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2009/10/01

耳嚢 萬年石の事

 

「耳嚢」に「萬年石の事」を収載した。漢文部分の校訂と現代語訳に、正直、相当苦労した。誤読について、識者の御教授を乞うものである。

 萬年石の事

 

 品川東海寺は、公より修理を被加故、予勤仕(ごんし)に付、小普請奉行御目付抔と供に彼寺へ到る事あり。右禪刹は澤庵和尚の草創にて、大猷院樣深く御歸依ありし故、萬年石千年杉等の御舊蹟あり。或時右萬年石の由來を尋侍りしに、役者なる僧、澤庵の記を取出し見せける儘、寫置て後慰になしぬ。

 

   東海寺萬年石記

 

今玆寛永癸未三月十四日、左相府、見移臺座於此池沼之上。池有嶋、島有幽石。熟見之、無奇形怪状、不端險挺兮。若由醉号、栗里翁之石乎。或由醒兮、李德裕之石乎、皆不然。彼防風之朽骨乎、或於菟之白額乎。共不然。唯突兀而在草裡、痴兀而含德容。是世之求奇者、未知此石之所貴。偏得恬淡虚無之趣、面者谷神不死之體、如至虚極也、似守靜篤也。相君命侍臣曰、此石不可無名、各以所思聞焉。於此諸子雖有所思、非無所懼、斟酌相半也。時小堀遠江守政一、侍茶爐下。君有旨、政一即起向石、三呼萬年石。石三點頭矣。君下佳言曰、不疑是萬年石也。大度之一言以定天下、況於石乎。鳴呼石乎哉、石乎哉。入于臺覧一旦發光、而陟變改其觀。蓋爲萬之言也。未必以十千可限。凡數者始一而窮十、始十而窮百、始百而則窮千、始千則窮萬、以萬算則不知幾十百千萬億兆年。以此無窮、爲石之壽量。以石之壽量、此君之壽山、則累華頂萬八千丈、猶在麓者耶。以世計、則復不知其幾萬々世矣。村語以銘。曰、重於九鼎萬年石、釣命始驚、豈可輕、和氣一團無盡藏、以秋送復以春迎。

現住 澤庵宗彭記之

[やぶちゃん字注:底本では「東海寺萬年石記」が三字下げ、同「東海寺萬年石記」漢文原文全体が一字下げとなっているが、ブラウザの不都合を考え、上記の通りとした。]

□やぶちゃん「東海寺萬年石記」白文校訂

 

[やぶちゃん注:以下は、底本「東海寺萬年石記」部分を、同鈴木氏の注、更に岩波版「耳嚢」及び私の所持する1996年筑摩書房刊の「江戸名所圖會」巻之二所収の「万松山東海寺」の「万年石」の項の二本と校訂し、句読点を含め、私の判断で補正したものである。但し、筑摩版(ちくま学芸文庫版)は書き下し文・新字採用であるので、正字白文に読み替えて判断した。また、〔→ 〕は、校合した諸本又は一本が正しいとする表記を示す。何れを取ったかは、続く私の書き下し文で示す。最後の偈は読み易くするため、分かち書きとした。]

 

   東海寺萬年石記

 

今玆寛永癸未三月十四日、左相府、見移臺座於此池沼之上。池有嶋、島有幽石。熟見之、無奇形怪状、不端險〔→端然〕挺立。若由醉号兮、粟里翁之石乎。或由醒兮、李德裕〔→李悳祐〕之石乎。皆不然。彼防風之朽骨乎、或於菟之白額乎、共不然。唯突兀而在草裡、痴兀而含德容。是世之求奇者、未知此石之所貴。偏得恬淡虚無之趣、面者〔→而有〕谷神不死之體、如至虚極也、似守靜篤也。相君命侍臣曰、此石不可無名、各以所思聞焉。於此諸子雖有所思、非無所懼、斟酌相半也。時小堀遠江守政一、侍茶爐下。君有旨、政一即起向石、三呼萬年石。石三點頭矣。君下佳言曰、不疑是萬年石也。大度之一言以定天下、況於石乎。鳴呼石乎哉、石乎哉。入于臺覧一旦發光、而陟變改其觀。蓋爲萬之言也。未必以十千可限、凡數者始一而窮十、始十而窮百、始百而則窮千、始千則窮萬、以萬算則不知幾十百千萬億兆年。以此無窮、爲石之壽量。以石之壽量、此〔→比〕君之壽山、則累華頂萬八千丈、猶在麓者耶。以世計、則復不知其幾萬々世矣。村語以銘。曰、

