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2009/10/02

和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類 獼猴 「岸の甚兵衛」注追加

ネットを検索する内、「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「獼猴」の猿引(猿回し)の「岸の甚兵衛」について、ネットを渉猟する内、幾つかの新知見を得たので、以下の通り、大幅に書き加えた(下線部が追加前の部分)。元は引用元のリンクが張ってある。

 「紀州の岸の甚兵衛、猿引の始めと云云」狙引甚兵衛(さるひきじんべえ)のこと。江戸前期、紀伊海士(あま)郡から出た猿引(猿回し)の棟梁。和歌山藩主の浅野幸長が命じて藩内の猿回しを配下とし、毎年和歌御神事の際には、供奉の列に加わったとされる(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の「狙引甚兵衛」の項を参照した)。「岸」とは単に海岸地方海士郡の地方名を意味するのか、若しくは後に彼らに与えられた苗字(岸甚兵衛)であったか。しかし、藩主じきじきに、失礼ながら猿引集団の組織と特権を与えたのは何故であろう? 「和歌山県立博物館」HP内の、歌山市和歌浦周辺で行われている徳川家康を祭る紀州東照宮の祭礼、和歌祭についての「コラム」記載の、主査学芸員前田正明氏の「3. 東照宮祭礼と猿引」の中に、絵図の分析をする中で『寛文5年(1665)頃には、後方の雑賀踊のすぐ後に、貴志の甚兵衛がいます。この貴志の甚兵衛は、城下近郊に住む専業化した猿引集団ですが、いつごろから和歌祭に参加するようになったかは不明です。』という叙述が現れる。これによって、「岸の甚兵衛」が、この頃には「喜志」という姓として認識されていたことが分かる。ここまでで私はお手上げになる。しかし一方、「岸甚兵衛」でネット検索をかけると、一人の近隣の人物がヒットするのである。それは高知県宿毛市の「宿毛市史」のHP内の、「中世編-戦国古城」の、天正3年、同市にあって落城した「来城」の城主の名である。勿論、この人物自体がよく分からないし、従ってこの和歌山の同姓同名と同一人物である証拠も皆無ではある。だが、同じページを見てみると、同じ年に落城した押ノ川城 (玄蕃城)城主であった押川玄藩なり人物が、後に伊勢の藤堂家へ仕えた、ともある。さすれば来城城主岸甚兵衛なる人物が、和歌山藩に流れていき、その末裔が同じ姓名を名乗って、このような職能集団となったとしても、強ち、おかしなことではないように思われるのである。これはとんでもない私の妄想であろうか? 識者の御教授を乞うものである。

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