ブログ・カテゴリ「こゝろ」創成 附・本体箱背
ブログ・カテゴリに「こゝろ」創成した。考えてみれば、僕はブログで「こゝろ」を語ることを意識的に避けてきたような気がする。しかし、それは僕が「先生」と等身大になりつつあるからではなく、ますます「先生」が僕の中で大いなる謎として増殖し続けているからである――
「もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向つて、研究的に働らき掛(かけ)たなら、二人の間を繋ぐ同情の絲は、何の容赦もなく其時ふつりと切れて仕舞つたらう。若い私は全く自分の態度を自覺してゐなかつた。それだから尊(たつと)いのかも知れないが、もし間違へて裏へ出たとしたら、何んな結果が二人の仲に落ちて來たらう。私は想像してもぞつとする。先生はそれでなくても、冷たい眼(まなこ)で研究されるのを絶えず恐れてゐたのである。」(上七より)
これは従来の解釈の謂いを出るものではない部分であろう。誰もが読み過してきた部分である。しかし、立ち止まって見るがよい。「私は想像してもぞつとする」のである。それは想像を超えたぞっとするような結果を齎すカタストロフだと、彼は言っていまいか? これは従来の解釈の範疇にあるような学生=「私」像に果たして収まるものであると言い得るのか? いや、この別な選択肢の映像の果てにある「先生」の姿は「想像してもぞつとする」ものであったのではなかったか?――こんなところから、僕の新たな謎は始まるのである――
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「こゝろ」本体箱背