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昨日、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、195000を超えた。本年中に200000アクセスに到達しそうな勢いである。記念すべきそれに、ある記念電子テクストを考えてはいるが、果たして完成するかどうかは微妙である。鋭意努力する所存ではある。
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昨日、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、195000を超えた。本年中に200000アクセスに到達しそうな勢いである。記念すべきそれに、ある記念電子テクストを考えてはいるが、果たして完成するかどうかは微妙である。鋭意努力する所存ではある。
「耳嚢」に「水野家士岩崎彦右衞門が事」を収載した。
*
水野家士岩崎彦右衞門が事
有德院樣御代御取立にて老中勤仕有之候水野和泉守は、元來小身の御旗本の倅にて、至て下餞の事もよく辨へる人なりしが、本家相續有て後執政を勤られし故、其器量も一方ならざる由。然るに本家相續の比(ころ)近習相勤る士に岩崎小彌太といへる者あり。和泉守衣服着替の節、取なやみ遲(おそし)とて帶にて小彌太が※(かほ)を打れければ、小彌太次へ立て髻(もとどり)切拂、先代より奉公いたしけれ共、侍の※(かほ)を打たれ候事無之、武士の一分捨(すた)り候趣書置して立退きける故、泉州事も後悔有ければ、隨身(ずいじん)の家士も家中の小見事を恐れて諌ける故、老臣を招て小彌太行衞を尋て呼戻すべし、全く自分の誤り也と泉州申されけれは、老臣水野三郎右衞門答けるは、御尤の御儀ながら、主君の御誤と申候ては決て可歸(かへるべき)小彌太にあらず、主命に背(そむき)不屆に候間切腹をも可被仰付(おほせつけらるべき)に付、立歸候樣申渡候はゞ歸り可申と申ける故、其旨泉州聞濟(ききずみ)有之(これあり)呼戻し給ふに、果して立歸りける間、加増申付納戸役に被致けると也。泉州英雄とは言ながら、段々昇進の上、氣力を助しは右三郎右衞門と小彌太彦右衞門の由、今も其跡目は左近將監(さこんしやうげん)家にありとなり。
[やぶちゃん字注:「※」=「白」(上)+「ハ」(下)。顏の異体字。]
□やぶちゃん注
○前項連関:元禄赤穂事件とこの水野和泉守忠之は深い関係があることからの連関がまずあり(「水野和泉守」注で詳述)、加えて大石内蔵助良雄の時空を越えた武士の忠義と「我が命は輕し」の覚悟が、岩崎小彌太彦右衞門なる水野家家士の武士としての節と「君恩は重し」という切腹の命令にこそ帰還するという覚悟にも連関すると言える。
・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡り名。
・「水野和泉守」水野忠之(ただゆき寛文9(1669)年~享保16(1731)年)江戸幕府老中。三河国岡崎藩第4代藩主であった譜代大名。元禄10(1697)年に御使番に列し、元禄11(1698)年4月に日光目付、同年9月には日光普請奉行、元禄12(1699)年、実兄岡崎藩主水野忠盈(ただみつ)養子となって家督を相続した(忠之は四男)。同年10月、従五位下、大監物に叙任している。以下、主に元禄赤穂事件絡みの部分は、参照したウィキの「水野忠之」からそのまま引用する。『元禄14(1701)年3月14日に赤穂藩主浅野長矩が高家・吉良義央に刃傷沙汰に及んだときには、赤穂藩の鉄砲洲屋敷へ赴いて騒動の取り静めにあたっている。』『また翌年12月15日、赤穂義士47士が吉良の首をあげて幕府に出頭した後には、そのうち間十次郎・奥田貞右衛門・矢頭右衛門七・村松三太夫・間瀬孫九郎・茅野和助・横川勘平・三村次郎左衛門・神崎与五郎9名のお預かりを命じられ、彼らを三田中屋敷へ預かった。』『大石良雄をあずかった細川綱利(熊本藩主54万石)に倣って水野も義士達をよくもてなした。しかし細川は義士達が細川邸に入った後、すぐさま自ら出てきて大石達と会見したのに対して、水野は幕府をはばかってか、21日になってようやく義士達と会見している。決して水野家の義士達へのもてなしが細川家に劣ったわけではないが、水野は細川と比べるとやや熱狂ぶりが少なく、比較的冷静な人物だったのかもしれない。もちろん会見では水野も義士達に賞賛の言葉を送っている。また江戸の庶民からも称賛されたようで、「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」との狂歌が残っている。これは細川家と水野家が浪士たちを厚遇し、毛利家と松平家が冷遇したことを表したものである。その後、2月4日に幕命に従って。』9人の義士を切腹させている。その後は、奏者番・若年寄・京都所司代を歴任、京都所司代就任とともに従四位下侍従和泉守に昇進、享保2(1717)年『に財政をあずかる勝手掛老中となり、将軍徳川吉宗の享保の改革を支え』、享保15(1730)年に老中を辞している。
・「元來小身の御旗本の倅にて」ウィキの「水野忠之」によれば、彼は『三河国岡崎藩主水野忠春(5万石)の四男として水野家江戸屋敷で』生まれたが、延宝2(1674)年5歳の時に『親族の旗本水野忠近(2300石)の養子となって家督を継いだ』とあり、この事実に基づく誤解と思われる(最後でも「段々昇進の上」とあり、たかだか50年後の都市伝説の中でありながら、出自がこれほど誤伝されるという事実が興味深い)。前注に示した通り、その後、30歳で実兄岡崎藩主水野忠盈養子となり、元の家督に戻って相続している。
・「本家相續の比」元禄12(1699)年実兄岡崎藩主水野忠盈養子となった直後、近習の者とも未だ慣れ親しんでいなかった折りのことであろう。
・「岩崎小彌太」不詳。ここで彼が「先代より奉公いたしけれ共」と称しているが、これは恐らく実兄の前岡崎藩主水野忠盈のことを指していると考えてよいであろう。この時の年齢だけでも知りたいものである。
・「取なやみ」底本には右に『(一本「手廻し」)』とある。「取なやみ」ならば、着替え介添えの手筈が悪く、もたついていることを意味し、「手廻し」ならばそのまま、直接話法的に「手筈、遅し!」という意味になろう。
・「武士の一分捨り候」その理不尽なる御行いによりて、武士としての一身の面目が無に帰し申した、の意。
・「家中の小見事」底本には右に『(尊經閣本「家中の輩事有らん事を」)』とある。「家中の小見事」ならば、水野家内々に起こったちょっとした(されど見過ごすことは出来ない)事件として、の意、「家中の輩事有らん事を」ならば、水野家家中の者どもは皆、これがよからぬ騒動に発展しはしまいかと、の意。
・「水野三郎右衞門」不詳。「老臣」とあり、岩崎小弥太の性格も熟知しているところから、やはり前岡崎藩主水野忠盈以来の家臣であろう。岩崎小弥太同様、この時の年齢だけでも知りたいものである。
・「聞濟(ききずみ)有之(これあり)」その主張を聴き終え、とりあえずその言に従って、切腹申し渡すに付き帰藩せよとの御下命を下されたされたところ、の意。
・「納戸役」納戸方とも。将軍や主君の衣服・調度の管理、献上や下賜するための金銀・物品に関わる事務全般を受け持つ。
・「左近將監家」肥前唐津藩第2代藩主である水野忠鼎(ただかね延享元(1744)年~文政元(1818)年9月3日)のこと。水野忠之の4代後の子孫。官位は従五位下で左近将監であった。
■やぶちゃん現代語訳
水野家臣岩崎彦右衛門の事
有徳院吉宗様の御代、御取立に預かって老中をお勤めになられた水野和泉守忠之殿は、元来は身分の低い御旗本の倅であられたから、下賤の者の思いなども、至ってよくお分かりになっておられる方であった。勿論、その後(のち)、本家相続をもなされて、藩政をお執りになられた故、その人としての才(さえ)や人物は並々ならぬものであったとのことである。
ところが、そんな水野和泉守殿の御側付きの者に、岩崎小弥太という者が御座った。
ある時、小弥太が和泉守殿の御着替えの世話を致いておったところが、何故か、その日に限って手筈が悪く、なかなか御着替えが進まぬ。苛立った和泉守は、思わず――「遅い!」――と言いながら、手を添えておられた御自身の帯を握るって、したたかに小弥太の顔を打ってしまった。
すると、小弥太はすっくと立ち上がり、さっさと次の間に入るや、すっぱりと髷(もとどり)を切り落とすと、
『先代より御奉公致いて参りましたけれども、侍たる我、生まれてこの方、人に顔を打たれしことはこれなく、武士としての一身の面目、無に帰し申した』
という書置を一気に認(したた)めると城から立ち退いてしまった。
これを聞き知った和泉守殿も己の軽率な仕打ちをひどく後悔され、家臣団も、御家中でもこのちょっとした出来事が、深刻なる騒動へと発展致さば如何なされまするか、とお諫め申し上げたため、和泉守殿は老臣を招集して、
「小弥太の行方を捜いて呼び戻いて参るがよい……その折り『全くもって予の誤りであった』と告げての……」
ところが、それに対して老臣水野三郎右衛門が答えた。
「……御尤もなる御仕儀ながら――あの小弥太という男、『主君の御誤り』と申しましては、決して帰ってくる小弥太では御座らぬ――『主命に背き、不届きに付、切腹申し付くる故、即刻立ち返り候よう』と申し渡しましたならば、必ずや帰って参りまする――それが、あの小弥太という男に御座います……」
それを聞き終えた和泉守殿は、半信半疑ながらも、とりあえず水野三郎右衛門の言に従い『切腹申し渡すに付き帰藩せよ』との御下命を下されたのであった――。
――すると、果たして即座に、小弥太が御城下へ立ち帰って出頭致いたのであった。
和泉守殿は直ちに、小弥太に加増を申しつけ、御納戸役になされたとのことである。
和泉守殿は当世にあっては専ら英雄の呼び名が高いのであるが、下から叩き上げて段々に昇進なさった方であり、常にその気力を側面から支えたのは、この老臣水野三郎右衛門と岩崎小弥太彦右衛門の二人であったという。今も彼ら三郎右衛門・彦右衛門それぞれの子孫が水野和泉守忠之殿の御子孫であられる肥前唐津藩の左近将監家、水野忠鼎(ただかね)殿の家中にお仕えしておる、とのことである。
暮れかかる山手の坂にあかり射して花屋の窓の黄菊しらぎく
先に示した
日傘させどまはりに日あり足もとの細流れを見つつ人の來るを待つ
が生前最後の公開歌であると記した。
それでは、これよりも前で、生前の歌集に再録されていない歌を調べてみる。2006年月曜社刊の「野に住みて」の「拾遺」篇はそうした作業も極めて簡単に行える編集方法を採ってくれているのである。即ち、生前の歌集に採録されている歌には、それぞれの歌集に記号を与え、頭にその記号が附されているのである。「日傘させど」よりも前にある記号がない和歌――それが僕が求めている和歌ということになる。
――それが冒頭に示した和歌である。
……僕のテクストを小まめにお読みになっており、片山廣子と芥川龍之介の関係に関心があられる方には、もうお分かり頂けたはずだ……
この歌は昭和28(1953)年暮しの手帖社刊の随筆集「燈火節」の、あの「花屋の窓」の冒頭の一首だったのだ――そこで彼女は本歌が、遡る『昭和十一年ごろ横濱の山手の坂で詠んだ』ものであると述べているが、昭和11(1936)年の拾遺には本歌はない。但し、僕が「片山廣子短歌抄 《やぶちゃん蒐集補注版》」で示したように、この歌の異形と思われるものが、昭和29(1954)年刊の第二歌集『野に住みて』の「ふるき家(昭和十八年――十九年)」の「ふるき家」歌群の中に現れる。それは以下の通りである。
くれやすき山手の坂を下りくれば花屋のあかりに菊の花しろく
……僕は和歌は苦手だ、だからこの二首を並べてうんぬんする気は全くない。それでも敢えて言えば、視覚的効果と流麗さからは「くれやすき」の方がより好いようには思われる……
……いや、そんなことはどうでもいいのである……「花屋の窓」を未読の方は……今すぐ、お読みあれ……またしても――そう――またしても芥川龍之介なのである……
……廣子はやはり……芥川龍之介亡き後もずっと……芥川のことを――終生――思い続けていたということが……これらによって明らかではないだろうか?……
日傘させどまはりに日あり足もとの細流れを見つつ人の來るを待つ
昭和32(1957)年「心の花」2月号に所載されたもの。これ一首のみである。2006年月曜社刊の「野に住みて」(引用もそこから。但し、新字を正字に代えた)の短歌の拾遺パートの、先に掲げた遺稿集の直前に置かれている。昭和32(1957)年の拾遺もこの一首のみである。既に僕の片山廣子の歌集群をお読みの方は、お分かり頂けるものと思うが、これは新作ではない。そもそもこの時、彼女は脳溢血で病臥し、翌3月19日に亡くなっている。――この歌は――あの大正15(1926)年の軽井沢での「日中」歌群の――一首である――この「人」は芥川龍之介である――片山廣子がこれを選んだのか、別の誰かがこれを選んで掲載したものか――それは不明である――しかし――これが廣子の生前最後の一首であることは紛れもない事実なのである――
うつそみとかかはりもなくわが心いくたびか死にまだ生きてゐる
片山廣子は昭和32(1957)年3月19日8時45分に亡くなった。79歳。前より脳溢血のため病臥していた。
本歌は角川書店発行の同年9月号の雑誌「短歌」に所載された遺稿集の掉尾に記されたものである。2006年月曜社刊の「野に住みて」の短歌の拾遺パートの最後に置かれている(引用もそこから)。但し、その前書によって実際の作歌は昭和24(1949)年(十月以降)のものと思われる。従って、辞世ではない。ないが、それはあたかも辞世の和歌の如く我々の胸を打つ。
ちなみに、彼女の死は僕が生まれて33日めのことであった。
僕は過去、今まで以下の三本の「こゝろ」の映像化作品を見ている。どれも「こゝろ」を愛する人には、お薦め出来ないことを最初に断わっておく。これは僕の感想であるが、これらについて僕は議論することも嫌である(それほどこれらはおぞましい)。僕の記載に不快になったらそれ以上お読みにならないようにされたい。「これらの映像作品の何れかを愛する方」と議論する気は、僕には全くないからである(あなたは僕とは違った世界に住んでおり、同じ空気は絶対に吸えない。あなたの呼吸する空気は僕にとっては高濃度の酸素であり、僕は即座に絶命するからである。但し、逆に一緒に笑い飛ばそうというのであれば、その限りではない。是非とも一杯やりながら、一緒に笑い飛ばそうではないか。それは、それが同時に『僕らの「こゝろ」論』となるからである)。なお、最後に本日全編を視聴した2009年10月に日本テレビで放映されたアニメーション「青い文学シリーズ一時間スペシャル こころ」についても附記した。すべてに渡ってネタバレがあることも、「覚悟」の上、お読みになるのならば、では、どうぞ――
①映画 日活(1955年製作)
●スタッフ
監督:市川崑
脚色:猪俣勝人・長谷部慶次
撮影:伊藤武夫・藤岡条信
美術:小池一美
○キャスト
日置(=私):安井昌二
野淵(=先生):森雅之
奥さん(=静):新珠三千代
梶(=K):三橋達也
未亡人(=奥さん):田村秋子
女中・粂:奈良岡朋子
②TVドラマ(1991年12月15日放映 TBS 第1816回東芝日曜劇場 番組時間54分 実質ドラマ部分43分)
●スタッフ
演出:池田徹郎
脚本:宮内婦貴子
○キャスト
私:別所哲也
先生:イッセー尾形
K:平田満
静:毬谷友子
奥さん:佐々木愛
③TVドラマ(1994年10月31日 テレビ東京 番組時間1時間54分)
●スタッフ
演出:大山勝美
脚本:山田信夫
○キャスト
私:鶴見辰吾
先生:加藤剛(現在)
勝村政信(学生時代)
小宮(=K):香川照之
静:高橋恵子(現在)
葉月里緒菜(御嬢さん)
奥さん:佐々木愛
①は「野武士然として数々の主演女優を愛人にして平然としていた「百人斬り」の糞野郎である市川昆監督が半端に真面目に撮ると、あの真面目な「こころ」がこうもお笑いになってしまう、という命題は真である、と僕に感じさせるものであった。
鎌倉の水浴シーンでは一部に水槽を用い、先生が犬掻きをして、まず一発目の哄笑。
満を持したKの登場シーンでは、あの黒澤の「天国と地獄」のような軽薄にして冷淡卑屈な役こそ得意な三橋達也が、如何にもとってつけたような真面目な表情で現われ、その眉は、ビートたけし見たようにくっ付けたような三角形の眉で、「こゝろ」を愛する人で、あの梶の初登場シーンに失笑しない人はいない、と僕は断言したい程である。
安房誕生寺のシーン、Kと僧侶二人が画面右手で、確かカメラは左端の道端にいる「先生」を撮っているのだが、僧が「日蓮は草日蓮といわれるくらい……」とKに語り出したところで、Kが遮り、そんなことはどうでもいい、彼の思想について聞きたいのだといった内容の台詞を突如叫ぶのだが、その瞬間、そのKの一声に吃驚した先生が美事にコケるのだ……私はこれを「こゝろ」を総て暗誦している僕の教え子にして友人である青年とビデオで見ながら、思わず二人して大笑いをしてしまったのを覚えている。
1979年岩波ホール刊の「映画で見る日本文学史」によれば、撮影を見学に来た作家十返肇は、このラスト・シーンで日置(=私)が忌中の紙の下がった先生の家に駆け込み、悄然と出てきた静の前に土下座して、「……僕の力が足りなかったのです……」と言って謝罪するという本作のオリジナル解釈を評して「原作にないこの日置の言葉で、この映画は生きた」と言ったというが、引っ繰り返せば、それ以外の部分では、この映画はとことん死んでいるという皮肉じゃないか、と僕は思ったものである。因みに、この十返が評価した付けたりのエンディング自体、私は「こゝろ」を汚すものだと考えている。なお、この台詞は脚色を担当した長谷部慶次の師和田夏十(市川昆の妻であるシナリオ・ライター)の助言によるものである旨、長谷部の記載にあり、そこには和田の言として『日置が、先生の口から直接打ち明け話をきいてやれなかったのは、日置もまた家意識から抜け出せなかった故なのだから、「先生」を死に至らしめたのは「……僕の力が足りなかったのです……」と言わせるべきだ』(末尾の文脈がおかしいがママである。下線は僕)とある。そして長谷部の文章の最後は先に示した十返の評を記し、『和田夏十氏はその時のことを未だに自慢している』と締め括る。下線部に一言。見当違いも甚だしい。
但し、日置(=私)役の安井昌二・野淵先生(=先生)役の森雅之・奥さん(=静)役の新珠三千代の相対的演技や役の把握は、極めて正統的であり、①~③の中では群を抜いて素晴らしい(特に森雅之のような演技臭くない演技が出来る役者は稀になった気がする)。他に日置の母役で北林谷栄、周旋屋役に下条正巳らが出演している。因みに音楽は大木正夫。ロケーションも今では相応しい場所を探すのが至難であることを考えれば、その点では一見の価値はあると言える。
しかし、中でも出色の演技を見せているのが未亡人(=奥さん)役の田村秋子である。私が原作で考えている『何もかも分かっていて分からないふりをしている』奥さんを、彼女は美事に演じ切っているのだ! これは、画期的な「こゝろ」の解釈を俳優田村秋子が行っている! それは監督市川昆の手柄では決してないということも、演劇をかじったことのある僕には、分かる、のである。僕なら「この映画は、これで生きた」と言いたいくらいである。
最後に。女中の粂なる人物が、この作品には異例な解釈として登場する。何だか、ひどく意味深な、不思議な存在として、確信犯でこの粂なる人物を描いている――謎だ! 変だ! 原作には勿論ない(女中はいるが、無視出来る程度に描かれていない)――でも、それは瑕疵では、決してないのである、僕にとっては、だ――何故かって? 奈良岡朋子は僕の大好きな女優(原節子・久我美子に次ぐ)の一人だから、さ――
②これは確かほとんどがスタジオ・セットによる撮影だったように記憶する。その風呂屋の富士山みたようなイッちゃってるキッチュさが、逆に明治から大正という最早、現在と断絶してしまった『時代なるもの』を感じさせる面白い効果を持たせていたと思う。オーバー・アクトなイッセー尾形は残念ながら、僕の好きな俳優ではないのだが、その狂的な似非笑いは、もしかすると、こういうイッちゃってる「先生」もありかな、と不思議に思わせるものであった(未見乍らソクーロフの映画「太陽」での彼の昭和天皇というのは、ソソるものがある。イッセー尾形はいい意味でも悪い意味でもイッちゃってるフツーじゃない役者なのである)。但し、学生時代もイッセー尾形が演じたのは、幾ら大道具が舞台的描割だからといっても、無理がある。学生時代の「先生」には、女の恋心をそそる方の「キレ」がなくてはならない。イッセー尾形にはいかれた方の「キレ」は豊富にあるが、そっちの「キレ」は残念ながら、ない。
毬谷友子の静は「奥さん」パートではやや妖艶に過ぎるものの、「御嬢さん」パートでは、「御嬢さん」に欠くべからざる少女の持つ曖昧性を保持しており、△。
K役の平田満は僕の好きな俳優であり、抑制のきいた、ある淋しさが本領で、本作の光栄は彼に輝くと言ってよい。他の方のブログ記載を見ていて思い出したのだが、食事のシーンで納豆が糸を引いたのを、手で拭って、それを和服の襟で拭くのを御嬢さんが見て笑うというシーン、確かに効果的なKの朴訥な性格描写であり、御嬢さんの反応描写としても極めて効果的であった。
しかし、忘れられない本作の上手さはエンディングにあった。あの瞬間、私は糞市川のそれではないが、「このシーンで、この作品は生きた」と思ったのを覚えている。
――海岸。切れた数珠の珠を投げ打つ先生(この脚本の解釈も素晴らしいものである)――その笑顔――
である。僕はあのイッセー尾形の『すがすがしい笑顔』を、正に原作「こゝろ」の最後にまざまざと見ているからである。そして――何よりもこのシーンにかぶるのがバッハの――BWV846前奏曲平均律クラヴィーア曲集第一巻第一番前奏曲――であったことが僕の心を打ったのであった(その演奏はジョン・ルイスであった)。
味である。
「やられたな」と心底、思った。
――それから2年後、1993年に僕はグールドのカナダ製作の自伝的映画「グレン・グールドをめぐる32章」(フランソワ・ジラール監督)を見た。現在でも僕の好きな一本であるが、そのラスト・シーンで氷結した湖を向うへと消えてゆくコルム・フィオール扮するグールドに、ボイジャーに搭載され、永遠に外宇宙を漂い続けるグールド自身の演奏になるBWV846前奏曲平均律クラヴィーア曲集第一巻第一番前奏曲がかかった時、その満足感とともに……これは何処かで味わったことがあるぞ?!……と思った。当時はそれをデジャ・ヴュだと思っていたのだが……今更ながら分かった……このシーン、故だったのだ――
③はほぼ全壊全焼焼死体累々たる「こゝろ」である。見ているうちに、ホントに気持ちが悪くなったのを覚えている。
「私」の鶴見辰吾の属性として仄かに匂ってくるホモセクシャルな感じはよいのだが、脚本家は明らかに静に対するベクトルを結末に向けてセットしてしまっており、その齟齬感のために、何だか塵(ごみ)の入った目のようにゴロゴロするのだ。
腐女子系漫画見たような巨大な目の中に星が浮かんでいる真正ホモセクシャル・ステロタイプを滲み出す加藤剛(彼は秦恒平のおぞましい「戯曲 こころ」の「先生」役でもある。但し、彼の「こゝろ」の朗読は悪くない)、そして、正露丸糖衣の宣伝が総てのシーンでダブってしまう羽毛のように軽いステップの勝村政信――いや、何より、この二人が同一人物に、見えないのである。
小宮(=K)役の香川照之は、役者としては文句なしに上手いと思うが、勝村政信の「先生」の一万倍の『肉』を感じさせる役者であるから、パラレル・ワールドの作品「こゝろ+エロス=自殺」を見ている気がして来る程、異様なKであった。
いや――何より最もおぞましいのは――二人の静――である。
高橋惠子(現在)・葉月里緒菜(御嬢さん)――何れも、絶対に見たくない、いや、あってはならない「奥さん」であり「御嬢さん」である。
高橋惠子なんぞは、「先生」の留守を学生が守るシーンで、猫なんぞを抱いて色気プンプンのあの豊満な肉体で風呂上りで登場、先生は結婚してから一度もあたしの体に触れてくれない風な驚天動地の言葉さえ吐くのである。これは、秦恒平以上の場外乱闘掟破りの脚本である(間違えてはいけない。私も先生と静は少なくとも「上」の中では最早セックスレスであると思う。しかし、それを口に出して「私」に言ってしまうのは絶対に「静」ではないということである)。葉月里緒菜、言わずもがなだ、印象・実生活共にこれ見よがしの小悪魔的女優に「静」を演じさせては、ならない。本作は静を冒瀆した愚劣な作品であると言い切れる。
エンディングの静と学生の私の海岸シーンは、秦恒平のおぞましい「戯曲 こころ」に感染した致命的な曲解であり、その点に於いても、あの作品を僕は高校生には見せたくない。解釈の一つとして伝えることと、ビジュアルに見せてしまうことには大きな懸隔がある。
面白いのは、今回気がついたが、奥さん役が佐々木愛で、②のキャスティングと同じなのであった。失礼ながら特にこれといって示すところの印象はどちらもないのだが、違和感もなかったから印象がないとも言え、このドラマでは唯一、瑕疵のない配役と言えるのかも知れない。佐々木さん、妙な褒め方になってしまい、ごめんなさい。
以上は、ほとんど初見時の記憶に基づいて書いたもので、再見して書いたものではない。細部には勘違いや誤りがあるかもしれないことを断わっておく。スタッフ・データはネット上の幾つかの記載から確認したものである。
□蛇足:僕の①~③のキャスト・ランキング
注・これは演技力というよりその役にあっているかどうかという視点の方が強く作用しているものである。不等式の「……」は激しく隔たりがあることを示すものである。
・先生
森雅之≻加藤剛≧イッセー尾形≻勝村政信
・私
安井昌二≻別所哲也≧鶴見辰吾
・静
新珠三千代≻……≻毬谷友子≻……≻高橋惠子≧葉月里緒菜
・K
平田満≻……≻香川照之≻三橋達也
*
こんなことを考えていた矢先、偶然にも先日、知人がこんなミス・キャラクターのものがある、と「こゝろ」のアニメーションを教えてくれた。
……先生の(声)をやる『アブナイ笑み』堺雅人は大好きな俳優なのだが……Kの声は……これはいかん! これはもう、すぐ静に手つけるで! だって女好きの「ER」のロス先生じゃないか! ジョージ・クルーニー小山力也だもん!
