耳嚢 人の精力しるしある事
「耳嚢」に「人の精力しるしある事」を収載した。
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人の精力しるしある事
當時本所に中條道喜といへる者あり。町醫ながら相應に暮しけるが、其身の上を尋ぬれば、元來官醫のもとに若黨(わかたう)いたし、夫より所々中小姓(ちゆうごしやう)奉公抔なしけるに、身持不埒にて或は窮し又は困(こう)じけるが、中年にて剃髮し醫師に成、予が親友與住(よずみ)抔を便りて藥劑を聞合けるに、頻に青雲を得て今は相應に暮しける。右の者に可笑しき咄しあり。近き頃本所多田の藥師境内へ鐘を奉納せし故、與住事右の者に逢て、鑄鐘の事醫師の職業にも非ず、又小金にて出來ぬべき品にもあらず、佛法歸依の御身とも思われず、其意を尋ければ、さればとよ、道喜醫師に成候はじめ、甚の困窮にて一錢の貯もなく、度々多田の藥師の前を通りしに、堂塔修理侯へども鐘のなきぞ莊嚴(しやうごん)の欠たる也、其砌道喜事吉原其外按摩を渡世致しけるが、二錢三錢づゝも日々除置(のけおき)て鐘を建立すべし、若(もし)不幸にして志を不得ば其沙汰に及間敷、志を少しだに得るならば何卒生涯に建立可成と風與(ふと)誓ひし故、造立せしと申けると也。
□やぶちゃん注
・「中條道喜」訓読みなら「みちよし」「みちのぶ」が考えられるが、医師なので「だうき(どうき)」と音読みしておけばよいと思われる。
・「若黨」江戸時代、武家にあって足軽よりは上位の小身の従者を言った。
・「中小姓」江戸時代、武家にあって侍と足軽の中間に位置する下級武士を言った。侍階級の最下層。
・「與住」底本の鈴木氏注に『与住玄卓。根岸家の親類筋で出入りの町医師。』とある。「耳嚢」には他にも「巻之五」の「奇藥ある事」や、「巻之九」の「浮腫妙藥の事」等にも登場する。
・「本所多田の藥師」玉嶋山明星院東江寺が正式な寺名(天台宗比叡山延暦寺派)。当時は、本所(現在の墨田区の南部分)の隅田川の岸(現在の駒形橋附近)にあった。天正11(1583)年開山、本尊の薬師瑠璃光如来像は「往生要集」の作者恵心僧都源信作と伝えられるが、この薬師如来が多田満仲(912~997:源満仲。清和天皇六孫王源経基長男、多田源氏の祖とされる武将。子に大江山酒呑童子退治で知られる源頼光がいる。)の念持仏(身長約18㎝)であったため、通称多田薬師と呼ばれる。上野の東叡山寛永寺末寺として江戸時代を通じて庶民の信仰を集めた。関東大震災により本堂が消失、後の帝都復興計画で駒形橋新設決定に伴い、葛飾区東金町に移転して現在に至る。現在でも、この移転した東金町近辺を「多田の薬師」と呼称している模様。
・「佛法歸依」底本では「佛法寄依」とあり、「寄」の右に鈴木氏によって「(歸)」とある。補正した。
・「吉原」当時、浅草寺裏手の日本堤にあった吉原遊廓のこと。新吉原。
■やぶちゃん現代語訳
人の誠心の祈請には必ずその験(しるし)が現れるという事
今、本所に中條道喜(どうき)という者がおる。町医者ながら相応に良い暮らし振りの者であるが、彼自身にその身の上を聴いたところでは、元々は幕府お抱えの奥医の下で若党など致し、その後は幾つものお武家の家中に入り込んでは、中小姓奉公など致いておったのだが、ふとしたことから身を持ち崩し、時によっては、貧困のどん底に落ちたりもした。しかし、中年になってから剃髪、若党時代の手習いで医師となり、私の親友の医師与住玄卓などを頼って薬剤調合法についての知見を学ぶうちに、町医者の商売繁盛、今のこの相応な暮らしに至ったという。
さても、その道喜に面白い話がある。
この道喜、最近、本所は多田の薬師の境内へ鐘を奉納した。そこで与住が彼に逢った折り、
「鐘を鋳造し奉納するなんど、医者たる職分にも相応しくなく、そもそも実物を見たところが、僅かな金で成せるような代物でもない……また、仏法帰依の御身とは、憚りながら、お見受け致さぬが……。」
と、その鋳鐘奉納の真意を訊ねた。すると道喜は、
「ご尤もなことに御座る……私めは医者になりましたその始めは、甚だ困窮の極みに在り、一銭の蓄えだに御座いませなんだ……その頃のこと、たびたび多田の薬師の前を通りました……折りからの堂塔の大改修、それはほぼ完成にこぎつけておりました……けれども、この由緒正しき名刹に、鐘がない、というのが、どうしても荘厳さに欠けておるな、と、この貧者ながら、心の内に思っておったので御座います……その頃……私めは吉原やその辺りの土地を歩いては按摩をして食っておったので御座います……そんな私で御座いましたが、ある時、多田の薬師を過ぎた折り、心に薬師を念じて『多田のお薬師さま! 二銭でも三銭でも毎日毎日僅かながら取り除けて貯え貯え、きっとこちらへ梵鐘を奉納致しまする。もし、不幸にして志しを立てることが出来ませねば、その誓願を実行することも出来ませぬが、万一、志しを少しだけでも立てることが出来ますれば、生涯のうちに、必ずや、奉納致しまする!』と、ふと、と誓いを立てたので御座った……さればこそ、かくて、かくの如く……鋳鐘奉納、致いた次第で御座る……。」
と申した、ということである。