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2009/10/05

耳嚢 淨圓院樣御賢德の事

「耳嚢」に「淨圓院樣御賢德の事」を収載した。

 淨圓院樣御賢德の事

 

 吉宗公の御母堂樣は、淨圓院殿と稱し奉る。其御出生を承るに、至て卑賤にて、御兄弟等も紀州にて輕き町家の者なりしが、吉宗公御出世に付、淨圓院樣の御甥巨勢(こせ)兩家共五千石の高を賜り、御側御奉公に被遣しとかや。然るに、淨圓院樣至て御篤信にて、所謂婦中の聖賢ともいふべき御行状のよし。吉宗公御孝心にて、日々爲伺(うかがひのため)御容躰に爲入(いらせられ)侯處、御歸の節は、三萬石の節を御忘被遊間敷(まじき)と常々被仰候由。巨勢兩家五千石高に被仰付侯節、將來御當家勤仕(ごんし)の者又紀州より御供の者は如何樣にも御取立可然侯へ共、巨勢兩人は元來町人の儀、御身分の故を以御取立の儀、御國政の道理に當り不申、難有とは不被思召由、御異見有し故、流石、吉宗公にも殊の外(巨勢御取立の節)御困り被遊侯由。尤一旦被仰渡も有之上は、今更御改(あらため)も難成(なりがたき)事に付、此上右兄弟の者御役筋決(けつし)て不被仰付、只今の姿に被差置被下候樣いたし度、倅共の代に至り其器に當り候はゞ如何樣にも被召仕度(めしつかはされたき)段願ひ故、伊豆守兄弟共只奧へ相詰候迄にて、一生御役は不勤(つとめざる)よし。且一位樣よりも度々御對面の儀被仰遣(おほせつかはされ)候得共、輕き身分より結構に成候儀、歴々の御前へ出候身分に無之由、御斷被仰上(ことわりおほせあげられ)、漸々(やうやう)西丸樣より御取持にて一度對顏有しが、始終遙(はるか)の御次にのみ入らせられ、御挨拶等も御近習の女中衆へ御挨拶のみにて、甚敬憚(けいたん)の御事なりしとなり。

 

□やぶちゃん注

・「淨圓院」於由利の方(明暦元(1655)年~享保111726)年)の落飾後の法名。紀州徳川光貞の側室で吉宗の生母。公式な記録では紀州藩士巨勢利清の長女とされるが、本文でも匂わせるように実際には百姓の出であるらしく、紀伊和歌山城に下女奉公に上がっていたところに光貞のお手が付き、貞享元(1684)年に吉宗を出産している。宝永2(1705)年の光貞没後、落飾、吉宗将軍就任の2年後である享保3(1718)年になって和歌山より江戸城二の丸へ移っている。

・「巨勢兩家」浄円院の生家とされる巨勢家の浄円院の兄弟二人。底本の鈴木氏の補注には、浄円院の甥である巨勢至信(ゆきのぶ)、浄円院の弟である由利(よしとし)が享保3(1718)年『幕臣に取り立てられた。各五千石を領』した、とある。

・「三萬石の節を御忘被遊間敷」吉宗は元禄十(1697)年に綱吉より越前葛野藩三万石の藩主に初めて封ぜられた。それから8年後の宝永2(1705)年10月に紀州徳川家5代藩主となり、その2ヵ月後の同年121日に江戸幕府将軍職に就いている。

・「將來御當家勤仕の者」岩波版は「將來」を「從來」とする。訳ではそちらを採る。

・「(巨勢御取立の節)」底本ではこの右に補填した版本を示す「(尊經閣本)」という注記がある。文脈から一目瞭然で不要であるから、訳では省略した。

・「伊豆守」前注の巨勢至信のこと。

・「一位樣」吉宗の死後の別称。吉宗は寛延4(1751)年6月20日に逝去するが、その一年後の寛延5年6月10日に朝廷より正一位太政大臣を追贈されていることから。

・「西丸様」吉宗が寵愛した側室於久免(元禄101697)年~安永61777)年)。紀伊藩士稲葉彦五郎定清の女。芳姫の生母。院号は教樹院。同郷好みで、浄円院とは関係が円満であったか。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 浄円院様御賢徳の事

 

 吉宗公の御母堂様は浄円院殿と申し上げた。その御出生を承れば、実は至って卑しい身分の出で、その御兄弟等も、かつては紀州の町屋の、如何にも低い町人であったのであるが、吉宗公御出世に伴い、浄円院様の甥ごの巨勢至信(こせのゆきのぶ)・浄円院様弟君由利御両家とも、それぞれ石高五千石を賜り、同時に御側御奉公を仰せつけられたとかいうことである。

 しかし、この浄円院様というお方、至って信義に篤い、所謂、「婦中の聖賢」――婦人の中の稀なる聖人にして賢者――とも称せらるべきお行いを貫かれたお方であらせられたという。

 例えば、――吉宗公は御孝行に厚く、日々浄円院様の御座所である二の丸へお成りになられ、御母堂の御身体(おからだ)の御調子お伺いのため、お訪ねになられたのだが、その御帰りの際、浄円院様は吉宗公に向かわれて、

「三万石のあの頃の御事、決してお忘れ遊ばされませぬように。」

と、常々仰せられた、ということである。

 また、――浄円院様御兄弟の巨勢両家に五千石を仰せ付けられた折りのこと、浄円院様は、

「従来より御当家に勤仕(ごんし)しております者、又、この度、はるばる紀州よりお供して参上致しました旧知の御近衆の者は、如何様にも御取り立てになられて然るべきことと存じまするが、この巨勢両人は、元来、町人にて、あなたさまが上さまとなられた、その御身分故に、この下賤の者両名を格別に御取り立てなさるというは、これ、国政の道理に当たらざること、と申せましょうぞ。そのようななさり方は、決して、上さまご自身、有難き正しいこととは、当然、お思いになられて御座しゃらぬことと存じます。」

と、鮮やかにきっぱりと御意見なさったため、流石に、これには吉宗公も殊の外、御困(ごこう)じ遊ばされたということである。そこですかさず、浄円院様は、

「尤も、ひとたび上さまが仰せられお言い渡しあられた上は、今更、お改めになることも成しがたきこと――なればこの上は、向後右兄弟の者、御役筋への任官は決してなさらず、このまんまの、ただ傍らの武士巨勢至信、巨勢由利として差し置かれ下さいますように――その両名の倅どもの代にでもなり、その倅どもの人品才覚に政(まつりごと)に用いるべき何ものかを、万一、見出され遊ばされるようなことでもあれば――その時には、どうか如何様にも召し使ってやって下さいますように。」

との堅き願い出故、後、巨勢伊豆守至信と巨勢由利の兄弟は、ただただ、奥向きに身を置いているというばかりで、生涯、御役を勤めずに終わった、ということである。

 且つまた、――一位吉宗様から、たびたび本丸にての親しき御対面に付き、仰せ遣わされられたので御座ったが、浄円院様は、

「私めは、低き身分の出でありながら、偶々かくありがたい立場に相成りまして御座いますればこそ、貴きお歴々の御前へ参上致すような身分の者にては御座いませねば。」

と、ずっとお断り申し上げておられた。それでもやっと、ご側室の西丸様のお仲立ちにて、一度だけ格式に則った将軍家父母御対面の儀式が執り行われたのであるが、その折も、浄円院様は始終遙か離れた次の間にお入りになられただけで、そこから全くお出になられることなく、御挨拶の折にも、端下の、御近習の女中衆へご挨拶するばかりで、終始、殿中の諸人に敬意を払われ、万事憚って謙虚にお控えになっておられた、ということである。

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