脚本:阿部美佳
キャラクター原案:小畑健
監督/キャラクター・デザイン:宮繁之
……「だめだ! こりゃ!」(いかりや長介の口調で)……「惨(むご)い!」――「閲覧注意! 膿盆必須!」――僕はリンク先の続きを見ることさえ最早、不能である……
……と、言いつつ、見てしまった……
……やはり酷(ひど)い……酷過ぎる――これはもう――「こゝろ」では――ないな……
……おや? 後編があるの?……
……………………これは……………………
【再警告! 以下に書かれた呪わしい内容はあなたの身体に重大な霊障を引き起こす虞れがあります! くれぐれも自己責任でお読み下さい! これはネタバレなんどというレベルの問題とは分けが違います! それだけの「覚悟」がある方のみ、では、どうぞ!】
……この阿部美佳という脚本家はやってはいけないことやってしまった……
……平然とこんな下痢便を垂れ流したような似非文学を書けてしまうということ……それを恥ずかし気もなく「原作 夏目漱石」として出せてしまうということ自体……
……僕は『最早、漱石の「こゝろ」は理解されない時代になってしまったのか?』という激しい悲哀感を覚えざるを得ないものである……
――「そうですか」と先生は言った。――
――「Kと静は肉体関係があった……のですか……」――
――これは前後編で夏目漱石の「こゝろ」を芥川龍之介の「藪の中」で、むごたらしく安っぽく愚劣にインスパイアしたものだな――
――多襄丸が先生
――真砂が静
――武弘がK
いっそ「静」の視線版「青い文学シリーズ一時間半スペシャル こころ中編」を中に加えて確信犯たらんとするがよかろうに――ストーリー? 教えてやろうか?――静はね、Kにレイプされちゃうんだ! それを知りながら、先生は敢えてお嬢さんにプロポーズするってダンドリよ! その罪障感からKは自殺した、って、筋書きよ!――総題は――『贋作「こゝろ」+√「藪の中」=Ø』 ――
以上。
――向後――一切――このアニメーションについて僕は語らない。僕自身の記憶から完全に消去したい稀有の作品である。
――「あなたは決してこの作品を見ては不可ませんよ。今に後悔するから。さうして自分が欺むかれた返報に、殘酷な復讐をするやうになるものだから。」――
【追記】この記事を書いてから数年後、中国の動画サイトに未見の以下の作品を見出し(著作権法違反である)、視聴した(現在は削除されている)ので追記する。上記①と②の間に相当する作品である。
○昭和48(1973)年近代映画協会による映画作品「心」(配給ATG)
●スタッフ
監督・脚本:新藤兼人
撮影:黒田清巳
●キャスト
K :松橋登(「K」役ではなく、彼が「先生」役相当)
S :辻萬長(これが「K」役相当)
I子 :杏梨(「静」役相当)
М夫人:乙羽信子(「奥さん」役相当)
Sの父:殿山泰司(「K」の父役相当)
作品内時制も制作された時と現在時間を合わせてある(回想部は十年前)。即ち、当時の現代の物語なのだ。これは見終わった瞬間、
――これは漱石の「心」では全く――ない。「心」の主題や問いかけとは全く無縁な――「心」という作品の額縁だけを借りた――全く別個な作品だ――恐らく当時の学生運動の終焉の予感と、新左翼に対する新藤兼人なりの辛口の決算評価と彼らに対する皮肉な問い掛けなのだ――
と強く感じた。蓼科の山荘と蓼科山は、連合赤軍の「あさま山荘」と、集団リンチ殺人が行われた山岳ベース事件のそれをカリカチャアライズしたものであろう。
従って「こゝろ」の映像化としてどうこう言うレベルの作品ではない。因みに、私は新藤兼人の作品には一本も惹かれない。しかし、「奥さん」の家の二階に主人公が間借りしているのに、その家を写したシーンで平屋という美術ミスは話にならぬ。確信犯なのではないかとさえ思った(仮想現実の作品であるというほくそ笑みでである)。しかもそのシーンが常に同じフィルムの使い回しなのも呆れかえった。金を惜しんだとしか思えないやり口だ。好きな辻萬長と殿山泰司以外は「何じゃこりあ!?!」である。松橋は軽佻浮薄の見本見たよう、杏梨はド派手で肉感ムチムチ、音羽は如何にも以って冷た過ぎである。ともかくも「心」の映像化作品ではないという点だけは肝に銘じて、見るならば見て欲しい。「心」の解読のためには見る必要は全くなく、却って前のアニメとは全く別な意味で有害な作品であるとさえ言える。
「耳嚢」に「小刀銘の事」を収載した。
*
小刀銘の事
大石良雄小刀の由、喜多伴五郞とて鎗術の指南をなせる者所持いたせるを見たる由、柘植(つげ)長州物語也。木束(きづか)の小刀にて銘彫左の通。
萬山不重君恩重 一髮不輕我命輕
右の句、良雄親彫付て良雄にあたへしを、良雄所持して報仇(ほうきう)の後に泉嶽寺へ納しを、伴五郞申受て今に所持せると也。自然に内藏助長雄志を勵す父が遺筆、暗に通じけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:藩主酒井忠貫の下、若狭小浜藩が「家中とも身上相應に暮し」ていたように、土地も豊かで百姓も豊かに暮らしていた播磨国赤穂藩に、降って湧いた元禄赤穂事件であった。
・「大石良雄」御存知「忠臣蔵」播磨国赤穂藩筆頭家老大石内蔵助良雄(よしお 又は よしたか 万治2(1659)年~元禄16(1703)年3月20日)。討ち入りは元禄15(1702)年12月14日であるから、本「耳嚢」巻之一記載の下限である天明2(1782)年迄は、実に80年が経過していることになる。
・「喜多伴五郞」不詳。
・「柘植長州」柘植長門守正寔(まさたね 生没年未詳)岩波版長谷川氏の注によれば、宝暦元(1751)年『十七歳で家を継ぎ、目付・佐渡奉行・長崎奉行』(安永4(1775)年~天明3(1783)年)・『勘定奉行など』を歴任したとある。在任期間と、本「耳嚢」巻之一記載の下限である天明2(1782)年を考え合わせると、これは彼が長崎奉行にあった折りのことと考えてよいか。
・「萬山不重君恩重 一髮不輕我命輕」
やぶちゃんの訓読:
萬山(ばんざん) 重からずして 君恩は重し
一髪 輕(かろ)からずして 我が命は輕し
やぶちゃんの通釈:
万重(ばんちょう)の山など 重くない 何より重いもの それは主君の恩寵
一筋の髪など 軽くない 何より軽いもの それは主君に捧ぐる我が命(いのち)
・「良雄親」大石良昭(よしあき 寛永17(1640)年~延宝元(1673)年)のこと。以下、ウィキの「大石良昭」によれば、赤穂藩浅野家筆頭家老の大石内蔵助良欽(よしたか 元和4(1618)年~延宝5(1677)年)は)の嫡男。万治2(1659)年に長男である後の大石内蔵助良雄が誕生している。『父の死後には赤穂藩の筆頭家老になるはずだったが、赤穂藩の大坂屋敷に勤めていた延宝元年(1673年)9月6日に父良欽に先立って同地で死去してしま』い、『良昭は家督前に没してしまったため、良昭の長男である良雄は良欽の養嗣子となって大石家の家督を継ぐことにな』ったとある(この時、大石14歳。この叙述から言えば、「親」は養父にして祖父である大石良欽の可能性もないとは言えない)。
・「泉嶽寺」泉岳寺。曹洞宗。現在、東京都港区高輪にあるが、慶長17(1612)年に徳川家康が創建した際には外桜田にあった。寛永18(1741)年の寛永の大火で焼失、三代将軍家光の命により現在の高輪の地に再建されたものである。主君仇討ちを果たした義士一行は吉良邸を出た後、直ちに主君浅野内匠頭墓所がある泉岳寺に赴き、墓前に吉良上野介首級を供えて、本懐を遂げたことを報じた。後に切腹を申し渡された彼等赤穂義士46名もここに葬られた。以上引用は主にウィキの「泉岳寺」に拠ったが、そこには『義士の討ち入り後、当時の住職が義士の所持品を売り払って収益を得たことに世間の批判が集まり、あわててこれらの品を買い戻しに走ったことがある』という記述があり、この引用元については『勝部真長1994『日本人的心情の回帰点 忠臣蔵と日本人』(PHP研究所)p.169-73 - 当時の住職、酬山の強欲振りとそれに対する社会から向けられた批判について詳しい記述あり』と記載する。正にこの折りに流出した品と考えてよいか。
■やぶちゃん現代語訳
小刀の銘の事
大石良雄の小刀(さすが)と称するものを、喜多伴五郎と言う、槍術の指南をしている者が所持致いておるのを見たことがあるという――柘植長門守正寔(まさたね)殿の話である。
純木製の柄(つか)の小刀で、銘が彫られており、それは次の通り。
万山重からず君恩重し 一髪軽からず我が命軽し
この句は、この小刀に良雄の父親自らが彫りつけ、良雄に直(ぢか)に与えたもので、良雄はこれを所持して仇討ちを遂げた。その後(のち)、彼はこれを泉岳寺に納めた。それをかの喜多伴五郎が貰い受け、今に所持しておる、とのことであった。これは玄妙にも時空を超えて、自然、内蔵助の内なる誠の志しを励ます父の遺志が、内蔵助のあの事蹟に、美事、暗に伝わったものと、言えるのである。
未明、コルジセーヴァ夫人の牧場に草を撒く。
曙の頃、ミンノー県ドブヅヒリョーバ草原を東西に狩る。御主人は「猟人日記」の執筆に忙しく我一人なり。
収穫シロウサギ12匹、ハイイロウサギ7匹、クロウサギ8匹。今季、最大の収穫なり。
農園の草取りと虫取り(先日見つけたるキノコ更に巨大になりおる。御主人には内緒)。
イ・サンシャンの牧場(虫一匹・タンポポ多し・卵少し収穫)とスイダラッパの牧場(飼育用シロウサギ7匹順調に生育)を見回る。異常なし。
新しくせる魚の養殖場(御主人はクラゲばかりを飼いたいらしいが採算がとれぬ故儂がオニキンメとキンチャクダイにこっそり代えた)ゴミ採りと餌遣りをして帰る。
「耳嚢」に「酒井忠實儉約を守る事」を収載した。
*
酒井忠實儉約を守る事
酒井修理太夫(しゆりのたいふ)忠實は未年若の人なるが、學問を好み下屋敷に學校を置て家中老少となく學文を專として、武藝の事をも殊外世話いたされけると也。奧方は京都久我(こが)家の息女にて有し。右婚姻のまへに木綿衣類十、待受として出來(しゆつたい)しける故、老臣老女抔も是はいかなる事と申ければ、我等儉約を專らにするは、江戸在所大勢の家中を養育し、且公儀より被仰付御用向を無滯勤度存(とどこほりなくつとめたき)心より、常に自分も綿服をなしける上は、我等の妻たらん者、隨分綿服を可用事也。若しいなみ侯事ならば上方へ返し候迄の事とて、縁女江戸着の上婚姻のまへ是を贈り給ひしとかや。當時人の評判せし人にて、家中とも身上(しんしやう)相應に暮しける由、人の語りゆる儘に記之。
□やぶちゃん注
○前項連関:倹約のエピソードで連関。
・「酒井修理太夫忠實は未年若の人なるが」「實」は「貫」の誤り。現代語訳では正した。以下、ウィキの「酒井忠貫」よれば、酒井忠貫(さかいただつら 宝暦2(1752)年~文化3(1806)年)は若狭小浜藩第9代藩主(小浜藩酒井家10代)であった。妻は正室は伊達宗村の娘であったが、後妻は久我通兄の娘、さらにその後、大炊御門家孝の娘(久我信通の養女)を迎え入れている(それぞれ死別か離縁による生別かは不明であるが、同族の久我家から三度目の妻を迎え入れているところから、少なくとも二度目の妻久我通兄の娘とは死別であろう。……薄い木綿の衣服で風邪を引き、肺炎から亡くなった、のでなければよいのだが……)。彼は宝暦12(1762)年に父の死去により後を継いで藩主となり、本文通り、宝暦13年(1763)年に従五位下で修理大夫に叙任している。天明3(1783)年から天明の大飢饉の影響で凶作が相次ぎ、それに対する対応策と復興のための資金繰りで財政難に悩まされた、とある。天明4(1784)年には従四位下に昇進、寛政4(1792)年のラクスマン来航の際には、根室の防備を務めたりしている(ウィキの「アダム・ラクスマン」によれば、Адам Кириллович Лаксманアダム・キリロヴィチ・ラクスマン(1766~?)はロマノフ朝ロシア帝国陸軍中尉で、漂流して助けられた大黒屋光太夫の送還を兼ねてシベリア総督の通商要望の信書を手渡すためにロシア最初の遣日使節となった。1792年9月に根室に到着している)。本「耳嚢」巻之一記載の下限である天明2(1782)年には、酒井忠貫は未だ30歳、「當時」という表現からは、20代の折りの話と考えてよい。
・「學校」藩校。諸藩が藩士の子弟を教育するために設立した学問所。
・「下屋敷」大名が参勤交代で江戸に滞在するための藩邸を「上屋敷」と称したが、それとは別に多く江戸郊外に置いた別邸を「下屋敷」と呼んだ。
・「久我家」村上源氏の総本家に当る公家。江戸時代には摂関家に次ぐ清華家(せいがけ:公家の家格の一。最上位の摂関家に次ぎ、大臣家の上)の家格を保持してはいたものの、実際には不振が続いた、とウィキの「久我家」にはある。……なお、私は日本人の好きな女優というと二番に久我美子を挙げる。……いっとう美しいのは黒澤明の「白痴」の大野綾子(アグラーヤ)であろう。あの亀田欽司(ムイシュキン)の唇に触れた彼女の指!……そして、この映画は私にとって最も忘れ得ぬ映画なのである……何故なら私が最も愛する女優原節子も那須妙子(ナスターシャ)役で出ているからなのである(関係ない! けど、綺麗なんだもん!)。
・「待受」新婦の到来を待ち受ける儀式若しくはその時期に新婦に差し出す結納品か。広い意味で、婚儀に先立ち、初めて新婦を迎えるに際して新郎側が用意しておく花嫁のためのプレゼントを指すものと考えてよいであろう。
・「縁女」許婚(いいなずけ)。新婦。因みに、現行民法以前の戸籍に関わる制度の中には、適齢に達した際には戸主の子と婚姻させることを目的として、幼少の女性を事前に入籍させ、入籍者戸籍欄には「長男某縁女」と記載した、と個人のHP「元市民課職員の危ない話」の「過去の戸籍なんでも掲示板」にある(関係ない! けど、なるへそ、だ!)。
■やぶちゃん現代語訳
酒井忠貫殿が倹約に努めた事
酒井修理太夫忠貫(ただつら)殿は、未だ年若のお人ではあるが、学問を好み、その下屋敷には学問所を設け、老若を問わず藩士子弟をして勉学させ、また、武芸についても殊の外、ご奨励なされ、ご自身も指導なされたと聞くほどに、好学尚武のお方であられる。
その奥方は京都の久賀家の息女であられた。
その婚姻の儀に先立ち、修理太夫殿は粗末な木綿の衣類十点のみを、新婦を迎える待ち受けの品として作らせ、控えの間に置いた。殿の老臣や年かさの奥女中たちはこれを見、あまりのことに、
「……これは、一体、如何なる御事(おんこと)にて御座候や……」
と恐る恐る申し上げたところ、殿は、
「我らが倹約に勤めておるは、江戸在住の大勢の家臣達一人洩らさず、その生活を養い、学問をも施し、且つまた、御公儀より仰せつけられた如何なる御用向きをも滞りなく勤めようという所存故である――さればこそ、常に我らは木綿の服を着用致いておる――さればこそ、我らが妻にならんとする者、当然のこととして木綿の服を用いねばならぬ――もし、それを嫌だというので御座れば――上方へお返し申すまでのこと。」
ときっぱりと仰せられ、新婦久賀家息女江戸御到着
の後、婚礼の儀の前に、これをお贈りになられた、ということである。
倹約家修理太夫殿は、その当時、痛く評判となったお人で、藩主のみならず、御家中の方々も共に、倹約質素に相応しい暮しに徹しておった、とのことである。
人の語ったそのままを、ここに記す。
「なまいき蓮舫(れんほう)」!
「おもいやり予算」なんぞ、ぶっとばせ!
「なまいき」が「ほんまもん」か「にせもん」か「おもいやり」を「凌遅」にするとこ――見せてもらいまひょ!
二枚の漆黒の永遠に続く上下無限の黒鉄の測り知れない厚さの板があってそれは接触するかしないかまでに接近していてその間には針さえ入らないが確かに暗黒の深遠に続く間隙が確かに存在している
その間を完全な球体の黒鉄の微細な玉が灼熱の高温を保持しながら物凄い速度で駆け抜けて行く
その玉を
お前は
そのお前の口に
どう 美事 含んで味わうか?
「耳嚢」に「紀州治貞公賢德の事」を収載した。
*
紀州治貞公賢德の事
紀州公いまだ左京大夫にてまします頃、甚慈悲深く下々を惠み給ひしが、輕き中間(ちゆうげん)共迄も右仁慈を難有思ひけるや、何卒御厚恩を報じ奉らんも輕き者にて何も御奉公の筋なし、日々厩にて入用の沓(くつ)御買上の分を隙々(ひまひま)に拵へて獻ずべきと頭役(かしらやく)へ願ひし故、頭役より上聞に達しければ、下々の心付奇特に感じ給ひ、左(さ)あらば右沓を可上(あぐべし)、しかし是迄何程に調ひ侯哉(や)と糺(ただし)ありて、縱令(たとへ)ば今迄十錢の沓ならば八錢は中間共にとらせ候ても是迄より益なるべし、殘り貳錢の内を是迄沓の入口(くちいれ)いたし候者急に助成(じよせい)にはなれ候ては難儀の道理故、少し宛(づづ)とらせ候樣にと被仰付ける由、面白き事也。右紀州公は平日木綿織の夜具を用ひ給ひける故、御先例も無之、甚しきの至りと老臣の輩欺き諌けるが、これは儉約にあらず、養生の爲なれば此儘可差置との仰故、自然と泊り番に出る者も木綿夜具を用ひ、自(おのづから)しつそを守りけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:紀伊和歌山藩第9代藩主徳川治貞倹約のエピソードの続き。なお、岩波版長谷川氏注によれば、「三省録」一に所収されており、その出典は「耳嚢」とあるそうである。「三省録」は前項注を参照。
・「紀州公いまだ左京大夫」前項「當紀州公は左京大夫たりし頃」注参照。
・「中間」脇差一つを挿すことが許され、日常は武家の雑用をこなすが、戦時は戦闘要員の一人と見なされる。大名行列等では奴(やっこ)を務めた。「渡り中間」という語に示されるように、一時限りの契約奉公の場合が多かった(ウィキの「武家奉公人」による)。
・「厩にて入用の沓」これは馬に履かせる草鞋(わらじ)を言う。現在は馬の蹄(ひずめ)を保護するために蹄鉄を打つが、これは明治以降に普及したもので、それ以前は「馬の沓(くつ)」と称した草鞋を馬に履かせて蹄の保護や滑り止めとして用いた(「日本はきもの博物館」のHPの「はきものコレクション展・草鞋類」による。このページで牛馬用草鞋の現物が見られる)。
・「助成にはなれ」顧客が消えて商売の助勢がなくなる、商売上がったり、の意であろう。
■やぶちゃん現代語訳
紀州治貞公の賢徳の事
紀州治貞公が未だ左京大夫であられた頃のこと、公は甚だ慈悲深く、下々の者にさえ、厚く慈愛を施されておられたが、至って身分の低い中間どもまでもが、その公の慈雨の如き慈愛を有難く思ったのであろう、
「……我等、何卒、日頃の御厚恩に報い奉らんと思うも、余りに身分軽(かろ)き者にてあれば、御奉公致すべき何ものも御座いませぬ――されば、日頃、厩にて用いておりましたところの馬の沓――これは今まで作られたものを買い入れておりましたのですが――この沓を、せめて皆で、仕事の暇々に拵え、献上致したく存知上げ奉りまする……」
と、上役に願い出た。
その頭役より公の御耳に達したところ、公は下々の者の心遣いを殊の外お喜びになられ、
「されば、早速に、その沓献上の儀、有難く受けようではないか。……しかし、さて、……これまでは、その馬の沓、如何程にて買い入れておったのかのう?」
と、頭役に問い質され、
「……たとえばじゃ、今まで、十銭で買い入れておった沓ならばじゃ、……その買い入れておった代金の内の八銭は、その拵えて呉れよった、その中間どもに手間料としてとらせたとしても、誰もがこれまでより、より豊かな生活を送れる。……さて、その残り二銭じゃが、……これは、これまで馬の沓を入れておった商人(あきんど)に――急に顧客がなくなってしまったのでは商売上がったり、難儀なこと明白にて――暫くの間、恵み、とらせるように。」
と仰せ付けられたということ――誠に面白いことにて御座る。
また、この紀州公は、いつも木綿織の夜具をお召しになっておられたため、
「御先例もこれ御座らねば、御みすぼらしき御姿にて、余りに御見苦しき至りにて御座る!」
なんどと、老臣どもが、こればかりは藩主の御面体(めんてい)に関わることと、頻りに嘆きお諫め申し上げたのであるが、公は、
「これは倹約ではない。健康のために好きでしておることじゃ。うるさいこと言わんと、捨て置くがよいぞ。」
ととぼけたように仰せられたのであった。
その後、自ずと、公のお傍に宿直(とのい)の番で勤仕(ごんし)する者も、木綿の夜具を用いるようになって、誰もが質素を心懸けるようになった、ということである。
現在進行中の「和漢三才圖會」の「巻第四十 寓類 恠類」に、画像を大幅に追加した。
水族の部を含め、現在までの画像は東洋文庫版の五書肆連名記版図版をOCRで取り込み、補正したものを用いているのだが、国立国会図書館の近代デジタルライブラリー蔵になる明治17(1884)年~明治21(1888)年大阪中近堂版では画師が明らかに異なっている。今までテクスト化してきた水族の図版は、失礼ながら大阪中近堂版はいただけなかったので特に気にならなかったのだが、この巻の猿は大阪中近堂版図版の方が明らかに美的には達者である(但し、多くの図がリアルなニホンザル風のステロタイプ化してしまっている嫌いはあるのだが)。そこで国立国会図書館の近代デジタルライブラリーからPDFファイルで落とした画像を印刷し、それをOCRを用いて取り込み、私の補正を加えて(画像の汚損が激しいため)本文訓読部分の前に配した(なお、以上の私の作業については文化庁の著作権のQ&A等により、保護期間の過ぎた絵画作品の複製と見做され、著作権は認められないと判断するものである)。五書肆連名記版図版と比較して御覧になるのも一興であろう。但し、この大阪中近堂版と五書肆連名記版の図版は構図や対象生物のポーズが全く同じで、恐らく五書肆連名記版を元に別な画師が新たに書き直したものとは思われる。
今後も本巻に限ってはこの方式をとることとする。
ちなみに、現在最後の項である「猩猩」の大阪中近堂版の顏……何だか、最近、お騒がせの元アイドルに似ているような気がするのは、僕の気のせいだろうか……焙りを覚えれば、それは火を使えばこそ進化とも言えるか?……
「耳嚢」に「儉約を守る歌の事」を収載した。
*
儉約を守る歌の事
當紀州公は左京大夫たりし頃より、文武に長じ賢德の聞へありけるに、天明元の夏紀州公御歌の由人の咄けるに、難有事と思ひける儘、虚實は不知とも書留めぬ。
人馬もち武器を用意し勤の役儀をかくまじと思はゞ儉約を守
るべし。其儉約の仕方は我身の不足を堪忍すろ事を知るべし。
事たれば足るに任せて事足らずたらず事足る身こそ安けれ
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を認めないが、先行する人事と和歌の道義的話柄や武士の家訓系話柄の流れに位置づけることが出来、特に違和感はない。
・「當紀州公は左京大夫たりし頃」紀伊和歌山藩第9代藩主徳川治貞(享保13(1728)年~寛政元(1789)年)のこと。以下、ウィキの「徳川治貞」から引用すると、『和歌山藩の第6代藩主徳川宗直の次男として生まれ』たが、『寛保元年(1741年)に紀州藩の支藩である伊予国西条藩の第4代藩主・松平頼邑の養子となり、名を松平頼淳(まつだいら よりあつ)と改める。宝暦3年(1753年)に西条藩の第5代藩主とな』ったが、『安永4年(1775年)2月3日、紀州藩の第8代藩主・徳川重倫が隠居すると、わずか5歳の岩千代(後の第10代藩主・徳川治寶)に代わって重倫の養子となって藩主となり、名を治貞と改める。なお、西条藩主は甥の松平頼謙が継いだ。』紀州の出であった八代将軍徳川吉宗『の享保の改革にならって、藩政改革を行ない、紀州藩の財政再建に貢献している。主に倹約政策などを重視した』。『名君の誉れ高い熊本藩第8代藩主・細川重賢と並び「紀州の麒麟、肥後の鳳凰」と賞された名君で、紀麟公と呼ばれ』、ここに記されているように『紀州藩の財政を再建するため、自ら綿服と粗食を望んだ。冬には火鉢の数を制限するまでして、死去するまでに10万両の蓄えを築いたという。このことから、「倹約殿様」ともいわれる』のだそうである。同記載の官職位階履歴によれば、彼が「左京大夫」であったのは、宝暦3(1753)年に西條藩主となったその年の8月4日から安永4(1775)年2月3日に紀州藩主となった(この時、当時の第十代将軍徳川家治の諱の一字を賜って松平頼淳から徳川治貞と改名した)その2月22日、従三位、参議に補任されて右近衛権中将を兼任するまでの23年間となる。治貞(正しくは頼淳)、25~48歳の砌ということになる。
・「天明元」西暦1781年。
・「事たれば足るに任せて事足らずたらず事足る身こそ安けれ」諸注に「三省録」四に水戸光圀の戒めの歌として載る、とする。「三省録」は天保14年版行された志賀理助(りじょ:理斉とも)著の随筆。同書の千葉大図書館の書誌によれば、『衣、食、住の三つは人間が生きていく上で、必要不可欠のものである。たとえば衣服は元来寒暑をふせぎ膚をあらわにせぬを以て礼とするもの、また分限相応のものを着用するのが正しいとし、松平定信の改革を遵奉して本書を著わしたことが判る。当時の著作物を引用し著者の見解をつけ加えて論評し』たもの、とある。なお、詞書はブラウザの不具合を考えて底本と同じ一行字数で改行した。
やぶちゃんの通釈:
それで何とか 間に合ったなら そこで満足するがよい 足りないところが あったとしても 足りないことにも十全に 満足出来る者ならば その身は永劫安泰じゃ
■やぶちゃん現代語訳
倹約を守る歌の事
当世の紀州公は、左京太夫であられた頃より、文武両道に長ずるばかりでなく、その賢明にして徳高きこと、御評判であられたが、天明元年の夏に、その紀州公の御歌であるという歌を、人が話すのを耳にした。貴(とおと)くもったいないことと思うにつれて、……いや、やや、眉唾か……何度とも思われ……さればこそ、その真偽の程は分からぬが、とりあえず書き留めておいた。
人馬及び武具を用意して、鎮護国家の勤仕(ごんし)の役分
を欠くことなく成さんと思うのであれば、何よりもまず倹約
を守らねばならぬ。その倹約の仕方とは何か?――それは、
自分には「何が欠けているか」「何が足らないか」……自分
が「何を持っていないか」ということを十全に認識し、――
そのことに、ひたすら――「堪える」という事を「知る」こ
とと言えよう。
事たれば足るに任せて事足らずたらず事足る身こそ安けれ
既に公開したHP版「耳嚢」の各話に、先行する話柄との関連を考察した『○前項連関』という項目を注の冒頭に総て配した。
現在、54話まで本文テクスト化・注・現代語訳を行ってきたが、その作業の中で、根岸鎮衛は明白な分類学的連関をもって「耳嚢」の各話を配列しているということが分かってきた。急にやったことであり、今後、その記載を訂正することもあると思われるが、とりあえず現在発表した総てについて、今、補足した。読解の楽しみの一助となれば幸いである。気づいていない連関等あれば、是非、御教授頂ければ、恩幸、これに過ぎたるはない。
片山廣子 49歳 昭和2(1927)年11月
雑誌「令女界」第6巻第11号掲載の廣子の全和歌
しろき猫
坂路のわか葉の中にかぜふきて鸚鵡のさけぶ聲するゆふかた
どくだみの花多くあるがけのうへの二階の障子やぶれてあるかな
りん鳴りていづこの門かあくらしきわがひとりあるくほそみちの闇に
しろき猫くらき芝生をすぐるとき立ちどまりてわれを見たるやうに思ふ
小窓あけ夜中の庭の樹のうへに一つ星のまばたくを見たり
あけがたの雨ふる庭をみてゐたり遠くに人の死ぬともしらず
輕井沢にて
霧のまく土手のうへの木にさまざまの小鳥あつまりて聲々に鳴けり
こころよくここに寝て死にたし風つよき碓氷のうへのくま笹のやま
*
……白い猫でも黒い猫でも……廣子にとっては「彼」である……ここに現れた星も、「あの」時と同じマアルス、である……
……「彼」の犬嫌いは頓に知られているが、殊の外、猫好きであったことは余り知られているとは思われない……片山廣子「黑猫」を読まれるがよい……
……あけがたの雨ふる庭をみてゐたり遠くに人の死ぬともしらず……
……この歌は本誌掲載から遡ること、3箇月前、昭和2(1927)年8月8日附の片山廣子の山川柳子宛書簡に、歌の後に「七月二十四日朝のこと」と記して初出する……私の「片山廣子琴線抄」を参照されよ……
……あけがたの雨ふる庭をみてゐたり遠くに人の死ぬともしらず……
……これは昭和2(1927)年7月24日早朝に自死した「彼」への挽歌なのであってみれば……それを最後に配した「しろき猫」歌群は全体が「彼」へのオードであるとしなくては不自然である……
……更に言うならば、「彼」へのオードである歌群に、無関係な歌を合わせて寄稿するような無神経な廣子ではない……そのオードの余韻を微かに響き返すような効果として、続く「輕井沢にて」は読まれることを「秘かに」期待している……
……この年の夏……「彼」の死んだ直後の夏……この年はひどく暑かったのだ……廣子は恐らく例年通り、軽井沢に避暑に行ったに違いない……しかし、そこには永遠に「彼」は来ない……重なり合った深い霧の中、人気はない……野鳥のさえずりが聴こえるだけ……しかし、この表面上は濃い霧の中のさまざまの小鳥の声を伝える叙景の一首、一首として切り離しても私には朗らかに響いては来ぬ……小鳥だけが聴覚の天然色を示しながら……あくまで眼前は乳を流した如き孤独なモノクロームの情景である……そしてその小鳥たちは「何の鳥だ」かは分からないのである……「あの」時の思い出の、碓氷峠の鳥のように……『何處からか彼は小さなまるい眼を光らして私』『を見てゐるのだらうと思つた』……そう「私たち」ではなく……独りぼっちの私を……
……その心象風景が次の歌へとカット・バックする……あの思い出の碓氷峠……それは誰もが知っている「あの」では、ない……あの、「五月と六月」に廣子が描いた、秘密「あの」思い出の碓氷峠……彼女が、「彼」の前で狐になり……不思議な花びらが『たつた五六片、私たちの顏の前をすつと流れて谿の上に』散った――「廣子さん、あれは、貴女と「彼」のときじくの花だったのですよ」(これはこのブログを記している僕が碓氷峠の上で彼女に語りかける台詞である)――
……しかし……廣子は……もう独りだ……強い風……ときじくの花びらは、もう散らない……ここなら……ここなら、こころよく寝て……死ねる……死にたい……「彼」との思い出の、この場所なら……碓氷峠の上の……熊笹の山の……その奥へ……生死を抱きとめる、彼女の愛したアイルランドの神話の自然のように……それが彼女を抱きとめてくれるであろう…………「廣子さん、行きなさい、狐になって、「彼」の元へ……」(これもこのブログを記している僕が碓氷峠の上で彼女にかけるコーダである)
*
この歌群は廣子の歌集には一首も採られていない。従って、読まれる機会も少ない。しかし、これは廣子の和歌の中で、どうしても銘記されなくてはならぬ歌であると、僕は思うのである――
(底本は月曜社2006年刊片山廣子/松村みね子「短歌集+資料編 野に住みて」の短歌のパートの「拾遺」301p所収のものを用いたが、表記は恣意的に正字に直してある。)
「耳嚢」に「犬に位を給はりし事」を収載した。
*
犬に位を給はりし事
天明元年に酒井雅樂頭(うたのかみ)、蒙臺命(たいめいをかうむり)上京ありしが、雅樂頭はいまだ壯年にて常に狆(ちん)を愛しけるが、右の内最愛の狆は在所往來にも召連給ひしが、此度はおふやけの重き御用故連間數由の所、出立の日に至り駕を離れず、近習(きんじふ)の者駕籠へ入れじと防(ふせぎ)しに、或は吠え或は喰ひ付て中々手に餘りぬれば、品川の驛より返しなんとて品川まで召連れ、右驛に至りける故是より歸しなんと色々なしぬれど、兎角に屋敷にての通り故、是非なく上方迄召連れけるが、よき犬にや有けん、京にも此沙汰ありて、天聽にいれ、畜類ながら其主人の跡を追ふ心の哀れ也迚、六位を給りしとかや。是を聞て事を好む殿上人の口ずさみしや、又は京童(きやうわらべ)の申しけるや、
くらひ付く犬とぞ兼てしるならばみな世の人のうやまわん/\
右は根なし事にもあるぺけれど、其此所々にて取はやしける故、爰に記しぬ。
□やぶちゃん注
・「天明元年」西暦1781年。
・「酒井雅樂頭」酒井忠以(ただざね 宝暦5(1756)年~寛政2(1790)年)播磨姫路藩第2代藩主。雅楽頭系酒井家宗家十代。茶道家としても知られ、また、江戸琳派絵師酒井抱一(本名:忠因)は実弟である。位階は明和5(1768)年に12歳で従四位下河内守を受けている(以上はウィキの「酒井忠以」を参照した)。
・「蒙臺命」将軍の命令を戴き。この当時の将軍は第十代徳川家治。岩波版長谷川氏の酒井忠以についての注では、安永9(1780)年の第119代『光格天皇即位に使として上洛、翌天明元年に帰る』とあるのだが、光格天皇の即位は安永8(1779)年11月9日のことである。幾ら何でも、即位後に『即位に使として上洛』というのはあり得まい。この話は安永8(1779)年10月のことではあるまいか?
