける時、將軍家御片手に御筒を被爲持(もたせられ)、通途の者杖を廻す如く御廻し被遊、譽候樣御高聲に御自讚有しを、御近邊を勤(つとめ)御供に候(さぶらひ)し候(さふらふ)者咄されけるが、右御筒の儀は普通より遙に重き處、御片手に輕々と取廻し給ふ有樣、御力量の程何(いづれ)も驚入、又御火術をも稱歎せしと咄しける折ふし、有德院樣、惇信院(じゆんしんゐん)樣御兩代の御側廻り相勤候仁(じん)其席にありて、御當家は御代々御力量は勝れさせ給ひけるや、有德院樣は餘程に勝れさせ給ふをまのあたり見奉る。惇信院樣は御病身に被爲在(あらせられ)侯得共、御力量は餘程に勝れ給ふと存候事、度々有りしと語り給ひける。

□やぶちゃん注
・「當時將軍家」十一代将軍家斉(安永2(1773)年~天保12(1841)年)。在位は、天明7(1787)年~天保8(1837)年。しかし、そうすると底本の鈴木氏の解題にある執筆時期分類にある、「耳嚢」「巻之一」の執筆の着手は佐渡奉行在任中の天明5(1785)年頃で、下限は天明2(1782)年春までという期間から完全に逸脱してしまう。執筆開始時にもその下限時に於いても、家斉はまだ将軍になっていない。この期間に入れるとすると、これを将軍職着任以前の出来事とるしかないが、彼の将軍職着任時の年齢は15歳である。このエピソードはやや考えにくい。また着任していない人物を「將軍家」とは言うまい。少なくともこの記事は、その謂いからしても、鈴木氏の言う次期よりも遙か後に書かれたものと私は考える。
・「御殿山」現在の東京都品川区北品川、高輪台地の最南端に位置する高台。現在の品川駅南方に当たる。徳川家康が建立したとされる品川御殿があったためこう呼ばれる。歴代将軍家御鷹狩休息所及び幕臣を招いての茶会場等に用いられたが、元禄15(1702)年火災により焼失、廃された。先立つ寛文年間(1661~73)の頃からこの一体には桜が植えられ、桜の名所として知られるようになった。
・「矢頃」は「やごろ」と読み、通常は矢を射るに格好の射程距離に対象があることを言う。ここではそれを鉄砲に援用した言いで、且つ、有効射程の遥か圏外に烏がいたことを示す。
・「礑」音は「タウ(トウ)」で、国訓で、物に何かがぶつかる音。はったと。
・「輕々と取廻し給ふ」は、底本では「輕々と取なやみ給ふ」とあり、右に「(取廻しカ)」と注する。注を採用し、補正した。岩波版では「御廻し」とある。
・「候(さぶらひ)し候(さふらふ)者」岩波版では「候(こう)し候者」とルビを振るが、私は音読した際のリズムから表記を採りたい。
・「何(いづれ)」は底本のルビ。
・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡り名。
・「惇信院」九代将軍徳川家重(正徳元(1712)年~宝暦11(1761)年)の諡り名。
・「仁」このご仁、最低でも65歳を下らない長老である。

■やぶちゃん現代語訳

 御力量の事

 恐れ多いこと乍ら、当代の将軍家の御臂力は抜群であらせられます由。然れども御日常にあらせられては聊かもそのような御振舞いもお見せにはなられることなく、その御臂力の如何に群を抜くものであるかを存じ上げておる者もなかった。さればこそ、ここに記しおくものである。
 ある時、品川辺にお成りの折り、御馬にて御殿山辺りをお通りになられたところ、木の枝に鴉が一羽とまっているのをご覧になり、
「鉄砲を。」
と仰せられると、馬上にあらせられたままに狙いを定め、その高めの標的を仰ぐようにお撃ちになったところ――その鴉の位置は鉄砲の有効射程距離を遙かに越えていたのだが――トウ! と鴉のど真ん中に当たって、鴉はとまっていた梢から遙か上に吹き飛んで、くるくる回って、美事、落下した。
 その時、上様は片手にお持ちになった鉄砲を、まるで普通の者が杖を回すかのように、くるくるとお回しになり、
「さても褒めんか!」
 と、御声高らかに御自讃なさったとのこと、その折り、御側衆をしておった者がお話しになったのだが――何でも、その鉄砲の仕様は、将軍家特注のもので、通常のものよりも、遙かに重いものであったにも関わらず、上様は御片手で軽々と取り回されたそのありさまに、その場に伺候しておった者どもは皆、上様の御臂力は、一体どれほどおありになられるのか、と驚き入って、加えて、その砲術の御神技にも賞嘆致いた――と、上様御臂力に附き、話を続けておった折り、その場に偶々、有徳院吉宗様と惇信院家重様御二代に亙って御側廻りとしてお仕えした御方が居合わせており、
「御当家は代々御臂力に勝れてあらせられると拝察致すが、如何か。有徳院吉宗様が人間技とは思えぬ並外れた御臂力の持ち主であられたのは、しっかと目の当たりに見申し上げて御座る。惇信院家重様はご病気がちであらせられたものの、やはりその御臂力は余程に優れてあらせられると、感じさせらるること、いや、度々御座った。」
と、語って下さった、とのことである。

2009/10/12

耳嚢 人の精力しるしある事

「耳嚢」に「人の精力しるしある事」を収載した。

 人の精力しるしある事

 當時本所に中條道喜といへる者あり。町醫ながら相應に暮しけるが、其身の上を尋ぬれば、元來官醫のもとに若黨(わかたう)いたし、夫より所々中小姓(ちゆうごしやう)奉公抔なしけるに、身持不埒にて或は窮し又は困(こう)じけるが、中年にて剃髮し醫師に成、予が親友與住(よずみ)抔を便りて藥劑を聞合けるに、頻に青雲を得て今は相應に暮しける。右の者に可笑しき咄しあり。近き頃本所多田の藥師境内へ鐘を奉納せし故、與住事右の者に逢て、鑄鐘の事醫師の職業にも非ず、又小金にて出來ぬべき品にもあらず、佛法歸依の御身とも思われず、其意を尋ければ、さればとよ、道喜醫師に成候はじめ、甚の困窮にて一錢の貯もなく、度々多田の藥師の前を通りしに、堂塔修理侯へども鐘のなきぞ莊嚴(しやうごん)の欠たる也、其砌道喜事吉原其外按摩を渡世致しけるが、二錢三錢づゝも日々除置(のけおき)て鐘を建立すべし、若(もし)不幸にして志を不得ば其沙汰に及間敷、志を少しだに得るならば何卒生涯に建立可成と風與(ふと)誓ひし故、造立せしと申けると也。

□やぶちゃん注

・「中條道喜」訓読みなら「みちよし」「みちのぶ」が考えられるが、医師なので「だうき(どうき)」と音読みしておけばよいと思われる。

・「若黨」江戸時代、武家にあって足軽よりは上位の小身の従者を言った。

・「中小姓」江戸時代、武家にあって侍と足軽の中間に位置する下級武士を言った。侍階級の最下層。

・「與住」底本の鈴木氏注に『与住玄卓。根岸家の親類筋で出入りの町医師。』とある。「耳嚢」には他にも「巻之五」の「奇藥ある事」や、「巻之九」の「浮腫妙藥の事」等にも登場する。

・「本所多田の藥師」玉嶋山明星院東江寺が正式な寺名(天台宗比叡山延暦寺派)。当時は、本所(現在の墨田区の南部分)の隅田川の岸(現在の駒形橋附近)にあった。天正111583)年開山、本尊の薬師瑠璃光如来像は「往生要集」の作者恵心僧都源信作と伝えられるが、この薬師如来が多田満仲(912997:源満仲。清和天皇六孫王源経基長男、多田源氏の祖とされる武将。子に大江山酒呑童子退治で知られる源頼光がいる。)の念持仏(身長約18㎝)であったため、通称多田薬師と呼ばれる。上野の東叡山寛永寺末寺として江戸時代を通じて庶民の信仰を集めた。関東大震災により本堂が消失、後の帝都復興計画で駒形橋新設決定に伴い、葛飾区東金町に移転して現在に至る。現在でも、この移転した東金町近辺を「多田の薬師」と呼称している模様。

・「佛法歸依」底本では「佛法寄依」とあり、「寄」の右に鈴木氏によって「(歸)」とある。補正した。

・「吉原」当時、浅草寺裏手の日本堤にあった吉原遊廓のこと。新吉原。

■やぶちゃん現代語訳

 人の誠心の祈請には必ずその験(しるし)が現れるという事

 今、本所に中條道喜(どうき)という者がおる。町医者ながら相応に良い暮らし振りの者であるが、彼自身にその身の上を聴いたところでは、元々は幕府お抱えの奥医の下で若党など致し、その後は幾つものお武家の家中に入り込んでは、中小姓奉公など致いておったのだが、ふとしたことから身を持ち崩し、時によっては、貧困のどん底に落ちたりもした。しかし、中年になってから剃髪、若党時代の手習いで医師となり、私の親友の医師与住玄卓などを頼って薬剤調合法についての知見を学ぶうちに、町医者の商売繁盛、今のこの相応な暮らしに至ったという。

 さても、その道喜に面白い話がある。

 この道喜、最近、本所は多田の薬師の境内へ鐘を奉納した。そこで与住が彼に逢った折り、

「鐘を鋳造し奉納するなんど、医者たる職分にも相応しくなく、そもそも実物を見たところが、僅かな金で成せるような代物でもない……また、仏法帰依の御身とは、憚りながら、お見受け致さぬが……。」

 と、その鋳鐘奉納の真意を訊ねた。すると道喜は、

「ご尤もなことに御座る……私めは医者になりましたその始めは、甚だ困窮の極みに在り、一銭の蓄えだに御座いませなんだ……その頃のこと、たびたび多田の薬師の前を通りました……折りからの堂塔の大改修、それはほぼ完成にこぎつけておりました……けれども、この由緒正しき名刹に、鐘がない、というのが、どうしても荘厳さに欠けておるな、と、この貧者ながら、心の内に思っておったので御座います……その頃……私めは吉原やその辺りの土地を歩いては按摩をして食っておったので御座います……そんな私で御座いましたが、ある時、多田の薬師を過ぎた折り、心に薬師を念じて『多田のお薬師さま! 二銭でも三銭でも毎日毎日僅かながら取り除けて貯え貯え、きっとこちらへ梵鐘を奉納致しまする。もし、不幸にして志しを立てることが出来ませねば、その誓願を実行することも出来ませぬが、万一、志しを少しだけでも立てることが出来ますれば、生涯のうちに、必ずや、奉納致しまする!』と、ふと、と誓いを立てたので御座った……さればこそ、かくて、かくの如く……鋳鐘奉納、致いた次第で御座る……。」

と申した、ということである。

2009/10/11

耳嚢 奇術の事

「耳嚢」に「奇術の事」を収載した。

 奇術の事

 土浦侯の家士に内野丈左衛門と申者あり。其甥を同家中の名跡(みやうせき)に遣しける、若氣の心得違にて土浦を一旦家出しけるよし、丈左衛門方へ申越ければ、大に恕、所々心懸尋けるに行衛しれず。品川の邊に老婆の右樣の事を占ひなどせる奇術の者ありと聞て尋問ひければ、老婆答て申けるは、我等壇上にて修法(ずはう)の上品々申候内、甥子の身の上に似寄、言語も似て候はば右の所を押て段々聞糺し可被申(まうさるべし)。併(しかしながら)住所知れ侯ても咎(とがむ)る事は遠慮有べしと申しける故、承知の挨拶しける其時、老婆修法なして頻に獨言(ひとりごと)を申ける内、果して似寄の事出し故、いか成譯にて立退けると尋ければ、若氣にて風與(ふと)心得違ひ立出し由を演(のべ)ける故、人の家督を繼(つい)で不埒至極の心底かなと憤り罵りければ、幾重にも免し給へといへる故、少しも早く可立歸、當時は何方に居候(いさふらふや)と尋ければ、いまだ何方にも住所を不極、江戸よりは南の方に居候よしを申故、老婆に一禮を演て立歸り、頻りに南の方を尋けるに、深川の末にてはたと行逢、段々と申宥(まうしなだめ)引戻し、事なく相續をなしけるとかや。其後程過て咄しけるは、家出いたし兩三人連にて道を行、並木の茶やに立寄り、草臥(くたぶれ)しまゝ暫くまどろみし内、丈左衝門に逢て殊の外叱りを受、甚難儀せし夢をみてうなされけるを、連の者に驚(おどろか)され、遅くなりぬれば日も暮侯とて、引立られし事のありし由語りしが、右時日を考合(かんがへあは)すれば、老婆へ行衛を尋貰ひし日時に引合(ひきあひ)ける。不思議の事もあるもの也と丈左衛門物語の由、同家中の者語りけるなり。

