耳嚢 藝は智鈍に寄らざる事
「耳嚢」に「藝は智鈍に寄らざる事」を収載した。 * 藝は智鈍に寄らざる事
今の鷺仁右衞門祖父の仁右衞門は、甚病身にて愚に相見へ、常は人と應對は物言(ものいひ)はしたなき程に有しを、其比上手と人のもてはやしける七太夫又は金春太夫抔は、唯今亂舞の職たりし内、名人と申は仁右衞門也と語りし故、心を付て見たりしが、不斷は物もろく/\不申男也。狂言に懸り御舞臺へ出れば、格別の氣取に見へしと、安藤霜臺の物がたりき。
□やぶちゃん注
・「鷺仁右衞門」「鷺」家は、鷲仁右衞門を宗家とする狂言三大流派(大蔵流・和泉流・鷲流)の一派。江戸時代、狂言は能と共に「式楽」(幕府の公式行事で演じられる芸能)であった。大蔵流と鷲流は幕府お抱えとして、また和泉流は京都・尾張・加賀を中心に勢力を保持した。但し、現在、大蔵流と和泉流は家元制度の中で維持されているが、鷲流狂言の正統は明治中期には廃絶、僅かに山口県と新潟県佐渡ヶ島、佐賀県神埼市千代田町高志(たかし)地区で素人の狂言師集団によって伝承されているのみである。岩波版の長谷川氏の注によれば、この『今の鷲仁右衞門は仁右衞門定賢(文政七年(一八二四)年没、六十四歳)、祖父は仁右衞門政之(宝暦六年(一七五六)没、五十四歳)か。』と記す。「定賢」は「さだまさ」と読むか。
・「七太夫」能役者喜多七太夫。能の喜多流は江戸初期に興った、金剛流の流れを汲む新興流派。ウィキの「喜多流」によれば、『流派の祖は徳川秀忠に愛好された喜多七太夫。七太夫は金剛太夫(金剛流の家元)弥一の養子となり金剛太夫を継承したが、弥一の実子・右京勝吉の成人後に太夫の地位を譲った。その後、徳川秀忠、徳川家光の後援を受けて元和年間に喜多流の創設を認められ、喜多流は四座の次に位置する立場となった』とある。岩波版で長谷川氏は喜多七太夫、『あるいは十太夫親能か』と注す。「栗谷能の会」HPの「『喜界島』を演じて」他幾つかの頁を読むと、ここで長谷川氏が挙げる最初の七太夫は七太夫長義(おさよし)で、七世喜多十太夫定能と八世十太夫親能との間で八世を継承する人物であったが、部屋住みのまま早生した人物で、九世喜多七太夫古能(健忘斎)の父親であると記す。同じく長谷川氏が『あるいは』とする十太夫親能は、今見た通り、喜多流八世である。因みに、ここで登場している九代目古能健忘斎は喜多流中興の祖と称せられる人物で、文政12(1829)年頃に没している。
・「金春太夫」「耳嚢」前々項「金春太夫が事」注参照。
・「亂舞」中世の猿楽法師の演じた舞。近世には能の演技の間に行われる仕舞に変化し、それが狂言となった。「らっぷ」とも読む。
・「氣取」そのものの気持ちになってみること、他の者の様子を真似ることを言う語。
・「安藤霜臺」「耳嚢」前々項「金春太夫が事」注参照。
■やぶちゃん現代語訳
芸事の達者は必ずしも知的能力に関わる訳ではない事
「当世の鷺仁右衛門の祖父であった仁右衛門という男は、甚だ病弱にして、失礼乍ら、如何にもぼうっとした感じに見えての――常日頃、人と応対する折りも、ちょっとした会話もままならぬ体(てい)で御座った。ところが、その頃、世間で能の名人と誉れ高かった喜多七太夫や今春太夫などは、
『只今、お能乱舞の生業(なりわい)をなす者の内、名人と申せば、やはり仁右衛門じゃ。』
と口を揃えて語る。さればこそ、その後は、儂も彼にそれとなく目を配って御座ったが、やはり普段は、ものもろくろく喋れない――いや、正直、愚鈍ではなかろうかとさえ感じる――男で御座った。ところが、いざ、狂言芝居が始まり、舞台に出た途端、これがまた、格別に役になりきり、いや、美事、役にはまりきって見えたもんじゃ……。」
とは、安藤霜台殿が私に物語った話である。