・「いまだ壯年にて」安永8年当時、酒井忠以は実に23歳の若さであった。
・「狆」以下、ウィキの「狆」から引く。『日本原産の愛玩犬の1品種。他の小型犬に比べ、長い日本の歴史の中で独特の飼育がされてきた為、抜け毛・体臭が少なく性格は穏和で物静かな愛玩犬である。狆の名称の由来は「ちいさいいぬ」が「ちいさいぬ」、「ちいぬ」とだんだんつまっていき「ちん」となったと云われている。 』「狆」という漢字は『和製漢字で中国にはなく、屋内で飼う(日本では犬は屋外で飼うものと認識されていた)犬と猫の中間の獣の意味から作られたようである』が、『開国後に各種の洋犬が入ってくるまでは、姿・形に関係なく所謂小型犬の事を狆と呼んでいた。庶民には「ちんころ」などと呼ばれていた』。『狆の祖先犬は、当初から日本で唯一の愛玩犬種として改良・繁殖された。つまり、狆は日本最古の改良犬でもある。とは言うものの、現在の容姿に改良・固定された個体を以て狆とされたのは明治期になってからである』。江戸期、犬公方五代将軍徳川綱吉の治世下(1680年~1709年)にあっては、『江戸城で座敷犬、抱き犬として飼育された。結果、狆には高貴ながイメージが付きまとい、これをまねて豪商等も狆を飼育するようになり、価格の高騰を招いた。また、吉原の遊女も好んで狆を愛玩したと』される。香川大学神原文庫蔵の「狆育様療治」によれば、『高価な狆を多く得る為に江戸時代には今で言うブリーダーが存在し、今日の動物愛護の見地から見れば非道とも言える程、盛んに繁殖が行われていた。本書は繁殖時期についても言及しており、頻繁に交尾させた結果雄の狆が疲労したさまや、そうした狆に対して与える』ためのスタミナ食や回春剤についての記載さえあるという。『近親交配の結果、奇形の子犬が産まれることがあったが、当時こうした事象の原因は「雄の狆が疲れていた為」と考えられていた』ことがここから知られる。『江戸時代以降も、主に花柳界などの間で飼われていたが、大正時代に数が激減、第二次世界大戦によって壊滅状態になった。しかし戦後、海外から逆輸入し、高度成長期の頃までは見かけたが、洋犬の人気に押され、日本犬でありながら、今日では非常に稀な存在となり、年配者以外の世代の者は、この犬種の存在さえ知らない事が殆どである』。と記すのだが……俺は年配者かい!
・「天聽」天皇に知られること。当然、これは光格天皇(明和8(1771)年~天保11(1840)年)であるから、当時、安永8(1779)年11月9日即位直後ならば、実に8~9歳の子供店長、犬に官位を賜わったとしても不思議ではない。
・「六位」正六位は『律令制下において六位は下国の国司及び国府の次官である介が叙せられる位であった。地下人の位階とされ、五位以上の貴族(通貴)とは一線を画する位階であり昇殿は許されなかった。但し、蔵人の場合、その職務上、六位であっても昇殿が許され、五位以上の者と六位蔵人の者を合わせて殿上人と称した』。『明治時代以降は、少佐の階級にある者などがこの位に叙せられた。また、今日では警察官では警視正、消防吏員では消防監などがこの位に叙せられる他、市町村議会議長にあった者、特別施設や学校創立者その他、業種等で功労ある者などが没後に叙せられる』という(ウィキの「正六位」から引用)。また従(じゅ)六位ならば『律令制において従六位は、さらに従六位上と従六位下の二階に分けられた。中務省の少丞、中監物、その他の省の少丞、少判事、中宮職の大進・少進、上国の介、下国の守などに相当』し、明治以降の『栄典として従六位は、戦前に軍神として名高かった海軍中佐の広瀬武夫に叙されている』とある(ウィキの「従六位」から引用)。ここでは多分、従六位かと思われるが、あの杉野は何処の広瀬中佐が、狆と同じにされた日にゃ、たまったもんじゃねえぜ!
・「京童」京都の若者・大衆のことを言うが、一般に「口さがない京雀」というのと同義で、口うるさい京の民衆の謂いである。
・「くらひ付く犬とぞ兼てしるならばみな世の人のうやまわん/\」「うやまわん」はママであるが、これは犬の鳴き声と掛けた一種の確信犯であるから(但し、岩波版は「はん/\」)、現代語訳でもそのままとした。「くらひ付く」は「食らひ付く」と「位(くらゐ)付く」を掛け、「うやまわん/\」は「うやまわんわん」であるから、「敬はん」と「ワンン! ワン!」という犬の鳴き声を掛ける。
やぶちゃんの通釈:
――後(のち)に位が付くことに なってる食らい付いてくる 犬だとすでに分かっておれば 世の人皆(みんな)この犬の ことを心底敬ったわぁん! ウー! ワン!――
■やぶちゃん現代語訳
犬に位を賜わるというの事
天明元年のこと、酒井雅楽頭忠以殿が、光格天皇即位式御使者として、将軍家御家命を受け、上京致いた折りのこと――その当時、未だ雅楽頭殿は青年で御座って、いつも数匹の狆を可愛がっておった。その中でも最愛の一匹は、御在所播磨姫路と江戸の行き来にも召し連れなさって御座ったが、今度ばかりは、公(おおやけ)の重い御用故、連れて行くわけには参るまいとお思いになっておられたところ――出立の日になって、この狆、雅楽頭殿のお駕籠を離れない。――近習の者どもが、お駕籠の中に入れまいといろいろ手を尽いたのじゃが――或いはわんわんと吠え叫び、或いはがぶがぶと嚙みつく、大暴れして手におえない――致し方なく、まあ、とりあえず、品川の宿駅まで連れ行き、そこから何とか騙しすかして帰そう、ということに相なった――さても、品川に辿り着いたので、さて、ここから帰そうと、これまた、いろいろやってみたのであるが――またぞろ、最前の屋敷でと同様、駕籠から下ろそうにも手が付けられぬ――仕方なく、とうとう上方まで召し連れて御座った。
なかなかに目立つ良犬であったのであろうか、京でもこの狆、痛く評判となり、天子さまのお耳にさえ達して、
「――畜生の身乍ら、その主人(あるじ)が跡を追わんとするは、その心懸け、ほんに美事なり――」
と、六位を賜はれたとか――。
これを聞いた、噂好きの殿上人が口から出任せに詠ったのか、或いは口さがない京雀が囃いたのか、
くらひ付く犬とぞ兼て知るならば皆世の人の敬わんわん
と詠んだとか――。
以上は、根拠のない戯れ言であろうけれども、当時、さまざまな所で囃し立てられた有名な話である故、ここに記しておく。
「耳嚢」に「河童の事」を収載した。HPとの差別化を図るために図は省略した。是非、巨大な河童の図は、そちらで御笑覧あれ。補正によって、底本の図よりもリアルになっていると思うよ。……なお、注の斜体部分は、……お分かり、頂けただろうか……知る人ぞ知る……ネットの心霊動画の、お馴染みの、あのナレーションの最後を、パクったものだ……「とでも言うのであろうか」……
*
河童の事
天明元年の八月、仙臺河岸伊達侯の藏屋敷にて、河童を打殺し鹽漬にいたし置由、まのあたり見たる者の語りけると其圖を松本豆州持來り、其子細を尋るに、右屋敷にて小兒抔無故入水せしが、怪む事ありて右堀の内淵ともいへる所を堰て水をかへ干しけるに、泥を潛りて早き事風の如きものあり。漸(やうやく)鐵砲にて打留しと聞及しを語りぬ。傍に曲淵甲斐守ありて、むかし同人河童の圖とて見侍りしに、豆州持參の圖にも違ひなしといひぬ。右の圖左にしるしぬ。
□やぶちゃん注
・「河童」カッパは地方名が甚だ多く、「河童」系ではガワワッパ・ガワッパ・ガラッパ(「河(かは)の童(わつぱ)」という関東方言が元と言われる)、「河太郎」からカワタロウ・ガタロウ・カワタロ・ゲータロ、他にカワコゾウ・カワコボシ・カワコ(「河虎」)・シバテン(「芝天狗」:叢に棲む下級天狗が妖怪化したものの意)・エンコウ(「猿猴」:中国では本来、サルの一種を指すが、後に伝承の中で分化、一部が妖怪化した。私の電子テクスト「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」所収の「猨」の項の注「猿猴」を参照されたい。河童との関連についても記してある)漢語系では先の河虎の他、水虎・河伯が知られる(但し、形態の一部がやや類似しているものの、中国のそれは爬虫類を思わせる異なる架空の水棲動物である)。伝承では相撲好きでよく子供を相手に相撲をとる。負けた子供は尻小玉を抜かれる、と言われた。水に漬かっているヒトのそれを抜くともよく言われる尻小玉とは、人間の肛門の内側にあるとされた架空の臓器の名で、これは水死体の肛門の括約筋が弛緩して大きく広がっていたり、そのために起こった脱腸及び洩出した腐敗臓器を目撃した人間の誤認から形成されたものと考えられる。さて、本件の図と一般的な形態とを比較してみよう。甲羅と頭頂部の皿、嘴状に尖った口吻という河童の三大アイテムは完備している(もう一つ、肛門が三つあるという特徴がある)。特に鋭角的な突き出た口吻を表現するために、眉間に筋を配し、鼻梁も左右に太く書き入れてその高さ(ひいてはその下に伸ばした口の前面への吻部を強調)を効果的に表現してある。通常の河童の身長は30~150㎝、大きくても成人男性の身長を越えることはなく、名の通り子供の大きさであることが多い。本件記載は大きさを示さないが、直前に小児の溺死の記載を並べてあり、泥の中を潜るという表現、図の全体の雰囲気から受けるのは、やはり子供の大きさ1m程度か。殆んどは四肢の指間に水掻きを有し、且つ親指がない絵が多い(ウィキの「河童」等)というが、本図左手はヒトと同様、五本指、内側のそれはしっかりとした親指として描かれている(但し、右手人差し指以外の足の指なども含め、全体に鋭角的で、且つ、掌側に強く湾曲しているのは、水掻きに進化する前の四肢の形状変化を示しているようにも思われる)。大きな特異点は男性生殖器の描写である。勿論、古画で生殖器を描いた河童というのもあるし(栗本丹州のものや、一部の絵に前掛けのような褌をしたものがあり、その内股には一物が当然あったと考えてよい)、芥川龍之介の「河童」はヒトと同様の女性生殖器をしっかり描いているから、生殖器があることを以って本図を異例とはしないが、この陰茎と睾丸の描写が極めて興味深いのである。これは少年児童の男性生殖器と極似している。最後にウィキの「河童」から引用しておく。『河童は、間引きされた子供の遺体が河原にさらされている姿との説もある。江戸時代には間引きは頻繁に行われており、他の子供に間引きを悟られないよう大人が作った嘘とも言われている』。なお、本図は4つ前の「大通人の事。并圖」の大通人の図と確信犯的に連するように描かれているのではなかろうかと私は思う。即ち、大通人は根岸にとって禍々しい河童と等価の、当世の化け物であったのである。
・「天明元年の八月」西暦1781年。翌2年から天明の大飢饉が始まる。ウィキの「天明の大飢饉」によれば、『東北地方は1770年代より悪天候や冷害により農作物の収穫が激減しており、既に農村部を中心に疲弊していた状況にあった。こうした中、天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が、7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせる。火山噴火は直接的な被害ばかりではなく日射量低下による冷害傾向が顕著となり農作物に壊滅的な被害が生じ、翌年度から深刻な飢饉状態となった。当時は田沼意次時代で重商主義政策が取られており、米価の上昇に歯止めが掛からず、結果的に飢饉は全国規模に拡大した』と、ある。なお、これは昨年、アイスランドに旅した際にも現地で知った事実でもあるが、現在の科学的知見によれば、『1783年、浅間山に先立ちアイスランドのラキ火山(Lakagígar)が噴火(ラカギガル割れ目噴火)、同じくアイスランドのグリームスヴォトン(Grímsvötn)火山もまた1783年から1785年にかけて噴火した。これらの噴火は1回の噴出量が桁違いに大きく、おびただしい量の有毒な火山ガスが放出された。成層圏まで上昇した塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させ、北半球に低温化・冷害を生起しフランス革命の遠因となったといわれている。影響は日本にも及び、浅間山の噴火とともに東北地方で天明の大飢饉の原因となった可能性』が示唆されている。……人肉喰いも行われた、この世の生き地獄たる天明の大飢饉……この河童の出現は、その不吉な予兆であった、とでも、言うのであろうか……
・「仙臺河岸伊達侯の藏屋敷」隅田川の東岸にあった仙台堀川(せんだいぼりがわ)の両岸を言う。南に門前仲町、北に霊巌寺を配す。寛永6(1629)年に掘削されたものだが、近く(現在の江東区清澄1丁目)に仙台藩松平陸奥守伊達家の蔵屋敷があったことから「仙台堀」と名付けられた。この蔵は当時最大の米蔵で、遙々仙台からこの運河を抜けてここに良米が運ばれ貯蔵されたのであった。この当時の藩主は第七代伊達重村であるが、逼迫していた藩財政に追い討ちをかけた大飢饉は天明3(1783)年時には56万5000余石の大減収をもたらし、藩内でも打ちこわしが続出、数々の施策を打ち出しては見たものの、この大飢饉によって藩内では30万人以上の死者を出した。重村は和歌に通じ、学問奨励に尽力する等、名君の器であったと言われるだけに、まさに不運という外はない(以上伊達重村の記載はF.M氏のHP「宮城史跡巡り」の「第七代仙台藩主 伊達重村」を参照させて頂いた。掉尾の語柄もそのまま用いさせて頂いている)……いや、これもまた、殺した河童の呪い、とでも、言うのであろうか……
・「松本豆州」松本秀持 (ひでもち 享保15(1730)年~寛政9(1797)年)最下級の身分から勘定奉行(在任:安永8(1779)年~天明6(1786)年)や田安家家老へと異例の昇進をした、天明期、田沼意次の腹心として経済改革を推進した役人の一人。蝦夷地開発に意欲を燃やしたりしたが、寛政の改革によって失脚、勘定奉行在任の不正をでっち上げられ、天明6(1786)年には500石から150石に減封の上、逼塞を命ぜられた。つるべ落としの没落……これもまた、河童の絵の呪い、とでも、言うのであろうか……
・「曲淵甲斐守」曲淵甲斐守景漸(かげつぐ 享保10(1725)年~寛政12(1800)年)のこと。前項複数に既出。以下、ウィキの「曲淵景漸」によれば、『武田信玄に仕え武功を挙げた曲淵吉景の後裔』で、『1743年、兄・景福の死去に伴い家督を継承、1748年に小姓組番士となり、小十人頭、目付と昇進、1765年、41歳で大坂西町奉行に抜擢され、甲斐守に叙任される。1769年に江戸北町奉行に就任し、役十八年間に渡って奉行職を務めて江戸の統治に尽力』、『1786年に天明の大飢饉が原因で江戸に大規模な打ちこわしが起こり、景漸はこの折町人達への対処に失態があったとされ、これを咎められ翌年奉行を罷免、西ノ丸留守居に降格させられた。松平定信が老中に就任すると勘定奉行として抜擢され、定信失脚後まで務めたが、1796年、72歳の時致仕を願い出て翌年辞任した』。天明の大飢饉の際に『町人との問答中に「米がなければ犬を食え」と発言し、この舌禍が打ちこわしを誘発するなど失態もあったが、根岸鎮衛と伯仲する当時の名奉行として、庶民の人気が高かった』とある。……この舌禍もまた……河童の言上げの災いであった、とでも、言うのであろうか……それにしても……これを記した根岸本人にこそ祟るべきであろうと、思うのだが……
■やぶちゃん現代語訳
河童の事
天明元年の八月のこと、仙台河岸伊達候の蔵屋敷にて、河童を打ち殺して塩漬けに致し保存していた、という話を、直接その出来事を見聞きした者のが語った話であると言って、松本伊豆守秀持殿がその河童の絵を持参の上、訪ねて来た。その仔細を詳しく尋ねてみると――かの伊達候蔵屋敷では、以前から度々、幼い子供などが、これといった不注意も見受けられぬにも拘わらず、ふっと溺れて死ぬようなことがあった。どうも、仙台堀から更に引き込んだ屋敷内の水路の深み辺りが怪しいということになり、引き込みの口を堰き止めて水を干したところ、泥の中をしゅるしゅると風のようにすばしっこく動き回る生き物がいた。ようやっと鉄砲で打ち殺した、と聞いて御座る――とのことであった。
偶々、傍らにやはり拙宅を訪ねておった曲淵甲斐守景漸殿がこの絵を見、
「……昔、拙者、河童の絵なるものを見たことが御座るが、この伊豆守殿御持参の絵と、寸分たがわぬ類(るい)のもので御座った。……」
と語った。
その絵を以下に写しておく。
「耳嚢」に「惡女歌の事」及び「女をいましめし歌の事」を収載した。
*
惡女歌の事
或人妻をむかへけるに一眼にて有しかば、其夫物うき事にいひのゝしりければ、彼妻かくなん。
みめよきは夫の爲のふた眼なり女房は家のかため也けり
其夫も理に伏しかたらひ榮へけると也。
□やぶちゃん注
・「惡女」醜女。ぶす。
・「みめよきは夫の爲のふた眼なり女房は家のかため也けり」「みめよき」は「見目佳き」に「三目」を掛け、「二眼」は「二目」と「不為」(ためにならない)を掛け、更に「かため」に「片目」=「一目」と「固め」を掛けて、三目・二目・一目という数をも読み込んである。
やぶちゃんの通釈:
見目麗しい奥方を 夫は喜ぶものなれど 双眼揃うた美人の妻は とかく間違い起すもの 夫のためにはなりません 内の女房と言うものは 片目なれこそしっかりと 家の固めとなれるもの
・「かたらひ」男女が親しく情を交わす。契る。
■やぶちゃん現代語訳
片目の妻の詠じた歌の事
或る男、妻を迎えたのだが、片方の目が障害で見えない女であったため、その夫なる男が、ある時、気に食わないことがあった折、以前から、内心、不愉快に思っていた片目のことを口汚く罵ったところ、その妻は次のような歌で応えた。
見目佳きは夫の為のふためなり女房は家の片めなりけり
この洒落た歌に、その夫も、成程、と腑に落ち、その後は親しく契り、家も栄えたということである。
* * *
女をいましめし歌の事
ある歴々の娘、其職ならぬ方へ嫁しけるが、公家武家と違ひ或ひは農家商家と違ひしが熟縁せざるの道理にて、夫婦心ひとつならざる故其母憂へて、兼て出入せし堂上(たうしやう)のもとへまかりし頃、右の咄しけるを、右の堂上誰なりけん、一首の歌詠て給はりける。
つじ妻もはせなばなどか合ざらんうちは表にまかせおくにぞ
右歌を其娘にあたへければ、其後は夫婦の中もむつまじく榮けるとなむ。
□やぶちゃん注
・「歴々」身分家柄の優れていること。または、その人。以下、特定されないように意識的に書かれているように思われるが、雰囲気としては公家の高家が武家の、相応に当時の社会では権威を持っている家柄ながら、官位の上では如何にも低かった家に嫁入りしたという感じがする。次の注で示すように、堂上の公家が地下の公家へ嫁したとも取れないことはないが、根岸が聴き記したものとして公家界内部のゴシップというのは、余り相応しくないという気がするのである。そもそも「公家武家と違」うという事実をあからさまに出せば、それは当然、将軍家や幕閣も対象になる微妙な発言となるからではあるまいか。
・「堂上」堂上家(とうしょうけ/どうじょうけ)のこと。清涼殿の殿上の間に昇殿出来る殿上人をルーツとする公家の家系。一般的な「公家」と言うのと同義。これに対して、昇殿が許されない廷臣格の公家及びその家系を地下家(じげけ)と呼称した。
・「つじ妻もはせなばなどか合ざらんうちは表にまかせおくにぞ」「はせなば」の部分、底本では右に『一本「あはせば」』とある。しかし、ここで「合はせば」と使って直ぐに「合ざらん」では、和歌の体を成さない。岩波版の長谷川氏の注にはこれを「はせる」という一語で取り、挟むと同義で『着物の褄をはさんで合わす』という意味であるとする。私は不学にしてこのような古語を知らない。知らないが、それこそお洒落にここの部分の辻褄は合うように思われる。長谷川氏に全幅の信頼を置き、この意味を採用させて頂いた。「つじ妻」の「褄」に「(辻褄を合わせるのは)妻」を掛け、「合ざらん」に夫婦和合の意味を掛けている。それ以外に、私には「うち」を上流階級が上着の下に着た「内袿」(うちき)と「夫・亭主」の意に掛け、「表」は「表に着る上着」に「見せかけ・表向き」の意味を嗅がせてあるように思われ、結果として「つま(褄)」の縁語で「はせ」「合は」「うち」「表」が用いられているという、俄か歌学……如何? 識者の御教授を乞う。
やぶちゃんの通釈:
辻褄と いうは 着物の 褄はさみ 合わすが如く 妻自(おのず)から 合わさば 合わぬ はずもなし 内袿(うちき)は上着に 花持たすが如く 表向きには夫なる 人に花をば持たすが秘訣
■やぶちゃん現代語訳
嫁いだ娘への戒めとした歌の事
ある身分の高い家の娘が、実家の高い官位にすれば、相応しからぬ先へと嫁いだ。古来、公家と武家との違い、或いは農家と商家との違いの中、そうした異なる階級間の婚姻がうまく行かぬというのは世間の常識に違わず、この夫婦にも何処やら心の齟齬が傍目(はため)にも明らかであったから、それを娘の母が気に病み、以前から親しく交わらせて頂いていた、さる堂上家(どうじょうけ)の元をお訪ねした折り、この悩みを洩らしたところ――その堂上家というお方が、どなたであられたかは、憚られるので名を記さねど――一首の和歌をお詠みになられ、母なる女に賜れた。
つじ妻も合はせばなどか合はざらんうちは表にまかせおくにぞ
母なる人、この歌を娘に渡いたところ、その後(のち)、夫婦仲も睦まじくなり、長く家も栄えた、とのことであった。
諺歌の事
或人予にかたりけるは、此頃世にあふ歌世にあわぬ歌とて人のみせ候由、懷にして來りぬ。此歌の心げにかくあるぺけれども、一概に信じけんは不實薄情のはし也。心ありて見給ふべし。
世にあふ歌
世にあふは左樣でござる御尤これは格別大事ないこと
世にあわぬ歌
世にあはじそふでござらぬ去ながら是は御無用先規(せんき)ない事
□やぶちゃん注
・「諺歌」「げんか」と読み、諺言戯歌のこと。諺を借りた当世流行の戯(ざ)れ歌。
・「世にあふ歌世にあわぬ歌」上手く世渡りするための歌と世渡り下手(べた)の歌。
・「世にあふは左樣でござる御尤これは格別大事ないこと」「ない」はママ。当時のこの口語表現が既にイ音便化していた証左としてこのまま示す。
やぶちゃんの通釈:
世の中を 上手に渡る その秘訣――「左様に御座いまする♡」「それはもう、ごもっともなことで♡」「これは誠(まっこと)結構なことで♡」「いや、全然、差し支え御座いませんです、はい♡」――
なお、底本で鈴木氏はこの歌に注して、老中田沼意次が幕政を主導して重商主義を敷いた時代(明和4(1767)年~天明6(1786)年までの約20年間)に『士風の頽廃ぶりを端的に示す好資料として、しばしば引用される』本諺歌に相似したものとして、以下を掲げている。
世の中は左樣で御座る御尤何と御座るかしかと存ぜぬ
これは通釈すれば、
世の中と 言うもの――「左様に御座いまする♡」「それはもう、ごもっともなことで♡」……「何と仰る! 理不尽な!」「そんなことは、まるで、存ぜぬ!」
といった、ここでの二つの諺歌のハイブリッドなものともとれるように思われるのは、私の錯覚か。
・「世にあはじそふでこざらぬ去ながら是は御無用先規ない事」「そふ」はママ。「左右」であるから、当時の口語化の変遷過程示すものではあるが、現代仮名遣としてもおかしく、分かり易くするためにも、現代語訳の和歌提示では正仮名遣に正した。「先規ない」もママであるが、これは当時のこの口語表現が既にイ音便化していた証左としてこのまま示す。「先規」は以前からのしきたり・決まり。先例の意。「せんぎ」とも読む。