□やぶちゃん注

・「土屋侯」常陸国土浦土浦城(亀城)城主。城は現在の茨城県土浦市中央1丁目にあったものが復元されている。城主が度々変わったが貞享4(1687)年に土屋氏が再度城主(先々代も同族)となって以降、安定した。

・「名跡」家督相続人。

・「修法」本来は密教で行う加持祈禱の法を言い、壇を設けて本尊を安置、その仏前にて護摩を焚き、印を結び、真言を唱え、各種の祈願調伏を成す。ここではそれを真似た民間呪法の謂いである。古くは「すはう(すほう)」と読んだが、ここでは「しゆはう(しゅほう)」と読んでも構わない。

・「風與(ふと)」底本のルビ。

・「演(のべ)」底本のルビ。

・「並木の茶や」固有名詞。岩波版長谷川氏注その他によれば、浅草寺の雷門から南の駒形へ伸びる道の両側を並木町と言い、料理茶屋や食い物店が並んでいたという。しかし、果たして浅草寺から駒形辺を「江戸よりは南の方」と言ったであろうか? また丈左右衛門が甥を発見した当時の「深川」を「江戸よりは南の方」と言ったであろうか? 当時の深川が現在の江東区より遙かに広い地域を指していた事実をもってしても、私にはそれが「江戸よりは南の方」であるとは思えないのである。「江戸より」の謂いと「南」という謂いのダブルでおかしい気がするし、そもそも「江戸よりは南の方」と言われて丈左右衛門が深川を探索したこと自体が私には奇異な感じがする。識者の御教授を乞うものである。

■やぶちゃん現代語訳

奇術のこと

  土浦侯の家臣に内野丈左右衛門と申す者が御座った。土浦家では、その内野の甥を養子と致し同家家督相続と致いたのだが、若気の至り、何の心得違いか、あろうことかある時、土浦家を出奔してしまった由、丈左右衛門方にお達しがあった。丈左右衛門、怒り心頭に発し、あちらこちら心当たりを訪ね回っては見たものの、一向に行方が知れぬ。ふと、品川辺に住む老婆で、かような行方知れずやら尋ね人に関わることを美事に占う者があると聞き、藁にも縋る思いで訪ねてみたところ、老婆は丈左右衛門の話を一通り聴いた上で、次のように答えた。

「……われら、これより護摩壇にて修法(ずほう)を執り行(おこの)う……されば、われら、あれこれとそこにて口走る……その話の内に……その甥ごの身の上によく似、また、その語り口も相似た者が現れたとならば……その者の話に応え、その居所(いどころ)その他につきて、徐ろに、問い質さるるがよろしい……じゃが……その居所が知れたからと言うて、直ちに咎め立てなさるは、ご遠慮あられよ……」

と。その申し出に、丈左右衛門が、

「委細承知。」

と応えるや、老婆は即座に加持祈禱を始めた――

 ――暫くすると、護摩壇の上で老婆は頻りに独り言を言い始め、その様々な声の調子の中に、果たして甥に似た喋り方が現れた。丈左右衛門は信不信半ばながらも、その声に向かって、

「何ゆえに出奔致いた?!」

と訊ねた。

「……若気の至り……ふと、魔がさして……心得違いにより立ち出でました……」

と答えた。

「人の! 主家の家督を継いでおきながら! 不埒千万! 何の心底か!!」

と、丈左右衛門は激しく憤り、罵った。すると声は、

「……幾重にもお詫び申し上げまする……どうかお許し下さいませ……」

と、頻りに恐縮するのであった。丈左右衛門は老婆との約束を思い出し、怒気をぐっとこらえると、

「さればこそ一刻も早く立ち帰るべし。そも、只今は何処(いずく)にか在る?」

と訊ねた。

「……未だ何処(いずこ)とも居所(きょしょ)を定めておりませぬ……江戸よりは……南の方におりまする……」

とのみ答えて、声は消えて行った――

 ――丈左右衛門はやはり半信半疑ながらも、求めたところの居所(いどころ)はとり敢えず聞き出せたわけで、この老婆に礼を述べて一度立ち帰り、改めてとり敢えず南の方へ、南の方へと尋ね求めてみたところが、何と深川の外れで甥本人とばったり行き逢わせたのであった。かねて声に対して憤怒していた分、ここでは見つかった安堵が勝ち、よくよく言い宥めた上、主家へと連れ戻し、何とか事なく、正式に土浦家相続を果たさせることと相成ったということであった。――

 ――その後、目出度く相続も終わり、程経たある日、土浦姓となったその甥が丈左右衛門に次のように告白した――

「――あの折り、家出致しまして、連れ立った友人と三人であてどなく道を行くうち、並木町の、とある茶屋に立ち寄りましたところで、何だかすっかりくたびれ果ててしまいまして、そこで暫くうたた寝致いたので御座いますが――その時見た夢の中で、おじ上に行き逢い、そこで殊の外のお叱りを受け、引くも成らぬ退くも成らぬほどの難儀を受けました――いや、そんな夢を見まして、うなされておりましたところを、連れの二人に揺り起こされた上、刻限も最早遅し、日も暮れて御座ると、急き立てられて茶屋を出たことが御座いました――」

 丈左右衛門が、更に詳しく聞き質してみると、何と、その日限は、彼があの老婆に甥の行方を占って貰ったあの日限と、完全に一致したのであった。――

 「不思議なことも、この世にはあるものである。」

と丈左右衛門が物語った由、土浦家御家中の者が語った、とのことである。

2009/10/10

耳嚢 貨殖工夫の事

「耳嚢」に「貨殖工夫の事」を収載した。

 貨殖工夫の事

 享保の時代に藪(やぶ)主計(かずへの)頭といへる人有り。御側衆を相勤、後隠居して大休と號し候後も登城抔いたせる人也。主計頭至て倹約を専らにして、既に存命の内、子孫へ吹詰(ふきづめ)の金塊を両三丸づゝ、應親疎(しんそにおうじ)分與へしとかや。右貨殖の手法を聞しに、縦令平日にも風雨或は地震抔有ければ、家來を呼、昨夜の風雨に居(ゐ)屋敷下屋敷等破損何程也(なり)と尋けるに、家來も其氣に應じて、聊破壊に不及所をも、是程かれ程の損じ入用凡何十兩可懸と答、則右金子を除置て貯けるとかや。愚成様なれ共、音信贈答祝儀無祝儀朝夕晝夜都(すべ)て右に随ひ規矩を定、段々積財をなし給ふと也。

□やぶちゃん注

・「藪主計」藪忠通(ただみち)鈴木・長谷川両注によれば、紀州徳川家の家臣藪勝利の次男で、享保元(1716)年に後の第九代将軍徳川家重(正徳元(1712)年~宝暦111761)年)に従って出仕、小納戸役300石に始まり、新番頭から西丸御側となり、浄円院(吉宗生母)の病気の際、精勤したことにより賞せられ、後、5000石を領した。寛延2(1749)年に職を退き、宝暦4(1754)年に76歳で亡くなった。鈴木氏は最後に職を退いた際、更に『慶米六百俵を賜わり、その後もしばしば登城して御気色をうかがい、吉宗の没後遺物として佩刀を賜わりなどした』と記す。因みに、吉宗の没年は寛延4(1751)年。

■やぶちゃん現代語訳

 利殖の工夫の事

  享保の年間、藪主計頭という人があった。御側衆を相勤め、後に大休と号して隠居致いて後も、しばしば登城など致いた人である。主計頭は至って質素倹約、節約節用を日々の行いとして、既に存命の内に子孫らへ、精錬して丸めた極上の金塊を三個宛、真に親しき者を勘案して財産分与したとかいうことである。その主計頭に、ある人がその利殖の秘訣を尋ねたところ、

「例えば――そうですな、日常、雨風のちょっと強い日やら軽い地震などがありました日には、家来の者どもを呼びまして、何時も『昨夜の雨風にて屋敷内・下屋敷などの損傷は如何ほどあったか?』と尋ねまする。すると家来も拙者の何時も心配が始まったと、内心、調子に乗りまして、聊かも破損に及ぶところがこれなき時にも、『これかれの損壊これ有り、御修繕のための御費用、凡そ何十両掛かることと存じまする。』と答え、拙者はまた、言われるが儘に、余っております金子からその分を修繕費として確かに除け置いて、貯えておくので御座る。――」

とか、言われたそうな。

 一見、ちょっとした、また、何処やら間の抜けた話のようにも聞こえるが、日常の音信伝送・各種贈答・冠婚葬祭のみならず、朝夕昼夜の挙止動作に至るまで、一事が万事この要領と基準を厳しく守り定めて、次第に次第に一財産成された、ということである。

芥川龍之介「靜かさに堪へず散りけり夏椿」の句について 

芥川龍之介の「静かさに堪へず散りけり夏椿」という句は誰を悼んでいるのか?」というネット上の質問にお答えになっている方が、僕の「やぶちゃん版芥川龍之介句集」を引用されているのを今朝見つけた。大変、有難いことではあるが、やや誤解されている部分と、不十分な箇所があるので(残念なことに回答は既に本年10月1日で締め切られてしまっている)補足しておく。
まず、回答者が引用されている句はやぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」≪のページでは≫後ろに配した『「芥川龍之介未定稿集」に現われたる句』の中に現れる。そこには、

  悼亡

靜かさに堪へず散りけり夏椿〔編者注――「夏椿」は沙羅の花の異名〕

土雛や鼻の先だけ暮れ殘る〔編者注――自ら「姉さま人形」の土雛を描きて〕

(以上二句、大正十四年)

とある。本日、再確認したが、間違いなく編者葛巻義敏は同書575ページに「(以上二句、大正十四年)」として、掲げている。そして、この『〔編者注――「夏椿」は沙羅の花の異名〕』というのは編者葛巻義敏の編注である。僕(=やぶちゃん)の編注ではない。回答者の表現は、ややその点が誤解を生む。
さて、質問者はこの答えに対して、『私が目にしたのは『芥川竜之介句集 我鬼全句』(永田書房1991)の103ページ。そこには「大正11」とある。』(表記ママ)とされており、それも今、確認した。以下の通りである。

       悼亡

沙羅の花 静かさに堪へず散りけり夏椿

       夏椿は沙羅の異名と知るべし

「沙羅の花」という頭書は編者村山古郷の季題表記、一句の後書きは、その口調から100%芥川龍之介自身のものという≪感じ≫である。そこが「芥川龍之介未定稿集」と大いに異なる。そして、この後書きは以下に示す通り、書簡内の芥川龍之介自身の言葉であることが分かっている。
さて、この質問者(御覧になると分かるが、「回答者」ではない。答えに対するお礼の中で質問者が述べている)は次に『悼亡の句という性格上、私信に添えられた可能性が高い。書簡集をあたったほうがいいのではないか、例えば【大正11年3月19日】あたりの・・・』と記す。その後に、別な回答者の冒頭の西村貞吉宛書簡の『良回答10pt』が示されている。
しかしながら、≪実はこれについては、≫既に僕の「やぶちゃん版芥川龍之介句集三 書簡俳句(明治四十三年~大正十一年迄)」で採取してある。僕としては僕のHPを紹介して下さった回答者の方に、こちらのページまでチェックして戴ければ、よりよかったと思うものである(なお、葛巻の作句年代の誤りについて補注を施していない点は僕の不備とも言えよう。本件を受けてはやぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」の該当句に注記を施すこととする)。該当句を僕の注記と共に掲げておく(書簡番号は旧全集のもの)。

  悼亡

靜かさに堪へず散りけり夏椿

(一〇〇五 三月十九日 齋藤貞吉宛。齋藤(西村)貞吉は府立三中時代からの芥川の友人である(前掲新全集996書簡参照)。句の直前に「Last but not least(コレハ西村流ナリ)お前の不幸をいたむ但しあんな手紙は貰ひたくない暗澹たる氣が傳染していかん下の句あの手紙を見た時作つたのだ」とあり、句の後に「夏椿は沙羅の異名と知るべし」とある。英文は「大事なことを一言言い忘れた」という意味。この書面全体に漂う芥川のアンビバレントな感情の原因(恐らく齋藤の縁者の死を伝えたのであろう「あんな手紙」の内容)は判然としない。)

