芥川龍之介「靜かさに堪へず散りけり夏椿」の句について
芥川龍之介の「静かさに堪へず散りけり夏椿」という句は誰を悼んでいるのか?」というネット上の質問にお答えになっている方が、僕の「やぶちゃん版芥川龍之介句集」を引用されているのを今朝見つけた。大変、有難いことではあるが、やや誤解されている部分と、不十分な箇所があるので(残念なことに回答は既に本年10月1日で締め切られてしまっている)補足しておく。
まず、回答者が引用されている句はやぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」≪のページでは≫「後ろに配した『「芥川龍之介未定稿集」に現われたる句』の中に現れる。そこには、
悼亡
靜かさに堪へず散りけり夏椿〔編者注――「夏椿」は沙羅の花の異名〕
土雛や鼻の先だけ暮れ殘る〔編者注――自ら「姉さま人形」の土雛を描きて〕
(以上二句、大正十四年)
とある。本日、再確認したが、間違いなく編者葛巻義敏は同書575ページに「(以上二句、大正十四年)」として、掲げている。そして、この『〔編者注――「夏椿」は沙羅の花の異名〕』というのは編者葛巻義敏の編注である。僕(=やぶちゃん)の編注ではない。回答者の表現は、ややその点が誤解を生む。
さて、質問者はこの答えに対して、『私が目にしたのは『芥川竜之介句集 我鬼全句』(永田書房1991)の103ページ。そこには「大正11」とある。』(表記ママ)とされており、それも今、確認した。以下の通りである。
悼亡
沙羅の花 静かさに堪へず散りけり夏椿
夏椿は沙羅の異名と知るべし
「沙羅の花」という頭書は編者村山古郷の季題表記、一句の後書きは、その口調から100%芥川龍之介自身のものという≪感じ≫である。そこが「芥川龍之介未定稿集」と大いに異なる。そして、この後書きは以下に示す通り、書簡内の芥川龍之介自身の言葉であることが分かっている。
さて、この質問者(御覧になると分かるが、「回答者」ではない。答えに対するお礼の中で質問者が述べている)は次に『悼亡の句という性格上、私信に添えられた可能性が高い。書簡集をあたったほうがいいのではないか、例えば【大正11年3月19日】あたりの・・・』と記す。その後に、別な回答者の冒頭の西村貞吉宛書簡の『良回答10pt』が示されている。
しかしながら、≪実はこれについては、≫既に僕の「やぶちゃん版芥川龍之介句集三 書簡俳句(明治四十三年~大正十一年迄)」で採取してある。僕としては僕のHPを紹介して下さった回答者の方に、こちらのページまでチェックして戴ければ、よりよかったと思うものである(なお、葛巻の作句年代の誤りについて補注を施していない点は僕の不備とも言えよう。本件を受けてはやぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」の該当句に注記を施すこととする)。該当句を僕の注記と共に掲げておく(書簡番号は旧全集のもの)。
悼亡
靜かさに堪へず散りけり夏椿
(一〇〇五 三月十九日 齋藤貞吉宛。齋藤(西村)貞吉は府立三中時代からの芥川の友人である(前掲新全集996書簡参照)。句の直前に「Last but not least(コレハ西村流ナリ)お前の不幸をいたむ但しあんな手紙は貰ひたくない暗澹たる氣が傳染していかん下の句あの手紙を見た時作つたのだ」とあり、句の後に「夏椿は沙羅の異名と知るべし」とある。英文は「大事なことを一言言い忘れた」という意味。この書面全体に漂う芥川のアンビバレントな感情の原因(恐らく齋藤の縁者の死を伝えたのであろう「あんな手紙」の内容)は判然としない。)
このネット上の質問者の、芥川龍之介は誰を悼んでいるか、という答えは、西村の知人・縁者と答える以外にはない。九二六書簡(「芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈」)に現れる「五郎」なる謎の人物や、回答者の方が提示する「母」のプロットは、その亡くなった人物に繋がっている可能性が大きいようには思われる。「長江游記」の「一 蕪湖」を読んでも、齋藤貞吉にはある種の妙に孤独な影が見え隠れする――が、いずれにせよ、この「悼亡」の追悼句は、その消息文の書き方から見て、≪芥川のその逝去した対象者への深い追悼の念から作句されたものではないこと≫は実感される。寧ろ、乱暴な消息文の言葉遣いと静謐な句表現の中で、芥川は傷心の友齋藤自身を慰藉しているのである。