やぶちゃんの通釈:
世渡りの 如何にも 下手なその例(ためし)――「そうでは御座らぬ!」「そうではあるが……しかし、ねぇ!」「いや、御気遣いは御無用!」「そんな先例は、ない!」――
■やぶちゃん現代語訳
戯れ歌の事
或る人が私に語ったこと――彼は、最近、「上手く世渡りするための歌」というのと「世渡り下手の歌」というのを、或る人から見せられたと言って、それを書いたものを実際に持参して来たのであるが――まあ、この歌の言わんとするところ、確かに……それはそれ……如何にもそうであろうとは思うけれども……これをまた……無批判に鵜呑みにして信じ込んでしまうというのも……これまた……不誠実にして義理人情を解さぬ冷血の極み、である。心してご覧あれかし。
上手く世渡りするための歌
世に合ふは左様で御座る御尤もこれは格別大事ない事
世渡り下手の歌
世に合はじさうで御座らぬ去りながら是は御無用先規(せんき)ない事
*
「耳嚢」に「諺歌の事」を収載した。
「耳嚢」に「大通人の事。并圖」を収載した。HPと差別化するため、ブログでは図は省略した。
*
大通人の事。并圖
安永天明の此、若き者專(もつぱら)通人と言事を貴びける。右大通(といへるは、物事行渡り、兩惡所其外世の中)の流行意氣地(いきぢ)にくわしき者を呼ぶ。甚しきに至りては、放蕩無類の人をさして通人又は大通と言る類ひ多し。
案に、通の字は漢家に通といひ達といひ、佛家にも圓通の文字もあ
れば、かゝる放とうの者をいふべきにあらず。されど、物事行渡り
しといふ心より唱へ稱なるべし。
或人、右通人の畫讚を携へ見せける故、誠の戲れ事ながら、後世より見たらんはおかしき、又むかしもかゝる事の有しと、心得の一ツにも成ぬぺしとしるし置ぬ。
安永の比、奇怪の人あり、其名を自稱して通人といふ。凡そ圖の如し。譬ば鵺(ぬえ)といふ變化に似て、口を猿利根(りこん)にして尾は蛇を遣ひ姿は虎の如し、啼聲唄に似たり。多分酒を食として世を下呑にする、あたかも眞崎田樂を奴(やつこ)にあたふるよりも安し。忠といへば鼠と行過ぎ、孝といへば本堂の屋根をふり向、燕雀なんぞ大鵬の心をしらんや。小紋通しの三ツ紋は紺屋(こうや)へ三おもての働をあたへ、裏半襟は仕立屋の手間損、三枚裏のやはたぐろの世にまつくらな足元、どんぶり多(た)ば粉(こ)入とおち木綿手拭長きこともふきたらず、穴しらずの穴ばなし、親和染(しんなぞめ)の文字知らず、俳諧しらずの俳名、通人の不通成べし。圖の如きは親類不通のたねならんかし。
□やぶちゃん注
・「安永天明」西暦1772~1798年。
・「(といへるは、物事行渡り、惡所其外世の中)」底本には右に「(尊經閣本)」と、引用補正した旨、記載がある。「兩惡所」とは
・「意氣地に」は「流行」と「意氣地」が並列なのではない。「意氣地に」は形容動詞(若しくは副詞)として機能しており、「己がことを意氣地に『物事行渡り、兩惡所其外世の中の流行にくわしき者なり』と思ひ込みたる輩」といった意味合いを示しているものと思われる。そうしないと「他に張り合って頑なに自分の意思を押し通そうとする気迫」や「意地っ張り」の意味しかない「意氣地」の意味が通らない。
・「案に、……」以下は根岸の注である。ブラウザの不具合を考えて、底本と同じ字数で一行を構成し、ブログではポイントを落とした。
・「通の字は漢家に通といひ達といひ」「通」という漢字は「とおる」という基本義の中に、「届く・至る」「遍く流れ行き渡る」「遍く伸び広がる」「永遠に極まることがない」「行き渡る「貫き通す」「透き通る」「経過する」「過ぎる」「障害なく辿り着く」「順調に行われる」と言った意味を持ち、そこから「伝え知らせる」「詳しく知る」「余すところなく知り尽くす・悟る・理解する」という派生義が生じ、更には「物知り・物事によく通じた人物・通人」という義に発展した。国訓としても「つう」は一番に「人情や遊芸に明るいこと、又はその人」という意味を持つ。「通といひ達といひ」というのは、やや分かりにくいが、「通」という漢字の基本属性に発し、「通達」という熟語に見るように同義である「達」が、既に基本義おレベルに於いて「知り尽くす・悟達する・深く物事の理に通ずる」を付与されていることを言わんとしているものと思われる。現代語訳では、くどくなるのを恐れて、『「通」という字は漢語にあっては「窮極までとどく」の意の「通」であり、「悟りの境地に達する」の意の「達」と同義であって』とした(以上の字義は主に「大漢和辭典」の記載を参考にした)。
・「佛家にも圓通の文字もあれば」仏教では「周円融通」略して「円通」という。これは正しき智慧によって悟ったところの絶対の真理は、周(あまね)く行き渡って、その作用は自由自在であることを言う。またそうした周円融通の絶対的真理を悟るための智慧の実践行動を指す。「えんづう」とも読む。
・「おかしき」ママ。
・「鵺」「平家物語」の源頼政による鵺退治で知られる古来の物の怪。猿の顔・狸の胴・虎の手足・蛇の尾のキマイラで、「ヒョーヒョー」と、トラツグミ(スズメ目ツグミ科トラツグミ Zoothera dauma)の声に似た不気味な声で鳴くとされる。
・「猿利根」「利根」は生まれつき賢い・利発という意から、口のきき方が達者なことを言う語。猿知恵の口達者、言葉ばかりを飾った内容のない、若しくは猿のケツのように(これは私の口が滑った洒落)真っ赤な嘘といったようなことを言うのであろう。
・「蛇を遣ひ」岩波版の長谷川氏注に『のらくらすること』とある。このような使い方を私は知らない。「蛇」のイメージからはもう少しネガティヴな意味が付与されているようにも思われるが、調べても良く分からないので、長谷川氏の解釈を用いた。
・「下呑」これは「酒」に関わって、酒樽の下の穴を言うのではなかろうか。現在でも酒造業界では醸造タンクの下にある上下二つの穴を「呑穴」(のみあな)と言い、上の方を「上呑」、下の方を「下呑」と呼称している。岩波版は「一呑」とある。分かり易くはあるが採らない。訳ではすぐ後ろで使わせてもらった。
・「眞崎田樂」「眞崎」は現在の東京都荒川区南千住石浜神社(真崎神社)にある真崎稲荷のこと。天文年間(1532~1554)に石浜城主千葉守胤によって祀られたと伝えられる。以前、この稲荷は、現在地の南方に接する隅田川の西岸、現在の台東区の北東に当たる橋場の総泉寺の北(現在の荒川区の東南の隅)にあった。この稲荷の門前には、丁度、根岸の生きた宝暦7(1757)年頃から、吉原の山屋の豆腐を用いた田楽を売る甲子屋(きのえねや)や川口屋といった茶屋が立ち並んで繁盛したという。吉原の遊客もその行き帰りに訪れ、当時の川柳にも「田楽で帰るがほんの信者なり」「田楽は一本が二百程につき」といった稲荷と田楽と吉原を詠み込んだものが残されている。実際この田楽、大変高価で贅沢な食べ物であったらしい(以上は荒川区教育委員会等の記事を参考にした)。
・「奴」ここでは下僕、しもべの意。
・「忠といへば鼠と行過ぎ」通人に「忠」を語れば、『そりゃ、鼠のチュウかい?』と不忠なことを言って心にも懸けぬことを言う。
・「孝といへば本堂の屋根をふり向」通人に「孝」を諌めれば、黙って烏は何処じゃという風に、寺の本堂の屋根の方を眺める振りをして、糠に釘である、と言うこと。「孝」の「かう(こう)」という音を烏の「カア」に掛けた。
・「燕雀なんぞ大鵬の心をしらんや」後存知「史記」の「陳渉世家」に基づく故事成句「燕雀安知鴻鵠之志哉」(燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや)は、ツバメやスズメのような小鳥には、コウノトリやハクチョウのような大きな鳥の志すところは分からない、本来は小人物には大人物の思想や大望は理解出来ないという譬えであるが、その実在する「鴻鵠」を「荘子」冒頭の逍遥遊篇で知られる「大鵬」に置き換えた。大鵬は古代中国の想像上の巨大な鳥で。鯤という巨大魚が変じたもので、翼だけでも3000里、一飛びで90000里を上昇する。訳すなら『――世の凡俗の方々には、私ら通人大通の、粋な思いも分かるまい――』という不遜なる物言いである。しかし、ここで一捻りして、通常の人知を否定した道家の匂いを嗅がせている辺りは、通人の小洒落た「猿知恵」を感じさせるところである。
・「小紋通しの三ツ紋」「小紋」は一面に細かい文様を散らしたり、それを型染めにしたもので、江戸時代には裃(かみしも)に使われたが、後には町家でも羽織・着物などに染められた。「通し」はその小紋を同型で繰り返し染めたデザイン。それに「三ツ紋」=背と両袖の三箇所に家紋を染め込んであるということ。大変、贅沢な和服である。
・「紺屋へ三おもての働をあたへ」岩波版で長谷川氏は、これに『染物屋で表布を見ばえよくした手柄を立てさせる』と注されている(但し、岩波版本文は『紺屋へ表の働をあたへ』である)。これは私は、もっと単純に、非常に手間のかかる贅沢な「小紋通しの三ツ紋」をオーダー・メイドで作らせて、実に立派な上着を三着作るのと同じ手間隙を掛けさせ、という意味でとった。
・「裏半襟は仕立屋の手間損」襦袢などの襟の上に主に飾りや汚損防止のために重ねてかける襟を半襟というのだが、それを内側(裏)にも施してあるものを言うのであろう。当然、外からは見えない訳で、作った仕立屋の手間が掛かっただけのもの、という意味。
・「三枚裏のやはたぐろの世にまつくらな足元」岩波版の長谷川氏注によると、「三枚裏のやはたぐろ」とは草履の造作を言ったもので、草履の底が二枚、二重になっており、その『間に皮をはさんだものに、八幡黒(山城国八幡産の黒のやわらかな皮)の鼻緒を付けたもの』とする。とんでもなく贅沢な草履であるが、見た目が真っ黒である。それを世の闇、足元も真っ暗なこの浮世に引っ掛けたシュー・ファッションということか。
・「どんぶり多ば粉入とおち」底本では右に『(一本)「どんぶりの紙入多菜粉入と倶におち」』とある。よく職人などが腹掛けの前部につけた大きな物入れのことをこう言うが、あれをルーツとして通人が好んで用いた懐中用物入れとしての大きな袋。更紗(木綿の地に人物・花・鳥獣の模様を多色で染め出したもの)や緞子(どんす:絹の紋織物。繻子(しゅす=サテン)の地に同じ繻子の裏組織で文様を織り出したもの)等を素材とした。「多ば粉入とおち」が分からない。本来なら、懐中の貴重品を入れるその「どんぶり」を全部、あろうことか、煙草の葉を入れるためだけに用いているという意味であろうか。岩波版の長谷川氏も注でよのように採っておられるので、それで訳した。但し、『(一本)「どんぶりの紙入多菜粉入と倶におち」』ならば、大枚の入った財布と煙草入れの重みで、通人のどんぶりはぐっと腰の下の方に下がって、という意味合いになるか。
・「穴しらずの穴ばなし」「穴」は所謂、「穴場」の意で、普通の人が気づかないような良い場所、オイシい処、得になる事柄や事象を言う。通人が気取って、大して知りもしないことを、如何にもご大層に知ったかぶり、出し惜しみする振りをすることを、反通人的立場から批判的に言ったもの。
・「親和染の文字知らず」「親和」は人名。三井親和(みついしんな 元禄13(1700)年~天明2(1782)年)書家・篆刻家。信州出身。長く深川に住んだので深川親和とも称される。ウィキの「三井親和」によれば、『壮年になって細井広沢に就いて書と篆刻を学』んだが、彼は『寺社の扁額や祭礼の幟、商家の暖簾など請われるままに書』き、『安永・天明の頃に親和の篆書・草書を反物に染出した「親和染」が好事家の間に流行した』。その親和の筆跡を染め抜いた着物を着ながら、その書かれた文字さえ読めはしない、という反通人的立場から批判的に言ったもの。但し、『実際は正しい篆法を学んでいないので書体の用法に過ちが多いと』も言われる。――いや、そこが通人好みだたのかも……。
・「俳諧しらずの俳名」当時、花柳界や歌舞伎界では通常、客や俳優同士の呼称として俳号が用いられた。俳号はあっても俳句は作れない、という反通人的立場から批判的に言ったもの。
■やぶちゃん現代語訳
大通人の事 并びに圖
安永、天明の頃、若い連中の間で、専ら「通人」なる存在がもて囃されておった。その中でも「大通」というのは、万事、そつなくこなし、自分は遊里・芝居小屋の両悪所その他、世の中のあらゆる流行や事情に精通していると、己れ自身を思い込んでいるような人間を呼ぶ。甚だ不愉快な用法としては、無類の放蕩者(もの)を指して「通人」又は「大通」と呼称することすら多い。
私、根岸が思うに、「通」という字は漢語にあっては「窮極までと
どく」の意の「通」であり、「悟りの境地に達する」の意の「達」
と同義であって、仏教でも絶対の真理の働きを指すところの「周
円融通」、略して「円通」の語が存す以上、元来、このような下
劣放蕩の者を言うのに用いるべきものではない。しかし、『万事、
そつなくこなし』という意味から、かく呼称しているものと思わ
れる。
或る人が、その通人の画と、その讃を持参、見せて呉れたので、実に下らぬ戯れ事ながら、後世の人から見たならば、また、昔もこのように如何にも馬鹿げた事が流行ったのだなあ、と誠心の心得の一つにもなるであろうと思い、以下に記しおく。
――――――
安永の頃、奇怪な人の新種が存在した。その名は自称して「通人」と言う。凡そこの図のような姿をしている。譬えて言うならば鵺(ぬえ)という妖怪に似て、口は猿、奸計に長け、尾は蛇、のらりくらりとつかみどころなく、姿は虎の如く傾(かぶ)いた衣装、その鳴き声はトラツグミならぬ、人の小唄の声に似ている。主食は酒で、そのえげつなさと言ったら、世間という樽の下の呑み穴に、口をつけて呑むような塩梅。そのえげつなさと味わわぬさまと言ったら、あの高価な真崎田楽を、値段も味も分からぬ卑しい下男に与えてしまい、ぺろりと一口にするよりも容易く、この世間を一呑みにしてしまうんである。「忠」と言えば、「そいつはネズミのチュウか?」と返し、「孝」と言えば、『「カウ」たぁ、何処ぞにカラスでもおるんかい!?』と言った風に黙って、寺の本堂の屋根を振り仰いでは、「燕雀なんぞ大鵬の心を知らんや。」なんどと嘯(うそぶ)いておる。小紋通しの三つ紋は紺屋(こうや)に三着分の手間隙掛けさせ、裏半襟はただ仕立屋の手間損で、履いた草履は三枚裏の八幡黒、いやさこの世は闇で足元も真っ黒との謂い、どんぶりは丸ごと煙草入れと成り下がり、肩には矢鱈に長い木綿手拭いをひっ掛けて、風に靡かせるまでもなく、肩で風切り闊歩する――「穴」知らずの「穴」話(ばなし)――親和染(しんなぞ)めの文字知らず――俳諧知らずの俳雅号――通人の不通――とも言うべきものである。図の如き人種は親類縁者から不通悩みの種――縁を切りたくなるような種――であろうほどに――。
「耳嚢」に「烏丸光榮入道卜山の事」を収載した。人物考証をしたため、本文に比して注が異様に長い。
*
烏丸光榮入道卜山の事
光榮は和歌の聖ともいゝ侍りけるが、寶暦の此にや、親鸞上人大師號願ひの事にて、敕勘を蒙り蟄居ありしが、天明の帝御即位の御いわゐに勅免ありければ、
思はずよ惠みの露の玉くしげふたゝび身にもかゝるべしとは
□やぶちゃん注
・「烏丸光榮入道卜山」人名の誤り。まず、烏丸光栄(からすまるみつひで 元禄2(1689)年~延享5(1748)年)は公卿にして歌人で、『烏丸宣定の子。正室は松平綱昌の娘。累進して、正二位内大臣に至る。なお、烏丸家で内大臣にまで至ったのは、この光榮だけである。号は、不昧真院。法名は、海院浄春。和歌を霊元天皇をはじめ中院通躬や武者小路実陰に師事した。また和歌の門下には有栖川宮職仁親王や桜町天皇がいる。また、三上藩主である遠藤胤忠にも古今伝授を授けた。』『優れた歌人であり、「栄葉和歌集」や「詠歌覚悟」などの著書がある』(ウィキ「烏丸光栄」より引用)のであるが、ここで語られているような事件には関わっていないし、「入道」でもないし、従って「卜山」(ぼくざん)という法号も持たない。従って、これは烏丸光栄ではない。「入道」であり、法号「卜山」であり、本文に類似したエピソードの持ち主であり、更に烏丸光栄と誤りそうな者としては、その光栄の子である烏丸光胤(からすまるみつたね 享保6(1721)年又は享保8(1723)年~安永9(1780)年)がいる。彼は清胤とも言い、宝暦10(1760)年に出家し「入道」となっており、その法名も「卜山」と言った。従二位権大納言であったが、宝暦事件に連座して厳しい処分を受けている。この宝暦事件とは(以下、ウィキ「宝暦事件」より引用)、
『江戸時代中期尊王論者が弾圧された最初の事件。首謀者と目された人物の名前から竹内式部一件(たけうちしきぶいっけん)とも』呼ばれる事件で、『桜町天皇から桃園天皇の時代(元文・寛保年間)、江戸幕府から朝廷運営の一切を任されていた摂関家は衰退の危機にあった。一条家以外の各家で若年の当主が相次ぎ、満足な運営が出来ない状況に陥ったからである。これに対して政務に関与できない他家、特に若い公家達の間で不満が高まりつつあった。』『その頃、徳大寺家の家臣で山崎闇斎の学説を奉じる竹内式部が、大義名分の立場から桃園天皇の近習である徳大寺公城をはじめ久我敏通・正親町三条公積・烏丸光胤・坊城俊逸・今出川公言・中院通雅・西洞院時名・高野隆古らに神書・儒書を講じた。幕府の専制と摂関家による朝廷支配に憤慨していたこれらの公家たちは侍講から天皇へ式部の学説を進講させた。やがて1756年(宝暦6年)には式部による桃園天皇への直接進講が実現する。』『これに対して朝幕関係の悪化を憂慮した時の関白一条道香は近衛内前・鷹司輔平・九条尚実と図って天皇近習7名(徳大寺・正親町三条・烏丸・坊城・中院・西洞院・高野)の追放を断行、ついで一条は公卿の武芸稽古を理由に1758年(宝暦8年)式部を京都所司代に告訴し、徳大寺など関係した公卿を罷免・永蟄居・謹慎に処した。一方、式部は京都所司代の審理を受け翌1759年(明暦9年)重追放に処せられた』
という事件である。岩波版長谷川氏注では、この事件よって烏丸光胤は官を止められた上、『安永七年(1778)に蟄居、同九年九月に没』していると記す。延々と引いたのは、これは本話柄と烏丸光胤は必ずしも一致しないからである。まず、この事件は本文にある「親鸞上人大師號願ひの事にて、敕勘を蒙り蟄居ありしが、天明の帝御即位の御いわゐに敕免あり」云々の事件とは、全く異なるという点(この事件については後注参照)、更に長谷川氏の記載を素直に読むならば、烏丸光胤は蟄居の果てに不遇の内に没したという記載と読んで問題ないと思われ、即ち、彼への勅許による復帰はなかったと読めるのである。但し、後注で示す通り、「天明の帝御即位」は安永8(1779)年11月、彼が死んだのがその5ヵ月後の安永9(1780)年4月なので、光胤が(例えば病態重く)「天明の帝御即位の御いわゐに」特に「勅免」を受けたと考えることは可能である。何れにせよ、事件内容が異なる以上、やはり本話の主人公を烏丸光胤と同定することは出来ない。さて、岩波版では(失礼なもの謂いをさせて戴くが)校注者である長谷川強氏が、勝手に、本文を「光胤」に『訂正』されている。しかし、以上述べてきたように本記載はその全体から見て、「光胤」とすることを『訂正』とは言い難い。私はそのままの状態で示すこととした。なお、底本で鈴木氏は『中山栄観の誤』とされている。この人物とその同定の是非については、次の「親鸞上人大師號願ひの事にて、敕勘を蒙り蟄居ありし」の注で考察する。
・「親鸞上人大師號願ひの事にて、勅勘を蒙り蟄居ありし」この事件はまずその首謀者松下烏石から説明する必要がある(以下、彼の事蹟については好古齋氏のHP中の「松下烏石」を参照した)。松下烏石(元禄12(1699)年~安永8年(1779)年)は書家として知られる人物で、本姓は葛山氏、烏石は号である。荻生徂徠の流れを受ける服部南郭門下の儒学者であったが、無頼放蕩を繰り返し、放埓にして問題のある性格の持ち主であった。晩年に京都に移ってから西本願寺門跡賓客となったが、丁度、宝暦11(1761)年が親鸞五百回忌に当たっており、それを受けて親鸞に対し朝廷から大師号を授けて戴けるよう、東西両本願寺が朝廷に願い出ていたが(陳情自体は宝暦4(1754)年より始まっていた。結局、この申請は却下される)、烏石は中山栄親・土御門泰邦・園基衡・高辻家長らの公家と謀り、西本願寺及びその関係者に、金を出せば大師号宣下が可能になるという話を持ち込み、多額の出資をさせた。ところがそれが虚偽であり、烏石が当該出資金を着服していたことが暴露告発されるに及び、上記公家連中が蟄居させられた。これが本文に言う「敕勘」事件である(烏石の処分は不明とされる)。そうすると本話のモデル候補としては、この連座した公家の中の一人と目されるので(名前に「烏」とか「山」とかの字があるから「烏丸光榮入道卜山」と間違える要素があるので松下烏石自身をそれに加えても良いように思われはするが、彼は有名な書家ではあったが、その華々しい不良履歴から「和歌の聖」と呼ばれたとは、到底、思われないし、彼の処分は「蟄居」であったかどうかは「不明」なのであるから――というより彼のような不行跡の輩に蟄居が効果的な処罰であったとは思われない――一応、この同定候補からは除去する)、各人の生没年を記しておくと、
中山栄親 (なるちか 宝永6(1709)年~明和8(1771)年)
土御門泰邦(やすくに 正徳元(1711)年~天明4(1784)年)陰陽家。杜撰な宝暦暦の編纂者。
園基衡 (もとひら 享保5(1720)年~寛政6(1794)年)華道家。
高辻家長 (いえなが 正徳5(1715)年~ 安永5(1776)年)
これに後述する安永8(1779)年11月の「天明の帝御即位」の縛りが掛かるため、それ以前に死んでいる底本で鈴木氏が同定している中山栄親は消去され、同様に高辻家長も消える。残る土御門泰邦・園基衡二人は、上記のように陰陽家と華道家としては知られているが、「和歌の聖」と呼ばれた事実はない。
因みに中山栄親の息子である中山愛親(なかやま なるちか 寛保元(1741)年~文化11(1814)年)は歌人として知られ、「耳嚢」巻之一の下限である天明2(1782)年に議奏となり、光格天皇に近侍、天皇の父閑院宮典仁(すけひと)親王に対し太上天皇号を宣下することに腐心したが、幕府はこれを認めず事態が紛糾(これを「尊号一件」という)、寛政5(1792)年、幕府の命により武家伝奏正親町公明(おおぎまちきんあき)と共に江戸に喚問されて、老中松平定信と対談釈明したが、閉門を命じられた。帰京したのち蟄居、議奏を罷免されている(以上は主にウィキの「中山愛親」を参照した)。如何にも本話のモデルの一人として挙げたい程魅力的人物であるのだが、やや時代が後ろにずれてしまい、無理がある。
結局のところ、
烏丸光榮入道卜山=烏丸光栄+烏丸光胤+中山栄親+α
という等式で示すしかない「烏丸光榮入道卜山」なる人物は、当時の都市伝説中の架空人物であった、というのが私の見解である。
・「天明の帝御即位」光格天皇(明和8(1771)年~天保11(1840)年)の即位のこと。即位は安永8(1779)年11月9日。
・「思はずよ惠みの露の玉くしげふたゝび身にもかゝるべしとは」「玉くしげ」は「ふた」の枕詞。「露」「玉」「かゝる」は縁語。もしかすると『此の「身」』は、『木の「実」』の掛詞か。
やぶちゃんの通釈:
思ってもみなかったことだ! 帝の御慈悲の恵みの露が、再び、この身に慈雨のごと降りかかってくるであろうなんどとは!
