耳嚢 微物奇術ある事
微物奇術ある事
日下部丹波守其昔咄しけるに、同人の庭の池に、秋の此蜻蛉多く集りて飛廻りしに、池中の鮒數十、右蜻蛉を見入たるや、くる/\と水中を右蜻蛉に付て廻りしに、後は蜻蛉も同じく廻りけるが、おのれと水中へ落入しに、數多の鮒集りて喰しといへる事を、曲淵(まがりぶち)甲州の咄也き。
□やぶちゃん注
・「日下部丹波守」日下部博貞(ひろさだ 明暦4・万治元(1658)年~享保13(1728)年又は享保19(1734)年)。大坂城勤番・長崎奉行(享保2(1717)年~享保12(1727)年)を歴任。赤穂事件では受城目付に命ぜられたが、浅野長矩と遠縁とのことで辞退している。
・「曲淵甲州」曲淵甲斐守景漸(かげつぐ 享保10(1725)年~寛政12(1800)年)のこと。以下、ウィキの「曲淵景漸」によれば、『武田信玄に仕え武功を挙げた曲淵吉景の後裔』で、『1743年、兄・景福の死去に伴い家督を継承、1748年に小姓組番士となり、小十人頭、目付と昇進、1765年、41歳で大坂西町奉行に抜擢され、甲斐守に叙任される。1769年に江戸北町奉行に就任し、役十八年間に渡って奉行職を務めて江戸の統治に尽力』、『1786年に天明の大飢饉が原因で江戸に大規模な打ちこわしが起こり、景漸はこの折町人達への対処に失態があったとされ、これを咎められ翌年奉行を罷免、西ノ丸留守居に降格させられた。松平定信が老中に就任すると勘定奉行として抜擢され、定信失脚後まで務めたが、1796年、72歳の時致仕を願い出て翌年辞任した』。天明の大飢饉の際に『町人との問答中に「米がなければ犬を食え」と発言し、この舌禍が打ちこわしを誘発するなど失態もあったが、根岸鎮衛と伯仲する当時の名奉行として、庶民の人気が高かった』とある。この注のために誰かが書いてくれたかのような、美事な末尾である。根岸の先輩である。
■やぶちゃん現代語訳
たかが鮒にも奇術のある事
「日下部丹波守博貞殿が、その昔、語ったという話――同人の屋敷の庭の池に、秋の頃おい、蜻蛉が沢山集まって飛び回っておったのだが、眺めておると、池の鮒が数十尾の鮒が、水面近く浮き出でて蜻蛉を凝っと見つめておる……見つめておると思うたら、急に鮒どもが……くるくる……くるくると、水中で、宙を飛ぶ蜻蛉に合わせて回り始めた……いや、よく見れば、今度はその鮒の動きに合わせて……蜻蛉も同じように、くるくる……くるくると回っておったところが……見る間に、次から次へと自然、水中に落入ってゆく……そうして、落ちたかと思うたら……数多の鮒が群がって……それを貪り食ってしもうた、そうな。」
とのこと。これは私が曲淵甲斐守景漸殿から聞いた話である。
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「耳嚢」に「微物奇術ある事」を収載した。