このネット上の質問者の、芥川龍之介は誰を悼んでいるか、という答えは、西村の知人・縁者と答える以外にはない。九二六書簡(「芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈」)に現れる「五郎」なる謎の人物や、回答者の方が提示する「母」のプロットは、その亡くなった人物に繋がっている可能性が大きいようには思われる。「長江游記」の「一 蕪湖」を読んでも、齋藤貞吉にはある種の妙に孤独な影が見え隠れする――が、いずれにせよ、この「悼亡」の追悼句は、その消息文の書き方から見て、≪芥川のその逝去した対象者への深い追悼の念から作句されたものではないこと≫は実感される。寧ろ、乱暴な消息文の言葉遣いと静謐な句表現の中で、芥川は傷心の友齋藤自身を慰藉しているのである。

2009/10/09

耳嚢 長尾全庵が家起立の事

「耳嚢」に「長尾全庵が家起立の事」を収載した。

 長尾全庵が家起立の事

 全庵本來は讚州の産にて、松平讚岐守醫師也。醫術功驗有により、江府(かうふ)、將軍家御臺樣御不豫の節被爲召(めさせられ)候處、大夫人の御事故、帷幕(ゐばく)を隔(へだて)御手計(ばか)り被差出、伺(うかがひ)の事被仰付ければ、都(すべ)て醫は御容貌其外御血色等も不伺候ては難成事に有之、御手脈斗(ばかり)の伺にては醫藥共難施趣御答に及びければ、尋常ならざる不敬に罪し、讚州へ蟄居被仰付しと也。其後、將軍家御不豫の節被爲召候て、御藥差上御平癒被爲在(あらせられ)候故、食禄可給御沙汰ありしが、老衰に及び候由御斷申上、依之(これによりて)御座敷内歩行不自由に付、桑杖を給り、倅文哲へ食禄給りし。今文哲家に右桑杖并林大學頭より其砌相贈りし桑杖記有之、祕寶とす。いづれの御代に當りしや、當文哲祖父なるべし。

□やぶちゃん注

・「長尾全庵」岩波版の長谷川氏の注によれば、庄内藩主酒井忠義(寛永211644)年~天和元(1681)年)や八代将軍吉宗の父である紀州藩主徳川光貞らの『病を療治、正徳五年(一七一五)将軍家継の病気の時に、薬を献じ、目通りを許された』とあるから、本件の将軍家とは家七代将軍家継(宝永6(1709)年~正徳6(1716)年)ということになる。しかし、彼は8歳で亡くなっており(但し、聡明な子であったと言われるので本件の「食禄可給御沙汰」や「御座敷内歩行不自由に付、桑杖を給り、倅文哲へ食禄給りし」を自立的に成したというのは決して不自然ではない)、その「御臺樣」正室となると、八十宮吉子内親王ということになるのだが、その婚約は7歳で、この一連の話としては、やや無理がある気がする。そこを自然にするには、この「御臺樣」を先代六代将軍の正室近衛熙子(ひろこ寛文6(1666)年~寛保元(1741)年 夫死後は落飾して天英院と名乗った)ととる方法か。熙子は延宝元(1679)年に嫁ぎ、宝永6(1709)年、家宣の将軍就任と同時に大奥に入った。なお、長尾家は以後、幕府解体迄、代々奥医師の家系となり、当主は全庵を名乗った。幕末の嘉永元(1848)年 のこと、13歳の幕府の薬室生(医師見習)の少年が、当時の幕医長であった長尾全庵の家に食客として入っている。後の郵政の父、前島密の若き日であった。

・「御不豫」天子や貴人の病気。御不例。

・「都(すべ)て」底本のルビ。

・「斗(ばかり)」底本のルビ。

・「桑杖」桑の箸を中風除けのまじないとしたり、桑酒は同病への効能があるとも言われた。……しかし、意地悪く言うなら、桑の木は中心に空隙があり、杖は折れ易いと思うのだが……。

・「文哲」岩波版の長谷川氏の注によれば、長尾全庵の子である長尾分哲伯濬(のりふか)のこと(誤り)とする。彼は享保111726)年『西丸奥医。元文五年(一七四〇)没、六十九歳』。

・「林大學頭」は林鳳岡(はやしほうこう 寛永211645)年~享保171732)年)。延宝8(1680)年に林家を継ぎ、四代将軍徳川家綱以後、綱吉・家宣・家継、八代吉宗までの5代に亙って幕府の文部行政や朝鮮通信使接待などに参与、特に五代綱吉・八代吉宗の信任が厚かったと言われ、官学としての林派の形成に力があった。元禄4(1691)年、それまで上野不忍池の池畔にあった林家の私塾が湯島に移されて昌平坂学問所(湯島聖堂)として竣工、それと同時に大学頭(昌平坂学問所長官:現在の東京大学総長に相当)に任じられ、以後、大学頭は林家が世襲した(以上は主にウィキの「林鳳岡」を参照した)。

・「いづれの御代に當りしや」この将軍を前注通り家継ととれば、この後半の一件は家継が将軍であった正徳3(1713)年4月2日から、逝去の正徳6(1716)年4月30日より遙か前、凡そ3年の間の出来事であるということになる。「耳嚢」のこの記載時から60数年前の出来事となる。

・「當文哲」岩波版の長谷川氏の注によれば、『分哲伯濬の孫分哲保定(やすさだ)』(の誤り)とする。この注が正しいとすれば、祖父ではなく曽祖父ということになる。

■やぶちゃん現代語訳

 幕府医官長尾全庵家事始の事

 元祖長尾全庵は本来は讃岐国出身で、松平讃岐守附きの医師であった。

 ある時、将軍家御台様御不例の折り、この長尾全庵が特に仰せつかって江戸城内に召されたのであったが、将軍家夫人ということで、張り巡らした引き幕を隔てて御手だけをお差し出しになられるばかり、お側の者は、ただ脈取って診察せよ、と仰せつかったので、全庵は、

「総て医術は御顔全体の御様子の外、その御血色などの細部も合わせて診申し上げずには、正確な診断を下すことは難しいことに御座いますれば、御手のお脈だけにてはとても施薬など、成し難きことに存ずる。」

といった旨、お答え申し上げたところが、御台様に対面所望など以ての外、慮外尋常ならざるその物言い、甚だ不敬の罪なり、とされてしまい、故郷讃州にて蟄居仰せつけられた、という。

 しかし、後日(ごにち)のこと、今度は将軍家御不例の砌、再び召喚されて江戸城内に召されたのであったが、今度(このたび)は、診察申し上げると直ぐ、御薬を処方し差し上げたところが、即座に平癒なされ、直ちにかつてあった禄を再び与えよ、とのお沙汰があったのだったが、全庵は、老衰なればとて、これをお断り申し上げる旨、申し出た。そこで、将軍家は、全庵が座敷内にての歩行も不如意なる様を実見せられておられたため、特に桑の木で出来た杖を下賜なされ、本人の代わりに息子の文哲に禄を賜わられた。

 今、長尾家では、この桑の杖並びに、当時の林大学頭より、杖下賜の砌、添えられた文(ふみ)「桑杖記」が伝えられ、家宝としている。以上の出来事は何れの御代のことであったか、当代の長尾文哲の祖父の逸話と伝えられる。

君の腸の中で

僕は橙色の花になつて猫の腸(はらわた)の中にぎゆつと詰つて 只管 午睡を貪つてゐたい氣が ずつとしてゐる――

2009/10/08

エディプス・コンプレクス

内臓に屹立するファルス――これは男系社会の愚劣な妄想である――眼を突くエディプスはもっと違う形象ではないか?

*僕は最近、エディプス・コンプレクス自体をフロイトという保守的夫系社会の創り出した非科学的精神分析であると感じるようになったのだが、同時に女好みのパラ・パラレルなユング的世界(夢を積極的未来予知性とするシャーマン的認識において)も、エセだという気がしてきている。

その折衷案みたような原母に切断されるファルス――これが――「口裂け女」の総ての正解であるような分析は、噴飯ものである気がずっとしているのだ――

空気の香り

いい香りじゃないか――

僕は 長いこと 今日のような 清々しい空気を味わうことがなかった――

僕は「つひ逢はざりし」あなたと――

この「気」をかいでみたかった――

耳嚢 妖氣不勝強勇に事

「耳嚢」に「妖氣不勝強勇に事」を収載した。

 妖氣不勝強勇に事

 土屋侯の在所、土浦の家士に小室甚五郎といへる者有しが、飽まで強氣(がうき)にて常に鐵砲を好み、山獵(やまれふ)抔を樂けり。土浦の土俗呼んで官妙院と呼狐あり。女狐をお竹と呼。稻荷の祀(やしろ)など造り右兩狐を崇敬するもの有けり。或時甚五郎右雌狐お竹を二ツ玉を以て打留、調味して勸盃の助となしける。土浦城下より程近き他領百姓の妻に右官妙院狐付て、樣々に口ばしり甚五郎を恨罵りける。其夫は勿論村中打寄て、こは道理ならざる狐かな、甚五郎に恨あらば甚五郎に社(こそ)可取付に、ゆかりなき他領の者に付て苦むる事と責問ければ、答ていへるは、我雌を殺し喰へる程の甚五郎にいかで可取付や、土浦領へ入さへ恐ろしきまゝ、汝が妻に取付たり、何卒甚五郎を殺し呉よと申ける故、土浦領に知音ある者申遣ければ、甚五郎此事を聞て、憎き畜生の仕業かなとて頭(かしら)役人へ屆て右村方に立越、不屆成畜生、他領の人を苦む不屆さよ、爾々落ざるに於ては、主人へ申立、百姓等が建置し社(やしろ)をも破却し、縦令(たとひ)日数は延候共、晝夜精心を表し官妙院をも可打殺と大きに罵り、彼社へも行て同じく罵りければ、早速狐落て其後は何のたゝりなしとかや。

□やぶちゃん注

・「強勇」「がうゆう」と読む。剛勇。兵(つわもの)。

・「土屋侯」常陸国土浦土浦城(亀城)城主。城は現在の茨城県土浦市中央1丁目にあったものが復元されている。城主が度々変わったが貞享4(1687)年に土屋氏が再度城主(先々代も同族)となって以降、安定した。

・「二ツ玉」筒に弾丸を二発込めること。一種の散弾と考えてよい。

・「調味して」漢方系サイトを調べると、民間療法の一つとして寒・熱瘧・狐魅を主治するものとして狐の肉を用いるとあり、また広く蠱毒を解くものとして、狐の五臓と腸を通常の肉類と同じように処理して五味を加え「キツネ汁」として食すとか、キツネの肉を焼いて食す、という記載がある。強烈な臭みがあると思われるが、甚五郎ならば焼いて食ったかも知れない。とりあえず訳は穏やかに鍋としておいた。

・「勸盃の助」酒の肴。

・「社(こそ)」底本ルビ。

・「頭役人」上司。

■やぶちゃん現代語訳

 妖怪も剛勇には勝てぬという事

  土屋侯の御在所、土浦城家臣に小室甚五郎という者がおったが、いたって気が荒く、常日頃から鉄砲撃ちを好み、山野に狩猟などをなすを楽しみとしておった。

 時に、その国境辺りには、土浦の土民が官妙院と名付けた狐がおった。その妻の狐もお竹と呼ばれておった。土民の中には稲荷の祠なんどを建てて、この二匹の狐を祀る者もおった。

 甚五郎は、ある時その、お竹狐を二つ玉で仕留め、捌いて、鍋で煮込んで、酒の肴にし、何事もなく一匹ぺろりと平らげてしまった。

 すると、土浦城下にほど近い、他領の百姓の妻に、殺されたお竹の夫である官妙院狐がとり憑き、様々なことを口走り、甚五郎を恨み罵ったという。その夫は勿論のこと、村中の者どもが集まって、

