耳嚢 金春太夫の事
金春太夫が事
今の金春より曾祖父にも當りけるや、名人の聞へありしと也。安藤霜臺など右金春が藝を見たるとの事故、古き事にも無之。此金春壯年の頃は至て任俠を好み、職分をば等閑にして常に朱鞘(しゆざや)の大小を帶し、上京の折からは嶋原の傾城町(まち)へ日々入込み、人も目を付(つけ)しくらひなるが、或時嶋原にて口論を仕出し、相手を切殺し逃歸りけるが、右の折節朱鞘を取落し歸りし故、正(まさ)しく金春が仕業と專ら評判いたしけるを聞及びて、肝太き生質(たち)なれば、朱鞘の同じ差替を差て又嶋原の曲輪(くるわ)へ立入し故、扨は切害人は金春にては無しと風説して危難を遁れしとかや。右樣の者故、職分とする所の能は三四番の外覺へざりしに、或時奧に御能有之、來る幾日は御好の能其節に至り被仰付との御沙汰故、金春大きに驚歎、鎭守の稻荷へ祈願をこめ、明日我等覺へざる御能の御沙汰有とも、曲て我覺し御能へ被仰付候樣、斷食をなして一心に祈りければ、不思議の感應にありけるや、我覺へし御能被仰出、無滯(とどこほりなく)勤けると也。夫より武藝を止て職分に精を入しかば、古今の名人と人も稱しけると也。
□やぶちゃん注
・「金春太夫」底本の注で鈴木氏はこの本文冒頭の「今の金春」を十次郎信尹(のぶただ 天明4(1784)没)であろう、とされ、本文の主人公は、その信尹の曽祖父であった八郎元信(元禄16(1703)年没)であるとする。元信は『徳川初期の禅曲安照につぐ同流の上手といわれた』とある。しかし、これは直後の「安藤霜臺など右金春が藝を見たるとの事故、古き事にも無之」という叙述と矛盾する。元信は安藤の生まれる11年も前に没しているからである。岩波版の長谷川氏も注でその矛盾を指摘され、安藤が実際の演技を『見得るのは信尹前代の八郎休良(元文四年没、三十四歳)までである』と記されている。因みに休良(やすよし?)の没年元文4年は西暦1739年、安藤が20歳の1734年前後ならば、休良は29歳であり、話柄としては自然な印象ではある。もしそうだとすれば、後半に登場する将軍家は第八代将軍吉宗ということになる。しかし、金春流のサイトにもこうした過去の太夫の細かな事蹟は示されておらず、「今の金春」を「十次郎信尹」と同定し、本話主人公をその先代太夫「八郎休良」としてよいかどうかは不分明である。私は「古今の名人」と呼ばれたとある以上、この逸話自身は十次郎信尹のものであったように感じられる(八郎休良であるとするには34歳の夭折が「此金春壯年の頃は」とあるのと聊か齟齬を私は覚えるからである)。言わばそうした「金春太夫伝説」なるものが、代々同名の金春太夫を名乗る者に付随して(時系列を無視して)都市伝説化していったもののではあるまいか。なお、能楽の金春流自体は、江戸開幕後は家康が愛好した観世流に次いで第二位の地位を受けたものの、旧豊臣家との親縁関係が災いして不遇をかこった。因みに「太夫」という称号は、本来は、神道にあって主に芸能によって神事に奉仕する者に与えられたものである。後に猿楽座の座長の言いとなり、江戸時代以降は、観世・金春・宝生・金剛四座の家元を指すようになった(それが敷衍されたのが芸妓の太夫である)。古くは能のシテ役の名人に与えられる称号であった。序でに言うと、多少なりとも演劇に関わってきた私の人生の中で、かつて金春流襲名披露で見た「道成寺」――その乱拍子から斜入(しゃにゅう:体を捻って飛び込む鐘入り。)の間、私は窒息する程にずっと息をこらえずにはいられなかった――程の素晴らしい感動は、洋の東西を問わず、今後も、二度とない、と思っている。
・「安藤霜臺」(正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)安藤郷右衛門(ごうえもん)惟要(これとし)。先行する「有德院樣御射留御格言の事 附御仁心の事」に既出。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。
・「嶋原の傾城町」とは現在の京都市下京区に位置する花街。「島原」とも書く。正式名は西新屋敷。室町時代に足利義満によって官許された日本最初の公娼地をルーツとする。ウィキの「嶋原」によれば、『能太夫、舞太夫をルーツに持つとされる嶋原の太夫にとって「舞踊」(ここでは「歌舞伎舞踊」または「上方舞」をさす)は』最重要必須芸であったとあるから、能役者との繋がりは非常に深いと言える。
■やぶちゃん現代語訳
金春太夫の事
今の金春の、曾祖父にでも当たる金春であったか、世間で、ともかく名人の呼び名高い者があったという。安藤霜台殿などは、その金春の芸を実見したことがあるとのことであるから、それ程、古い話ではない。
この金春、若い頃は専ら任侠気質(かたぎ)の荒っぽさを好み、継ぐべき金春の芸道なんぞ何処吹く風と、能楽修行も等閑(なおざり)のまま、常に真っ赤な鞘の大小を差して町を闊歩し、京へ上った折などは必ず、嶋原の遊郭街に日々入り浸り、京雀の噂にならぬ日がない位の、如何にも派手な暮らしぶりであった――
――が、ある時のこと、この金春、その嶋原でちょっとした口論が元で相手と大喧嘩となり、果てはその者を斬り殺し、周りに人無きを幸い、こっそりと宿へと逐電してしまった。
ところが、現場から遁走する際、例のド派手な朱色の鞘を落としておったがため、もう、その日のうちに、
……「この下手人、もうほんまに金春はんの仕業やて」……
と専らの評判になってしもうた。
ところが、それを聞き及んだ金春は――元来、肝っ玉が恐ろしくぶっとい性質(たち)なれば――何と全く同じ朱鞘を秘かに素早く仕立てさせ、それを腰に差して、これ又、一両日中(うち)に、平然と再び島原の廓(くるわ)へと繰り出した。すると、
……「さてもあの下手人、金春はんとは、ちゃいますやろ」……
との噂が立ち、辛くも危難を脱した、とかいうことである。
まあ、若き日はこういったとんでもない者であったから、継ぐところの金春の能など、実は二、三番ほどしか知らぬのであった。――
ところがある時、上様がお城にて金春の能をご上覧遊ばされることとなり、
「上様は、当日、その場にて、お好みになられる能をそちに申しつけらるれば、そう心得、用意怠りなく致すべし。」
とのお沙汰であった。
日頃は肚の座った金春も、これには天地がひっくり返って肚も吐き出す程に吃驚仰天、普段は屁にも掛けない金春代々の鎮守の稲荷へと駆けつけ、願掛けをするに、
「……明日、私めの知りませぬお能の沙汰が下されることと、既に決しておりましたと致しましても……そこのところを、稲荷大明神様……どうか、曲げに曲げて……私の知っておりまする能を仰せつけ下さいまするよう……相願い奉りまする……」
と、何と断食までして一心に祈ったのであった。
――さても、これを摩訶不思議の感応なんどというのであろうか――当日、上様は、金春が僅かに覚えておった二三の内の、その一つのお能をお申し付けになられ、首尾よく舞いを勤め上げ申し上げた、とのことである。
これより後、かぶいた武芸への執心をやめ、只管、芸道に精進したため、今に古今の名人と称せらるるようになった、ということである。
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「耳嚢」に「金春太夫の事」を収載した。