■やぶちゃん現代語訳
烏丸光榮入道ト山の事
光榮殿は和歌の聖とも称された人物で御座ったが、宝暦の頃のことであったか、親鸞上人五百回忌に関わる大師号の一件で勅勘を蒙り、蟄居の身であったのが、天明の帝光格天皇の御即位のお祝いとして大赦が御座った、その赦免状を受け取った折りに詠まれたという歌。
思はずよ恵の露の玉櫛笥再び身にも懸かるべしとは
「耳嚢」に「池田多治見が妻和歌の事」を収載した。
*
池田多治見が妻和歌の事
備前の家士池田多治見が妻は坊城大納言の妹也しが、常に菊を好作りけるに、或時夫の心に不叶事やありけん、離縁を申出ければ其妻かくなん、
身の程はしらでわかるゝ宿ながらあと榮え行千代の白菊
と詠けるを、其友たる者聞て、夫に背き憤る心にてはかくは詠むまじきとて、多治見が短き心を諌め、元のごとく夫婦と成榮えけると也。
□やぶちゃん注
・「備前」備前国岡山藩(現・岡山県岡山市)。「耳嚢 巻之一」の下限は天明2(1782)年春までであるので、本話時の藩主は池田治政(寛延3(1750)年~文政元(1819)年 藩主在位:明和元(1764)年~寛政6(1794)年)であったと考えてよい。下限から遡ること、18年前までが治世でカバーできるからである(因みに治政が藩主に就いた寛延3(1750)年では根岸は未だ27歳である)。
・「家士」岡山藩藩士。
・「坊城大納言」坊城家は鎌倉末期に創設された藤原氏北家高藤流勧修寺庶流で、岩波版長谷川氏注では、従一位権大納言であった坊城家14代俊清(としきよ 寛文7(1667)年~寛保3(1743)年)、若しくは正二位前権大納言であった15代俊将(としまさ 元禄12(1699)年~寛延2(1749)年)か、とする。俊清は12代俊広の子で、姉か妹がいた。俊将は勧修寺尹隆(かじゅうじただたか:藤原氏北家高藤流甘露寺支流)の子で、やはり姉か妹がいたことまでは確認出来た。
・「身の程はしらでわかるゝ宿ながらあと榮え行千代の白菊」「しらで」と「白菊(しらぎく)」の掛詞以外は、鈍感なために歌の好さがよく分からない。識者の御教授を乞う。
やぶちゃんの通釈:
身のほども弁えぬことを成して……御勘気を受け、お別れせねばならぬ我が家……けれど、けれど、ただ一つ願うことは……後に残してゆく純白の菊の花、その全き白とともに……永遠に池田の家が栄える続けますように――。
■やぶちゃん現代語訳
池田多治見の妻の和歌の事
備前の家士、池田多治見殿の妻は坊城大納言卿の妹であり、日頃、菊作りを好んでいたのだが、ある時、夫に何やらんひどく気に入らぬことがあったのか、妻に離縁を言い渡した。妻は、家を出る折り、
身の程は 知らで別るる 宿ながら あと栄え行く 千代の白菊
という歌を詠んで去ったという。
後日、この歌を治見殿の友人が聞き、
「夫に背き反感を抱いているような下種の女心にては、このように素直な歌は詠めまいぞ――」
と多治見殿の短慮を諌めた。多治見殿も己が誤りを認めて、元通りに復縁致し、後々まで幸せに暮らした、ということである。
「耳嚢」に「相學奇談の事」を収載した。この話、僕は結構好きである。だから、結構、現代語訳にも凝った。是非、お楽しみあれ。
*
相學奇談の事
或人かたりけるは、浅草邊の町家に居る相人(さうにん)甚其術に妙を得たり。予が友人もその相を見せけるに、不思議に未前を言當けると咄しき。爰に椛町邊に有德(うとく)成(なる)町家にて、幼年より召仕、手代に取立、店の事も呑込實躰(じつてい)に勤ける故、相應に元手金をも渡し、不遠別株にもいたし遣さんと心願しに、或日彼手代右相人の許へ來りて相を見せけるが、相人の曰、御身は生涯の善惡抔見る沙汰にあらず、気の毒成事にはくる年の六月には果して死し給はんと言ければ、彼者大に驚きけるが、猶又右相人子細に見屆、兎角死相ありと申ければ、强て實事とも思はねど禮謝して歸りけるが、兎角心に懸りて鬱々として樂まず。律儀なる心より一途に、來る年は死なんとのみ觀じて、親方へ暇を願ひける。親方大きに驚、いか成語ありてとせちに尋けれど、さしたる譯もなけれど唯出家の志しあればひらに暇を給るぺしと望しゆへ、然らば心掛置し金子をも可遣と言ければ、本より世を捨る心なれば、若(もし)入用有(あら)ば可願とて一錢をも不受、貯へ置し衣類など賣拂ひ小家を求め、或ひは托鉢し又神社佛閣にもふで、誠にその限の身と明暮命終(みやうじゆう)を待暮しけるが、或日兩國橋を朝とく渡りけるに、年頃二十斗の女身を沈めんと欄干に上り手を合居しを、彼手代見付引おろし、いか成語(こと)にて死を極めしやと尋ければ、我身事は越後の國高田在の百姓の娘にて親も相應に暮し侍るが、近(ちかき)あたりの者と密通し、在所を立退江戸へ出、五六年夫婦くらしけるが、右男もよからぬ生れにて身上(しんしやう)も持崩し、かつがつの暮しの上、夫なる者煩ひて身まかりぬ、しかるに店賃(たなちん)其外借用多くつぐのふべきたつきなけれど、我身の親元相應なる者と聞て、家主其外借金方より負(お)ひのみすまし候樣に日々にせめはたりぬ、若氣にて一旦國元を立退たれば、今更親元へ㒵(かほ)むけがたく、死を極めし也、見ゆるして殺し給へと泣々語りければ、右新道心も、かゝる哀れを聞捨んも不便(ふびん)也、右店賃借用の譯等細かに聞けるに、纔(わづか)の金子故、立歸り親方へかくかくの事也、兼て可給金子の内、我身入用無之故かし給はるべしと歎ければ、親方も哀れと思ひ、右金子の内五兩程遣しければ、右の金子にて仕拂ひいたし店(たなを仕𢌞(しまは)せ、近所の者賴て親元へ委細の譯を認め書狀を添、在所へ送り遣しければ、右親元越後なる百姓は身上(しんしやう)厚く、近鄕にて長(をさ)ともいへるもの故、娘の二度歸り來りし事を悅び昔の勘氣をゆるし、兩親はらからの歡び大かたならず。贈りし人をも厚く禮謝し、右靑道心の許へもかきくどきて禮をなしつると也。これはさて置き、くる年の春も過、夏もやゝ六月に至り水無月はらひも濟(すみ)けれど、靑同心の身にいさゝか煩しき事もなかりし上、なかなか死期の可來(くべし)共思われざれば、扨は相人の(口に)欺(あざむか)れける、口惜き事よ、親方へも一部始終有の儘に噺しければ、親方も大に驚き、汝が律義にて欺れしは是非もなし、彼相者の人の害をなせる憎さよ、我(彼の相人の所江(え)行(ゆき)、せめては恥辱を與へ、以來外々(ほかほか)の見ごらしにせんと)靑同心を連て相者の許へ至り、右道心を門口(かどぐち)格子の先に殘し置、さあらぬ躰(てい)にて案内を乞、相人に對面し、相を見て貰(もらは)ん爲(ため)來りしと申ければ、相人得(とく)と其相を見て、御身の相何も替る事なけれど、御身は相をみせに來り給ふにあらず、外に子細ありて來り給ふなるべしと、席を立て表の方を見合(あはせ)、同心の格子のもとに居しを見て、扨々不思議成事哉(かな)、こなたへ入給へと右道心の樣子を微細(みさい)に見て、御身は去年の冬我(われ)相しけるが、當夏迄には必ず死し給はんと言し人也。命めでたく今來り給ふ事、我相學の違ひならん、内へ入給へと、座敷へ伴ひ天眼鏡に寫し得と相考、去年見しにさして違へる事なきが、御身は人命か又は物の命を助給へる事のあるぺし、語り給へと言ひける故主從大に驚き、兩國にて女を助し事、夫よりの始終委しく語りければ、全く右の慈心より相を改候也。此上は命恙(つつが)なしと橫手を打て感心なしける。主人も大に歡び、右手代に還俗させて、越後へ送りし女子を呼下(よびくだ)し夫婦と成(なり)、今まのあたり榮え暮しけるとなり。
□やぶちゃん注
・「椛町」東京都千代田区の地名。古くは糀村(こうじむら)と呼ばれたと言われる。『徳川家康の江戸城入場後に城の西側の半蔵門から西へ延びる甲州道中(甲州街道)沿いに町人町が形成されるようになり』、それが麹町となった。現在残る地域よりも遥かに広大で、『半蔵門から順に一丁目から十三丁目まであった。このうち十丁目までが四谷見附の東側(内側)にあり、十一~十三丁目は外濠をはさんだ西側にあ』り、現在の新宿区の方まで及ぶものであった(以上はウィキの「麹町」を参照し、岩波版の長谷川氏の「山事の手段は人の非に乘ずる事」の「糀町」注を加味して作成した)。
・「手代」商家の店員の地位の一。旦那の下、番頭→手代→丁稚の順。現在なら係長・主任クラスに相当し、接客業務を主とする。
・「別株にもいたし遣さん」暖簾分けをしてやる。分家させるてやる。
・「神社佛閣にもふで」ママ。
・「つぐのふべき」ママ。
・「負(お)ひのみ」「負ひ」は負債で借金全体を指す語であるが、ここでは後に限定の副助詞「のみ」があるので、借金の利子を除いた元金を言っているのであろう。
・「水無月祓」大祓(おおはらえ)のこと。神道で旧暦の六月と十二月の晦日に行われる、罪や穢れを祓うための行事(新暦下では六月三十日と十二月三十一日)。犯したを除き去るための祓えの行事で、六月のものを「夏越の祓」(なごしのはらえ 又は夏越神事・六月祓)、十二月のものを「年越の祓」(としこしのはらえ)と言って区別する。なお、能に「水無月祓」(みなづきばらい)という演目があり(伝世阿弥作)、これは互いに恋慕しながらも、別離した男女が、下鴨神社の「夏越の祓」で再会するというハッピーエンドの作品である(ここはウィキの「水無月祓(能)」を参照した)。ここに「水無月祓」を示したのは、この主人公の男が、最後に、身投げを助けた女と結ばれるという結末を暗示させるために示した伏線であろう。
・「思われざれば」ママ。
・「(口に)」底本には右に『(尊經閣本)』と、引用補正した旨、記載がある。ここの部分、岩波版(カリフォルニア大学バークレー校版)では『はとのかいに』とある。「はとのかい」は「鳩のかい」(「かい」には「戒」・「飼」・「卵」などの字を当てる) 詐欺師、騙(かた)りのことで、山伏や占者の姿をして家々をまわり、熊野の新宮・本宮のことを語り、当該神社の神鳩への飼料代と称して金銭を詐取した者を由来とすると言われる。
・「(彼の相人の所江(え)行(ゆき)、せめては恥辱を與へ、以來外々(ほかほか)の見ごらしにせんと)」底本には右に「(尊經閣本)」と、引用補正した旨、記載がある。
・「江行」「江」はママ。江戸時代は「へ」をこの「江(え)」で代替することが多い。但し、底本では「江」の字のみ、ご覧の通り、ポイント落ちである。
・「慈心より相を改」の部分について、岩波版注で長谷川氏は死を宣告されるも、人命を救って死相を脱するという類話は多く見られることを記し、最後に「春雨楼叢書」十一「相学奇談」『は本章と全く同文』とある。「春雨楼叢書」というのは清代の朱士端が撰した漢籍である。しかし、数少ないネット記載を見る限りでは、灸の事などでも日本のことが記されている。こんな日本の話が掲載されている漢籍とは、どのような性質の書物なのか、興味深い。識者の御教授を乞うものである。
■やぶちゃん現代語訳
観相学奇談の事
或る人が言うことには、
「……浅草の町屋に住んでいる人相見があるが、これがまた、その観相学の術の妙、ってえのを心得てる。私(あっし)の友人も、その人相見に占わせたところが、不思議に、これから起こることを、ぴたりと言い当てるってえこった。……」
という話――
ここに、麹町辺りで繁昌している商家があり、そこに少年の頃から丁稚として召し仕って、手代に取り立てたばかりの男がいた。店の商いのこともすっかり呑み込んでおり、実直に勤めていたから、主人も、
『相応にも元手を出してやって、近いうちに暖簾分けでも致いてやろう。』
と心掛けていた。
ある日のことである。その手代、何気なく、かの浅草の人相見の元を訪れ、相を見てもらった。
すると、人相見は手代を一目見るなり、
「――御身は――向後の生涯の良し悪しなんどを――観るどころではない――気の毒なことに――来たる年の六月には確かに――死ぬ――という相が出ておる――」
と言う。さればこそ、手代も驚愕……人相見はなおも……ぐっと身を引いて全体を、また、ぐっと近寄って仔細に手代の顔を見る……而して……また見終えて後、
「――兎も角も――死相が現れて――おる――」
とのことであった。
手代はその時は、所詮は占いのこと故、真実(まこと)とも思われぬ、なんどと内心感じながらも、礼金を払い、丁寧に挨拶を致いて、相人の家を後にした……。
……だが……やはり、気に懸かり出す……
……鬱々として心も晴れぬ毎日が続く……
……元が何事にも一途な心の持ち主であったが故に……結局……
『……来年には……死ぬ……のじゃろか……』
とばかり思い詰めるようになった……
……そうして遂に、彼は主人に暇(いとま)を願い出た。
主人は、大層、驚き呆れ、
「……如何なる訳あって!……」
と強く問い質いた。
しかし、手代は、
「……これと言った訳は御座いませぬ……ただ出家致したき志しに侍ればこそ……どうか……ひとえにお暇(いとま)を給わりまするよう、御願い申し上げまする……」
と望むばかり。主人も致し方なく、
「……それほどの発心にてとなれば……これはもう、仕方がないことじゃが……時に、お前さんの暖簾分けにと心掛けて溜め置いた金子が、ここに少しばかりある。これをあげるから、持って行くがよい。」
と告げたのだが、その折角のお情けにも、
「……元より世を捨つる心なれば……万が一……入用(いりよう)になるようなこと……御座いますれば……お願いに上がりますれば……」
とて、一銭も受け取らず……相応の時日をこの店に勤めておったれば、それなりに貯え置いた衣類などもあったのだが、それもすっかり売り払ってしまい、男は主家を後にした……。
……その後、男は小さな家を買い求め、そこに身を置きながら、或いは托鉢を、或いは神社仏閣に詣で……誠(まっこと)、その日その日にがその日限りの身の上といった有様で、日数を数えては、命終の、その最期の日を待ち暮らしておるばかりであった……。
……そんな或る日のことである。
朝早くに両国橋を渡っておると、年頃二十歳(はたち)ばかりの女が身を投げようと欄干に這い上って、手を合わせて、座っている……それを見るや、かの元手代は、すぐさま女の袖を捉えて引きずり降ろすと、
「一体、如何なる訳で、死のうなんどと、極めたか!」
と厳しく問い質いた。すると女は、
「……私めは越後の国は高田の在の百姓の娘で御座います……親も相応の暮らし向きにて御座いましたが……私……近在の男と密通致いて……家出した上、二人して江戸へ駆け落ち……五、六年、夫婦のように暮らしておりましたが……この男、生来卑しき生まれの者で御座いましたので、身上(しんしょう)もすっかり持ち崩してしまい、その日の暮らしにも困る有様……それに加えてその夫が、ふと患い臥して、遂には身罷りましたので御座います……なれど……亡き夫には、家賃その他何やかやと私も存ぜぬ借金ばかりが多く残っておりました……勿論、返そうと思うても、日々の生計(たつき)さえなき身……ところが貸主の方の中に、私めの親元が相応の暮らし向きの者なることを伝え聞き……家主その他借金を致しました方々が押しかけて参られ……貸した元金だけでもさっさと払いを済ませよと……日々、矢の催促、責められて責められて……責められ尽くされ……されど……若気の至りにて、一旦、故郷(ふるさと)を捨てた身なればこそ……今更、親元へ顔向け出来ようはずもなく……かくなる上は……死を極めんと致いて御座ったればこそ……どうか……後生で御座いまする……お見逃し下さいませ…………」
とさめざめと泣いて語ったのであった。
新発意(しんぼち)となった元手代の男も、この話、如何にも聞き捨て難く不憫なことと思い、試みに、その店賃その他借用の内訳等仔細に聞き質してみると、これが、思うたよりも大した額ではない――。
――男は、女を促すと、その足で、かつての主人の元を訪ね、連れの女のかくなる仔細を、ありのままに主人に話した上、
「――身勝手なる申し出で御座いまするが――あの折り、下さるべく御用意なされた金子――出家致いた我が身には入用なきものに御座いますればこそ――どうか、この女にこそ、貸し与えて下されたく……」
と、己が身の苦しみの如く、搾り出すように声を出だいて請い願う様を見るにつけ、元の主人も如何にも哀れと感じ、その貯え置いた金子の内から五両ばかり、この元手代に渡してやった。
男はこの金で、女のまずはこまごました借金を返済致し、溜まりに溜まっていた大口の店賃の未払いなどをも万事遣り繰り致いた上で――新発意となってから心安くするようになった、近所のしっかりした男に無理を言って頼み込むと――縷々事情を書き記した文(ふみ)を添え持たせて、女を越後の在所へと、送り帰してやったのであった――。
――この越後の女の親の家というのが、また、地元でも知られた――近郷にても知らぬ人とてない長者格の――家柄であったため、娘が再び帰り来たったことを殊の外悦び、昔日の勘当も許され、親兄弟の喜びようも一方ならず、遠く江戸から娘に付き添って送り届けに来た者にも手厚い謝礼がなされ、かの新発意の男の元へも、直ちにくどいまでの懇切丁寧な礼状に添えて――元の主人に借りた五両を遙かに超える――謝礼をも成したのであった――。
――さても、このことはさておき、新発意自身のことに話を戻すことと致そう――
――「あの」人相見の言うた翌くる年――その春も過ぎた――
――六月に至り、とうとう六月三十日の水無月祓(みなづきはらい)も終わる――
――ところが――
――男の身には――些かも何ぞ患うような気配もない上に――死期なんぞ――何処(いずこ)を探そうとも――来たらんようには――さらさら――思えぬのである――
ここに至って、男は、
『さては――あの人相見に騙されたか! 口惜しや!』
と――決まりが悪くはあったものの、どうにも悔しくて悔しくて――男は、慕うところの元の主人を再び訪ね、一部始終、ありのまま、総ての真実(まこと)を告白した――。
主人は又しても驚き呆れると同時に、この男への憐憫に相俟って、かの人相見への憤怒の念が、むらむらと湧き起こって来た。
「……お前さんの律儀な性質(たち)がつけ込まれ、騙されてしもうた……それは最早、是非もない……されど!――かの人相見、その『人の生』を害せんとする、憎っき所業! ともかくも! 私はこれからかの相人のところへ行き、せめても完膚無きまでに屈辱を与え、向後、こんなとんでもない輩への厳しい見せしめにしてやらねば気が済まぬ!」
と言うが早いか、新発意を引っ張って、浅草の人相見の元へとひたすら走る――。
――主人は人相見の店先へと至ると、とりあえず、この新発意を門口の格子戸の陰に残し置いて、何でもないただの人相見に参った客を装い、案内を乞い、表向き至って落ち着き払って、人相見に対峙した。
「相を見て貰わんとて参った。」
と穏やかに言う――。
人相見は、凝っと主人の顔を見詰める――。
「――御身の人相には格別変わった相はこれなし――されど、御身は――人相を見せに来られたのでは、御座らぬの――外に何か仔細があって来られたのであろう――そのように、相に現れておりますて――」
と言うが早いか、人相見はつっと席を立って、何かに促されるように店の表の方へ向かって鋭く目を向け、格子戸のところに男がいるのを見るなり、
「――!――さてもさても――これは不思議なること!――こちらへ! さあ、お入りになられよ!――」
と、あっけにとられたかの新発意を前に、店先に出た人相見は、その場で立ちながら男の顔を仔細に眺め、
「――御身は昨年の冬に拙者が人相を拝した御仁じゃが――本年夏迄には必ずお亡くなりになられる――と断言致いた――じゃが――命めでたく、今日(きょう)、ここに来られたこと――これは拙者の観相に誤りがあってのことか?――ともかく、内へ、お入りあれ!」
と、自ら座敷内へ伴い、座らせると、天眼鏡を取り出して、細部までじっくりと相を観る――主人と当の男は固唾を呑んで黙って見守っているばかり――。
「――去年見た折りと、さして違(たご)うところはない――ないが――もしや!――御身は人の命か、又は何か謂われのある大切な何ものかの命かを、助けたことがあったであろう!?――お語りあれかし!――」
と言い放った。されば主従合わせて大いに驚き、両国で女を助けたこと、その後(のち)の一部始終を詳しく語ったところが、
「――全く以って、その慈しみの心じゃ!――その心故、相が改まったのじゃ!――この上はもう命恙なきこと、請け合いじゃ!――」
と言うと、人相見は、両手を、ぱん! と叩いて、しきりに首を縦に振っては、一人感心していたという――。
――主人は大喜びで、男を還俗させ、再び手代に致いて、越後へ送ってやった、あの女子(おんなご)を呼び寄せると夫婦(めおと)と成さしめたことは――言うまでもない。
この夫婦、今も、そのままに、二人幸せに暮らしておる、ということである。
「耳嚢」に「狂歌の事」を収載した。
*
狂歌の事
近き頃何とかいへる狂歌人濕瘡を煩ひける。心安き友どち尋訪(たづねとひ)けるに、右友人の在所/\も遙なる人なれば、狂じて我身のうへを詠けるに、
加賀 武藏
香がむさし
紀伊 駿河
氣のくにするが
美濃 肥前
身のひぜん
出羽安房
これでは哀れ
壱岐 甲斐
いきがひもなし
この狂歌程あそびなきはなしと、曲淵甲斐ものがたりゆへ記ぬ。
[やぶちゃん注:和歌は底本では一行表記であるがブログのブラウザ上国名の傍表記に不全が生じるので底本で分かち書きに変更した。]
□やぶちゃん注
・「濕瘡」疥癬。節足動物門鋏角亜門蛛形(クモ)綱ダニ目無気門(コナダニ)亜目ヒゼンダニ科ヒゼンダニSarcoptes scabiei var. hominis が寄生することによって起こる皮膚感染症。本種はヒトにのみ限定的に寄生し、ヒトの皮膚角層内にトンネル状の巣穴を掘って棲息する。主症状は激烈な痒みで、初期には指間部・手首及び肘の屈曲面・腋窩の襞・ベルトに沿ったウエストライン・殿部下方等に紅色の丘疹が現れる。この丘疹は体の如何なる部位にも拡大可能であるが、通常、成人では顔面に出現することはない。ヒゼンダニの形成するトンネルは微細な波状を成し、やや鱗状の屑を伴う細い線として認められ、その長さは数㎜から1㎝程度、一方の端にはしばしば小さな黒い点(ヒゼンダニ本体)を認め得る(病態については万有製薬の「メルクマニュアル」の「疥癬」の記載を参照した)。
・「香がむさし氣のくにするが身のひぜんこれでは哀れいきがひもなし」は、
やぶちゃんの通釈:
疥癬による皮膚炎が著しく悪化したため、体中から何やらん臭い匂いが立ち上って、耐え切れぬ痒みだけではなく、その鼻が曲りそうな臭気のことも気に病んで仕方がない――これも総ては我が身の非善の業なればこそ――これでは最早、生き甲斐とてない……
の意で、それに、友人たちが遙か遠国からも見舞いに来てくれたことへの感謝の意を示して、国尽くしで、
加賀(現在の石川県南部)・武藏(現在の東京都・埼玉県と神奈川県東部)・紀伊(現在の和歌山県のほぼ全県と三重県の一部)・駿河(現在の静岡県中部)・美濃(現在の岐阜県南部)・肥前(壱岐対馬を除く長崎及び佐賀両県)・出羽(現在の秋田及び山形両県)・安房(現在の千葉県南部)・壱岐(現在の長崎県壱岐島)・甲斐(現在の山梨県)
の十ヶ国の国名を読み込んだもの。この歌については底本注で鈴木氏が、「巷街贅説」(寛政3(1791)年より安政元(1856)年に至る江戸市中の巷談俚謡を塵哉翁なる人物が蒐集したもの)巻一に『十箇国之歌、難波人甚久法師の詠として載っている』とある。
・「あそび」諧謔形式の和歌としての最低限の文学的香気を言うのであろう。確かに、むずむずするほ程に痒く、そうしてぷーんと臭(にお)ってくる狂歌ではある。しかし、その「あそび」のなさは、実は、この、とって附けたような前振り故に『効果的に』その匂いと痒みが倍加されているような気がする。してみれば、これは前注にあるように本来はただ十国尽しの狂歌としてあったものに、如何にもな前段を付与したと考えるのが妥当であるように感じられる。
・「曲淵甲斐」曲淵甲斐守景漸(かげつぐ 享保10(1725)年~寛政12(1800)年)のこと。前項「ちかぼしの事」に既出。以下、ウィキの「曲淵景漸」によれば、『武田信玄に仕え武功を挙げた曲淵吉景の後裔』で、『1743年、兄・景福の死去に伴い家督を継承、1748年に小姓組番士となり、小十人頭、目付と昇進、1765年、41歳で大坂西町奉行に抜擢され、甲斐守に叙任される。1769年に江戸北町奉行に就任し、役十八年間に渡って奉行職を務めて江戸の統治に尽力』、『1786年に天明の大飢饉が原因で江戸に大規模な打ちこわしが起こり、景漸はこの折町人達への対処に失態があったとされ、これを咎められ翌年奉行を罷免、西ノ丸留守居に降格させられた。松平定信が老中に就任すると勘定奉行として抜擢され、定信失脚後まで務めたが、1796年、72歳の時致仕を願い出て翌年辞任した』。天明の大飢饉の際に『町人との問答中に「米がなければ犬を食え」と発言し、この舌禍が打ちこわしを誘発するなど失態もあったが、根岸鎮衛と伯仲する当時の名奉行として、庶民の人気が高かった』とある。根岸の一回り上の上司にして、本「耳嚢」の情報源の一人である。
■やぶちゃん現代語訳
狂歌の事
最近のことであろう、狂歌師として知られた或る人が、ひどい疥癬を患ったという。心安くしていた友達らが見舞いに訪れたところ、この友らのそれぞれの在所は遠く――正に何れも遙か遠いところに住まう人であったので――洒落ながら、自身の身の上を詠んで見せた、その歌――
香がむさし
(加賀)(武蔵)
気の苦にするが
(紀伊の国)(駿河)
身の非善
(美濃)(肥前)
これでは哀れ
(出羽)(安房)
生甲斐(かい)もなし
(壱岐)(甲斐)
「……この狂歌ほど、えげつのうて文雅のないものは、ないのう……。」
と、曲淵甲斐守殿が私に語って聞かせ、かく感想も添えて呉れたので、ここに記す。
「耳嚢」に「下わらびの事」を収載した。
*
下わらびの事
