耳嚢 和國醫師僧官起立の事
「耳嚢」に「和國醫師僧官起立の事」を収載した。
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和國醫師僧官起立の事
後小松院の御宇、半井(なからゐ)驢庵事和朝の醫師僧官の始のよし。右は最勝王經天女品(ぼん)に、聊沐浴するの藥劑有し、其比は右の經文比叡山の佛庫に封じあるを、閲見の望ありて奏聞ありし故、叡山へ敕命ありしに、俗躰の者拜見を禁じければ、半井驢庵法躰して僧官を給はり、右最勝王經を一覧致しけるとかや。往古はかゝる事もありしやと見ゆ。最勝王經の藥法、強て利益あるものにもあらずと思ふ由、さる老醫の物語なりき。
□やぶちゃん注
・「起立」は「きりふ(きりゅう)」と読む。事始・創始の意。
・「後小松院」室町時代北朝最後の第6代天皇にして歴代第100代の後小松天皇(永和3・天授3(1377)年~永享5(1433)年)。在位は永徳2・弘和2(1382)年~応永19(1412)年。
・「半井驢庵」諸注・諸記録を参照すると、代々医師の家系であった半井家には「驢庵」を号する習慣があり、澄玄明親(あきちか 生年不詳~天文16(1547)年 初代驢庵)・瑞策光成(あきちか 大永2?(1522)年~慶長元(1596)年 二代驢庵・明親の子)・瑞桂成信(なりのぶ 瑞策の子か。天文10(1582)年に瑞策と並んで名が記録にある)・瑞寿成近(生年未詳~寛永16(1639)年 三代将軍家光侍医にして典薬頭)等、複数存在する。元祖澄玄明親は永世年間(1504~1521)、中国の明の皇帝武宗が病を得て、後柏原天皇の命を受け、渡中、治療を施して、美事治癒させた。帰国の際に、驢馬を贈られたことからかく号したという。しかし、後小松天皇の御代では4代も前で、全く合わない。スーパー・ドクターとしての驢庵伝承は各地に偏在するが、その中でも、誤伝に類するものである。
・「僧官」朝廷から僧に与えられる官職。僧正・僧都・律師の僧綱(そうごう)。これに対応する僧位として、それぞれ、僧正に法印大和尚位(法印)・僧都に法眼和上位(法眼)・律師に法橋上人位(法橋)が与えられた。
・「最勝王經天女品」「最勝王經」は大乗経典の一。全10巻。「金光明経」を唐の義浄が漢訳したもの。奈良時代には護国三部経の一として尊ばれた密教系経典。岩波版長谷川氏注に、その「大弁天女品第十五之一」洗浴の香薬三十二味の名がある、とする。
■やぶちゃん現代語訳
本邦最初の僧医事始の事
後小松院の御代、半井驢庵なる人物が、本邦に於ける僧官位を持った医師の最初であるとのことである。「最勝王経」天女品には、少しばかりではあるが、沐浴して効あるとする薬剤の記載があったが、当時、本経は比叡山の仏庫の奥深くに封蔵されておった。後小松院は、この記載あるをお聴き遊ばされて、これを是非とも閲見したいとお望みになられ、叡山へ勅命が発せられたのであるが、叡山側は、俗体の方には拝見を禁じておりますれば、との返答であった。そこで後小松院様は即座に医師僧官職を新たに設ける旨の勅命を発せられた。これによって、医師半井驢庵は法体となって僧官位を賜り、その「最勝王経」を親しく閲覧致した、ということである。古えには、このような意外な事実もあったのであろうかとも思われる。が……
「……無理矢理くりくり坊主になんぞにさせられて、半井殿が有難く拝読なされたという「最勝王経」の薬方、私めもその写しを拝見致いたが、……まあ、大して効き目があるもののようにも、見えませなんだがのう……」
とは、私の知り合いのある老医の話であった。