「貴様は、訳の分からぬ奴じゃな! 甚五郎に恨みがあるなら、甚五郎に憑くべきじゃに、縁も所縁もない他領の者に取り憑いて苦しめるとは!」

この理不尽なる憑きようを責め立てたところ、狐が言うことに、

「……我が妻を殺して食ってしまった程の甚五郎に……どうしてとり憑くことなんぞ、出来ようか!……それどころか、奴のおる土浦領へ脚を踏み入るるさえ恐ろしゅうて……そいでお前の妻にとり憑いたじゃ……どうか……憎っき甚五郎を……殺してくれい!……」

 これを聴いていた者が、土浦の知り合いにこれを話したところ、それを甚五郎本人が聴き及んで、

「憎っき畜生の物言いじゃ!」

と怒り心頭に発し、狐成敗の事、頭役人に届へ出、右領外の村方に至り、官妙院狐がとり憑いた女に向かうと、

「不届きなる畜生! 縁も所縁もなき他領の者を苦しめるとは不届き千万! さてもさてもその女から離れずとならば、主君土屋侯に申し上げ奉ってお許しを承り、土民らが建てたる祠を破却致し、たとい日数(ひかず)の如何にかかろうとも、昼夜兼行精神堅固誠心を尽くして、官妙院! 屹度、貴様を撃ち殺す!」

と、散々に罵り、取って返して当の祠の前に馳せ寄り、祠も震えんばかりの勢いで同じように罵ったところ、たちどころに百姓女から狐が落ち、その後も何の祟りもなかった、というである。

昔僕たちは台風にどきどきした

「ザ・シェルター」のように

僕たちは どきどきしたものだ

どきどきして 何が悪い

そこから すべては始まるのだ

すべては どきどきしなけりゃ 始まらないのだ

2009/10/07

愛へ

ありがとう

でも残念なことに 確かに僕は臭いのだ

肉体としても人間としても――ね

有機交流

わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鑛質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです

これらについて人や銀河や修羅や海膽は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

けれどもこれら新世代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一點にも均しい明暗のうちに
   (あるひは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を變じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料といっしょに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたったころは
それ相當のちがった地質學が流用され
相當した證據もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大學士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を發堀したり
あるひは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます

大正十三年一月廿日  宮澤賢治

では

御機嫌よう

僕はやっぱり難しい交流電流は嫌いなんだ――

体からは

最近確かに恐ろしい加齢臭がするのだ――

ぼくは

何もわからずに

人々に農園にとりあえず水をまいた

僕はその程度に愚劣である

あなたは

擦れ違って――僕が気づいても――振り向きません

それも人生です――

耳嚢 南光坊書記を寫せる由の事

「耳嚢」に「南光坊書記を寫せる由の事」を収載した。

 南光坊書記を寫せる由の事

 予が元へ來りし八十餘の老翁、南光坊書記を爲せる由にて持來りける間、寫記(うつししるし)し。

[やぶちゃん注:以下は、ビジュアルに底本に近いものを示すために、右から左へ縦書きになるように表示してある。]

人 前 後 今

身  \│/

精 善―生―一

気  /│\

不 見 安 知

亂 急 越 法

也。 \│/

慎―度―前

   /│\

  立 無 治

  悪 仏 善

   \│/

  悟―心―一

   /│\

  起 同 止

□南光坊書記配置補正

[やぶちゃん注:以下は、ビジュアルに底本に近いものを示すために、右から左へ縦書きになるように表示してある。底本の最終行は明らかに配置が悪い。縦一行の字数と意識的に合わせてある以上、綺麗に並べるべきであろう。また最終行末の句点も私には不自然に思われるので排除した。]

謂 前 後 今

   \│/

人 善―生―一

   /│\

身 見 安 知

精 急 越 法

   \│/

氣 愼―度―前

   /│\

不 立 無 治

散 惡 佛 善

   \│/

亂 悟―心―一

   /│\

也 起 同 止

□南光坊書記やぶちゃん解読書き下し文

[やぶちゃん注:これは一種の判じ物で、最初の三行は、それぞれ縦三字横三行の九字を、線に従って右上→左下・左上→右下・中央上→中央下・右中央→左中央へと読み、それを同じように下の二箇所でも行って訓読するようになっている。それに従って書き下す。]

今生見て 前世知る 後生安し 一生善

法度立て 急度治る 越度無し 前度愼

善心起て 惡心止る 佛心同じ 一心悟

人身精氣 散亂せざるを 謂ふものなり

□やぶちゃん注

・「南光坊」南光坊天海大僧正(天文5(1536)年?~寛永201643)年)のこと。安土桃山から江戸初期にかけての天台宗の僧。南光坊天海、智楽院とも呼ばれる。諡り名は慈眼(じげん)大師。徳川家康・秀忠・家光三代に渡って強力なブレーンとして政策参画した。武蔵川越喜多院・日光輪王寺の再興、寛永寺開基、日本初の大蔵経版本を計画した(刊行は死後)。その享年は135歳とも言われ、明智光秀=天海説等、出自共に極めて謎めいた人物である。

・「南光坊書記」本偈(染みたもの)の以下の訳は私の全くの思いつき我儘勝手自在訳である。御信用なさらぬように。また、是非とも誤訳の御指摘をも乞うものである。

■やぶちゃん現代語訳

 南光坊天海の書き記したものを寫したものとの事

 たまたま私の許へ訪ねてきた八十余りの老翁が、これは南光坊天海の書き記したものを寫したものと称して持ち来ったので、とりあえず面白いものなので、ここに写し記した。

現世の生き様親しく見れば

 己の前世も確かに知れる

  自然 後生も安きは必定

   されば三世一生悉く善

法度を厳しく立ったれば

 きっと不正は正さるる

  自然 落ち度は悉皆無(しっかいむ)

   されば元より慎み安心(あんじん)

心底 善を起(た)ったれば

 悪心全て止むるもの

  自然 仏の心と同じ

   されば一心悟達の境地

これはこれ

 人の精気の在りようの

  自然 散り乱れぬ法を

   謂うたものなり

耳嚢 和國醫師僧官起立の事

「耳嚢」に「和國醫師僧官起立の事」を収載した。

 和國醫師僧官起立の事

 後小松院の御宇、半井(なからゐ)驢庵事和朝の醫師僧官の始のよし。右は最勝王經天女品(ぼん)に、聊沐浴するの藥劑有し、其比は右の經文比叡山の佛庫に封じあるを、閲見の望ありて奏聞ありし故、叡山へ敕命ありしに、俗躰の者拜見を禁じければ、半井驢庵法躰して僧官を給はり、右最勝王經を一覧致しけるとかや。往古はかゝる事もありしやと見ゆ。最勝王經の藥法、強て利益あるものにもあらずと思ふ由、さる老醫の物語なりき。

□やぶちゃん注

・「起立」は「きりふ(きりゅう)」と読む。事始・創始の意。

・「後小松院」室町時代北朝最後の第6代天皇にして歴代第100代の後小松天皇(永和3・天授3(1377)年~永享5(1433)年)。在位は永徳2・弘和2(1382)年~応永191412)年。

・「半井驢庵」諸注・諸記録を参照すると、代々医師の家系であった半井家には「驢庵」を号する習慣があり、澄玄明親(あきちか 生年不詳~天文161547)年 初代驢庵)・瑞策光成(あきちか 大永2?(1522)年~慶長元(1596)年 二代驢庵・明親の子)・瑞桂成信(なりのぶ 瑞策の子か。天文101582)年に瑞策と並んで名が記録にある)・瑞寿成近(生年未詳~寛永161639)年 三代将軍家光侍医にして典薬頭)等、複数存在する。元祖澄玄明親は永世年間(15041521)、中国の明の皇帝武宗が病を得て、後柏原天皇の命を受け、渡中、治療を施して、美事治癒させた。帰国の際に、驢馬を贈られたことからかく号したという。しかし、後小松天皇の御代では4代も前で、全く合わない。スーパー・ドクターとしての驢庵伝承は各地に偏在するが、その中でも、誤伝に類するものである。

・「僧官」朝廷から僧に与えられる官職。僧正・僧都・律師の僧綱(そうごう)。これに対応する僧位として、それぞれ、僧正に法印大和尚位(法印)・僧都に法眼和上位(法眼)・律師に法橋上人位(法橋)が与えられた。

・「最勝王經天女品」「最勝王經」は大乗経典の一。全10巻。「金光明経」を唐の義浄が漢訳したもの。奈良時代には護国三部経の一として尊ばれた密教系経典。岩波版長谷川氏注に、その「大弁天女品第十五之一」洗浴の香薬三十二味の名がある、とする。

■やぶちゃん現代語訳

 本邦最初の僧医事始の事

 後小松院の御代、半井驢庵なる人物が、本邦に於ける僧官位を持った医師の最初であるとのことである。「最勝王経」天女品には、少しばかりではあるが、沐浴して効あるとする薬剤の記載があったが、当時、本経は比叡山の仏庫の奥深くに封蔵されておった。後小松院は、この記載あるをお聴き遊ばされて、これを是非とも閲見したいとお望みになられ、叡山へ勅命が発せられたのであるが、叡山側は、俗体の方には拝見を禁じておりますれば、との返答であった。そこで後小松院様は即座に医師僧官職を新たに設ける旨の勅命を発せられた。これによって、医師半井驢庵は法体となって僧官位を賜り、その「最勝王経」を親しく閲覧致した、ということである。古えには、このような意外な事実もあったのであろうかとも思われる。が……

「……無理矢理くりくり坊主になんぞにさせられて、半井殿が有難く拝読なされたという「最勝王経」の薬方、私めもその写しを拝見致いたが、……まあ、大して効き目があるもののようにも、見えませなんだがのう……」

とは、私の知り合いのある老医の話であった。

2009/10/05

「こゝろ」は「パイドロス」である――今朝の夢 又は 霊言

「こゝろ」は「パイドロス」である――

今朝、目覚める瞬間、誰かが僕にこう囁いたのだ――

これぞ 否 これのみぞ 霊言――

何故 今まで気づかなかったのか――

先生はソクラテスではないか!

私はプラトンその人ではないか!

耳嚢 淨圓院樣御賢德の事

「耳嚢」に「淨圓院樣御賢德の事」を収載した。

 淨圓院樣御賢德の事

 

 吉宗公の御母堂樣は、淨圓院殿と稱し奉る。其御出生を承るに、至て卑賤にて、御兄弟等も紀州にて輕き町家の者なりしが、吉宗公御出世に付、淨圓院樣の御甥巨勢(こせ)兩家共五千石の高を賜り、御側御奉公に被遣しとかや。然るに、淨圓院樣至て御篤信にて、所謂婦中の聖賢ともいふべき御行状のよし。吉宗公御孝心にて、日々爲伺(うかがひのため)御容躰に爲入(いらせられ)侯處、御歸の節は、三萬石の節を御忘被遊間敷(まじき)と常々被仰候由。巨勢兩家五千石高に被仰付侯節、將來御當家勤仕(ごんし)の者又紀州より御供の者は如何樣にも御取立可然侯へ共、巨勢兩人は元來町人の儀、御身分の故を以御取立の儀、御國政の道理に當り不申、難有とは不被思召由、御異見有し故、流石、吉宗公にも殊の外(巨勢御取立の節)御困り被遊侯由。尤一旦被仰渡も有之上は、今更御改(あらため)も難成(なりがたき)事に付、此上右兄弟の者御役筋決(けつし)て不被仰付、只今の姿に被差置被下候樣いたし度、倅共の代に至り其器に當り候はゞ如何樣にも被召仕度(めしつかはされたき)段願ひ故、伊豆守兄弟共只奧へ相詰候迄にて、一生御役は不勤(つとめざる)よし。且一位樣よりも度々御對面の儀被仰遣(おほせつかはされ)候得共、輕き身分より結構に成候儀、歴々の御前へ出候身分に無之由、御斷被仰上(ことわりおほせあげられ)、漸々(やうやう)西丸樣より御取持にて一度對顏有しが、始終遙(はるか)の御次にのみ入らせられ、御挨拶等も御近習の女中衆へ御挨拶のみにて、甚敬憚(けいたん)の御事なりしとなり。

 

□やぶちゃん注

・「淨圓院」於由利の方(明暦元(1655)年~享保111726)年)の落飾後の法名。紀州徳川光貞の側室で吉宗の生母。公式な記録では紀州藩士巨勢利清の長女とされるが、本文でも匂わせるように実際には百姓の出であるらしく、紀伊和歌山城に下女奉公に上がっていたところに光貞のお手が付き、貞享元(1684)年に吉宗を出産している。宝永2(1705)年の光貞没後、落飾、吉宗将軍就任の2年後である享保3(1718)年になって和歌山より江戸城二の丸へ移っている。