天明元の年夏の初、予が許へ來る自寛といへる翁、下わらびと記せし二三葉の書を見せけるに、面白き事故、直に其著をありの儘に左に記しぬ。伊奈氏半左衛門手代小川藤兵衛の妻は、何か言つのりて離縁し侍る。女房常に歌よみければかくなん、
假初(かりそめ)のことの葉草に風立て露の此身のおき所なき
とよみてふすまに書付て歸りぬ。その頃旦那寺の僧は、麻布一向宗にて京都の人也。夫婦とも冷泉爲村卿へ心安く参りける。或夜御伽に出まいらせしに、此物語申上ければ、左程やさしき心ばへならば、いかではしたなき事のありしものをとの給ひしを、下りて藤兵衛に語りぬ。みじかき心を悔みて亦も呼返しぬ、女房はいか計忝く、又常に好める道の事なれば何とぞして御門入(ごもんいり)を願ひける。僧吹擧し侍れども、打咲み給ふ斗にて御免しなかりけるを、切に願ひ奉りければ、さればその女房を一目見し事はなけれども、まへに我言しは、歌を詠む程の者ならば、左のみはしたなき事はあらじものをと言より、呼返しけるとなん、わがけそうしたらんよりと、人の思はんも道におゐて勿躰なし。此女房にかぎりては三神(さんじん)をかけまいらせ弟子にしがたし、歌はいく度も見てとらすべしと仰られけるとぞ。恰も驚き、歸りて女房にいひ聞せければ、かゝる正しき御心まします御弟子に叶はざる事を深くなげき、明暮涙にむせびていつとなくやまふにつき、今はのときにいたりて筆をこひて、
知る人もなき深山木の下わらびもゆとも誰(たれ)か折はやすべき
と書て身まかりぬ。かの僧上京して爲村卿へしかじかの事申上ければ憐を給ひて、
今は世になき深山木の下わらびもへし煙の行衛しらずも
と御短冊御染筆ありて、猶も御香典精香二斤送らん、よきに手向よと下され、其女房に子なきやと御尋有ければ、ことし十ばかりにもなりなん女子壹人を侍るよし申上ぬ。歌はよみならはずやとねんごろに尋させ給ふにぞ、稚き故歌はよみ侍らず、去ながら母の子にて百人一首などは常に詠侍ると申上ければ、その女はわが弟子なるぞと、此段言聞せよと仰られしとぞ。僧もあまり忝きに衣の袖をしぼり、江戸に歸りて藤兵衛親子に言聞せ、又爲村卿の御弟子磯野丹波守政武のぬしへも語りしかば、たゞにさしおくべきにあらずとて、則其金子をもて位牌を作り、佛の事共委敷(くはしく)政武みづから書て彫しめ、彼寺に納め置ぬ。此事の始終りを育て下蕨と號するとぞ、政武のぬし物語ありしをあらまし書とめ侍る。
□やぶちゃん注
・「下わらび」下蕨(したわらび)。シダ植物門シダ綱シダ目コバノイシカグマ科ワラビ Pteridium aquilinum の、春から初夏にかけて萌え出でた葉の開いてない若芽を言う。ここでは「知る人もなき」目立たない小さな存在の比喩として示されるが、実際のワラビは、所謂、鬱蒼とした森林に植生することは少なく、どちらかと言えば、開けて日当たりの良い場所に生育し、大きな群落を作る点では「知る人もなき深山木の下わらびもゆ」という表現は、必ずしも的確とは言えない。
・「天明元」西暦1781年。辛丑(かのとうし)。この年は安永10年として始まるが、光格天皇の即位のため4月2日に天明元年に改元している。ここでは「夏」とあるので勿論、天明元年で正しい。根岸は当時、勘定吟味役であった。
・「自寛」不詳。僧号にも見えるが、であればそのように記すはずであるし、武士ならば当然、明記するはずであるから、これは当時、江戸に無数にいた町人身分の好事家の一人ではなかろうかと思われる。根岸の「耳嚢」の情報源の一人であったのだろう。
・「伊奈氏半左衛門」伊奈忠尊(いなただたか 明和元(1764)年~寛政6(1794)年)伊奈氏最期の関東郡代(郡代在位は1778年から1792年)。ウィキの「伊奈忠尊」によれば、まさに本件の記載時である『天明元年(1781年)織物糸綿改所の騒動を解決した。天明4年(1784年)勘定吟味役上座に就任しこれを兼任する。天明7年(1787年)5月に赤坂の20軒の米問屋の襲撃から始った江戸の打ち壊しは、本来なら江戸町奉行の管轄だが手に負えず、関東郡代である忠尊が各地から買い集めた米を江戸市中に大放出し、事態を収拾させた。天明の大飢饉で全国的な凶作であり買い付けはたいへんであったが、それを集められたのは伊奈氏の人気のほどを伺わせる』とあって、その才覚人望の程が知られる。しかし、その後は藩主後継に纏わる一部の家臣団との離反や幕閣との確執によって『寛政4年(1792年)3月9日、勤務中の不行跡、家中不取締りの罪で改易され、所領没収永蟄居』となり、2年後に『お預け先の南部内蔵頭の屋敷で31歳で没した』。
・「手代」は郡代や代官等の下役として農政を担当した下級官吏。出身は百姓・町人身分であった。
・「かりそめのことの葉草に風立ちて露のこの身のおき所なき」離縁申し渡しは、妻の何気ない一言を夫藤兵衛が曲解して激昂した結果というシチュエーションとして捉えて訳してみた。「妻は、何か言つのりて」というのは、「何気ない一言」でないようにも読めるが、ここは「夫が何か言つのりて(妻を)離縁し」たという捩れが示されていると読む。「大風」は勿論、夫の激昂、振り落とされた露は言わずもがな、離縁された妻である。
やぶちゃんの通釈:
草――私のちょっとした言葉、その言の葉の草――に大風が吹きすさび、その草に置いたはかない露――の如き私――は、あっという間に振り落とされて……孤独なこの身は、最早……この世に置きどころとて御座いませぬ……
・「麻布一向宗」これは恐らく、現在の東京都港区元麻布にある麻布山善福寺派であることを称していると思われる。善福寺は天長元(824)年に弘法大師によって開かれた真言宗の寺院であったが、鎌倉時代、越後配流を許された親鸞聖人が立ち寄り、それを迎えた当時の住持了海上人(当時17歳)が親鸞に傾倒、一山を挙げて浄土真宗に改宗した。後のこの了海上人は真宗の関東六老僧に数えられる名僧となった。一向一揆の際の石山本願寺での織田信長と交戦の際にも、善福寺は籠城する僧に援軍を送っている(以上は麻布山善福寺のHPの「歴史のご紹介」を参照した)。但し、この書き方は、善福寺そのものではなく、その末寺であることを意味しているように思われる。
・「夫婦」その麻布一向宗善福寺派の「旦那寺の僧」夫婦である。真宗の僧はその宗旨から、江戸時代にあっても妻帯が許されていた。
・「冷泉爲村」(れいぜいためむら 正徳2(1712)年~ 安永3(1774(年)公家・歌人。歌道の宗匠家の一つである冷泉派歌道を家業として継承してきた冷泉家の中興の祖。享保6(1721)年に霊元上皇から古今伝授を受けている。宝暦9(1759)年、正三位権大納言。但し、この話柄の頃には既に落飾していた。歌集「冷泉為村卿家集」。
・「伽」退屈を慰めるために話し相手をすることを言う。
・「三神」和歌の道を守護する三柱の神。住吉明神・玉津島明神・柿本人麻呂、衣通姫(そとおりひめ)・柿本人麻呂・山部赤人など、名数には諸説がある。
・「知る人もなき深山木の下わらびもゆとも誰か折はやすべき」の「はやす」は「生やす」で、「切る」の忌み言葉であろう。折り千切るということである。勿論、それに「栄やす」(褒めそやす)の意を掛ける。
やぶちゃんの通釈:
蕨……誰(たれ)一人として知る人とてない……深山(みやま)の奥の木の下に……小さな蕨が萌え出でたとて……それを……誰一人摘んで折り取っては――蕨の如き妾(わらわ)を褒めては――……下さらない――
・「今は世になき深山木の下わらびもへし煙の行衛しらずも」「萌えし」は「燃えし」を掛け、火葬の煙を引き出す。
やぶちゃんの通釈:
今はもう消えてしまった蕨……深山(みやま)の奥の木の下に……萌え出でた可憐な蕨――そんな貴女(あなた)は、もう亡くなってしまわれた――その蕨を燃やした、その煙――鳥部山の煙――は、一体、何処へと消え去ってしまったのであろうか……
・「精香」薫香で線香のことを指すか、若しくは「精華」で弔花を指すか。とりあえず高価な御香ととっておいた。識者の御教授を乞う。
・「二斤」1斤=16両=160匁=約600gであるから、約1200g。但し、軽量対象によって換算が異なるようである。
・「磯野丹波守政武」(宝永3(1706)年~安永5(1776)年)八代将軍徳川吉宗の御小姓として知られ、御書院番・小納戸役・寄合(旗本寄合席の正式名称)などを歴任した人物であるが、同時に石野広通・萩原宗固らと共に江戸冷泉派を代表する歌人でもあった。この没年から判断すると、やや本話の真実性には疑義が生ずる。このヒロインは関東郡代であった「伊奈氏半左衛門手代小川藤兵衛の妻」となているが、伊奈忠尊の関東郡代就任は1778年のことで、この磯野政武が逝去した1776年には、未だ郡代となっていないのである。磯野政武が伊奈半左衛門郡代手代である小川藤兵衛の妻の噂を聞く、というのは有り得ないのである。何より、安永5(1776)年当時、伊奈半左衛門は未だ12歳なのである。
■やぶちゃん現代語訳
物語「下蕨」の事
天明元年、夏の初め、私の家をちょくちょく訪ねて来る自寛という老人が、「下(した)わらび」と題した二、三葉の書き物を私に見せた。なかなか趣きのあるよい物語だったので、その場で直ぐに、以下の通り、そのまま書き写した。その話。
――――――
伊奈半左衛門の手代であった小川藤兵衛は、ある時、何やらん自分の妻に激昂し、離縁を申し渡した。その妻という女は日頃、和歌に親しんでいたので、
仮初めの言の葉草に風立ちて露のこの身の置き所なき
と詠むと、家の襖にそれを書き付けて、実家へと帰って行った。
さて、夫藤兵衛の檀家寺の住職という人は、麻布一向宗善福寺派に属する京都の人であった。この僧夫婦はまた、共に冷泉為村卿と親しく、卿の屋敷にもよく参上していた。
ある夜のこと、この僧が卿のお伽に参上致いた際、この物語を申し上げたところ、
「――それ程、優しき心映えなれば、如何にもその奥方には、はしたなきことなんどありゃしまへんやろに――」
とおっしゃられた。
この僧が江戸に戻った際、この有り難い為村卿の御言葉を藤兵衛に語った。
それを聞いた藤兵衛は自身の短慮を悔やんで、再び女を呼び戻して妻とした。
その妻は為村卿の御言葉を誠にかたじけなきものと感じ入り、また、常日頃より好む歌の道のことなればとて、卑賤の身分ながら何卒、御門の末席にお入れ下さりたく、と願い出た。
僧は身分違いとは存知ながらも、女の歌の上手なればこそと、その女のことを為村卿に推挙申し上げた。
しかし、為村卿はただ微笑まれるばかりでお許しにはなられない。女を不憫に思うた僧が重ねて願い挙げ申し上げたところ、為村卿は、
「――されば、その奥方のこと、一目と逢(お)うたことはあらしまへん――なれど、先に麻呂(まろ)が言うた――『あのように美事な歌を詠む程の者なれば、そのように、はしたなきことなんどありゃしまへんやろに』――そう言うたがために――その御人が呼び戻いて復縁致いたとのことであらっしゃればこそ――もし、その奥方をお弟子に致いたれば――麻呂がそのお人の妻に、懸想致いておるなんどと、誰(たれ)彼に思われたり致いては――麻呂の――この歌の道を汚すこととなる――それは不都合なこと――されば、この奥方に限っては、三神にかけ参らせて、お弟子には、でけしまへん――なれど――歌は、何度でも見て上げようほどに――」
と仰られたとのであった。
僧も、卿の、深い御深慮の上のその御言葉に深く打たれ、江戸に帰って後、藤兵衛妻にも、この御言葉を伝え、御弟子成らざる所以を、言い聞かせた。
女は、しかし、却って、かかる正しき御心をお持ちにあらせられる方の、御弟子として頂くことが叶わぬとは、と深く嘆き、日々泣き暮らしているうち、程なく病みついて、みるみる重くなってゆき、遂に今際(いまわ)の際という折りに、筆を乞い、
知る人もなき深山木(みやまぎ)の下蕨萌ゆとも誰(たれ)か折りはやすべき
と書き残して、身罷かったのであった――。
後、かの僧が上洛致いた折り、為村卿へこうした次第を申し上げたところ、卿は深くお哀れみになられて、
今は世になき深山木の下わらび萌えし煙(けぶり)の行くへ知らずも
とお詠みになり、薄墨にて御短冊に染められたのであった。
為村卿は加えて、御香奠として高価な御香二斤をその僧に贈り下され、その際、
「――よろしくこれにて手向けと致さっしゃれ――それと――その奥方には、子は、ないか?」
とお尋ねになられた。僧が、
「今年十(とお)ばかりにもなる女子(おなご)が一人御座います。」
との由、申し上げたところ、為村卿は、
「――その子、歌は詠み習(なろ)うてはおらんのか?」
と仔細にお尋ねあらせられたので、僧が、
「流石に、幼(おさの)う御座いますれば未だ歌は詠みおりませんぬ。然りながら、この母の子にてありますれば、百人一首などは、よう詠んで御座いまする。」
と申し上げたところ、卿は即座に、
「――その女子(おなご)は麻呂の弟子なるぞ、と――これ、よく言い聞かすがよい――」
と仰せられたとのことである。
僧もあまりのかたじけなさに衣の袖を絞る程に心打たれ、江戸に帰ると、藤兵衛親子にこのことを伝え、言い聞かせたのであった。
さてもまた、当時、江戸にあって為村卿の御弟子であった磯野丹波守政武殿へも、たまたまこの僧がこの話を致いたところが、政武殿は、
「それは聞き捨てておく話では、これ、御座らぬ。」
と、直ちにに小川藤兵衛方を訪ね、身銭を切って、その亡妻の位牌を造らせ、更に件(くだん)のことを政武殿自ら詳しく書き執って位牌の裏に彫らせて、かの僧の寺に納め置いた。
――この一部始終を筆録致し、「下蕨」という題を附けた、と政武殿が徒然の夜話の中で語って御座ったことを、あらまし、書き止めたものに御座る。
「耳囊」に「妖怪なしとも極難申事」を収載した。
*
妖怪なしとも極難申事
安永九子年の冬より翌春迄、關東六ケ國川普請御用にて、予出役して右六ケ國を相𢌞りしが、大貫次右衞門、花田仁兵衞等予に附添て一同に旅行𢌞村し侍る。花田は行年五十歲餘にて數年土功になれ、誠に精身すこやかにしてあくまで不敵の生質(きしつ)也けるが、安永十丑の春玉川通𢌞村にて押立村(おしたてむら)に至り、豫はその村の長たる平藏といへる者の方に旅宿し、外々はその最寄の民家に宿をとりける。いつも翌朝は朝速(あさはやく)次右衞門、仁兵衞抔も旅宿へ來りて一同伴ひ次村へ移りける事也。仁兵衞其日例より遲く來りし故、不快の事も有し哉と尋しに、いや別事なしと答ふ。其次の日も又候豫(よが)旅宿に集りて御用向取調ける折から、仁兵衞かたりけるは、押立村旅宿にて埒なき事ありて夜中臥(ふせ)り兼(かね)、翌朝も遲く成しと語りけるが、いか成事やと尋けるに、其日は羽村(はむら)の旅宿を立て雨もそぼふりし故、股引わらじにて堤を上り下り甚草臥(くたびれ)しゆへ、予旅宿を辭し歸りて直に休み可申と存候處、右旅宿のやうは本家より廊下續にて少し放(はな)れ、家僕など臥り侯所よりも隔(へだたり)あるが、平生人の不住所(すまざるところ)に哉(や)、戶垣もまばらにて表に高藪生茂り用心も不宜所(よろしからざるところ)と相みへ候故、戶ざしの〆(しま)り等も自身に相改(あらため)臥りけるが、とろ/\と睡り候と覺る頃、天井の上にて何か大石など落し侯やう成(なる)音のせしに目覺、枕をあげみ侍れば、枕元にさもきたなき樣の座頭の、よこれ穢はしき嶋の單物(ひとへ)を着し、手を付居たりし故驚、座頭に候哉(や)と聲を可掛(かくべし)と思ひしが、若(もし)座頭には無之(これなく)申す間敷ものにも無之、全(まつたく)心の迷ひにもあるやと色々考へけれど、兎角(とかく)座頭の姿なれば、起上り枕元の脇差を取上ければ形を失ひしまゝ、心の迷ひにあらんと、懷中の御證文などをも尙又丁寧に懷中して、戶ざしの〆り等をも相改、二度臥しけるが、何とやらん心にかゝり睡らざると思ひしが、晝の疲にて思わずも睡りけるや、暫く過て枕元を見けるに、又々かの座頭出て、此度は手を廣げおゝひかゝり居(をり)ける間、最早たまりかねて夜※(よぎ)を取退け、枕元の脇差を取揚ければ又消失ぬ。依之(これによりて)燈をかき立、座敷内改見けれど、何方よりも這入と思ふ所なき儘、僕を起さんと思ひけれど、遙に所も隔りければ、人の聞んも如何と又枕をとり侍れど、何とやら心にかゝりてねられず。又出もせざりしが、全狐狸のなす業ならんと語り侍る。
[やぶちゃん字注:「※」=「衤」+「廣」。]
□やぶちゃん注
・「妖怪なしとも極難申事」は「極(きは)め申し難(がた)き事」と読む。
・「安永九子年」西暦1780年。庚子(かのえね)。
・「關東六ケ國」相模・武蔵・上野・上総・下総・伊豆。
・「川普請」幕府の基本政策の一つである用水普請(河川・治水・用水等の水利の利用事業)の一つで、堰普請や土手普請を含む河川改修事業。岩波版の長谷川氏注には根岸が『御勘定吟味役の時、天明元年(一七八一)四月、関東川々普請を監督の功により黄金十枚を受けている』と記す(底本の鈴木氏注にも同様の記載があり、そこには「寛政譜」からと出典が記されている)。根岸は安永5(1776)年、42歳で勘定吟味役に就任しており、安永10(1781)年時も同役である。
・「大貫次右衞門」前項「大岡越前守金言の事」の岩波版長谷川氏注によれば、大貫光政(享保15(1730)年~天明2(1781)年)『次右衞門。安永二年(1773)御先手与力。勘定吟味方改役。百俵。天明元年(1781)関東川々普請御用で賞され』たとある。仕えた大岡忠光より21歳年下である。
・「花田仁兵衞」岩波版長谷川氏注によれば、花田秀清(ひできよ 享保7(1722)年~寛政10(1798)年)『御普請役・支配勘定・御勘定などを勤め』た、とある。この時、59歳。
・「土功」土木事業。
・「安永十丑」西暦1781年。辛丑(かのとうし)。安永10年は光格天皇の即位のため4月2日に天明元年に改元しているが、ここでは「春」とあるので勿論、安永十年で正しい。
・「玉川通」多摩川流域。多摩川は山梨県と埼玉県の県境にある笠取山を水源とし、山梨県・東京都・神奈川県を流れる。
・「押立村」現在の東京都府中市押立町(おしたてちょう:グーグル・マップ・データ)。多摩川の北岸にあった村。
・「朝速(あさはやく)」は底本のルビ。
・「羽村」現在の東京都羽村市(はむらし:グーグル・マップ・データ)。押立村の上流約40㎞、多摩川の東岸にあった村。ここには、江戸の水源であった玉川上水(この羽村から四谷まで全長約43㎞に及ぶ)の取水口、羽村取水堰がある。玉川上水は承応元(1652)年に幕府が企画し、庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が実務工事を請負ったが、掘削は困難を極め、最後には公金も底をつき、多摩川兄弟が自家を売って完成させたともいう。
・「予旅宿」これは根岸が花田仁兵衞から聞いたことを書いているために、部分的に間接話法としての変化を受けてしまった。訳では「貴下の旅宿」とした。
・「座頭」江戸時代、僧形をした盲人が琵琶や三味線を弾いて語り物を語ったり、又は、按摩や針灸などを生業とした者の総称。
・「御証文」ここでは花田仁兵衞の個人的な証文とも取れるが、「御」が附いており、さらにこの日は根岸との事後打ち合わせ「御用向取調」に出席していないことから、当日、踏査した記録類という意味で私はとって「川普請踏査の大事な証書」と訳しておいた。
・「夜※(よぎ)」[※=「衤」+「廣」。]不詳。岩波版ルビに従い、夜着(掻巻のような布団)と解釈した。
■やぶちゃん現代語訳
妖やしの物の怪は存在しないとも如何にも言い難い一件の事
安永九年子の年の冬から翌年の春にかけて、関東六ヶ国川普請御用を承り、私はこの六ヶ国をたびたび巡回致いたが、その際は部下として、「大岡越前守金言の事」を語ってくれた大貫次右衛門と花田仁兵衛らその他の者どもが私に付き添って一緒に旅し、廻村して御座った。この花田という男は、当時五十歳余りで、長年、普請の現場作業や実務にも慣れており、強靭な精神力を持った不敵にして大胆な好漢である。
その、安永十年丑の年の春先、多摩川流域の村々を巡り、押立村まで来た。私は村長(むらおさ)の平蔵という者の家に旅宿し、その他の部下は村長の最寄りの民家に宿を取った。普段ならば翌朝早くに次右衛門や仁兵衛らが私の宿っている家(や)に集合した上で、一同共に次の村へと出立するのが常であった。
ところが、その日に限って仁兵衛が遅刻したので、私は、
「どこぞ体の具合でも悪く致いたか?」
と尋ねたところ、仁兵衛は、
「……いや……別にどうと言うことは御座らぬ……」
と答えると、遅延の詫びを述べて、一同、村長の家を立った。
――その日の晩のことである。いつもと同様のことで御座ったが、私の旅宿している家に集まって、本日昼間(ちゅうかん)に踏査した川普請関連記録に就いての整理をしていると、その際、仁兵衛が、
「今朝は、実は……押立村の拙者の旅宿先にて、ちょっとした事が御座って……夜中に寝ねられずして……遅れて御座った……」
とのこと。
興味を惹かれて、私が、
「どのような事が御座った?」
と尋ねたところ――
「……あの日は早朝に羽村の旅宿を立って、雨もそぼ降っておる上に、股引に草鞋ばかりの出で立ちのまま、多摩川堤を上ったり下ったり……ひどうくたびれて仕舞うて、貴下の旅宿へ寄るのはお暇(いとま)致し、真直ぐ拙者に割り当てられた旅宿に帰って休むに若(し)くはない、と思ったので御座る……
……さて、拙者の旅宿の寝所は、その家(や)の母屋から廊下続きになっておる、少し離れた部屋で、拙者の従僕どもが当てがわれた部屋からも離れた場所で御座った……見たところ、普段はもう人の住んでおらぬ部屋であるらしく、戸や垣根も荒れており、裏庭には背の伸びきった竹が鬱蒼と生い茂って、正直、如何にも無用心なる部屋じゃと思いましたればこそ、そこここの戸締まりなどもしっかりと確かめ上、横になり申した……
……うとうと致いたと思うた頃……
……ずん!……
……と天井の上で、何か大きな石でも落としたかような音が致し……目が覚め申した……
……目覚めて、頭を起こし、枕上を見ると……そこに……
……見るも穢(けが)らわしい座頭風の者が……如何にも汚(きたな)らしい縞の単衣を着て……両手をついて座っておったのです……
……吃驚した拙者は、
『座頭であるか?』
と声をかけようと思うたので御座るが……
……もし、その相手が
『――座頭では――ない――』
……なんどと、返事をされないとも限らず……
……座頭体(てい)の者から、そんな返事をされたのでは……これ、又ぞっと致すものなれば……
『……いやいや、これは全く以って気の迷い、幻じゃ!』
……なんどと、ぐるぐると、考えあぐねて御座ったが……
……兎も角も確かに眼前に……
……座頭の姿は、ある……
……そこで、がばと起き直って、枕元に置いた脇差を取り上げたところ……座頭の姿は、影も形のなくなってしもうたのです……
……そこで、やはり気の迷いであったかと……懐中の川普請踏査の大事な証書等も一度取り出いて確めた上、再び丁寧に畳んで懐中致し……再度、戸締まり確認の上、再び横になり申した……
……かくなる故、何やらん気に掛かって眠れないのではあるまいかなんどと思って御座ったが……それでも、昼の疲れも手伝ってか、思わず寝入っておりました……
……暫く経って……また、ふと覚めました……枕元を見ると……
……また先程の座頭が、居ります……
……いや、今度は両手を大きく拡げると……
……今にも……拙者に襲いかからんばかりの様にて、居るので御座る……
――!――
……拙者は最早たまりかねて、布団を撥ね退けると、枕元の脇差を手に取り上げたところが……また……消え失せてしもうたので御座る……
……そこで拙者は起き上がると、部屋の燈心の火を掻き立てて、座敷内(うち)を隈々に至るまで改めて見ましたれど……何処からも、人が入ることが出来よう思われる所は、これ、全く御座らぬ……
……もう、その折りには、従僕をも起こそうかとも思うたものの……連中の寝所も遙か遠くに隔たっておりましたれば……そうこうする内に、よそ人に騒ぎを聞かれるのも如何にも外聞が悪かろうと思い……また、枕を取って横になりました……なりましたものの……かくなっては、流石に何にやらん心に掛かってしまい、眼も冴え返って、遂に寝付けませなんだ……
……この座頭……それっきり、現れませなんだが……
……全く以って狐狸のなす業にて御座ろうか……」
――と物語ったので御座った。
「耳嚢」に「大岡越前守金言の事」を収載した。
*
大岡越前守金言の事
越前守忠相は享保の頃出身して御旗本より大名となり、政庁の其一人也。大岡出雲守は、惇信院樣の御小姓を相勤思召に叶ひ、段々昇進して御側に至り、後は二萬石に迄御加増有りて、御側御用人を勤、岩槻の城主也。未(いまだ)御側の頃、同姓のよしみある故、越前守も折節雲州の館へも來り給ひしが、雲州或時越州に對し、御身は當時世上にて天下の大才と稱し御用も一方ならず、我も小身より御取立に預り御政事にも携り候儀、願はくば心得にも可成事は不惜教誡し給へと念頃に尋ければ、越州答て、某(それがし)不才にして何か存寄候事も無之、御身は年若にて當時、將軍家の思召に叶ひ、智惠といひ無殘所(のこるところなき)御事、何か教諭の筋あらん、しかし老分(らうぶん)の某なれば、聊御身の心得にならん事不申もいかゞなれ、一事申談じ畢(おはんぬ)。都(すべ)て人に對し候ても世に對し候ても、萬端を合せ候ての御取計可然候、しかし實を以(もちて)合せ給ふ事肝要の心得也と宣(のたま)ひしを、雲州も深く信伏ありしを、雲州側向(そばむき)を勤し大貫東馬といへるもの、後次右衞門とて柳營(りうえい)に勤仕し豫が支配也しが、まのあたり次にて承りしとかたりぬ。
□やぶちゃん注