 

 重於九鼎萬年石

 

 釣命始驚豈可輕[やぶちゃん字注:釣〔→鈞〕。]

 

 和氣一團無盡藏

 

 以秋送復以春迎

 

現住 澤庵宗彭記之

 

□やぶちゃん「東海寺萬年石記」書き下し文

 

[やぶちゃん注:以下は、前掲校訂の白文を岩波版「耳嚢」及び私の所持する1996年筑摩書房刊の「江戸名所図会」巻之二所収の「万松山東海寺」の「万年石」の項の二本(但し、これは同一親本によるものである。即ち、岩波版は「江戸名所圖會」と校合しているのである。但し、長谷川氏は『「江戸名所図会」三のものにより』とされているが、「二」の誤りであろう)を参考にしながら、私の判断で訓読したものである。基本的には漢文で記されたものであることを重視し、原則、音読を優先した。一部に読み易さを考えて読点を増やした。]

 

   東海寺萬年石の記

 

 今玆(ことし)寛永癸未(きび)三月十四日、左相府(さしやうふ)臺座を此の池沼の上(ほとり)に移さる。池に島有り、島に幽石有り。之を熟見(じゆくけん)するに、奇形怪状無く、端然梃立せず。若し醉ふがごとくんば、栗里翁(りつりをう)の石か。或は醒むるがごとくんば、李德裕の石か。皆然らず。あるいは防風の朽骨か、或は於菟(をと)の白額(びやくがく)か、共に然らず。唯、突兀(とつこつ)として草裡に在り、痴兀(ちこつ)として德容を含む。是、世の奇を求むる者、未だこの石の貴なる所を知らず。偏へに恬淡虚無の趣を得て、谷神不死の體(てい)有り、虚、極に至るごとく、靜、篤を守るに似たり。相君(しやうくん)、侍臣に命じて曰く、「この石は名無かるべからず、各々思ふ所を聞かん。」と。此に於いて諸子思ふ所有りと雖も、懼るる所無きに非ず。斟酌相半ばす。時に小堀遠江守政一(まさかず)、茶爐(ちやろ)の下(もと)に座す。君、旨(むね)有り、政一、即ち起ちて石に向かひ、三たび「萬年石。」と呼び、石、三たび點頭す。君、佳言を下して曰く、「疑はず、是れ、萬年石なり。」と。大度(たいど)の一言、以て天下を定む、況んや石に於いてをや。鳴呼、石なるかな、石なるかな。臺覧(たいらん)に入りて、一旦、光を發し、陟(のぼ)りて其の觀を變改す。蓋し萬の言爲すや、未だ必ずしも十千を以て限るべからず、凡そ數は一に始まりて十に窮まり、十に始まりて百に窮まり、百に始まりて千に窮まり、千に始まりて萬に窮まり、萬を以て算(かぞ)ふれば即ち幾十百千萬億兆年なるを知らず。此の無窮を以て石の壽量と爲す。石の壽量を以て、君の壽山に比すれば、則ち華頂萬八千丈を累(かさ)ぬるとも、猶ほ麓に在るがごとき者か。世を以て計るに、即ち復た其の幾萬々世なるを知らず。村語を以て銘す。曰く、

 

 九鼎(きうてい)より重し 萬年石

 

 鈞命(きんめい) 始めて驚く 豈に輕んずべけんや

 

 和氣一團 無盡藏

 

 秋を以て送り 復た春を以て迎ふ

 

と。

 

現住 澤庵宗彭(そうはう)之を記す

 