・「巨勢兩家」浄円院の生家とされる巨勢家の浄円院の兄弟二人。底本の鈴木氏の補注には、浄円院の甥である巨勢至信(ゆきのぶ)、浄円院の弟である由利(よしとし)が享保3(1718)年『幕臣に取り立てられた。各五千石を領』した、とある。

・「三萬石の節を御忘被遊間敷」吉宗は元禄十(1697)年に綱吉より越前葛野藩三万石の藩主に初めて封ぜられた。それから8年後の宝永2(1705)年10月に紀州徳川家5代藩主となり、その2ヵ月後の同年121日に江戸幕府将軍職に就いている。

・「將來御當家勤仕の者」岩波版は「將來」を「從來」とする。訳ではそちらを採る。

・「(巨勢御取立の節)」底本ではこの右に補填した版本を示す「(尊經閣本)」という注記がある。文脈から一目瞭然で不要であるから、訳では省略した。

・「伊豆守」前注の巨勢至信のこと。

・「一位樣」吉宗の死後の別称。吉宗は寛延4(1751)年6月20日に逝去するが、その一年後の寛延5年6月10日に朝廷より正一位太政大臣を追贈されていることから。

・「西丸様」吉宗が寵愛した側室於久免(元禄101697)年~安永61777)年)。紀伊藩士稲葉彦五郎定清の女。芳姫の生母。院号は教樹院。同郷好みで、浄円院とは関係が円満であったか。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 浄円院様御賢徳の事

 

 吉宗公の御母堂様は浄円院殿と申し上げた。その御出生を承れば、実は至って卑しい身分の出で、その御兄弟等も、かつては紀州の町屋の、如何にも低い町人であったのであるが、吉宗公御出世に伴い、浄円院様の甥ごの巨勢至信(こせのゆきのぶ)・浄円院様弟君由利御両家とも、それぞれ石高五千石を賜り、同時に御側御奉公を仰せつけられたとかいうことである。

 しかし、この浄円院様というお方、至って信義に篤い、所謂、「婦中の聖賢」――婦人の中の稀なる聖人にして賢者――とも称せらるべきお行いを貫かれたお方であらせられたという。

 例えば、――吉宗公は御孝行に厚く、日々浄円院様の御座所である二の丸へお成りになられ、御母堂の御身体(おからだ)の御調子お伺いのため、お訪ねになられたのだが、その御帰りの際、浄円院様は吉宗公に向かわれて、

「三万石のあの頃の御事、決してお忘れ遊ばされませぬように。」

と、常々仰せられた、ということである。

 また、――浄円院様御兄弟の巨勢両家に五千石を仰せ付けられた折りのこと、浄円院様は、

「従来より御当家に勤仕(ごんし)しております者、又、この度、はるばる紀州よりお供して参上致しました旧知の御近衆の者は、如何様にも御取り立てになられて然るべきことと存じまするが、この巨勢両人は、元来、町人にて、あなたさまが上さまとなられた、その御身分故に、この下賤の者両名を格別に御取り立てなさるというは、これ、国政の道理に当たらざること、と申せましょうぞ。そのようななさり方は、決して、上さまご自身、有難き正しいこととは、当然、お思いになられて御座しゃらぬことと存じます。」

と、鮮やかにきっぱりと御意見なさったため、流石に、これには吉宗公も殊の外、御困(ごこう)じ遊ばされたということである。そこですかさず、浄円院様は、

「尤も、ひとたび上さまが仰せられお言い渡しあられた上は、今更、お改めになることも成しがたきこと――なればこの上は、向後右兄弟の者、御役筋への任官は決してなさらず、このまんまの、ただ傍らの武士巨勢至信、巨勢由利として差し置かれ下さいますように――その両名の倅どもの代にでもなり、その倅どもの人品才覚に政(まつりごと)に用いるべき何ものかを、万一、見出され遊ばされるようなことでもあれば――その時には、どうか如何様にも召し使ってやって下さいますように。」

との堅き願い出故、後、巨勢伊豆守至信と巨勢由利の兄弟は、ただただ、奥向きに身を置いているというばかりで、生涯、御役を勤めずに終わった、ということである。

 且つまた、――一位吉宗様から、たびたび本丸にての親しき御対面に付き、仰せ遣わされられたので御座ったが、浄円院様は、

「私めは、低き身分の出でありながら、偶々かくありがたい立場に相成りまして御座いますればこそ、貴きお歴々の御前へ参上致すような身分の者にては御座いませねば。」

と、ずっとお断り申し上げておられた。それでもやっと、ご側室の西丸様のお仲立ちにて、一度だけ格式に則った将軍家父母御対面の儀式が執り行われたのであるが、その折も、浄円院様は始終遙か離れた次の間にお入りになられただけで、そこから全くお出になられることなく、御挨拶の折にも、端下の、御近習の女中衆へご挨拶するばかりで、終始、殿中の諸人に敬意を払われ、万事憚って謙虚にお控えになっておられた、ということである。

2009/10/04

こゝろ ルーツ 康熙字典

中文サイト康熙字典網上版より。このサイト、「私」のように迂闊にも知らなかった。

Koukikokoro

耳嚢 仁君御慈愛の事

「耳嚢」に「仁君御慈愛の事」を収載した。

 仁君御慈愛の事

 有德院樣の御人德は、承るごとに恐れながら感涙催しける事のみ也。享保御治世の頃、小出相模守といへる御小姓(おこしやう)ありて、思召にも叶ひ樣子能く勤たりしが、京都辰巳や公事の取持いたし、不義の奢抔なし、不愼の事多く、御仕置被仰付ける事也。右御吟味の初に、相模守不埒の趣も御存有しが、聊御氣色に顯れず、御酒の御相手をも被仰付、相模守は少しも心付ず醉狂常の通り也しに、御次より御側衆罷出、相模守事御表御用有之よし申候故、則相模守は御次へ下りけると也。公は御盃を被差置、最早酒をとり候樣にとの上意にて、不殘御膳を下げ候故、御近所廻りも何か譯も有之事と、一同恐入ていと無興(ぶきよう)なりしに、公は御着座の上、御近侍廻りを御覧被遊、相模守事不便の由にて御落涙被遊けると也。積惡の者をもかく御憐の事、御仁惠の程難有事也と、去る人語ひ給ひけり。

□やぶちゃん注

・「有德院樣」八代将軍徳川吉宗の諡り名。

・「小出相模守」小出広命(ひろのぶ)。底本と岩波版の注を総合すると、「寛政譜」によれば、享保2(1717)年2月9日に吉宗の御小姓となり、石高三百石、その後、『十一年六月三日遺迹を継、十六年十二月二十三日従五位下相模守に叙任』したが、元文5(1740)年3月22日に『つとめに応ぜざるの所行あるのむね聞こえしにより、青山大膳亮幸秀に召預け』となった。延享元(1744)年没。彼の父半太夫は紀州家家臣で、享保元(1716)年に幕臣となった吉宗旧知の間柄であったことから、格別の愛顧を受けたものであろう。

・「京都辰巳や公事の取持いたし」訴訟の過程を、めだか氏のHP内、読書日録の中、松井今朝子「辰巳屋疑獄」の小説梗概の事件の要所部分を引用させて頂く。大阪の炭問屋『辰巳屋は去年三代目久左衛門が還暦を迎えて隠居し、四代目の当主久左衛門が跡を継いだが若干20歳の青年であった。このため隠居した三代目久左衛門改め休貞が、実質的に店を差配し現当主はお飾りに過ぎなかった。休貞には男3人と娘一人の4人の子が有ったが今家にいるのは長男の現当主と三男茂兵衛の二人である。長男は遊び好きで商売に身が入らないのに対し、三男の茂兵衛は10歳の頃から師匠について学問を始め、12歳で師匠に何も教えることが無くなったいわれるほどの神童であった。』『休貞はこの茂兵衛が跡を継いだら辰巳屋はますます発展するだろうと良く口にしたが、長男を差し置いて三男が跡を継ぐのは難しい。18歳で茂兵衛は同業の炭問屋木津屋に養子入りし木津屋吉兵衛を名乗る。』『木津屋はもともと炭問屋であったが吉兵衛の代になってから、質屋に手を広げ担保を取って金を貸すようになる。本業の炭問屋は次第に手薄になる。しかも貸す金の資金源を辰巳屋に求めるようになる。辰巳屋は隠居の休貞が死に四代目の当主が身体をこわしている。跡継ぎは娘が一人しかいない。ここからお家騒動が発生する。辰巳屋、木津屋が大阪の東西両奉行所を巻き込んで訴訟合戦を展開、役人への賄賂も絡んで大疑獄事件に発展する』(一部衍字と思われるものを除去した)。但し、本作は小説であるから、事実との齟齬があるかも知れない。その後のことは、岩波版長谷川氏の注に依ろう。本件訴訟に絡む贈収賄事件の結末は、元文5(1740)年に下され、茂兵衛改め『吉兵衛は遠島、大阪町奉行用人の馬場源四郎は収賄で死罪、町奉行稲垣淡路守も免職、関係者が処罰され、江戸でも獄門・死罪・追放等に処せられた者が出た』とする。内山美樹子氏の論文「辰巳屋一件の虚像と実像――大岡越前守忠相日記・銀の笄・女舞剣紅楓をめぐって――」(ネット上でPDFファイルにより閲覧可能)には「大阪市史」第一巻(大正2(1913)年大阪参箏会・幸田成友等編)から「幕吏の汚行」の例として掲げたものを、以下のように引用している(以下、割注は【 】で示した)。

南組吉野屋町に富商辰巳屋久左衛門なる者あり、家産二百万両手代四百六十人を有す。先代久左衛門の弟木津屋吉兵衛辰巳屋の財産を横領せんと欲し強ひて養子当代久左衛門の後見となれり。久左衛門及手代新六等之に服せず起って抗訴を試みしに吉兵衛豫め東町奉行稲垣種信の用人馬場源四郎を通じて、厚く種信に賄ふ所ありしかぱ、彼等の訴状は一議に及ばず却下せられ、剰へ新六は牢獄に投ぜられたり。是に於て同志の手代江戸に之きて評定所門前の訴状箱に願書を投じ、関係老一同の江戸召喚となり、数回の吟味を経て種信・源四郎・吉兵衛の罪状悉く露顕し、元文五年三月十九目、幕府種信の職を奪ひ、持高を半減し、且つ閉門を命じ、源四郎を死罪に、吉兵衛を遠島【○九月減刑して江戸十里四方及五畿内構となる、】に処し、其他江戸大阪の士人連座して罪を被る者多く、松浦信正【○河内守】新に東町奉行に任じ、又西町奉行佐々成意【○美濃守、元文三年二月松平勘敬に代る、】は吉兵衛与党の言を容れて、手代新六等の訴状を却下したるにより、一時逼塞を命ぜられたり。(六〇五頁)

また、小出相模守についての叙述が論文本文にも現れる。以下、該当箇所前後を引用する。多数の人名が登場するが、詳しくは該当論文をお読み頂きたい。

五年一月中旬以後、入牢となった吉兵衛を宿預けに持ち込み、罪を軽くするために、手代達により、江戸町奉行所関係及び幕臣等への贈賄工作がなされたことが、三月十五日の、知岩、正順逮捕をきっかけに明らかにたり、申渡覚にみる如き、多くの処罰者を出すに至った。小出相模守などは『【自宝永四年至寛延三年】大阪市中風聞録』によれば「紀州より御馴染之御小姓衆……別て御出頭」であったが「御役柄不相応之儀有之……青山大膳亮殿へ御預け」を申渡された。父(子?――翁草)が改易になっているので、当人も最終的に御預けで済んだどうか。『銀の笄』では小池相模守という「はきゝの御旗本」が知眼和尚を通じ吉兵術から賄いを受け、切腹を仰付けられている。

 南町奉行所の与力福島佐太夫の場合、申渡によれば、吉兵衛の手代から遊所での饗応を受け、金も一両一分受け取ったようである。いずれにせよ主犯の馬場源四郎のように、多額の金品を受けた訳でないが、収賄の額は些少でも、今回の一件の「御詮議に拘り候故、諸事可相慎処、背神文振舞」とあって死罪の判決を受げている。御番医師丹羽正伯老は小普請入り、さらに当の北町奉行所石河土佐守組の与力が二人、吉宗の側近加納遠江守の家来が一人、御暇となった。北町奉行所の二人の与力などは、忠相の配下にいたこともあろうし、吉兵衛を江戸へ召喚してから僅か二ヶ月の間に、身内の江戸町奉行所、幕臣等に、これほどの汚染が広まったことには幕府関係老も暗然とならざるを得なかったであろう。

