耳嚢 怨念無之共極がたき事
「耳嚢」に「怨念無之共極がたき事」を収載した。僕は以前、「耳嚢」の抄訳を試みようと考えて、第三巻までで自分が訳してみたい好きな作品を一度選び出してみたことがある。その際、一番にドッグ・イアを附けたのが、本件であった。僕はこの妓女の語りが、好きなのである。ヴィジュアルで話柄巧みなホラーの佳品である。
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怨念無之共極がたき事
聖堂の儒生にて今は高松家へ勤任(ごんし)しけるが、苗字は忘れたり、佐助といへる者、壯年の頃深川邊へ講釋に行て歸る時、日も黄昏(たそがれ)に及びし故、其家に歸らんも路遠しと、中町の茶屋へ泊り妓女を揚て遊ける。【此中町土橋は妓女多き青樓のよし。】夜深(よふけ)に及び、二階下にて頻りに念佛など申けるに、階子(はしご)を上る音聞へしが、佐助が臥しゝ座敷の障子外を通る者あり。頻に恐ろしく成て、障子の透間より覗き見れば、髮ふり亂したる女の兩手を血に染て通りけるが、絶入程恐ろしく、やがて※(よぎ)引かむり臥し、物音靜りし故ひとつに臥たりし妓女に、かゝる事のありしと語りければ、さればとよ、此家のあるじは其昔夜發(やほつ)の親方をなし、大勢かゝへ置し内、壹人の夜發病身にて一日勤ては十日も臥りけるを、親方憤り度々折艦を加へけるが、妻は少し慈悲心もありしや、右折鑑の度々彼は病身の譯を言て宥しに、或時夫殊外憤り右夜發を打擲しけるを、例の通女房とりさへ宥めけるを、彌々憤りて脇差を拔て其妻に切かけしを、右夜發兩手にて白刃をとらへさゝへける故、手の指不殘切れ落て、其後右疵にてはかなく成しが、今に右亡靈、夜々に出てあの通り也。かゝる故に客も日々に疎く候と咄しけるが、夜明て暇乞歸りし由。其後幾程もなく右茶屋の前を通りしに、跡絶て今は家居も見へずと也。
□やぶちゃん注
・「聖堂」湯島聖堂。本来は、元禄3(1690)年に上野の忍が岡(現・上野恩賜公園)にあった林羅山邸の孔子廟を移築、第五代将軍徳川綱吉から「大成殿」の称を授けられた建物を指す。ここは林派の儒学を私的に教える場であったが、根岸の晩年に当る寛政9(1797)年には幕府の官立学校として昌平坂学問所=昌平黌(しょうへいこう)となった。学問所となってから、そうした付属建物全体「聖堂」と呼ぶようになった。現在の文京区湯島一丁目(御茶ノ水駅の聖橋を渡った右手の森の中)(以上はウィキの「湯島聖堂」によった。前掲「長尾全庵が家起立の事」で引用した「林大學頭」(林鳳岡)の中での湯島聖堂の記載内容(ウィキの「林鳳岡」による)と有意に異なる記述部分があるが、敢えてそのままとしておく。正確な知識をお求めの方は自律的にお調べあれ)。
・「儒生」儒学を学ぶ学生。
・「高松家」讃岐高松松平家。初代水戸頼房の長男頼重を祖とする。
・「講釋」深川辺りの武家の青少年に出張講義をしに行っていたのであろう。
・「中町」深川門前仲町のこと。現在の江東区門前仲町、富岡八幡宮の南の門前町で岡場所(吉原以外の非公式遊廓)であった。深川には岡場所が多く、深川七場所(仲町・新地・櫓下・裾継・石場・佃・土橋)と呼んだが、その中でも最も高級とされたのが仲町で、特に深川芸者(辰巳芸者)の名で知られた。
・「茶屋へ泊り妓女を揚て遊ける」岩波版の長谷川氏の「仲町」の注に、『子供屋より女を茶屋に呼んで遊ぶ』とある。「子供屋」については、以下にウィキの「子供屋」の記載を一部引用しておく。『深川の娼婦には、娼家にいて客の来るのを待つ伏玉(ふせだま)と、出先の茶屋からの迎えを受けて派出する呼出しの2種類あった。後者は、その所属する子供屋に寄宿していた。子供屋と出先の茶屋との関係は、一時期の吉原における置屋と揚屋の関係と同じであり、子供屋は娼婦を寄宿させるのみであり、ここに客を迎えることはない。呼出しは茶屋と子供屋との往復に軽子(かるこ)という下女の送迎を受けた。軽子は呼出しが茶屋に行くときに、夜具包を背負ってこれに従った』。なお、そもそも妓女そのものを「こども」と呼んだ。
・「【此中町土橋は妓女多き青樓のよし。】」「この仲町及び土橋は評判の芸妓の多い遊廓であるという。」という割注。訳文では省略した。
・「土橋」岡場所。仲町の東に隣接した東仲町にあった。前注参照。
・「※(よぎ)」=「(ころもへん)+「廣」。岩波版で長谷川氏は「綿」を意味する「纊」という字と、小夜着(こよぎ:袖や襟のついた小形の掛け布団)を意味する「*」[やぶちゃん注:「*」=「衤」+「黄」(旧字体)]の字を混同した誤字であろう、とされるが、これらは余りにもレアな漢字であると思う。私はもっと単純に、夜着・布団の意味を持つ「被」の誤字ではないかと思う。
