耳嚢 長尾全庵が家起立の事
「耳嚢」に「長尾全庵が家起立の事」を収載した。
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長尾全庵が家起立の事
全庵本來は讚州の産にて、松平讚岐守醫師也。醫術功驗有により、江府(かうふ)、將軍家御臺樣御不豫の節被爲召(めさせられ)候處、大夫人の御事故、帷幕(ゐばく)を隔(へだて)御手計(ばか)り被差出、伺(うかがひ)の事被仰付ければ、都(すべ)て醫は御容貌其外御血色等も不伺候ては難成事に有之、御手脈斗(ばかり)の伺にては醫藥共難施趣御答に及びければ、尋常ならざる不敬に罪し、讚州へ蟄居被仰付しと也。其後、將軍家御不豫の節被爲召候て、御藥差上御平癒被爲在(あらせられ)候故、食禄可給御沙汰ありしが、老衰に及び候由御斷申上、依之(これによりて)御座敷内歩行不自由に付、桑杖を給り、倅文哲へ食禄給りし。今文哲家に右桑杖并林大學頭より其砌相贈りし桑杖記有之、祕寶とす。いづれの御代に當りしや、當文哲祖父なるべし。
□やぶちゃん注
・「長尾全庵」岩波版の長谷川氏の注によれば、庄内藩主酒井忠義(寛永21(1644)年~天和元(1681)年)や八代将軍吉宗の父である紀州藩主徳川光貞らの『病を療治、正徳五年(一七一五)将軍家継の病気の時に、薬を献じ、目通りを許された』とあるから、本件の将軍家とは家七代将軍家継(宝永6(1709)年~正徳6(1716)年)ということになる。しかし、彼は8歳で亡くなっており(但し、聡明な子であったと言われるので本件の「食禄可給御沙汰」や「御座敷内歩行不自由に付、桑杖を給り、倅文哲へ食禄給りし」を自立的に成したというのは決して不自然ではない)、その「御臺樣」正室となると、八十宮吉子内親王ということになるのだが、その婚約は7歳で、この一連の話としては、やや無理がある気がする。そこを自然にするには、この「御臺樣」を先代六代将軍の正室近衛熙子(ひろこ寛文6(1666)年~寛保元(1741)年 夫死後は落飾して天英院と名乗った)ととる方法か。熙子は延宝元(1679)年に嫁ぎ、宝永6(1709)年、家宣の将軍就任と同時に大奥に入った。なお、長尾家は以後、幕府解体迄、代々奥医師の家系となり、当主は全庵を名乗った。幕末の嘉永元(1848)年 のこと、13歳の幕府の薬室生(医師見習)の少年が、当時の幕医長であった長尾全庵の家に食客として入っている。後の郵政の父、前島密の若き日であった。
・「御不豫」天子や貴人の病気。御不例。
・「都(すべ)て」底本のルビ。
・「斗(ばかり)」底本のルビ。
・「桑杖」桑の箸を中風除けのまじないとしたり、桑酒は同病への効能があるとも言われた。……しかし、意地悪く言うなら、桑の木は中心に空隙があり、杖は折れ易いと思うのだが……。
・「文哲」岩波版の長谷川氏の注によれば、長尾全庵の子である長尾分哲伯濬(のりふか)のこと(誤り)とする。彼は享保11(1726)年『西丸奥医。元文五年(一七四〇)没、六十九歳』。
・「林大學頭」は林鳳岡(はやしほうこう 寛永21(1645)年~享保17(1732)年)。延宝8(1680)年に林家を継ぎ、四代将軍徳川家綱以後、綱吉・家宣・家継、八代吉宗までの5代に亙って幕府の文部行政や朝鮮通信使接待などに参与、特に五代綱吉・八代吉宗の信任が厚かったと言われ、官学としての林派の形成に力があった。元禄4(1691)年、それまで上野不忍池の池畔にあった林家の私塾が湯島に移されて昌平坂学問所(湯島聖堂)として竣工、それと同時に大学頭(昌平坂学問所長官:現在の東京大学総長に相当)に任じられ、以後、大学頭は林家が世襲した(以上は主にウィキの「林鳳岡」を参照した)。
・「いづれの御代に當りしや」この将軍を前注通り家継ととれば、この後半の一件は家継が将軍であった正徳3(1713)年4月2日から、逝去の正徳6(1716)年4月30日より遙か前、凡そ3年の間の出来事であるということになる。「耳嚢」のこの記載時から60数年前の出来事となる。
・「當文哲」岩波版の長谷川氏の注によれば、『分哲伯濬の孫分哲保定(やすさだ)』(の誤り)とする。この注が正しいとすれば、祖父ではなく曽祖父ということになる。
■やぶちゃん現代語訳
幕府医官長尾全庵家事始の事
元祖長尾全庵は本来は讃岐国出身で、松平讃岐守附きの医師であった。
ある時、将軍家御台様御不例の折り、この長尾全庵が特に仰せつかって江戸城内に召されたのであったが、将軍家夫人ということで、張り巡らした引き幕を隔てて御手だけをお差し出しになられるばかり、お側の者は、ただ脈取って診察せよ、と仰せつかったので、全庵は、
「総て医術は御顔全体の御様子の外、その御血色などの細部も合わせて診申し上げずには、正確な診断を下すことは難しいことに御座いますれば、御手のお脈だけにてはとても施薬など、成し難きことに存ずる。」
といった旨、お答え申し上げたところが、御台様に対面所望など以ての外、慮外尋常ならざるその物言い、甚だ不敬の罪なり、とされてしまい、故郷讃州にて蟄居仰せつけられた、という。
しかし、後日(ごにち)のこと、今度は将軍家御不例の砌、再び召喚されて江戸城内に召されたのであったが、今度(このたび)は、診察申し上げると直ぐ、御薬を処方し差し上げたところが、即座に平癒なされ、直ちにかつてあった禄を再び与えよ、とのお沙汰があったのだったが、全庵は、老衰なればとて、これをお断り申し上げる旨、申し出た。そこで、将軍家は、全庵が座敷内にての歩行も不如意なる様を実見せられておられたため、特に桑の木で出来た杖を下賜なされ、本人の代わりに息子の文哲に禄を賜わられた。
今、長尾家では、この桑の杖並びに、当時の林大学頭より、杖下賜の砌、添えられた文(ふみ)「桑杖記」が伝えられ、家宝としている。以上の出来事は何れの御代のことであったか、当代の長尾文哲の祖父の逸話と伝えられる。