耳嚢 やろかつといふ物の事/ちかぼしの事
「耳嚢」に「やろかつといふ物の事」及び「ちかぼしの事」を収載した。
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やろかつといふ物の事
蠻國産の由。やろかつといふ物、ちいさき蓮華を押堅たる樣成もののよし。いづれの御時にか有し、御簾中(れんちゆう)樣御産の時安産の呪(まじなひ)たる由。器に水を盛、彼品を入置しに、御産しきりに隨ひ右器の内を廻り、御安産の時に至り開き候よし。又御血治り候に隨ひ元の通りに成ける。奇成ものの由、奧勤(おくづとめ)いたせる老人の物語りゆへ爰に記す。
□やぶちゃん注
・「やろかつ」不詳。安産の呪物としてはタカラガイ(コヤスガイ)が有名で、その他、臼や箒、ある種の霊石、猿の手骨等を知るが、このような物体は聞いたことがない。一読、所謂、「ちいさき蓮華を押堅」めたという形状から、腹足類のサザエ等に見られる炭酸カルシウムの蓋を想起したが、これは酢ならまだしも水では運動しないし、開いたり元の形状に戻るというのは当たらない。次に考えたのは中国茶で見かける球状に干し固めた毬花茶(まりはなちゃ)の類で、これは恐らく水分を吸収する際に動くように見えるし、美しく開く。しかし、やはり元には戻らない。識者の御教授を乞うものである。叙述内容からして、鎮衛は実見していない。
・「蓮華」スイレン目ハス科ハス Nelumbo nucifera のこと。マメ目マメ科ゲンゲ Astragalus sinicus をも指すが、わざわざ「ちいさき」と言っている以上、ハスの開花前の花若しくはハスの実を言っていると思われる。形状の特異性から言えば、ハスの実、あの蜂の巣状の花托の謂いであろう。
・「押堅たる」岩波版では「ほしかためたる」とある。
・蠻國産:南蛮渡来。言葉の響きや漢字を全く当てていない点からは、少なくとも名称はポルトガルかオランダ語由来であろう。
・「簾中」一般には貴人の正妻を言う語であるが、岩波版で長谷川氏は特に『将軍後継者の妻をいう』と記しておられる。
・「奧勤」大奥勤め。
■やぶちゃん現代語訳
「ヤロカツ」という呪物の事
南蛮渡来の品です、という。「ヤロカツ」というそれは、小さな蓮花の実を押し固めたようなものです、という。幕府御創成以来、何れの御時からであろうか、判然と致しませぬが、次の御世の将軍家たらんとする御方の、御台所様御出産の折りの、安産のおまじないとして必ず用いられて参りました、という。その呪法はと言えば、まず器に水をたっぷりと入れ、これをその中にそっと入れおくと、お産が進むに従い、この物、自然とその器の中をくるくると気持ちよさそうに泳ぎ廻りまする。さうして無事お子様がお生まれになったその瞬間、ぽんと、花のように開きまする、という。その後、産後に出血が治まりになられるにつれて、再び投入する前の押し固めたような元通りの形となりまする。誠に、奇体なるもので御座いました、という由、奥勤めの経験があった老女が私に物語ったことがある故、ここに記し置く。
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ちかぼしの事
近星出れば大臣の愁ひありと。俗説何による事を知らざりしに、曲淵(まがりぶち)氏の物語りに、何れの書にてやありけん其事を書しを見侍りき。老中抔病氣危急の時は、生干の鱚を御使して被下事定例也。生干は近く干す故、けふは近干の御使出しといふを、いつの此よりか唱へ誤りけんとの物語、面白き故爰に記す。
□やぶちゃん注
・「近星」月に有意に近く突然出現するように見える星。死・災厄(特に火災や兵乱)といった凶事の前兆とされ、古来、多くの歴史書や日記等にも記載が見られる。
・「曲淵氏」恐らく16条先の「微物奇術ある事」に話者として出る曲淵甲州、曲淵甲斐守景漸(かげつぐ)のことと思われる。以下、「朝日日本歴史人物事典」の曲淵景漸(享保10(1725)年~寛政12(1800)年)の項によれば、江戸後期の江戸町奉行で、『明和1(1764)年2月目付のとき、大坂での朝鮮通信使従者殺害事件の処理に当たる。同4年12月大坂町奉行のときは、大坂家質奥印差配所設置にかかわる。天明7(1787)年5月江戸町奉行のとき、江戸は米価高騰で市中が不穏な状況に陥ったが、曲淵は適切な対応を取らず、数日にわたり打ちこわしが各所で起きる。以前の飢饉では猫1匹が3匁したが、今回はそれほどでもないといったという風聞も立った。よって翌6月町奉行を罷免されたが、翌8年11月に公事方勘定奉行となる。天明の打ちこわしを惹起した対応を除けば、真に能吏であった』という詳細な記載が載る。鎮衛との、この話での接点は明和1(1764)年前後の目付の折であろう。鎮衛より一回り上の上司である。
・「鱚」スズキ亜目キス科キス属シロギス Sillago japonica 又はアオギス Sillago parvisquamis。漁獲量が減った現在では、淡白な高級干物であるが、当時でも贅沢品であったか。脂の少ない点、病気見舞いにはよいと思われる。
■やぶちゃん現代語訳
凶星ちかぼしの事
月の近くに星が突如出現すると、当代の大臣にとって不吉なことが起こる、なんどとよく言われる。全くの俗説にして、如何なる謂われがあるのかも知らなかったのだが、曲淵甲斐守殿のお話に、
「どの書物であったか、さて、書名は忘れたが、その謂われを記したのを確かに見た覚えが御座る。それによれば、ほれ、老中など病気危急の際には、お上より、生干しの鱚を御使者に持たせて御見舞下されるのが定例で御座ろう? あの「生干し」というのは、獲ってすぐに干してすぐに降ろす、近日(きんじつ)干し、近日(ちかび)干し、「近(ちか)干し」故、『今日は近干しの御使者が出た』と言うたのを、いつの頃よりか聴き誤ったのであろう、というので御座った――」
と、まあ、何とも意外で面白きこと故、ここに記す。