と解説されている。引用文中の『銀の笄(かんざし)』は本事件を扱った実録小説で元文4~5(173940)年に版行されたもので、辰巳屋騒動は他にも歌舞伎「女剣舞紅楓」等に潤色されている。「はきゝの御旗本」の「はきき」は「幅利き」で、羽振りがよいことを言う。以上、何せ、辰巳屋久左衛門は伝説の豪商でその資産2000石相当、そこから金を吸い上げ、ひいては乗っ取りを画策する木津屋吉兵衛も半端じゃあない。このたかが町屋の商人の争いが、されど幕府要職をも巻き込んだ大泥沼と化し、累々たる死体の山が出来上がる――この事件、想像を絶する展開と相成ったのであった。

・「御側衆」将軍の側近中の側近。将軍の就寝中の宿直役を始めとして、SPとしての警護全般、将軍就寝・御不例時には指揮・決裁を行う権限さえ持っていた。老中とほぼ同等の将軍諮問機関で、特に御小姓の管理監督権は彼等にあった。

■やぶちゃん現代語訳

 仁君吉宗公御慈愛の事

 有徳院吉宗様の御仁徳は、そのお話を承る度に、お畏れながら、感涙を催すことばかりである。例えば――

 享保の御治世の頃、小出相模守広命という御小姓があった。有徳院の思し召しにも叶い、まめにお勤致いておったのだが、公(おおやけ)を巻き込んだ京都辰巳屋の事件で収賄致し、それに関わって、不義と見做されても仕方がない奢り高ぶった行跡など成し、他にも不謹慎なる行い数多く、結局、御公儀決裁の上、御仕置き仰せつけらるることと相成ってしまったという出来事があった。

 これに付き、御公儀方の御吟味がまさに始まっておった、その時、有徳院様は一連の相模守不行跡につきても、実は既にご存知であらせられたのであるが、それを聊かもお顔に表わされることもなく、何時もの通り、小出に御酒のお相手を命ぜられたのであった。

 その時の相模守は、愚かなことに、自身に裁きのお沙汰が近づいておることに全く気付くことなく、常の通り、如何にも酔うた興に任せての、如何にも楽しいご相伴に与(あず)っておったのだが――突然、控えの間から御側衆が参上致し、相模守に急遽、よんどころなき御公務これあり候に付き、ご退出あられよとの達しこれあり、相模守は御側衆と共に、控えの間へと下がって行ったという。――

 ――すると有徳院様は御盃をお置きになると、

「……最早……酒を下げよ……」

との仰せにて、うち広げてあった宴席の御膳を一切残らず、お下げさせ遊ばされた。

 件の事件に付きては、極々内密に内偵・御吟味がなされており、その時、事情を知らなかった殆んどの御近習・供廻りの者どもは、酒宴のお取り止めの急なことに、何か我らに御不快の本(もと)やあらんかと、一同、畏れ入って、お部屋内、水を打ったように静まり返っておった。

 ――すると、有徳院様は上座にお戻りになってお座りになられ、ゆっくりと御近習供廻りの者どもを見渡されると、一言、

「……相模守が事……不憫……」

とのみ仰せあって、後は落涙遊ばされた、のであった、と。

「……積悪の業者(ごうじゃ)であっても、かくまでお憐れみになられたこと、その深い御仁徳御慈恵の、なんと有難き事か……。」

と、ある人が、私にお話に下さったことであった。

2009/10/03

耳嚢 やろかつといふ物の事/ちかぼしの事

「耳嚢」に「やろかつといふ物の事」及び「ちかぼしの事」を収載した。

 やろかつといふ物の事

 

 蠻國産の由。やろかつといふ物、ちいさき蓮華を押堅たる樣成もののよし。いづれの御時にか有し、御簾中(れんちゆう)樣御産の時安産の呪(まじなひ)たる由。器に水を盛、彼品を入置しに、御産しきりに隨ひ右器の内を廻り、御安産の時に至り開き候よし。又御血治り候に隨ひ元の通りに成ける。奇成ものの由、奧勤(おくづとめ)いたせる老人の物語りゆへ爰に記す。

 

□やぶちゃん注

・「やろかつ」不詳。安産の呪物としてはタカラガイ(コヤスガイ)が有名で、その他、臼や箒、ある種の霊石、猿の手骨等を知るが、このような物体は聞いたことがない。一読、所謂、「ちいさき蓮華を押堅」めたという形状から、腹足類のサザエ等に見られる炭酸カルシウムの蓋を想起したが、これは酢ならまだしも水では運動しないし、開いたり元の形状に戻るというのは当たらない。次に考えたのは中国茶で見かける球状に干し固めた毬花茶(まりはなちゃ)の類で、これは恐らく水分を吸収する際に動くように見えるし、美しく開く。しかし、やはり元には戻らない。識者の御教授を乞うものである。叙述内容からして、鎮衛は実見していない。

・「蓮華」スイレン目ハス科ハス Nelumbo nucifera のこと。マメ目マメ科ゲンゲ Astragalus sinicus をも指すが、わざわざ「ちいさき」と言っている以上、ハスの開花前の花若しくはハスの実を言っていると思われる。形状の特異性から言えば、ハスの実、あの蜂の巣状の花托の謂いであろう。

・「押堅たる」岩波版では「ほしかためたる」とある。

・蠻國産:南蛮渡来。言葉の響きや漢字を全く当てていない点からは、少なくとも名称はポルトガルかオランダ語由来であろう。

・「簾中」一般には貴人の正妻を言う語であるが、岩波版で長谷川氏は特に『将軍後継者の妻をいう』と記しておられる。

・「奧勤」大奥勤め。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 「ヤロカツ」という呪物の事

 

 南蛮渡来の品です、という。「ヤロカツ」というそれは、小さな蓮花の実を押し固めたようなものです、という。幕府御創成以来、何れの御時からであろうか、判然と致しませぬが、次の御世の将軍家たらんとする御方の、御台所様御出産の折りの、安産のおまじないとして必ず用いられて参りました、という。その呪法はと言えば、まず器に水をたっぷりと入れ、これをその中にそっと入れおくと、お産が進むに従い、この物、自然とその器の中をくるくると気持ちよさそうに泳ぎ廻りまする。さうして無事お子様がお生まれになったその瞬間、ぽんと、花のように開きまする、という。その後、産後に出血が治まりになられるにつれて、再び投入する前の押し固めたような元通りの形となりまする。誠に、奇体なるもので御座いました、という由、奥勤めの経験があった老女が私に物語ったことがある故、ここに記し置く。

 

 

*   *   *

 

 

 ちかぼしの事

 

 近星出れば大臣の愁ひありと。俗説何による事を知らざりしに、曲淵(まがりぶち)氏の物語りに、何れの書にてやありけん其事を書しを見侍りき。老中抔病氣危急の時は、生干の鱚を御使して被下事定例也。生干は近く干す故、けふは近干の御使出しといふを、いつの此よりか唱へ誤りけんとの物語、面白き故爰に記す。

 

□やぶちゃん注

・「近星」月に有意に近く突然出現するように見える星。死・災厄(特に火災や兵乱)といった凶事の前兆とされ、古来、多くの歴史書や日記等にも記載が見られる。

・「曲淵氏」恐らく16条先の「微物奇術ある事」に話者として出る曲淵甲州、曲淵甲斐守景漸(かげつぐ)のことと思われる。以下、「朝日日本歴史人物事典」の曲淵景漸(享保101725)年~寛政121800)年)の項によれば、江戸後期の江戸町奉行で、『明和1(1764)年2月目付のとき、大坂での朝鮮通信使従者殺害事件の処理に当たる。同4年12月大坂町奉行のときは、大坂家質奥印差配所設置にかかわる。天明7(1787)年5月江戸町奉行のとき、江戸は米価高騰で市中が不穏な状況に陥ったが、曲淵は適切な対応を取らず、数日にわたり打ちこわしが各所で起きる。以前の飢饉では猫1匹が3匁したが、今回はそれほどでもないといったという風聞も立った。よって翌6月町奉行を罷免されたが、翌8年11月に公事方勘定奉行となる。天明の打ちこわしを惹起した対応を除けば、真に能吏であった』という詳細な記載が載る。鎮衛との、この話での接点は明和1(1764)年前後の目付の折であろう。鎮衛より一回り上の上司である。

・「鱚」スズキ亜目キス科キス属シロギス Sillago japonica 又はアオギス Sillago parvisquamis。漁獲量が減った現在では、淡白な高級干物であるが、当時でも贅沢品であったか。脂の少ない点、病気見舞いにはよいと思われる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 凶星ちかぼしの事

 

 月の近くに星が突如出現すると、当代の大臣にとって不吉なことが起こる、なんどとよく言われる。全くの俗説にして、如何なる謂われがあるのかも知らなかったのだが、曲淵甲斐守殿のお話に、

「どの書物であったか、さて、書名は忘れたが、その謂われを記したのを確かに見た覚えが御座る。それによれば、ほれ、老中など病気危急の際には、お上より、生干しの鱚を御使者に持たせて御見舞下されるのが定例で御座ろう? あの「生干し」というのは、獲ってすぐに干してすぐに降ろす、近日(きんじつ)干し、近日(ちかび)干し、「近(ちか)干し」故、『今日は近干しの御使者が出た』と言うたのを、いつの頃よりか聴き誤ったのであろう、というので御座った――」

と、まあ、何とも意外で面白きこと故、ここに記す。

ブログ・カテゴリ「こゝろ」創成 附・本体箱背

ブログ・カテゴリに「こゝろ」創成した。考えてみれば、僕はブログで「こゝろ」を語ることを意識的に避けてきたような気がする。しかし、それは僕が「先生」と等身大になりつつあるからではなく、ますます「先生」が僕の中で大いなる謎として増殖し続けているからである――

「もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向つて、研究的に働らき掛(かけ)たなら、二人の間を繋ぐ同情の絲は、何の容赦もなく其時ふつりと切れて仕舞つたらう。若い私は全く自分の態度を自覺してゐなかつた。それだから尊(たつと)いのかも知れないが、もし間違へて裏へ出たとしたら、何んな結果が二人の仲に落ちて來たらう。私は想像してもぞつとする。先生はそれでなくても、冷たい眼(まなこ)で研究されるのを絶えず恐れてゐたのである。」(上七より)

これは従来の解釈の謂いを出るものではない部分であろう。誰もが読み過してきた部分である。しかし、立ち止まって見るがよい。「私は想像してもぞつとする」のである。それは想像を超えたぞっとするような結果を齎すカタストロフだと、彼は言っていまいか? これは従来の解釈の範疇にあるような学生=「私」像に果たして収まるものであると言い得るのか? いや、この別な選択肢の映像の果てにある「先生」の姿は「想像してもぞつとする」ものであったのではなかったか?――こんなところから、僕の新たな謎は始まるのである――

「こゝろ」本体箱背

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2009/10/02

「こゝろ」箱 表紙

僕が愛する「こゝろ」である―― 

Kokorohako

「こゝろ」見開き 「あの」謎の円ではないか!

Mihiraki

「こゝろ」初版 「あの」気になるヘンな挿絵 伊上凡骨画

Kokorosasie  

 

 

 

 

伊上凡骨(本名:純蔵(純三) 明治8(1875)年~昭和8(1933)年) 徳島生。木版彫師。明治24(1891)年に上京、初代大倉半兵衛に師事、明治33(1900)年の「明星」の挿絵で注目された。水彩画や素描のような質感を木版画で表現するに巧みであった。竹久夢二の版画や漱石らの著作の装丁等で知られ、代表作に石井柏亭著「東京十二景」の挿絵がある(デジタル版「日本人名大辞典+Plus」等を参照した)。

悪いけれど、僕は「こゝろ」で唯一、ナンだか生理的にとっても厭なのは――この絵なのであった――きっと、そうして無視してきたこと自体に、大きな「こゝろ」の解釈の誤りが、あるのかも知れぬ――

「こゝろ」初版 見開き 「あの」ラテン語

 
 

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  Ars longa vita brevis.