□やぶちゃん注

 

・「東海寺」萬松山(ばんしょうざん)東海寺。現在の東京都品川区にある臨済宗大徳寺派寺院。寛永161639年)年に徳川家光が沢庵宗彭を招聘して創建した。当時、徳川家菩提寺兼別荘相当の格式であった。

 

・「予勤仕に付」鎮衛の履歴から考えると、出仕始めの勘定所御勘定や、その後の勘定組頭及び勘定吟味役の何れかである。比較的、近過去の体験という感じであるから、勘定組頭か勘定吟味役であった折りの体験であろう。

 

・「小普請奉行」ウィキの「小普請奉行」によれば、『旗本から任じられ、若年寄に属し』、『江戸城をはじめとして、徳川家の菩提寺である寛永寺、増上寺などの建築・修繕などを掌った。物品を購入する「元方」と、その物品を配分する「払方」が設置され、定員はそれぞれ1名であった』とある。

・「御目付」若年寄に属し、江戸城内外の査察・危機管理業務・殿中礼法指南・評定所業務立合など、何事につけても目を光らせる嫌がられた監察役である。この時期には定員10人となり、十人目付とも呼ばれた。

 

・「澤庵和尚」江戸前期の臨済宗の名僧澤庵宗彭(天正元(1573)年~正保2(1646)年)のこと。かつて住持をした大徳寺での紫衣(しえ)事件(後水尾天皇が幕府に無断で紫衣着用の勅許を下したこと)に関わって抗議を行い、出羽に流罪となる。その後、二代将軍秀忠の死去に伴う大赦で赦され、噂を聞いていた家光の深い帰依を受けて、萬松山東海寺を草創した。書画・詩文・茶道にも通じ、祐筆家でもあった。沢庵漬けの起源には諸説があるが、彼はその発明者とも言われ、ウィキの「沢庵漬け」によれば、本『東海寺では、「初めは名も無い漬物だったが、ある時徳川家光がここを訪れた際に供したところ、たいそう気に入り、『名前がないのであれば、沢庵漬けと呼ぶべしと言った」と伝えられている。東海寺では禅師の名を呼び捨てにするのは非礼であるとして、沢庵ではなく「百本」と呼ぶ。』と記す。

 

・「大猷院」三代将軍徳川家光。

 

・「千年杉」1996年筑摩書房刊の「江戸名所図会」巻之二所収の「万松山東海寺」には「千歳杉(せんざいすぎ)」の名で載る。それによれば『寛永の頃、大樹命ぜられて千歳杉といふとぞ』とあり、大樹とは徳川家光のことであるから、本話柄と共通する要素を持っている模様である。

 

○以下「東海寺萬年石記」部分注

 

・「寛永癸未」訓ずれば「みづのとひつじ」である。岩波版が音でわざわざルビを振っており、漢文脈であることを配慮して「きび」とした。寛永201634)年。

 

・「左相府」左大臣。家光のこと。家光は、先立つ寛永3(1626)年7月に上洛、二条城で後水尾天皇に拝謁し、左大臣となった(左近衛大将を兼任)。

 

・「熟見之」岩波版は「熟」に「つらつら」のルビを振るが、採らない。

 

・「端險〔→端然〕梃立」1996年筑摩書房刊の「江戸名所図会」巻之二所収の「万松山東海寺」には、「正しくは、端然」の編者割注があるので、「東海寺萬年石之記」原本自体の誤字かとも思われる。

 

・「栗里翁」の「栗里」は江西省北部の潯陽(現・九江市)附近の地名で、同所にある出身地柴桑と共に六朝・魏晋南北朝時代の詩人陶淵明(365427)の故郷(昔馴染みの場所の謂い)の一。

 

・「李德裕〔→李悳祐〕」李徳裕(787849)は唐代の政治家。当代屈指の名門李氏の出身で、憲宗の宰相であった李吉甫の子。後世の仏教徒には武宗の宰相として、「会昌の廃仏」で悪名高い人物であるが、太湖石の蒐集等、無類の愛石家としても知られていたらしい。「悳祐」の「悳」は「德」の本字であるが、彼が「悳祐」と名乗ったかどうかは中文サイトでも確認出来なかった。一般的に知られる「德裕」を採用した。