・「大岡越前守」大岡忠相(おおおかただすけ 延宝5(1677)年~宝暦元(1752)年)西大平藩初代藩主。八代将軍徳川吉宗の享保の改革期に、町奉行として江戸の市中行政に辣腕を揮い、評定所一座(幕政の重要事項・大名旗本の訴訟・複数の奉行管轄に関わる事件の裁判を行なった当時の最高裁判機関)にも加わった。最後は寺社奉行兼奏者番(そうじゃばん:城中での武家礼式を管理する職)に至る。「大岡政談」等で知られる名奉行であるが、ウィキの「大岡忠相」の事蹟によれば、『市政においては、町代の廃止(享保6年)や町名主の減員など町政改革も行なう一方、木造家屋の過密地域である町人域の防火体制再編のため、享保3年(1718年)には町火消組合を創設して防火負担の軽減を図り、享保5年(1720年)にはさらに町火消組織を「いろは四十七組(のちに四十八組)」の小組に再編成した。また、瓦葺屋根や土蔵など防火建築の奨励や火除地の設定、火の見制度の確立などを行う。これらの政策は一部町名主の反発を招いたものの、江戸の防火体制は強化された。享保10年(1725年)9月には2000石を加増され3920石となる。風俗取締では私娼の禁止、心中や賭博などの取締りを強化』した。厚生事業や農事関連として、『享保7年(1722年)に直接訴願のため設置された目安箱に町医師小川笙船から貧病人のための養生院設置の要望が寄せられると、吉宗から検討を命じられ、小石川薬園内に小石川養生所が設置された。また、与力の加藤枝直(又左衛門)を通じて紹介された青木昆陽(文蔵)を書物奉行に任命し、飢饉対策作物として試作されていたサツマイモ(薩摩芋)の栽培を助成する。将軍吉宗が主導した米価対策では米会所の設置や公定価格の徹底指導を行い、物価対策では株仲間の公認など組合政策を指導し、貨幣政策では流通量の拡大を進言して』もいる。また、現在、書籍の最終ページには奥付が必ず記載されているが、『これは出版された書籍の素性を明らかにさせる目的で1721年(享保6年)に大岡越前が強制的に奥付を付けさせることを義務化させたことにより一般化した』ものであるという。面白い。因みに、本「耳嚢」の作者根岸鎮衛は、この大岡忠相と並ぶ名町奉行として有名であった。
・「金言」処世の手本とすべきすぐれた言葉。金句。「ごんく」とも読む。
・「享保の頃出身して御旗本より大名となり」ウィキの「大岡忠相」の事蹟によれば、『将軍綱吉時代に、寄合旗本無役から元禄15年(1702年)27歳で書院番となり、翌年には元禄大地震に伴う復旧普請のための仮奉行の一人を務める。宝永元年(1704年)には徒頭、宝永4年(1707年)には使番となり、宝永5年(1708年)には目付に就任し、幕府官僚として成長』、『徳川家宣時代、正徳2年(1712年)正月に37歳で遠国奉行のひとつである山田奉行(伊勢奉行)に就任』し、『同年4月には任地へ赴いている。同年には従五位下能登守』、その後の『将軍家継時代の享保元年(1716年)には普請奉行となり、江戸の土木工事や屋敷割を指揮』した。『同年8月には吉宗が将軍に就任』、『翌享保2年(1717年)江戸町奉行(南町奉行)となる。松野助義の跡役で、相役の北町奉行は中山時春、中町奉行は坪内定鑑。坪内定鑑の名乗りが忠相と同じ「能登守」であったため、このときに忠相は「越前守」と改め』た。『元文元年(1736年)8月、寺社奉行となり、評定所一座も引き続き務める。寺社奉行時代には、元文3年(1738年)に仮完成した公事方御定書の追加改定や御触書の編纂に関わり、公文書の収集整理、青木昆陽に命じて旧徳川家領の古文書を収集させ、これも分類整理する。寺社奉行時代には2000石を加増され5920石となり、足高分を加え1万石の大名格となる。寺社奉行は大名の役職であり、奏者番を兼帯することが通例であるが、旗本である忠相の場合は奏者番を兼帯しなかったため、兼帯している同役達から虐げられたという。そこで将軍吉宗は寺社奉行の詰め所を与えるなどの』格段の配慮もしたという。しかし目出度く『寛延元年(1748年)10月、奏者番を兼任し、同年には三河国西大平(現岡崎市)1万石を領し、正式に大名となる。町奉行から大名となったのは、江戸時代を通じて忠相のみである。寛延4年(1751年)6月、大御所吉宗が死去。忠相は葬儀担当に加わっている。この頃には忠相自身も体調が優れず、『忠相日記』の記述も途絶えている。吉宗の葬儀が最後の公務となり、同年11月には寺社奉行を辞職し自宅療養し、12月(現在の暦では翌年2月)に死去、享年75』歳であった。
・「大岡出雲守」大岡忠光(宝永6(1709)年~宝暦10(1760)年)九代将軍徳川家重の若年寄や側用人として活躍した。上総勝浦藩主及び武蔵岩槻藩初代藩主。三百石の旗本大岡忠利の長男。大岡忠相とは縁戚であり(後注「同姓のよしみ」参照)、ここに記すように忠相の晩年には親交もあった(以上はウィキの「大岡忠光」を参照した)。
・「惇信院樣」 九代将軍徳川家重(正徳元(1712) 年~宝暦11(1761)年)の諡号(おくりな)。将軍就任は延享2(1745)年。
・「御小姓」「扈従」を語源とし、中世以降、武将の身辺に仕えて、諸々の雑用をこなす役職。江戸幕府にあっては若年寄支配下で、将軍の身辺雑用を務めた。
・「思召に叶ひ」大岡忠光は、享保7(1722)年八代将軍吉宗に謁見、享保9(1724)年15歳の時、御世継であった当時12歳の吉宗の長男家重の小姓となった。幼い頃から家重に近侍してきた彼は、極端に発音不明瞭(脳性麻痺が疑われる)であった家重の言葉を唯一人理解出来る人物として、異例の出世を果たした(以上は主にウィキの「大岡忠光」を参照した)。
・「御側」後の「御側御用人」と同じ(ここの部分、ややくどい感じがする。衍字かもしれない)。側用人のこと。将軍の側近くに仕え、将軍の命令を老中に伝達、また老中からの上申などを将軍に取り次ぎ、更には将軍に意見を具申することも可能な重職。定員一名。待遇は老中に準じたが、権勢は老中を遙かに凌ぐ。
・「後は二萬石に迄御加増有りて、御側御用人を勤、岩槻の城主也」大岡忠光は家重の将軍就任(延享2(1745)年)の6年後の宝暦元(1751)年、上総国勝浦藩一万石の大名に取り立てられ、宝暦4(1758)年には五千石加増で若年寄、宝暦6(1760)年にも五千石加増、合わせて二万石を得て武蔵国岩槻藩主及び側用人に任ぜられた(以上はウィキの「大岡忠光」を参照した)。
・「岩槻」武蔵国岩槻。現在の埼玉県さいたま市岩槻区。
・「未御側の頃」とあるので、本話柄は1745年以降1750年以前ということになる(前注参照)。大岡忠相は68~73歳、大岡忠光は36~41歳である。
・「同姓のよしみ」二人の家系は、江戸初期の旗本で相模国高座郡下大曲村の地頭であった大岡忠世(おおおかただよ)をルーツとする遠縁である。
・「教誡」 善を教え、悪を誡めること。教え諭すこと。
・「大貫東馬」岩波版長谷川氏注によれば、大貫光政(享保15(1730)年~天明2(1781)年)『次右衞門。安永二年(1773)御先手与力。勘定吟味方改役。百俵。天明元年(1781)関東川々普請御用で賞され』たとある。仕えた大岡忠光より21歳年下である。根岸より8歳年上になるが、底本の鈴木氏の注によれば、大貫は安永8(1779)年勘定吟味方改役に就任しているが、根岸は既に安永5(1776)年に『勘定吟味役になっていたから、大貫は下役である』と記す。
・「柳營」将軍の軍営。幕府。又は将軍、将軍家。「漢書」周勃伝に載る、匈奴征伐のために細柳という地に幕営した漢の将軍周亜夫(しゅうあふ)が、軍規を徹底させて厳重な戦闘態勢をとって文帝から称賛された故事による。
■やぶちゃん現代語訳
大岡越前守忠相の金言の事
大岡越前守忠相は、享保の頃、順調に出世昇進して御旗本から大名になった、文字通り、政務を司る官庁の一翼を担った人である。
また、大岡出雲守忠光は、惇信院家重様の御小姓を相勤め、その折り、家重様のお心に叶い、次第次第に昇進して御側にまで上り詰めた。最晩年には二万石まで御加増を受け、御側御用人を勤めた、武蔵国岩槻藩の城主である。
この話は、出雲守忠光が、まだ御側の御用人に就いていた頃のことである。
同姓同族の好(よし)みもあって、越前守忠相も、時折り、出雲守忠光の屋敷に来駕なされることがあった。そんなある日のこと、出雲守が越前守に対し、
「御身は当時の世上で『天下の大才』と称せられ、上様の御重用も一方ならずで御座った。拙者も御小姓から御取立て戴き、今は幾分、御政事(まつりごと)にも関わらせて頂いて御座るが、どうか、拙者の心得と致すべきことなど御座いますれば、惜しまれることなく、御教授下さいませ。」
と懇請した。すると越前守は、
「某(それがし)は不才にして、人に教うべきことなんど、これといって何も御座らぬ身にて……またかえりて御身はと言えば、若年ながら将軍家のお心に叶い、その智慧と言い、至らぬところなき程の身……何ぞ教え諭すべきことなんど、御座いましょうや……されど、年だけは経た老いの我が身なれば、多少なりと御身の心得になろうかということ、申し上げぬというも如何とは存ずればこそ、一言、申し上げようと存ずる。
……総て人に対せんとされる折りにも、広く世間と対せんとされる折りにも、万事繰り合わせて、平常心(びょうじうしん)にてのお取り計らいを然るべくなされるがよかろうかと存ずる……なれど、それ以上に、誠心を以って、何事にも当ることこそが最も肝要の心得と存ずる。」
と仰せになられた。出雲守も、この短くも奥深い一言に、深く感服されたということである。
この話は、かつて出雲守の御側向きを勤めた大貫東馬という者――彼は後には次右衛門と名乗り、幕府に勤仕(ごんし)した私の部下である――が、その時、直に、次の間に控えて御座った折りに承ったこと――と私に語ったものである。
「耳嚢」に「柳生家門番の事」を収載した。
*
柳生家門番の事
或時但馬守の方へ澤庵來りけるに、門番所に一首の偈(げ)あり。
蒼海魚龍住、山林禽獸家、六十六國、無所入小身
右の通張てあり。面白き文句ながら末の句に病ありと澤庵口ずさみければ、門番申けるは、聊病なし、某が句也と答ぬ。澤庵驚きいかなる者と段々尋けるに、朝鮮の人にて本國を奔命して日本に渡り、但馬守方門番をなし居たる也。但馬守聞て、何ぞ身を入るに所なき事や有ると貳百石給り、侍に取立ける由。今に柳生家に右の子孫ありとかや。
□やぶちゃん注
・「但馬守」柳生宗矩。前項「柳生但馬守心法は澤庵の弟子たる事」注参照。
・「澤庵」澤庵宗彭。前項「柳生但馬守心法は澤庵の弟子たる事」注参照。
・「偈」(サンスクリット語“gaathaa”ガータの漢訳語)は仏教にあって本来は、仏の教えやその徳を韻文形式で述べたものを指す。中国や日本では特に禅僧が悟達の境地を同様の韻文形式で述べたものをこう呼ぶ。『中国の偈は押韻しているのが普通であるが、日本人の詩偈と呼ぶ儀式に使用される法語には破格のものも多い』(以上はウィキの「偈」を参照した)。
・「病」文芸作品に於ける修辞学上の欠点。この場合は、沢庵にとって大袈裟に感じられた意味内容とも取れるし、もっと感覚的に、日本語で読んだ沢庵が、日本語の漢詩表現として奇異なものを感じたか、若しくは中国音での平仄押韻上の疑義を感じたかのようにも受け取れる。訳ではそこを誤魔化して「難」と訳した。
・「蒼海魚龍住、山林禽獸家、六十六國、無所入小身」訓読すれば「蒼海に魚龍住み、山林は禽獸の家、六十六國、小身を入るる所無し。」である。これは通釈すれば「大海に魚や竜は住み、山林は獣らの棲家――しかし、この広い日本にこの小さな私の、この身の置きどころとて、ない――」といった感じである。
■やぶちゃん現代語訳
柳生家の門番の事
ある時、柳生但馬守の屋敷を沢庵が訪れた際、門番の詰所に一首の偈が掲げられておった。
蒼海魚竜住 蒼海に魚龍住み
山林禽獣家 山林は禽獣の家
六十六国 六十六国
無所入小身 小身を入るる所無し
と書いて張ってある。それを眺めながら、沢庵は、
「――なかなか面白い偈じゃ――但し、末の句に、聊か難があるな――」
と沢庵が独り言をつぶやいていると、門番がそれを聞き咎めて、
「いや。難など、ない。私の創った句だから。」
沢庵は――かく巧みな偈を門番如きが創ろうとは――と驚いて、
「お前は何者か。」
と、いろいろ話を聞き質いてみたところが、実はこの門番、朝鮮の者で、本国から亡命して日本に渡り、縁あって但馬守方の門番を致いておるという次第。
さてもその日、沢庵和尚に対面し、この話を聞いた但馬守は、
「どうしてどうして――身の置きどころとてない――なんどということは、ない――」
と、この門番の男に二百石を与え、侍に取り立てたという。
今もなお、柳生家にはその子孫が伺候しておる、とのことである。
「耳嚢」に「柳生但馬守心法は澤庵の弟子たる事」を収載した。
*
柳生但馬守心法は澤庵の弟子たる事
柳生但馬守門前へ托鉢の僧來りて劍術稽古の音を聞、大概には聞けれど、御師範などゝは事おかしと嘲りけるに、門番咎侍れば聊不取合。但馬守へ斯と告けるに、早々其僧呼入よとて座敷へ通し對面いたし、御身出家なるが劍術の業心懸しと見へたり、何流を學び給ふやと尋ねければ、彼僧答て、御身は天下の御師範たる由ながら劍術は下手也、流儀といふは劍術の極意にあらず、劍を遣ふも何か流儀かあらんと笑ひし。柳生もさるものと思ひて、然らば立合見られよと有ければ、心へし由にて稽古場にいたり、但馬守木刀を持て、御僧は何をか持給ふと尋ければ、某(それがし)出家なれば何をか持べき、すみやかに何を以成(もつてなり)と打すへ給へと稽古場の眞中に立居たり。但馬守も不埒成事を申もの哉と思ひながら、いざといふて打懸らんと思ひしが、右僧のありさま、中々打ちかゝらばいかやうにか手ごめにも可成(なるべき)程に思われければ、流石に但馬守、木刀を下に置拜謁し、誠に御身は智識道德の人也、心法(しんぽふ)の修行をこそ教へ給へかしとひたすら望みければ、彼僧も、劍術におゐては普(あまね)く御身に續く者なしと稱し、互に極意を契りけると也。右僧後に但馬守より申上、大樹家光公へ昵近(ぢつこん)せし東海寺開山澤庵和尚なり。
□やぶちゃん注
・「柳生但馬守」柳生宗矩(むねのり 元亀2(1571)年~正保3(1646)年)大名にして柳生新陰流(江戸柳生)を不動のものとした名剣術家。徳川将軍家剣術師範役。大和国柳生藩初代藩主。永禄8(1565)年に新陰流開祖上泉信綱(かみいずみのぶつな)から新陰流の印可状を伝えられた大和国柳生領主柳生石舟斎宗厳(むねよし)の五男であった。家康に仕え、29歳の時の関ヶ原の戦いでも武功があった。慶長6(1601)年に後の二代将軍秀忠の剣術師範役となり、三代将軍家光にも剣術師範役として仕えた。慶長20(1615)年の大坂の役にあっては将軍秀忠に従軍、秀忠の元に迫った豊臣方7人を斬り捨てたという(宗矩が人を斬ったという事実記録はこの一件のみとも言う)。寛永6(1629)年、従五位下に叙位され、但馬守となろ、寛永9(1632)年には諸大名監察権を持つ初代幕府惣目付(大目付)に就任、寛永13(1636)年に一万石の大名となり、大和国柳生藩を立藩した。本記事に現れたように剣術の極意として禅宗の教えを取り入れた『活人剣』『剣禅一致』の思想を唱え、人の道としての武道を創始したと言い得る。柳生家伝書「兵法家伝書」に示されたそれは、後の「葉隠」の思想にも影響を与えている。記事の最後に示された通り、友人の禅僧沢庵宗彭(後注参照)と共に、特に家光の厚い信頼を受けた(以上は主にウィキの「柳生宗矩」を参照した。
・「心法」仏教用語で、一切のものを心(しん:非実体としての真(まこと)。精神。)と色(しき:五感によって認識し得る物質・肉体・存在物。物。)とに分ける際の心。心の働きや心の在り方を総称する語。心王。また、そこから広く心や精神面の修練法・修養法という意にも用いる。ここでは仏教的な奥義としての意で用いている。従って西洋哲学の概念である「精神」とか「精神面」と言った訳を用いず、そのままの「心法」を用いた。「しんぼふ(しんぼう)」とも読む。
・「澤庵」江戸前期の臨済宗の名僧澤庵宗彭(たくあんそうほう 天正元(1573)年~正保2(1646)年)のこと。かつて住持をした大徳寺での紫衣(しえ)事件(後水尾天皇が幕府に無断で紫衣着用の勅許を下したこと)に関わって抗議を行い、出羽に流罪となる。その後、二代将軍秀忠の死去に伴う大赦で赦され、家康のブレーンで、後の秀忠・家光にまで仕えた謎の天台僧南光坊天海や柳生宗矩から噂を聞いていた家光の深い帰依を受けて、萬松山東海寺を草創した(前掲の「萬年石の事」を参照)。書画・詩文・茶道にも通じ、祐筆家でもあった。柳生宗矩の『活人剣』『剣禅一致』の思想は沢庵に負うところが大きい。
・「思われければ」ママ。
・「互に極意を契りける」この「互に」は「相互に」という意味ではやや奇異な感じがする。勿論、沢庵和尚が禅の心法を宗矩に、宗矩が剣術の精神論の核心を沢庵和尚に伝授する、というのも禅の世界にあっては、決しておかしな謂いではないのだが、そのような禅の境地まで認識して根岸がこの語を用いているようには(彼に失礼乍ら)、思われない。寧ろこれはここに瞬時にして生じた相対する二人の新しい関係、『沢庵という師と宗矩という弟子の関係の中で』という意味であろう。そうして「極意を契りける」というのは、正しい仏法を正しく、師から弟子へと伝えるように、正に『剣禅一致』といった仏道と剣道の融合した境地の極意を、伝えることを契った、という意味であろう。そこで現代語訳では、正しい仏法を師から弟子へと代々伝えることを意味する「血脈」(けちみゃく)という語を用いた。
・「大樹」将軍又は征夷大将軍の異称。「後漢書」の馮異(ひょうい)伝に、馮異という将軍は戦場にあって諸将が武功を誇っている折にも、独り大樹の木の下に下がって、功を誇らなかった真の武将であった、という故事に基づく。ここでは家光を指す。
・「昵近」昵懇。親しいこと。心安いこと。「入魂」とも。国訓である。岩波版は「じつきん」のルビを振るが、採らない。
・「東海寺」萬松山(ばんしょうざん)東海寺。現在の東京都品川区にある臨済宗大徳寺派寺院。寛永16(1639年)年に徳川家光が沢庵宗彭を招聘して創建した。当時、徳川家菩提寺兼別荘相当の格式であった(前掲の「萬年石の事」を参照)。
■やぶちゃん現代語訳
柳生但馬守はその心法に於いて沢庵和尚の弟子であるという事
柳生但馬守宗矩の屋敷の門前を一人の僧が通りかかり、そこでふっと立ち止まって、撃剣の稽古の音を聞くや、
「――そこそこの使い手ではある――しかし、この程度で御師範なんどとは、しゃらくさいわい――」
それを聞いた門番、聞き捨てならぬその物言いに、これを咎めたのじゃが、この僧、一向にとり合わない。憤慨した門番が、直ちに但馬守へこれこれと注進に及んだところ、但馬守は、
「直ちにその僧を屋敷に呼び入れよ。」
と命じ、僧を座敷へ通し、対面致いた。但馬守は丁重に挨拶を交わすと、
「さて、御身は御出家の御様子乍ら、剣の術を修行なされたものとお見受け致す。さても、何流を学ばれたか?」
と訊ねた。すると僧は、乱暴な口調で、
「――御身は天下の御師範役と聞いておるがの――、しかし、なんとまあ、剣術は下手、よ。――何流か、じゃと? 流儀なんどというものは剣術の極意では、ない。――剣を遣うに、何の流儀が、いるものか!――」
と言い放った。但馬守、聊かカチンと来た。
「しからば、一手御立ち合い願いたい。」
と申し入れた。僧はきっぱりと、
「――心得た。――」
と受けると、但馬守と共に稽古場に赴いた。
但馬守、木刀を取り、
「御坊は、何をお持ちになられるか。」
と訊ねたところ、
「――某(それがし)は出家の身じゃ――。何を持つか?――何も持つべきものなど、ない!――速やかに、何を以ってなりと――この我を打ち据えなさるがよい!――」
と言い捨てて、稽古場の真ん中に――両手をゆったりと広げて、大股に――すくっと立った。――
流石の但馬守も、内心、
……ふざけたことを申す坊主じゃ!……
と憤って、一気に撃ち懸かってやろうと、木刀を上段に構えた……。
……が……
……打ち込めぬ!……
……どうしても!……打ち込めぬ!……
その僧の立ち姿を前にした但馬守には、
……どう打ち込んだとしても……その瞬間……如何(どう)にかして――その如何(どう)にかが何であるかが分からぬのだが――ともかく如何(どう)にかして……打ち返され……間違いなく……間違いなく、負ける!――
という確信の直覚が走った。
ここに至って、流石の但馬守も、即座に木刀を床に置くと、平伏して、
「誠(まっこと)御身は知識道徳の御仁なり! どうか、拙者に、その心法(しんぽう)の修行をこそお教え下さいまし!」
と、只管(ひたすら)、額を床に擦り付けて懇請した。
するとかの僧は、しゃがみこんで優しく、
「――剣術に於いては――この世広しと雖も――後にも前(さき)にも――そなたに続く者は、おらん――」
彼を褒め讃え、但馬守に、その禅の極意を伝授する血脈(けちみゃく)を即座に与えたという。
この僧こそが、後に但馬守宗矩より御注進御推挙の上、大樹家光公に近しくなられた、かの東海寺開山の沢庵和尚その人なのであった。
「耳嚢」に「爲廣塚の事」を収載した。
*
爲廣塚の事
加賀能登の境に、冷泉爲廣の歌塚といへるもの有し由。左に記す。
季世爾殘牟 爲廣塚加能 跡動無建碑
如斯して歌に詠み侍れば、
末の世に殘さんがため廣塚の跡動ぎなく建るいし文
□やぶちゃん注
・「爲廣塚」現存する。「石川県津幡町オフィシャルサイト」の「文化財・観光」のページに以下のように記されている。これによれば、旧来あった場所は冷泉為広の墳墓であったことが分かる。
■為広塚(清水)
昭和38(1963)年5月10日 津幡町文化財指定
為広塚は入道前大納言贈一品冷泉為広卿の塚である。
為広は冷泉家(藤原道長の六男長家に始まり、平安末から鎌倉期の代表的歌人俊成、定家を先祖に持つ和歌の家)五代為冨卿の長男として生まれ、義竹軒と号し、定家流の書で知られた。
当時、京都では細川氏が勢力をはり、その難を避けるために、親しくしていた七尾城主畠山左衛門尉の館に身を寄せ、大永6(1526)年、77歳で生涯を閉じた。
寛延の頃(1750年前後)、清水八幡神社のそばにあった広塚と呼ばれるところを俳人河合見風らが調査考証した結果、冷泉為広の墓であることを明らかにした。そのことを子孫の為村が聞き、明和2(1765)年霜月二十八日、加賀藩の重臣前田土佐守直躬(なおみ)や見風とはかり、石碑を建立した。
塚のそばには五層石塔や塔守屋敷があったといわれ、里人らは、塔屋敷、広塚などと呼び親しんでいたそうである。
昭和43(1963)年、周囲の環境変化により津幡小学校前庭へ移転した。
引用に際し、西暦表示の位置を移動し、一部表記を省略・変更、句読点・読みを増やした。
・「冷泉爲廣」(れいぜいためひろ 宝徳2(1450)年- 大永6(1526)年)室町時代の公卿にして歌人。冷泉家(上冷泉家)当主。永正3(1506)年に権大納言、民部卿に就任したが、永正5(1508)年に大内義興(よしおき)の前将軍義植(よしたね)復権工作で第十一代将軍足利義澄が将軍職を追われると同時に出家、宗清と号した。能登の守護職であった畠山義元と極めて親しく、能登に永く在国、能登で逝去したとも言われる。歌集に「為広卿集」「為広詠草」等(以上は主にウィキの「冷泉為広」を参照した)。
・「季世爾殘牟 爲廣塚加能 跡動無建碑」すべてひらがなで読み下せば、
すゑのよにのこさむが ためひろつかの あとゆるぎなくたつるいしふみ
である。通釈すれば、
――後々の世までも、我が為広の名を残さんが為に、この広い塚を、この加賀と能登の国境(くにざかい)の――越中との境の彼方には石動(いするぎ)があるが――その永遠に動(ゆる)がぬ石の印として、建立する、この碑(いしぶみ)を――
といった感じか。「殘牟爲廣塚」(残さむが為広塚)で「残すための広い塚」と本名「為広」とが、「塚加能」(塚の)の特殊仮名遣に「塚の」と「加賀・能登」の国境を、「跡動無建碑」(跡動ぎなき建つる碑)に「永遠に動(ゆる)がぬ石の印として建立する碑」と「ゆるがぬ石」の「動」と「石ぶみ」から越中との国境倶梨伽羅峠の越中側の地名である「石動」をも掛けているものと思われる。もう少し何かが仕掛けられているようにも思われるが、和歌に暗い私には修辞技巧の解剖はそこまでである。通釈も「我が為広の名を残さんが為に」という部分が私にはやや不審ではある。識者の御教授を願う。
■やぶちゃん現代語訳
為広塚の事
加賀と能登の国境(くにざかい)に、冷泉為広の歌塚と言い伝えるものがあるとのことである。伝え聞いた碑文を左に記しておく。
季世爾殘牟 爲廣塚加能 跡動無建碑
このように漢字で書かれているもので、試みに、これを和歌として詠んで御座ったれば、
末の世に 残さむが為 広塚の 跡動ぎなく 建つる碑(いしぶみ)
となろう。
死とは一個の人々の「解釈」に過ぎぬ。――『では、あんたにとっては?』――私の孤独な内実にあっては――慶応大学医学部献体、戒名も墓も不要という「単純愚劣な事実」のみでは、恐らく、ない、ということだけは言える――
私は愚劣なのです
僕は君に答えは出せない
君への答えは 「応え」としての私の考える君の「心」に過ぎない
僕という「存在」は 否 他者という愚劣な「在り方」は
総て消去すべき
総て否定すべき
「僞」なのだ――
……しかし……だからこそ僕は……
君と語りたいのだ――
*
――秋の海(み)の祕やかな風の囁きの中――
先日掲載した「耳嚢」の「羽蟻を止る呪の事」について、先日、僕のブログを見てくれた現役の教え子の高校三年生男子生徒が、あれとよく似た「ふるべゆらゆら」という呪文を実際に聞いたことがありますと、僕に告げてくれた。そこで今日、検索をかけて調べてみて、疑問氷解! 以下に、書き直して「耳嚢」のページに再掲した「フルベフルヘト」注の全文(結構、長いですよ!)を掲載しておく。僕の月讀命(つくよみのみこと)よ! ありがとう!