 

・「アルス・ロンガ・ウィータ・ブレウィス」と読む。

ars は英語で art であるが、広く「技術」という意味である。

longus(長い)という形容詞が ars(女性・単数・主格)を修飾している。

・前も後ろも最後に動詞 est が省略されている。. "Ars longa est; vita brevis est."が本来は正規表現である。

vita は「人生、生活、命」という意。

brevis は「短い」を意味する第三変化形容詞 brevis の女性・単数・主格。

・普通のラテン語としてなら「技術は長く、人生は短い」と訳す。

・元はヒポクラテスの言ったギリシア語表現で、「アルス」(ギリシア語でテクネー)は「医術」のことで、「医術を習得するには人生はあまりに短か過ぎる」という趣旨の言葉であった。

・一方、この表現が英語に入ると、“ Art is long, life is short.” と訳されることになり、art  の意味が「芸術」と大衆に理解されることとなった。

・その結果として「芸術は長く、人生は短し」と訳されることが多い。 

 

参考:「山下太郎のラテン語入門」

Vita brevis, ars longa.

Ars longa, vita brevis. 芸術は長く人生は短い

   *

【2017年5月27日:全面改稿した。】【2020年1月20日:脱字を補正した。】

 

 

 

「こゝろ」初版本表紙の謎

Kokorohyousi  

 

 

 

 

       心
【荀子解蔽篇】心者形
之君也而神明之主
也【禮大學疏】總包萬
慮謂之心又【釋名】心
纖也所識纖微無不
貫也又本也【易復卦】
復其見天地之心乎
【註】天地以本爲心者

 

●やぶちゃん勝手自在書き下し文
       心
【「荀子」解蔽篇。】心は形の君なり、而して神明の主なり。【「禮」・「大學」疏。】總て萬慮を包む、之を心と謂ふ。又、【「釋名」。】心、纖なり。識る所、纖微も貫かざる無きなり。又、本なり。【「易」復卦。】復たは其れ、天地の心を見るか。【註。】天地に本を以て心を爲す者

僕はこの康熙字典からの引用を、秦恒平氏のように「こゝろ」の解釈の一助とすることに、意識的に避けてきたのだが――そういう回避が明らかに愚劣であったということはずっと前から気づいてはいたのだが――

――君――今も僕には「こゝろ」は汲めども尽きぬ迷宮なのだ……

本カテゴリ内の「こゝろ」初版本の各種画像は昭和49(1974)年日本近代文学館発行ほるぷ刊の復刻本を用いた。

 

――これは――かつて僕が愛し僕を愛した少女が僕に贈ってくれた「こゝろ」である――

 

和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類 獼猴 「岸の甚兵衛」注追加

ネットを検索する内、「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「獼猴」の猿引(猿回し)の「岸の甚兵衛」について、ネットを渉猟する内、幾つかの新知見を得たので、以下の通り、大幅に書き加えた(下線部が追加前の部分)。元は引用元のリンクが張ってある。

 「紀州の岸の甚兵衛、猿引の始めと云云」狙引甚兵衛(さるひきじんべえ)のこと。江戸前期、紀伊海士(あま)郡から出た猿引(猿回し)の棟梁。和歌山藩主の浅野幸長が命じて藩内の猿回しを配下とし、毎年和歌御神事の際には、供奉の列に加わったとされる(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の「狙引甚兵衛」の項を参照した)。「岸」とは単に海岸地方海士郡の地方名を意味するのか、若しくは後に彼らに与えられた苗字(岸甚兵衛)であったか。しかし、藩主じきじきに、失礼ながら猿引集団の組織と特権を与えたのは何故であろう? 「和歌山県立博物館」HP内の、歌山市和歌浦周辺で行われている徳川家康を祭る紀州東照宮の祭礼、和歌祭についての「コラム」記載の、主査学芸員前田正明氏の「3. 東照宮祭礼と猿引」の中に、絵図の分析をする中で『寛文5年(1665)頃には、後方の雑賀踊のすぐ後に、貴志の甚兵衛がいます。この貴志の甚兵衛は、城下近郊に住む専業化した猿引集団ですが、いつごろから和歌祭に参加するようになったかは不明です。』という叙述が現れる。これによって、「岸の甚兵衛」が、この頃には「喜志」という姓として認識されていたことが分かる。ここまでで私はお手上げになる。しかし一方、「岸甚兵衛」でネット検索をかけると、一人の近隣の人物がヒットするのである。それは高知県宿毛市の「宿毛市史」のHP内の、「中世編-戦国古城」の、天正3年、同市にあって落城した「来城」の城主の名である。勿論、この人物自体がよく分からないし、従ってこの和歌山の同姓同名と同一人物である証拠も皆無ではある。だが、同じページを見てみると、同じ年に落城した押ノ川城 (玄蕃城)城主であった押川玄藩なり人物が、後に伊勢の藤堂家へ仕えた、ともある。さすれば来城城主岸甚兵衛なる人物が、和歌山藩に流れていき、その末裔が同じ姓名を名乗って、このような職能集団となったとしても、強ち、おかしなことではないように思われるのである。これはとんでもない私の妄想であろうか? 識者の御教授を乞うものである。

2009/10/01

耳嚢 萬年石の事

 

「耳嚢」に「萬年石の事」を収載した。漢文部分の校訂と現代語訳に、正直、相当苦労した。誤読について、識者の御教授を乞うものである。

 萬年石の事

 

 品川東海寺は、公より修理を被加故、予勤仕(ごんし)に付、小普請奉行御目付抔と供に彼寺へ到る事あり。右禪刹は澤庵和尚の草創にて、大猷院樣深く御歸依ありし故、萬年石千年杉等の御舊蹟あり。或時右萬年石の由來を尋侍りしに、役者なる僧、澤庵の記を取出し見せける儘、寫置て後慰になしぬ。

 

   東海寺萬年石記

 

今玆寛永癸未三月十四日、左相府、見移臺座於此池沼之上。池有嶋、島有幽石。熟見之、無奇形怪状、不端險挺兮。若由醉号、栗里翁之石乎。或由醒兮、李德裕之石乎、皆不然。彼防風之朽骨乎、或於菟之白額乎。共不然。唯突兀而在草裡、痴兀而含德容。是世之求奇者、未知此石之所貴。偏得恬淡虚無之趣、面者谷神不死之體、如至虚極也、似守靜篤也。相君命侍臣曰、此石不可無名、各以所思聞焉。於此諸子雖有所思、非無所懼、斟酌相半也。時小堀遠江守政一、侍茶爐下。君有旨、政一即起向石、三呼萬年石。石三點頭矣。君下佳言曰、不疑是萬年石也。大度之一言以定天下、況於石乎。鳴呼石乎哉、石乎哉。入于臺覧一旦發光、而陟變改其觀。蓋爲萬之言也。未必以十千可限。凡數者始一而窮十、始十而窮百、始百而則窮千、始千則窮萬、以萬算則不知幾十百千萬億兆年。以此無窮、爲石之壽量。以石之壽量、此君之壽山、則累華頂萬八千丈、猶在麓者耶。以世計、則復不知其幾萬々世矣。村語以銘。曰、重於九鼎萬年石、釣命始驚、豈可輕、和氣一團無盡藏、以秋送復以春迎。

現住 澤庵宗彭記之

[やぶちゃん字注:底本では「東海寺萬年石記」が三字下げ、同「東海寺萬年石記」漢文原文全体が一字下げとなっているが、ブラウザの不都合を考え、上記の通りとした。]

□やぶちゃん「東海寺萬年石記」白文校訂

 

[やぶちゃん注:以下は、底本「東海寺萬年石記」部分を、同鈴木氏の注、更に岩波版「耳嚢」及び私の所持する1996年筑摩書房刊の「江戸名所圖會」巻之二所収の「万松山東海寺」の「万年石」の項の二本と校訂し、句読点を含め、私の判断で補正したものである。但し、筑摩版(ちくま学芸文庫版)は書き下し文・新字採用であるので、正字白文に読み替えて判断した。また、〔→ 〕は、校合した諸本又は一本が正しいとする表記を示す。何れを取ったかは、続く私の書き下し文で示す。最後の偈は読み易くするため、分かち書きとした。]

 

   東海寺萬年石記

 

今玆寛永癸未三月十四日、左相府、見移臺座於此池沼之上。池有嶋、島有幽石。熟見之、無奇形怪状、不端險〔→端然〕挺立。若由醉号兮、粟里翁之石乎。或由醒兮、李德裕〔→李悳祐〕之石乎。皆不然。彼防風之朽骨乎、或於菟之白額乎、共不然。唯突兀而在草裡、痴兀而含德容。是世之求奇者、未知此石之所貴。偏得恬淡虚無之趣、面者〔→而有〕谷神不死之體、如至虚極也、似守靜篤也。相君命侍臣曰、此石不可無名、各以所思聞焉。於此諸子雖有所思、非無所懼、斟酌相半也。時小堀遠江守政一、侍茶爐下。君有旨、政一即起向石、三呼萬年石。石三點頭矣。君下佳言曰、不疑是萬年石也。大度之一言以定天下、況於石乎。鳴呼石乎哉、石乎哉。入于臺覧一旦發光、而陟變改其觀。蓋爲萬之言也。未必以十千可限、凡數者始一而窮十、始十而窮百、始百而則窮千、始千則窮萬、以萬算則不知幾十百千萬億兆年。以此無窮、爲石之壽量。以石之壽量、此〔→比〕君之壽山、則累華頂萬八千丈、猶在麓者耶。以世計、則復不知其幾萬々世矣。村語以銘。曰、

 

 重於九鼎萬年石

 

 釣命始驚豈可輕[やぶちゃん字注:釣〔→鈞〕。]

 

 和氣一團無盡藏

 

 以秋送復以春迎

 

現住 澤庵宗彭記之

 

□やぶちゃん「東海寺萬年石記」書き下し文

 

[やぶちゃん注:以下は、前掲校訂の白文を岩波版「耳嚢」及び私の所持する1996年筑摩書房刊の「江戸名所図会」巻之二所収の「万松山東海寺」の「万年石」の項の二本(但し、これは同一親本によるものである。即ち、岩波版は「江戸名所圖會」と校合しているのである。但し、長谷川氏は『「江戸名所図会」三のものにより』とされているが、「二」の誤りであろう)を参考にしながら、私の判断で訓読したものである。基本的には漢文で記されたものであることを重視し、原則、音読を優先した。一部に読み易さを考えて読点を増やした。]

 

   東海寺萬年石の記

 

 今玆(ことし)寛永癸未(きび)三月十四日、左相府(さしやうふ)臺座を此の池沼の上(ほとり)に移さる。池に島有り、島に幽石有り。之を熟見(じゆくけん)するに、奇形怪状無く、端然梃立せず。若し醉ふがごとくんば、栗里翁(りつりをう)の石か。或は醒むるがごとくんば、李德裕の石か。皆然らず。あるいは防風の朽骨か、或は於菟(をと)の白額(びやくがく)か、共に然らず。唯、突兀(とつこつ)として草裡に在り、痴兀(ちこつ)として德容を含む。是、世の奇を求むる者、未だこの石の貴なる所を知らず。偏へに恬淡虚無の趣を得て、谷神不死の體(てい)有り、虚、極に至るごとく、靜、篤を守るに似たり。相君(しやうくん)、侍臣に命じて曰く、「この石は名無かるべからず、各々思ふ所を聞かん。」と。此に於いて諸子思ふ所有りと雖も、懼るる所無きに非ず。斟酌相半ばす。時に小堀遠江守政一(まさかず)、茶爐(ちやろ)の下(もと)に座す。君、旨(むね)有り、政一、即ち起ちて石に向かひ、三たび「萬年石。」と呼び、石、三たび點頭す。君、佳言を下して曰く、「疑はず、是れ、萬年石なり。」と。大度(たいど)の一言、以て天下を定む、況んや石に於いてをや。鳴呼、石なるかな、石なるかな。臺覧(たいらん)に入りて、一旦、光を發し、陟(のぼ)りて其の觀を變改す。蓋し萬の言爲すや、未だ必ずしも十千を以て限るべからず、凡そ數は一に始まりて十に窮まり、十に始まりて百に窮まり、百に始まりて千に窮まり、千に始まりて萬に窮まり、萬を以て算(かぞ)ふれば即ち幾十百千萬億兆年なるを知らず。此の無窮を以て石の壽量と爲す。石の壽量を以て、君の壽山に比すれば、則ち華頂萬八千丈を累(かさ)ぬるとも、猶ほ麓に在るがごとき者か。世を以て計るに、即ち復た其の幾萬々世なるを知らず。村語を以て銘す。曰く、

