耳嚢 貨殖工夫の事
「耳嚢」に「貨殖工夫の事」を収載した。
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貨殖工夫の事
享保の時代に藪(やぶ)主計(かずへの)頭といへる人有り。御側衆を相勤、後隠居して大休と號し候後も登城抔いたせる人也。主計頭至て倹約を専らにして、既に存命の内、子孫へ吹詰(ふきづめ)の金塊を両三丸づゝ、應親疎(しんそにおうじ)分與へしとかや。右貨殖の手法を聞しに、縦令平日にも風雨或は地震抔有ければ、家來を呼、昨夜の風雨に居(ゐ)屋敷下屋敷等破損何程也(なり)と尋けるに、家來も其氣に應じて、聊破壊に不及所をも、是程かれ程の損じ入用凡何十兩可懸と答、則右金子を除置て貯けるとかや。愚成様なれ共、音信贈答祝儀無祝儀朝夕晝夜都(すべ)て右に随ひ規矩を定、段々積財をなし給ふと也。
□やぶちゃん注
・「藪主計」藪忠通(ただみち)鈴木・長谷川両注によれば、紀州徳川家の家臣藪勝利の次男で、享保元(1716)年に後の第九代将軍徳川家重(正徳元(1712)年~宝暦11(1761)年)に従って出仕、小納戸役300石に始まり、新番頭から西丸御側となり、浄円院(吉宗生母)の病気の際、精勤したことにより賞せられ、後、5000石を領した。寛延2(1749)年に職を退き、宝暦4(1754)年に76歳で亡くなった。鈴木氏は最後に職を退いた際、更に『慶米六百俵を賜わり、その後もしばしば登城して御気色をうかがい、吉宗の没後遺物として佩刀を賜わりなどした』と記す。因みに、吉宗の没年は寛延4(1751)年。
■やぶちゃん現代語訳
利殖の工夫の事
享保の年間、藪主計頭という人があった。御側衆を相勤め、後に大休と号して隠居致いて後も、しばしば登城など致いた人である。主計頭は至って質素倹約、節約節用を日々の行いとして、既に存命の内に子孫らへ、精錬して丸めた極上の金塊を三個宛、真に親しき者を勘案して財産分与したとかいうことである。その主計頭に、ある人がその利殖の秘訣を尋ねたところ、
「例えば――そうですな、日常、雨風のちょっと強い日やら軽い地震などがありました日には、家来の者どもを呼びまして、何時も『昨夜の雨風にて屋敷内・下屋敷などの損傷は如何ほどあったか?』と尋ねまする。すると家来も拙者の何時も心配が始まったと、内心、調子に乗りまして、聊かも破損に及ぶところがこれなき時にも、『これかれの損壊これ有り、御修繕のための御費用、凡そ何十両掛かることと存じまする。』と答え、拙者はまた、言われるが儘に、余っております金子からその分を修繕費として確かに除け置いて、貯えておくので御座る。――」
とか、言われたそうな。
一見、ちょっとした、また、何処やら間の抜けた話のようにも聞こえるが、日常の音信伝送・各種贈答・冠婚葬祭のみならず、朝夕昼夜の挙止動作に至るまで、一事が万事この要領と基準を厳しく守り定めて、次第に次第に一財産成された、ということである。

