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2009/10/04

耳嚢 仁君御慈愛の事

「耳嚢」に「仁君御慈愛の事」を収載した。

 仁君御慈愛の事

 有德院樣の御人德は、承るごとに恐れながら感涙催しける事のみ也。享保御治世の頃、小出相模守といへる御小姓(おこしやう)ありて、思召にも叶ひ樣子能く勤たりしが、京都辰巳や公事の取持いたし、不義の奢抔なし、不愼の事多く、御仕置被仰付ける事也。右御吟味の初に、相模守不埒の趣も御存有しが、聊御氣色に顯れず、御酒の御相手をも被仰付、相模守は少しも心付ず醉狂常の通り也しに、御次より御側衆罷出、相模守事御表御用有之よし申候故、則相模守は御次へ下りけると也。公は御盃を被差置、最早酒をとり候樣にとの上意にて、不殘御膳を下げ候故、御近所廻りも何か譯も有之事と、一同恐入ていと無興(ぶきよう)なりしに、公は御着座の上、御近侍廻りを御覧被遊、相模守事不便の由にて御落涙被遊けると也。積惡の者をもかく御憐の事、御仁惠の程難有事也と、去る人語ひ給ひけり。

□やぶちゃん注

・「有德院樣」八代将軍徳川吉宗の諡り名。

・「小出相模守」小出広命(ひろのぶ)。底本と岩波版の注を総合すると、「寛政譜」によれば、享保2(1717)年2月9日に吉宗の御小姓となり、石高三百石、その後、『十一年六月三日遺迹を継、十六年十二月二十三日従五位下相模守に叙任』したが、元文5(1740)年3月22日に『つとめに応ぜざるの所行あるのむね聞こえしにより、青山大膳亮幸秀に召預け』となった。延享元(1744)年没。彼の父半太夫は紀州家家臣で、享保元(1716)年に幕臣となった吉宗旧知の間柄であったことから、格別の愛顧を受けたものであろう。

・「京都辰巳や公事の取持いたし」訴訟の過程を、めだか氏のHP内、読書日録の中、松井今朝子「辰巳屋疑獄」の小説梗概の事件の要所部分を引用させて頂く。大阪の炭問屋『辰巳屋は去年三代目久左衛門が還暦を迎えて隠居し、四代目の当主久左衛門が跡を継いだが若干20歳の青年であった。このため隠居した三代目久左衛門改め休貞が、実質的に店を差配し現当主はお飾りに過ぎなかった。休貞には男3人と娘一人の4人の子が有ったが今家にいるのは長男の現当主と三男茂兵衛の二人である。長男は遊び好きで商売に身が入らないのに対し、三男の茂兵衛は10歳の頃から師匠について学問を始め、12歳で師匠に何も教えることが無くなったいわれるほどの神童であった。』『休貞はこの茂兵衛が跡を継いだら辰巳屋はますます発展するだろうと良く口にしたが、長男を差し置いて三男が跡を継ぐのは難しい。18歳で茂兵衛は同業の炭問屋木津屋に養子入りし木津屋吉兵衛を名乗る。』『木津屋はもともと炭問屋であったが吉兵衛の代になってから、質屋に手を広げ担保を取って金を貸すようになる。本業の炭問屋は次第に手薄になる。しかも貸す金の資金源を辰巳屋に求めるようになる。辰巳屋は隠居の休貞が死に四代目の当主が身体をこわしている。跡継ぎは娘が一人しかいない。ここからお家騒動が発生する。辰巳屋、木津屋が大阪の東西両奉行所を巻き込んで訴訟合戦を展開、役人への賄賂も絡んで大疑獄事件に発展する』(一部衍字と思われるものを除去した)。但し、本作は小説であるから、事実との齟齬があるかも知れない。その後のことは、岩波版長谷川氏の注に依ろう。本件訴訟に絡む贈収賄事件の結末は、元文5(1740)年に下され、茂兵衛改め『吉兵衛は遠島、大阪町奉行用人の馬場源四郎は収賄で死罪、町奉行稲垣淡路守も免職、関係者が処罰され、江戸でも獄門・死罪・追放等に処せられた者が出た』とする。内山美樹子氏の論文「辰巳屋一件の虚像と実像――大岡越前守忠相日記・銀の笄・女舞剣紅楓をめぐって――」(ネット上でPDFファイルにより閲覧可能)には「大阪市史」第一巻(大正2(1913)年大阪参箏会・幸田成友等編)から「幕吏の汚行」の例として掲げたものを、以下のように引用している(以下、割注は【 】で示した)。

南組吉野屋町に富商辰巳屋久左衛門なる者あり、家産二百万両手代四百六十人を有す。先代久左衛門の弟木津屋吉兵衛辰巳屋の財産を横領せんと欲し強ひて養子当代久左衛門の後見となれり。久左衛門及手代新六等之に服せず起って抗訴を試みしに吉兵衛豫め東町奉行稲垣種信の用人馬場源四郎を通じて、厚く種信に賄ふ所ありしかぱ、彼等の訴状は一議に及ばず却下せられ、剰へ新六は牢獄に投ぜられたり。是に於て同志の手代江戸に之きて評定所門前の訴状箱に願書を投じ、関係老一同の江戸召喚となり、数回の吟味を経て種信・源四郎・吉兵衛の罪状悉く露顕し、元文五年三月十九目、幕府種信の職を奪ひ、持高を半減し、且つ閉門を命じ、源四郎を死罪に、吉兵衛を遠島【○九月減刑して江戸十里四方及五畿内構となる、】に処し、其他江戸大阪の士人連座して罪を被る者多く、松浦信正【○河内守】新に東町奉行に任じ、又西町奉行佐々成意【○美濃守、元文三年二月松平勘敬に代る、】は吉兵衛与党の言を容れて、手代新六等の訴状を却下したるにより、一時逼塞を命ぜられたり。(六〇五頁)