 

 九鼎(きうてい)より重し 萬年石

 

 鈞命(きんめい) 始めて驚く 豈に輕んずべけんや

 

 和氣一團 無盡藏

 

 秋を以て送り 復た春を以て迎ふ

 

と。

 

現住 澤庵宗彭(そうはう)之を記す

 

□やぶちゃん注

 

・「東海寺」萬松山(ばんしょうざん)東海寺。現在の東京都品川区にある臨済宗大徳寺派寺院。寛永161639年)年に徳川家光が沢庵宗彭を招聘して創建した。当時、徳川家菩提寺兼別荘相当の格式であった。

 

・「予勤仕に付」鎮衛の履歴から考えると、出仕始めの勘定所御勘定や、その後の勘定組頭及び勘定吟味役の何れかである。比較的、近過去の体験という感じであるから、勘定組頭か勘定吟味役であった折りの体験であろう。

 

・「小普請奉行」ウィキの「小普請奉行」によれば、『旗本から任じられ、若年寄に属し』、『江戸城をはじめとして、徳川家の菩提寺である寛永寺、増上寺などの建築・修繕などを掌った。物品を購入する「元方」と、その物品を配分する「払方」が設置され、定員はそれぞれ1名であった』とある。

・「御目付」若年寄に属し、江戸城内外の査察・危機管理業務・殿中礼法指南・評定所業務立合など、何事につけても目を光らせる嫌がられた監察役である。この時期には定員10人となり、十人目付とも呼ばれた。

 

・「澤庵和尚」江戸前期の臨済宗の名僧澤庵宗彭(天正元(1573)年~正保2(1646)年)のこと。かつて住持をした大徳寺での紫衣(しえ)事件(後水尾天皇が幕府に無断で紫衣着用の勅許を下したこと)に関わって抗議を行い、出羽に流罪となる。その後、二代将軍秀忠の死去に伴う大赦で赦され、噂を聞いていた家光の深い帰依を受けて、萬松山東海寺を草創した。書画・詩文・茶道にも通じ、祐筆家でもあった。沢庵漬けの起源には諸説があるが、彼はその発明者とも言われ、ウィキの「沢庵漬け」によれば、本『東海寺では、「初めは名も無い漬物だったが、ある時徳川家光がここを訪れた際に供したところ、たいそう気に入り、『名前がないのであれば、沢庵漬けと呼ぶべしと言った」と伝えられている。東海寺では禅師の名を呼び捨てにするのは非礼であるとして、沢庵ではなく「百本」と呼ぶ。』と記す。

 

・「大猷院」三代将軍徳川家光。

 

・「千年杉」1996年筑摩書房刊の「江戸名所図会」巻之二所収の「万松山東海寺」には「千歳杉(せんざいすぎ)」の名で載る。それによれば『寛永の頃、大樹命ぜられて千歳杉といふとぞ』とあり、大樹とは徳川家光のことであるから、本話柄と共通する要素を持っている模様である。

 

○以下「東海寺萬年石記」部分注

 

・「寛永癸未」訓ずれば「みづのとひつじ」である。岩波版が音でわざわざルビを振っており、漢文脈であることを配慮して「きび」とした。寛永201634)年。

 

・「左相府」左大臣。家光のこと。家光は、先立つ寛永3(1626)年7月に上洛、二条城で後水尾天皇に拝謁し、左大臣となった(左近衛大将を兼任)。

 

・「熟見之」岩波版は「熟」に「つらつら」のルビを振るが、採らない。

 

・「端險〔→端然〕梃立」1996年筑摩書房刊の「江戸名所図会」巻之二所収の「万松山東海寺」には、「正しくは、端然」の編者割注があるので、「東海寺萬年石之記」原本自体の誤字かとも思われる。

 

・「栗里翁」の「栗里」は江西省北部の潯陽(現・九江市)附近の地名で、同所にある出身地柴桑と共に六朝・魏晋南北朝時代の詩人陶淵明(365427)の故郷(昔馴染みの場所の謂い)の一。

 

・「李德裕〔→李悳祐〕」李徳裕(787849)は唐代の政治家。当代屈指の名門李氏の出身で、憲宗の宰相であった李吉甫の子。後世の仏教徒には武宗の宰相として、「会昌の廃仏」で悪名高い人物であるが、太湖石の蒐集等、無類の愛石家としても知られていたらしい。「悳祐」の「悳」は「德」の本字であるが、彼が「悳祐」と名乗ったかどうかは中文サイトでも確認出来なかった。一般的に知られる「德裕」を採用した。

 

・「防風」防風氏のこと。夏王朝の伝説の聖王禹が治水事業のために諸侯を集めたが、献上品を捧げる者が万を数える中、防風氏は遅れて来たため、禹は不服従なりとして、彼を処刑した。防風の身の丈は三丈もあり、死骸の骨を運ぶに車を用い、載せる為には削らねばならなかったという。池の中の島の石であること、寺のすぐ傍を暴れ川として有名な目黒川が流れていることと関係するか。

 

・「於菟」虎の別名。春秋時代の楚の方言。この石、白色で虎の頭部の形に似ていたか。また、陰陽道の西の守護神である白虎をも意識した叙述か。但し、「江戸名所図会」等を見ても、如何なるものの位置の西かは不明。江戸城からは殆んど南である。

 

・「面者〔→而有〕」諸本は「而有」を採り、「而して谷神不死の體有り」と訓じている。恐らく衍字なのであろうが、私は心情的には底本通り「面(おもて)は谷神不死の體(てい)」と読んでも、何ら問題なく感じるものではある。

 

・「谷神」「こくしん」と読む。谷間の空虚な場所の謂いであるが、通常、老子が人知を超えた宇宙の本体である「道」を喩える言葉として用いられる。

 

・「小堀遠江守政一」(天正7(1579)年~正保4(1647)年)は江戸前期の近江小室藩藩主。茶人・建築家・作庭家としても知られ、一般にはその任地を別号として小堀遠州の名で知られる。この時、55歳、伏見奉行であった。

 

・「茶爐」茶を立てるための釜を置く炉のこと。

 

・「年なるを知らず」この「年」は、一つの区切るべき単位、という意味で解釈した。

 

・「此〔→比〕」ここは上下の文脈からも動詞がこないとおかしい。「比」である。

 

・「華頂」浙江省中部の天台県北方にある中国三大霊山の一つである天台山の最高峰である華頂峰のこと。標高1,138m。古来、中国天台宗の開祖天台大師智顗(ちがい)所縁の地として信仰を集めた。南麓に智顗の創建になる国清寺がある。

 

・「九鼎」先に防風で示した夏の禹が九州(中国全土)から貢上させた青銅を以って鋳造させた巨大な鼎(かなえ)で、中国に於ける王権(天子)の象徴として夏・殷・周三代に伝えられたという神器。

 

・「釣〔→鈞〕」「鈞」の誤字。「鈞」は尊敬を表わす接頭語で、日本語の「御」に相当する。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 万年石の事

 

 品川東海寺は御公儀より直々に修理を加えられることと相成り、私の職掌柄、小普請奉行及び御目付らと共に、かの寺に何度か御用向きで赴いたことがあった。この禅刹は沢庵和尚が開山され、大猷院家光様が深く御帰依なされた由緒ある寺院である故、万年石・千歳杉といったの御旧跡が多くある。ある時、私、この万年石の由来に付、興味の段これあって、聊か訊ね致いたところ、役僧が、沢庵の記した書を取り出し、見せて呉れた、それをその儘、ここに写し置き、後日(ごにち)の徒然の慰めとなし置く。

 

   東海寺万年石の記

 

 今年、寛永癸未(みずのとひつじ)の年の三月十四日、左大臣家光様がこの池の畔(ほと)りに御来駕あらせられた。池の中に島があり、その島に静謐な深山の趣きを湛えた石がある。

 

 ――この石を凝っと観察して見ると、これと言った奇(く)しき形や怪異な状(かた)ちがある訳ではなく、かといって一糸乱れずきちんとしていて、殊更に抜きん出て美事に屹立しておる、という訳でもない。

 

 酔狂に喩うれば、閑適を生きた栗里翁靖節先生陶淵明遺愛の石とでも戯れるか、或いは、殊更に醒めて喩うれば、愛石家たる詩人李徳裕秘蔵の石とでも謂うか。否、何れもこの石を謂い得てはおらぬ。

 

 或いは、禹が諸侯を集めた折り、遅れたために殺されたという伝説の人、防風の朽ちはてた骨の化石か。或いは、神獣白虎の額が石化したものか。否、何れもこの石を謂い得てはおらぬ。

 

 ただ、にょっきりと叢に在る。呆(ほう)けたように突っ立っているその様は、何がなしに有り難い、曰く言い難い面影を含んでおる。

 

 さても、奇岩怪石を求めるように、世の中に奇異なるものを求むる者には、凡そこの石の貴い核心を知ることは出来ぬ。

 

 この石はひたすら無欲にして執着なき虚空無限の趣きを湛えて、同時に「谷神死せず」、かの不可知の宇宙の絶対原理の存在を、その体(てい)に現わしておる。虚空一切空の極みに至っているかのように、また絶対の静謐を深く守っているかのように。――

 

 この時、相君家光様は、控えておった家臣にお命じになって言われた。

 

「この厳かなる石に名がないはずがない。各々、この石の名、その思うところを聞こう。」

 

そこで並み居る方々におかせられては、それぞれに浮かぶところの名があったのであったが、お上の手前、畏れ多い気持ちが働いた上に、互いに遠慮し譲り合うばかりでその場を沈黙が支配した。その折り、かの名作庭家小堀遠江守政一が、たまたま茶を立てるためにお側の茶炉の近くに控えていた。

 

「遠江守。如何(いかが)?」

 

との君命に、政一は、すくっと立つと、即座に中の島の石に向かい、ゆっくりと三度、

 

「万年石!――万年石!――万年石!――」

 

と呼ばわった。すると、その石が――何と! その三度の呼びかけに答えて、人の如く、頷いたのであった。

 

 お上は、それをご覧になって、

 

「間違いない! これ、万年石なり!」

 

と貴く目出たい御言葉を賜わったのであった。

 

 お上は、その広大無辺なる大御心の一言を以って天下を平定なさっておられる。況や石に於いてをや!

 

 ああ! その石! その石!

 

 お上の御覧(ぎょらん)を得て、その瞬間、石は光を放って、平伏するように畳み重なり合って、その姿を見る間に変えた!

 

 思うに、この「萬」という名を持つ所以は何か? そもそも凡そ、「十」や「千」という数を以って、真意としての「ある限界」を示すことには、ならぬのである。凡そ数は、「一」に始まって「十」に窮まり、しかしそこで留まらずに「十」に始まって「百」に窮まり、しかしそこで留まらずに「百」に始まって「千」に窮まり、しかしそこで留まらずに「千」に始まって「万」に窮まり、そして更に、そこで留まらずに「万」を以って新たな数詞として新たに数え上げられるために、即ち、幾十百千「万」、その数詞が永遠に循環して繰り返されて、遂に「億」「兆」と続いて、区切るべき限界がないのである。この無窮無限の名を以って、石の寿命とするのである。その石の寿命を以って、今、御命名あらせられたお上の大御心の深奥なるに比するならば、即ち、それは一万八千丈を重ねた唐土(もろこし)の天台山頂華頂峰の、未だその麓(ふもと)に在るのと同じことなのである。その大御心の行き渡る時間をこの現世の時間で測てみても、即ち、それはまた、その大御心が幾「萬々」世に渡って続くかということさえも測ることが出来ぬ程の永劫なのである。お畏れながら、田夫野人の拙僧の言葉を以って一偈を成さんとす。

 

 

 九鼎よりも重い――万年石――されど

 

 貴命あり――永遠の時空の中で始めて驚いた――石とてもこの貴き御言葉を軽んずることは出来ぬ

 

 宇宙を包む絶対の穏やかな一体となった気――それはそのまま無尽蔵無一物の絶対の真理の中に在る――

 

 さあ例えば秋を送ろう――そしてまた春を迎えよう――永遠の時を迎え取ろう――

 

   現住職 沢庵宗彭之を記す

 

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