 

・「防風」防風氏のこと。夏王朝の伝説の聖王禹が治水事業のために諸侯を集めたが、献上品を捧げる者が万を数える中、防風氏は遅れて来たため、禹は不服従なりとして、彼を処刑した。防風の身の丈は三丈もあり、死骸の骨を運ぶに車を用い、載せる為には削らねばならなかったという。池の中の島の石であること、寺のすぐ傍を暴れ川として有名な目黒川が流れていることと関係するか。

 

・「於菟」虎の別名。春秋時代の楚の方言。この石、白色で虎の頭部の形に似ていたか。また、陰陽道の西の守護神である白虎をも意識した叙述か。但し、「江戸名所図会」等を見ても、如何なるものの位置の西かは不明。江戸城からは殆んど南である。

 

・「面者〔→而有〕」諸本は「而有」を採り、「而して谷神不死の體有り」と訓じている。恐らく衍字なのであろうが、私は心情的には底本通り「面(おもて)は谷神不死の體(てい)」と読んでも、何ら問題なく感じるものではある。

 

・「谷神」「こくしん」と読む。谷間の空虚な場所の謂いであるが、通常、老子が人知を超えた宇宙の本体である「道」を喩える言葉として用いられる。

 

・「小堀遠江守政一」(天正7(1579)年~正保4(1647)年)は江戸前期の近江小室藩藩主。茶人・建築家・作庭家としても知られ、一般にはその任地を別号として小堀遠州の名で知られる。この時、55歳、伏見奉行であった。

 

・「茶爐」茶を立てるための釜を置く炉のこと。

 

・「年なるを知らず」この「年」は、一つの区切るべき単位、という意味で解釈した。

 

・「此〔→比〕」ここは上下の文脈からも動詞がこないとおかしい。「比」である。

 

・「華頂」浙江省中部の天台県北方にある中国三大霊山の一つである天台山の最高峰である華頂峰のこと。標高1,138m。古来、中国天台宗の開祖天台大師智顗(ちがい)所縁の地として信仰を集めた。南麓に智顗の創建になる国清寺がある。

 

・「九鼎」先に防風で示した夏の禹が九州(中国全土)から貢上させた青銅を以って鋳造させた巨大な鼎(かなえ)で、中国に於ける王権(天子)の象徴として夏・殷・周三代に伝えられたという神器。

 

・「釣〔→鈞〕」「鈞」の誤字。「鈞」は尊敬を表わす接頭語で、日本語の「御」に相当する。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 万年石の事

 

 品川東海寺は御公儀より直々に修理を加えられることと相成り、私の職掌柄、小普請奉行及び御目付らと共に、かの寺に何度か御用向きで赴いたことがあった。この禅刹は沢庵和尚が開山され、大猷院家光様が深く御帰依なされた由緒ある寺院である故、万年石・千歳杉といったの御旧跡が多くある。ある時、私、この万年石の由来に付、興味の段これあって、聊か訊ね致いたところ、役僧が、沢庵の記した書を取り出し、見せて呉れた、それをその儘、ここに写し置き、後日(ごにち)の徒然の慰めとなし置く。

 

   東海寺万年石の記

 

 今年、寛永癸未(みずのとひつじ)の年の三月十四日、左大臣家光様がこの池の畔(ほと)りに御来駕あらせられた。池の中に島があり、その島に静謐な深山の趣きを湛えた石がある。

 

 ――この石を凝っと観察して見ると、これと言った奇(く)しき形や怪異な状(かた)ちがある訳ではなく、かといって一糸乱れずきちんとしていて、殊更に抜きん出て美事に屹立しておる、という訳でもない。

 

 酔狂に喩うれば、閑適を生きた栗里翁靖節先生陶淵明遺愛の石とでも戯れるか、或いは、殊更に醒めて喩うれば、愛石家たる詩人李徳裕秘蔵の石とでも謂うか。否、何れもこの石を謂い得てはおらぬ。