また、小出相模守についての叙述が論文本文にも現れる。以下、該当箇所前後を引用する。多数の人名が登場するが、詳しくは該当論文をお読み頂きたい。

五年一月中旬以後、入牢となった吉兵衛を宿預けに持ち込み、罪を軽くするために、手代達により、江戸町奉行所関係及び幕臣等への贈賄工作がなされたことが、三月十五日の、知岩、正順逮捕をきっかけに明らかにたり、申渡覚にみる如き、多くの処罰者を出すに至った。小出相模守などは『【自宝永四年至寛延三年】大阪市中風聞録』によれば「紀州より御馴染之御小姓衆……別て御出頭」であったが「御役柄不相応之儀有之……青山大膳亮殿へ御預け」を申渡された。父(子?――翁草)が改易になっているので、当人も最終的に御預けで済んだどうか。『銀の笄』では小池相模守という「はきゝの御旗本」が知眼和尚を通じ吉兵術から賄いを受け、切腹を仰付けられている。

 南町奉行所の与力福島佐太夫の場合、申渡によれば、吉兵衛の手代から遊所での饗応を受け、金も一両一分受け取ったようである。いずれにせよ主犯の馬場源四郎のように、多額の金品を受けた訳でないが、収賄の額は些少でも、今回の一件の「御詮議に拘り候故、諸事可相慎処、背神文振舞」とあって死罪の判決を受げている。御番医師丹羽正伯老は小普請入り、さらに当の北町奉行所石河土佐守組の与力が二人、吉宗の側近加納遠江守の家来が一人、御暇となった。北町奉行所の二人の与力などは、忠相の配下にいたこともあろうし、吉兵衛を江戸へ召喚してから僅か二ヶ月の間に、身内の江戸町奉行所、幕臣等に、これほどの汚染が広まったことには幕府関係老も暗然とならざるを得なかったであろう。

と解説されている。引用文中の『銀の笄(かんざし)』は本事件を扱った実録小説で元文4~5(173940)年に版行されたもので、辰巳屋騒動は他にも歌舞伎「女剣舞紅楓」等に潤色されている。「はきゝの御旗本」の「はきき」は「幅利き」で、羽振りがよいことを言う。以上、何せ、辰巳屋久左衛門は伝説の豪商でその資産2000石相当、そこから金を吸い上げ、ひいては乗っ取りを画策する木津屋吉兵衛も半端じゃあない。このたかが町屋の商人の争いが、されど幕府要職をも巻き込んだ大泥沼と化し、累々たる死体の山が出来上がる――この事件、想像を絶する展開と相成ったのであった。

・「御側衆」将軍の側近中の側近。将軍の就寝中の宿直役を始めとして、SPとしての警護全般、将軍就寝・御不例時には指揮・決裁を行う権限さえ持っていた。老中とほぼ同等の将軍諮問機関で、特に御小姓の管理監督権は彼等にあった。

■やぶちゃん現代語訳

 仁君吉宗公御慈愛の事

 有徳院吉宗様の御仁徳は、そのお話を承る度に、お畏れながら、感涙を催すことばかりである。例えば――

 享保の御治世の頃、小出相模守広命という御小姓があった。有徳院の思し召しにも叶い、まめにお勤致いておったのだが、公(おおやけ)を巻き込んだ京都辰巳屋の事件で収賄致し、それに関わって、不義と見做されても仕方がない奢り高ぶった行跡など成し、他にも不謹慎なる行い数多く、結局、御公儀決裁の上、御仕置き仰せつけらるることと相成ってしまったという出来事があった。

 これに付き、御公儀方の御吟味がまさに始まっておった、その時、有徳院様は一連の相模守不行跡につきても、実は既にご存知であらせられたのであるが、それを聊かもお顔に表わされることもなく、何時もの通り、小出に御酒のお相手を命ぜられたのであった。

 その時の相模守は、愚かなことに、自身に裁きのお沙汰が近づいておることに全く気付くことなく、常の通り、如何にも酔うた興に任せての、如何にも楽しいご相伴に与(あず)っておったのだが――突然、控えの間から御側衆が参上致し、相模守に急遽、よんどころなき御公務これあり候に付き、ご退出あられよとの達しこれあり、相模守は御側衆と共に、控えの間へと下がって行ったという。――

 ――すると有徳院様は御盃をお置きになると、

「……最早……酒を下げよ……」

との仰せにて、うち広げてあった宴席の御膳を一切残らず、お下げさせ遊ばされた。

 件の事件に付きては、極々内密に内偵・御吟味がなされており、その時、事情を知らなかった殆んどの御近習・供廻りの者どもは、酒宴のお取り止めの急なことに、何か我らに御不快の本(もと)やあらんかと、一同、畏れ入って、お部屋内、水を打ったように静まり返っておった。

 ――すると、有徳院様は上座にお戻りになってお座りになられ、ゆっくりと御近習供廻りの者どもを見渡されると、一言、

「……相模守が事……不憫……」

とのみ仰せあって、後は落涙遊ばされた、のであった、と。

「……積悪の業者(ごうじゃ)であっても、かくまでお憐れみになられたこと、その深い御仁徳御慈恵の、なんと有難き事か……。」

と、ある人が、私にお話に下さったことであった。

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