○妓女の話について:本話は殆んどが間接過去の「けり」を用いた伝聞過去として語れており、この妓は死んだ夜発の件の出来事を実見しているわけでは、勿論、ない。しかし、上質の怪談である本話を、そのホラー性を十全に出した現代語訳にしようとする場合、ここを伝聞にしてしまうのは如何にも雰囲気を殺ぐことになる、と私は思う。従って、私の現代語訳では、この妓女が直接見知っている事実として、確信犯で訳した。古典教材としてお読みになる場合は、その点にご注意戴きたい。
・「夜發」夜に路傍で客を引いた最下級に属する売春婦。夜鷹・辻君・総嫁(そうか)と同じ。
・「跡絶て今は家居も見へずと也」つまらないことであるが、ここの部分、やや分からない。「今は」は「其後幾程もなく右茶屋の前を通りしに」の時間と同じ時間を指し、「数日を経て通ってみたところ、茶屋は跡形もなくなっていていた、とのことである」というシンプルな意味にもとれるが、そうすると「今は……見へず」の現在時制表現が死んでしまう気がする。私はこの「今」を、この話を根岸が聴いた(若しくは書き記した)時点での「今」ととって訳した。
■やぶちゃん現代語訳
死者の怨念というものが存在しないとは言い切れぬ事
もと聖堂の儒学生、今は高松家に伺候している者で、名字は忘れたが、佐助という者がおる。
若い頃、深川辺に出張講義に行き、さて帰ろうとしたところが、はや陽も黄昏となっておった故に、自分の家に帰ろうにも最早遅しと、仲町の茶屋へ泊まり、芸妓を揚げて遊んだ。その夜更けのこと――
――佐助の寝ていたのは二階であったが、その階下でこんな時刻に頻りに念仏を唱える声が聞こえてくるのに、彼は眼を醒ました――と
――ぎしっ――ぎしっ――
と、誰(たれ)かが階段を登って来る音が聞こえた。
佐助の座敷は階段の上がった直ぐの部屋であったが、その廊下向きの障子の外を、確かに誰か、通る者がある。
深夜の念仏といい、曰言いがたい不気味な足音といい、佐助は何やらひどく恐ろしくなって、そっと障子の隙間から、廊下を覗いて見た……
――ぎしっ――ぎしっ――
と……暗い廊下、そこを……髪を振り乱した女が……両の手を真紅の血に染めたままに……通ってゆく……
佐助は気絶せんばかりに恐ろしく、矢庭に夜着を引っかぶってうつ伏しになると、小刻みに震えながら、ぎゅっと眼を瞑ったまま、ただただ凝っとしていた。
――ぎしっ……きしっ……
……やがて、廊下の足音がしなくなり、いつか念仏の声も途絶えて静かな夜となっていた。
そこで佐助は、がばと起き直るや、添い寝している妓女を揺り起こし、今、こんなことがあったんだ! と咳き込むように話したところが、妓女は眠そうな表情にせせら笑いさえ浮かべ、事もなげに、
「あ、はん……あ、れ、ね……この茶屋の主ってえのはね、その昔、夜発の親方をしてたんさ……そりゃもう、たんと女を抱え込んでたもんさ……そん中の一人の夜発がさ、いたく病弱な子でね、一日勤めちゃ、十日臥せるって按配な訳さ……気の短い親方は、怒って何度も何度もその子に折檻加えてた……そんな親方だったけど、その奥さんてぇお人は、親方と違ってちっとばかりお慈悲の心があったもんか……親方が折檻するたんびに、『この子は病身ですから』って言っちゃあ、親方をなだめてたっけ……そんなある時んこと、親方の機嫌がそりゃもう最悪でさ、その夜発の子を拳固で、ぼっこぼっこ殴り始めたんだ……いつもん通り、奥さんがその手をとりおさえて、なだめたんだけど……その日に限って、親方、ますます怒り狂ちまって……腰の脇差を抜くと、あろうことか、その奥さんに斬りかかった……思わず、殴られてた夜発の子は、両手でその白刃を摑んで止めたんさ……もちろん……両の手の指は、残らず、ぽろぽろって切れ落ちたさ……。……そのあと、その子は、その傷が元で、死んじまった……。……死んじまったけど……けど、今もその亡霊が、夜ごと、ああして出てくるって、わけ……。こんなんだからさ、客足も日に日に遠のいちまうばっかなんよ……」
と、語ったとのことである。
佐助が夜が明けるのを待ちかねてお愛想するや、早々に茶屋を去ったのは言うまでもない。その後(のち)、幾日も経ぬうちに、佐助はその茶屋のあった辺りを通りかかったのだが、既に空き家となっていた――もう今は、家屋もすっかり取り壊されて、その跡を訪ねることも出来なくなっている、とのことである。
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