 

 或いは、禹が諸侯を集めた折り、遅れたために殺されたという伝説の人、防風の朽ちはてた骨の化石か。或いは、神獣白虎の額が石化したものか。否、何れもこの石を謂い得てはおらぬ。

 

 ただ、にょっきりと叢に在る。呆(ほう)けたように突っ立っているその様は、何がなしに有り難い、曰く言い難い面影を含んでおる。

 

 さても、奇岩怪石を求めるように、世の中に奇異なるものを求むる者には、凡そこの石の貴い核心を知ることは出来ぬ。

 

 この石はひたすら無欲にして執着なき虚空無限の趣きを湛えて、同時に「谷神死せず」、かの不可知の宇宙の絶対原理の存在を、その体(てい)に現わしておる。虚空一切空の極みに至っているかのように、また絶対の静謐を深く守っているかのように。――

 

 この時、相君家光様は、控えておった家臣にお命じになって言われた。

 

「この厳かなる石に名がないはずがない。各々、この石の名、その思うところを聞こう。」

 

そこで並み居る方々におかせられては、それぞれに浮かぶところの名があったのであったが、お上の手前、畏れ多い気持ちが働いた上に、互いに遠慮し譲り合うばかりでその場を沈黙が支配した。その折り、かの名作庭家小堀遠江守政一が、たまたま茶を立てるためにお側の茶炉の近くに控えていた。

 

「遠江守。如何(いかが)?」

 

との君命に、政一は、すくっと立つと、即座に中の島の石に向かい、ゆっくりと三度、

 

「万年石!――万年石!――万年石!――」

 

と呼ばわった。すると、その石が――何と! その三度の呼びかけに答えて、人の如く、頷いたのであった。

 

 お上は、それをご覧になって、

 

「間違いない! これ、万年石なり!」

 

と貴く目出たい御言葉を賜わったのであった。

 

 お上は、その広大無辺なる大御心の一言を以って天下を平定なさっておられる。況や石に於いてをや!

 

 ああ! その石! その石!

 

 お上の御覧(ぎょらん)を得て、その瞬間、石は光を放って、平伏するように畳み重なり合って、その姿を見る間に変えた!

 

 思うに、この「萬」という名を持つ所以は何か? そもそも凡そ、「十」や「千」という数を以って、真意としての「ある限界」を示すことには、ならぬのである。凡そ数は、「一」に始まって「十」に窮まり、しかしそこで留まらずに「十」に始まって「百」に窮まり、しかしそこで留まらずに「百」に始まって「千」に窮まり、しかしそこで留まらずに「千」に始まって「万」に窮まり、そして更に、そこで留まらずに「万」を以って新たな数詞として新たに数え上げられるために、即ち、幾十百千「万」、その数詞が永遠に循環して繰り返されて、遂に「億」「兆」と続いて、区切るべき限界がないのである。この無窮無限の名を以って、石の寿命とするのである。その石の寿命を以って、今、御命名あらせられたお上の大御心の深奥なるに比するならば、即ち、それは一万八千丈を重ねた唐土(もろこし)の天台山頂華頂峰の、未だその麓(ふもと)に在るのと同じことなのである。その大御心の行き渡る時間をこの現世の時間で測てみても、即ち、それはまた、その大御心が幾「萬々」世に渡って続くかということさえも測ることが出来ぬ程の永劫なのである。お畏れながら、田夫野人の拙僧の言葉を以って一偈を成さんとす。

 

 

 九鼎よりも重い――万年石――されど

 

 貴命あり――永遠の時空の中で始めて驚いた――石とてもこの貴き御言葉を軽んずることは出来ぬ

 

 宇宙を包む絶対の穏やかな一体となった気――それはそのまま無尽蔵無一物の絶対の真理の中に在る――

 

 さあ例えば秋を送ろう――そしてまた春を迎えよう――永遠の時を迎え取ろう――

 

   現住職 沢庵宗彭之を記す

 

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