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・「フルベフルヘト」底本では後者の三文字目には濁点がない。岩波版では「フルベフルヘト、フルベフルヘト」となっているが、訳では底本を尊重した(但し、御承知の通り、古語に於いては濁音の欠落は本質的な相違ではない)。底本・岩波版共に本記事には注を附していない。当初は、骸子を「振る」と関係があるかとか、カタカナ表記に引かれて梵語かポルトガル語かスペイン語か等とも考えたのであるが、その後、現役の高校三年生の教え子から「ふるべゆらゆら」という呪文を聞いたことがありますとの報告を受け、調べたところ解決した。これは日本語であり、それも、とびきり古い呪言であった。これは「先代旧事本紀」の「天孫本紀」で、神道に深く関わった物部氏のルーツ邇藝速日命(にぎはやひのみこと=饒速日命)が伝えたとされる「十種神宝」(とくさのかんだから/じっしゅしんぽう=天璽瑞宝十種(あまつしるしみずたからとくさ))に関連した呪文として示され、現在でも「十種大祓」(とくさおおはらい=布留部祓(ふるべのはらい))という名の祝詞として現存している。まず、「十種の神宝」は、
沖津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
八握剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
死返玉(まかるかへしのたま)
足玉(たるたま)
道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(おろちのひれ)
蜂比礼(はちのひれ)
品物之比礼(くさぐさのもののひれ)
の10のアイテムを指す。以下、ウィキの「十種神宝」によれば、それに関わって「布瑠の言」(ふるのこと=ひふみ祓詞=ひふみ神言=十種大祓)という呪言が伝承されており、それを用いると死者を蘇生させることが出来るというのである。「先代旧事本紀」の記載には『「一二三四五六七八九十、布留部由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮する』とあるという。更に語義を示して『この「ふるべ」は瑞宝を振り動かすこと』であり、また『「ゆらゆら」は玉の鳴り響く音を表す』とし、本呪言の起源として「先代旧事本紀」に饒速日命の子の宇摩志麻治命(うましまちのみこと)が十種神宝を用いて神武天皇・皇后の心身安鎮を行ったのが、宮中における鎮魂祭の起源である、と記載する。「十種大祓」の全文を以下のページ(http://www.geocities.jp/sizen_junnosuke/tokusaooharai.html:特定宗教団体に関わるHP内であり、私は勿論、無関係であるので、団体名を示さず、また、当該ページもアドレス表示にしてリンクは張らないこととした。参照させて頂くことについては深く感謝する)に見つけた。これを参照に正字に直して、一部を推定で補正そたその祝詞全文を以下に示す(引用元を参照して直ぐ下に読みを平仮名で示したが、読みの一部や配置に私の恣意的な変更補正を加えてあるので、呪言としてお使いになる場合は、相応な識者に「正しい読み」をお聞きになることをお薦めする。私の読みでは健康のまじない――今は、そうであるらしい――の効果は、ないことは請け合う)。
高天原に神留り坐す 皇神等鑄顯給ふ
たかあまのはらにかみづまります すめかみたちいあらはしたまふ
十種瑞津の寶を以て
とくさみつのたからをもちて
天照國照彦 天火明櫛玉饒速日尊に
あまてるひこ あめほあかりくしたまにぎはやひのみことに
授給事誨て曰
さづけたまふことおしへてのたまはく
汝此瑞津寶を以て 中津國に天降り
いましこのみづのたからをもちて なかつくににあまくだり
蒼生を鎭納よ
あをひとぐさをしづめおさめよ
蒼生及萬物の病疾辭阿羅婆 神寶を以て
あをひとぐさおよびよろづのもののやまひのことあらば かみたからをもちて
御倉板に鎭置て 魂魄鎭祭を爲て
みくらいたにしづめおきて みたましづめまつりをなして
瑞津寶を布留部其の神祝の詞に曰
みづのたからをふるへそのかみほぎのことばにいはく
甲乙 丙丁 戊己 庚辛 壬癸
きのえきのと ひのえひのと つちのえつちのと かのえかのと みづのえみづのと
一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 瓊音
ひ ふ み よ い む な や こ と にのおと
布瑠部由良由良
ふるへゆらゆら
如此祈所爲婆
かくいのりせば
死共更に蘇生なんと誨へ給ふ
まかるともさらにいきなんとおしへたまふ
天神御祖御詔を稟給て
あまのかみのみおやみことのりをかけたまひて
天磐船に乘りて
あまのいはふねにのりて
河内國河上の哮峯に天降座して
かはちのくにかはかみのいかるがみねにあまくだりましまして
大和國排尾の山の麓
やまとのくにひきのやまのふもと
白庭の高庭に遷座て 鎭齋奉り給ふ
しろにはのたかにはにうつしましまして いつきまつりたまふ
號て石神大神と申奉り 代代神寶を以て
なづけていそのかみおおかみとまうしたてまつり よよかんたからをもちて
萬物の爲に布留部の神辭を以て
よろづのもののためにふるへのかんことをもちて
司と爲し給ふ故に布留御魂神と尊敬奉
つかさとなしたまふゆえにふるみたまのかみとたつとみうやまひたてまつり
皇子大連大臣其神武を以て
すめみことおおむらじおとどそのかみたけきをもつて
齋に仕奉給ふ物部の神社
いつきにつかへたてまつりたまふもののべのかみやしろ
天下萬物聚類化出大元の神寶は
あめがしたよろづのもののたぐひなりいでむおほもとのかんたからは
所謂 瀛都鏡 邊都鏡 八握生劍
いはゆる おきつかがみ へつかがみ やつかのつるぎ
生玉 死反玉 足玉 道反玉
いくたま まかるがへしのたま たるたま みちかへしのたま
蛇比禮 蜂禮 品品物比禮
おろちのひれ はちのひれ くさぐさもののひれ
更に十種神
さらにとくさのかみ
甲乙 丙丁 戊己 庚辛 壬癸
きのえきのと ひのえひのと つちのえつちのと かのえかのと みづのえみづのと
一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 瓊音
ひ ふ み よ い む な や こ と にのおと
布瑠部由良由良 と由良加之奉る事の由縁を以て
ふるへゆらゆら とゆらかしたてまつることのよしをもちて
平けく聞食せと
たひらけくきこしめせと
命長遠子孫繁榮と
いのちながくしそんしげくさかへよと
常磐堅磐に護り給ひ幸し給ひ
ときはかきはにまもりたまひさきはひしたまひ
加持奉る
かぢたてまつる
神通神妙神力加持
じんづうじんみやうしんりきかぢ
ここに現れた「布瑠部由良由良」(ふるへゆらゆら)が「フルヘフルヘト」のルーツと考えてよいであろう。……それにしても、古代の死者蘇生の秘文が、羽蟻を止めるまじないに成り下がったのは、ちょっと哀しい、ね……
つげ義春のように――僕は家のそばに昭和30年代の長屋を借りている。
秋日和である。二間の部屋に朝光が射し込んでいる。
僕は30年前の僕である。
その僕を30年前の恋人がふと訪ねて来る。
彼女はあの時のまま愛らしいのだが、鼻髭を生やしている。
梶井基次郎のように――僕はおずおずと
「……それ、そうしたの?」
と少女に訊ねると、少女はつげの「ねじ式」の女医のように
「……これは○×式を真似て、みたんです……」
と、あの頃と同じようにはにかんで応えた――
――そこに沢山のあの頃の仲間が入れ替わり立ち替わり訪ねてくる。中にはもう鬼籍に入った老教師や既に人の妻となったやはり昔の恋人が夫婦で挨拶に来たりする。彼等は僕を頻りに遊園地や紅葉狩に誘うのだが、それは暗に僕を、この長屋から、いや、この少女から離そうとしているかのように見える。
それでも――やっと僕は少女と二人っきりになれた――
午後の暖かな日差しが二人きりの部屋に射し込んでいる。
尾形亀之助のように――僕は陽だまりの中――あの頃と同じ少女の少し硬い膝枕で――垣根もない庭と――その向うの、彼方はハレーションで白く飛んでいる縹渺とした荒野を――ただ凝っと鼻髭を生やしてあの頃と同じ少し淋しげな眼の少女と一緒になって――その彼方を黙って眺めている……
*
……今朝方の夢である。5時少し前に起きた僕は、暁から曙へと向かう空を眺めながら、暫くこの余韻に浸っていた……何だか僕は、芥川龍之介の「或阿呆の一生」の一節を頻りに思い出そうとしていたのだった……だって、その夢は確かに……『何か木の幹に凍(こゞ)つた、かゞやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた』からである……
「耳嚢」に「傾城奸計の事」を収載した。
*
傾城奸計の事
享保の此にや、田所町の名主、傾城を請出して宿の妻となし偕老の語ひ成しけるが、彼妻常に手馴し箪笥に朝夕錠をおろし人に手かけさせざる引出しあり。夫にも深く隱しける樣子故、夫も元來勤(つとめ)の事故、深く疑ひ色々尋けれども、事に寄て染々(しみじみ)答へざりければ、彌々疑ひてせちに尋ければ、彼妻無據(よんどころなき)さまにて申けるは、大金を以我身を請出し給ふ御身の心を慰んとの事なれ、今引出しを見せ申さんには、御心の慰も薄くあらん事を恐れ深く包みけるが、疑ひ給はゞ見せ奉らんと引出し取出して見せけるに、案に相違して袈裟衣鉢等の佛具也。夫大きに驚きて、こわいか成事と尋ければ、さればとよ、我身事、勤の初より馴染し男ありしが、浮川竹(うきかはたけ)の中ながら倶に死を誓ひし程に契りたりしに、右男はかなくも壯年にて身まかりけるゆへ、其日より我身も出家と心得けれど、親方抱の身なればまゝにも成難く、表は傾城の常なれば笑ひを賣、閨房の戲れを事にし侍れど、心は出家淨身の專らとせしが、御身請出し妻とし給へば、是又大金に我身を賣し事なれば、聊此内心を色目にあらはさずと泪ながらに語りければ、夫も涙を催して、扨々奇特(きどく)成(ばる)女哉(かな)、我も名の知れたる男也と粹(いき)自慢の心より、暇を遣すまゝ出家得道いたすべしとありければ、こわ難有(ありがたし)と涙にむせび悦びしが、我も大金にて受出せし汝なれ共、汝が心底をも感じ、且は右の咄を聞ては妻となして面白からず、早々菩提所をまねき剃髮いたすべしとありければ、こは勿躰なき事哉、出家するならば三界に家なし、今日より托鉢して露命をつなぎ申(まうす)こそ戒行(かいぎやう)全きとも申べけれと、一兩日過て暇乞、いづくともなく立出ける故、夫も外々の人も扨/\珍らしき女哉とこれのみ咄しけるが、暫く程過て餘り遠からぬ所に、右女、髮結やうの者の妻と成て暮しけるとかや。曲輪より馴染約束の者にてありし故申合、かくはからひて夫に暇を貰ひ、右の密夫と夫婦と成しと也。實に傾城に誠なしといふ諺に引くらべ、恐しき女の手段と人の語りはべりき。
□やぶちゃん注
・「享保」西暦1716年から1735年。
・「田所町」現在の中央区日本橋堀留町のことか。大正13(1924)年に区画整理で隣接する長谷川町と合併して、この町名は現存しない。
・「名主」町名主。江戸の各町の民政責任者。
・「宿」本人の家を言う語。
・「勤」廓勤め。
・「染々(しみじみ)」は底本のルビ。
・「こわ成事」「こわ」はママ。
・「浮川竹」「浮き」は「憂き」に掛け、川の畔りに生えている竹の笹が川面を空しく流れ去る様から、無常薄幸の遊女の身の上や遊女を指して言う語である。
・「こわ難有」「こわ」はママ。
・「戒行」仏法の戒律を守って修行に励むこと。
・「傾城に誠なし」諺。遊女は客の金だけが目当て、思わせぶりや契りだ命だなんどと言っても口先だけのこと、その心に真実(まこと)はかけらもないものだ、という意。
■やぶちゃん現代語訳
傾城の悪だくみの事
享保年間のことであったか、田所町の名主が傾城を請け出して妻とし、偕老同穴の誓いを立てて暮らし始めた。
さても、この妻には傾城の頃から大切にし、嫁入り道具として持ち込んだ箪笥があった。その箪笥には、妻が朝夕必ず鍵をおろし、決して他人に手を触れさせぬ抽出があった。夫にさえ触れさせず、見るからに不審なる様子であったので、夫も、妻の元の勤めが勤めなだけに、何やらん傾城の頃に深く契った男にでも関わる一物か何かを隠しおるのではなかろうかと深く疑い、しつこくその中身を訊ねたのだが、妻は何かとはぐらかしては、ただ凝っと淋しそうに黙って夫を見つめているばかりであった。
ある日、遂に堪忍袋の尾が切れた名主は、妻に厳しく問い質した。
すると――妻は、溜め息を一つつくと、最早これまでといった風に、
「……ご不審ながら、今日までの所業……大金を以って妾(わらわ)を請け出し下しゃんした旦那さまのお気持ち……それを、ありがたきことと慮ってのことにてありんす……今、この抽出を開いて、お見せ致しゃんせば……旦那さまの妾へのお気持ち……それが、離れ離れていかしゃんすかと……それが恐(こ)おて……ずっとずっと、今の今まで、深く深く、包み隠いて致しゃんした……なれど……お疑いになられるとならば……お見せ申し上げ……致しゃんす……」
と、言うや、かちんと錠を外して、すうっとその抽出を抜き出いて――見せた――案に相違して、そこに入っていたものは――袈裟・衣鉢といった仏具一式――
夫は訳も分からず呆然とそれを眺めていたが、徐ろに、
「……これは……どういうことじゃ?……」
と妻に訊ねた。妻は、
「……されば……妾は遊女勤めの初めより、言い交わした人がおりやんした……憂き河竹と客の仲とは言え……供に死を誓うたほどに契りおうたに……(長き沈黙)……そのお方は……そのお方は、儚くも若こうして身罷りやんした……(再び長き沈黙)……その日から……その日から、私も出家致さんと心得やんした……やんしたが……親方に抱えられた、この身、己が自由にも成りがたく……上べは傾城の常なれば、媚びも売り、閨房の戯れも仕事と割り切り致いておりやんした……なれど……なれど、心は不断に出家浄身のことのみ思うて参ったので御座います……そうして……そうして、旦那さまに身請けして頂き……こうして妻として頂きますればこそ……これもまた、妾の身を……大金を払いて『売り買い』なさった……ことなればこそ……と思い……聊かもこのような妾の我儘なる心……表に出いては申し訳なきことと……」
と涙ながらに語った。話を聞いているうちに夫も思わず涙を誘われ、
「……さてもさても、何という貞節な女じゃ!……儂もこの辺りじゃ名の知れた男、今日只今、離縁遣わす故、思うがままに出家致すがよいぞ!」
ときっぱり、しかし優しく言い渡いた。妻は、
「――!――これは、何と有難きこと!……」
と涙に咽んで答える。それを見た夫は、付け加えて、
「儂も――大枚叩(はた)いて請け出いたそなたじゃが――そなたの心底には深く心打たれた。まいて、このような話を聞いておきながら、平然と己(おの)が妻としておくというのもすっきりせぬ。早々に菩提寺の僧を招く故、剃髪致すがよいぞ――」
と言い添えた。
「これはもう勿体なきこと……なれど、出家致しまするからには、最早……三界に家なし……今日只今より托鉢して露命を繋ぐ覚悟にてこそ……全き戒行の成就とは申しますれば――」
と夫の申し出を断り、そうして一日、二日しないうちに、夫に暇乞いをすると、何処(いずこ)ともなく立ち去って行った。――
夫は勿論、この話をその名主からを聞いた人々も、
――さてさて、今時、誠(まっこと)稀な、貞女じゃて。――
とばかり褒めそやしたという。
――が――
……暫くしてから、田所からそう遠くない所で、この女が、髪結いらしい男の妻となって暮らしていた、とかいうことであった……
廓時代から馴染みの、言い交わした男があって――いや、その男は死ぬどころか、髪結として(また下半身も)文字通り「ぴんぴん」していたわけだ――その男と密かに巧妙な作り話を拵え上げ、このように夫をうまく騙してまんまと離縁を引き出し、この男と目出度く夫婦になったというのが事実であったのだ。
――いやいや、誠(まっこと)、諺にも「傾城に誠なし」というが……はて、恐ろしき、女の手管じゃ!――
と私の知人が語って御座った。
僕は君の枕元で五月蠅くないように そうして 誰かに 訊かれないように 君の耳にだけ 鉦を打とう――
「耳嚢」に「不義には不義の禍ある事」を収載した。
*
不義に不義の禍ある事
餘程古き事にや。谷中邊一寺の住職、遊里へ入込、妓女に馴み右女を請出し、姪のよしを僞り、寺内に置ては旦家の思はくも如何と、門前の豆腐屋しける老夫婦方へ召連預置て、姪の事、外に世話いたし候者もなければと、晝は似気(にげ)なき故、夫婦へ賴よし申ければ、夫婦も御尤と他事(たじ)なく世話なしけるが、或日年頃三十斗の男來り、我等は當寺の和尚の甥なり、此度主人の在所より來り、妹は先頃より和尚へ賴、爰元にて世話いたし呉候由、段々辱(かたじけなき)旨にて肴代など少々差遣し、妹儀相應の事あり片付候間、今日同道いたし度(たし)と申ければ、豆腐屋もそれは宜(よろしき)事ながら、今日は和尚にも御留守の事故、申上候てと申ければ、女も兄に無相違(さうゐなし)と申、何しに和尚の我身を咎(とがめ)給ふべきと言て、急支度などいたし、右侍も段々の禮念頃に申、和尚留守なれど歸り給はゞ嘸(さぞ)悦申さん、遠からず禮に又々可參と言て女子を連て立歸りぬ。彼和尚歸りて後、豆腐屋夫婦寺へ行き、ケ様/\の事にてと始終を語りければ、和尚大きに驚き、或ひは怒り或は愁(うれひ)けれ共すべきやうなく、世話にありし悦び候事也といひし由。おかしきことなれば爰に記しぬ。
□やぶちゃん注
・「姪」本文中、和尚が偽ったのが伯父か叔父かは分からないので、とりあえず伯父で訳しておいた。
・「谷中」現在の台東区に残る地名。北は道灌山通り、西は不忍通り、南は上野の森に囲まれ、東は本郷に通じ、現在は山手線が走る。名は上野のお山と本郷台の谷間に位置することに由来する。江戸時代、上野に寛永寺が建てられると谷中に子院が次々と建てられ、幕府の政策(恐らく火除け地の形成のためか)により慶安年間(1648~1651)には神田方面の寺院が多く移転、更に明暦の大火(1657)の後は焼失した寺院がここへ移転して来た。それによって参詣客が増加し、門前の町屋も発達、本件当時は江戸の庶民の一大行楽地として機能する町ともなっていた(以上はウィキの「谷中」を参照した)。住職の破戒振りからは、こうした転居組の寺院の一つであろうか。
・「肴代」謝礼のお金という意味で用いているが、元来、武家では鰹節を戦時非常の食とし、結納の儀に包んだ(勝男武士の掛詞でもある)。ここではそうした伏線としても機能しているのかも知れない。
・「晝は似氣なき故」底本には右に注して『尊經閣本「寺似氣なき事故」』とある。「似氣なし」は、似合わない、相応しくない、の意であるから、この二つを合わせれば、「女が居っては、昼間に知らぬ参詣人が見れば、如何にも寺に相応しくない」といった意味である。真宗寺以外では、表向き僧の女犯は厳しく禁じられていた。折衷して訳した。
・「世話にありし悦び候事也といひし由」底本には右に注して『尊經閣本「世話に成しなとゝいゝしは」』(「世話になりし等言ひしは」で「いゝ」はママ)とある。この台詞は話柄のポイントである。現代語訳では発声への導入部と言い方にオリジナルな手を加えてある。
・「おかしき」ママ。
■やぶちゃん現代語訳
不義には不義の禍いがある事
余程、昔の話でもあろうか、谷中辺にある寺の住職、遊廓に入れ込み、馴染みの妓女が出来て、これを請け出し、自分の姪と偽り、流石に寺内に住まわせておくには檀家の手前もまずかろうと、門前で豆腐屋を営んでおった老夫婦の方に女を連れ行き、預けておくことにした。
「……これは、拙僧の姪で御座るが……今や、他に世話する者とてなく……かく申すとても……女犯(にょぼん)の仏法なれば、寺内に住まわせては、昼の間、訳知らぬ人なんど見給はば何かと誤解の種ともなろう程に……御夫婦方、どうか一つ、よろしゅうに……」
との申し出に、老夫婦も、尤もなことにて御座いますると、快く引き受けた。――
ある日のこと、年の頃、三十ばかりの侍風の男が、この豆腐屋にやって来た。
「拙者はこの寺の和尚の甥に御座る。この度は、主家の領地より参上致いた。先頃、妹儀、無理を申して伯父の和尚に頼み置きましたが、伯父より聞きましたところ、こちらで大層お世話頂いておる由、重々かたじけなきことと存知まする。」
旨申して、少しばかりの謝礼の金子など差し出だいて、
「いや実は、この度、この妹儀、拙者ども差配致いて、目出度く婚儀を迎うることと相成りまして御座る。急なことで御座れども、婚礼の余祝(よしゅく)の儀などもありますれば、今日、同道の上、御領地へと帰参致いたく存ずる。」
と言う。流石に豆腐屋の主人も、
「そりゃ、目出度きことじゃ!――なれど、今日は和尚さまもお留守のこと故、また改めてお出直しになられ、直接申し上げなさった上で……」
と言いかけたところが、主人の傍らに控えておった妹も、
「これは私の兄さまに相違御座りませぬ! 妾(わらわ)が婚儀のために伯父上の留守中に郷里に戻ったからとて、どうして和尚さまが、お爺さまをお咎めなさるなんどということが御座いましょうや。」
と、きっぱりとした口調で言うと、いそいそと旅支度など致し、その侍も重ね重ね丁重な礼を述べて、
「生憎、伯父和尚は留守で御座ったか――しかし、なればこそ、お帰りになった折りは、さぞかし妹婚儀決定(けつじょ)の事、お悦びになられるに相違御座らぬ――今日は急ぎまするが、近々、ゆるりと御礼方々参上致しますれば。」
とて、二人して深々と挨拶をすると、侍は妹を連れて足早に帰って行った。――
程なく、和尚が所用を済ませて帰って来たようなので、豆腐屋の夫婦は寺へ参り、留守中、かくかくしかじかのことあり、いや、目出度きことに御座る、と語る。
和尚は――内心、青天霹靂、驚天動地――その身の内にては、或いは腸(はらわた)が煮え繰り返り、或いは腸が一時に九廻するほどであった――じゃが、それをまた、表情に出すわけにも参らず――むぅおーっと赤くなったり、すうーっと青くなったりしながらも――唇を震わせながら、一言、
「……いや……姪……が……大層、世話に……うぁ、相、ぬあった……いや、ヒャアィッ! めで、たい、の! いや、めでたい、めでとぅあい、ぬゥおォツ!…………」
と言う外はなかった、とか。――
如何にも面白い話なので、ここに記した。
「耳嚢」に「山事の手段は人の非に乘ずる事」を収載。
*
山事の手段は人の非に乘ずる事
近き比の事とや、上總邊一寺の住職、公事(くじ)にて江戸表へ出けるが、破戒無慙(むざん)の惡僧にて、新吉原へ入込、金銀を遣ひ捨いかんともすべきやうなく、一旦在所へ歸りて旦中へ公事入用の由僞り、金銀才覺し或は什物(じふもつ)を質入して、金子貳三百兩持て猶江戸表へ出しが、又々傾城に打込、金子も遣ひ果し、詮方なく馬道(うまみち)の邊にて借屋をかり、右傾城の殘る年季を亡八(くつわ)へ渡して、金子少し差出し曲輪(くるわ)を出し妻となして一ケ月程暮しけるが、町内若者の伊勢講中間(なかま)へ入て、今年伊勢への代參に參り侯樣申けるを、品々辭退しけるが兎角可參旨故いなみ難く、初尾路銀などを請取て妻にかくと語りければ、留守の事はいかやうにもいたし可置儘、迷惑ながら行給へと答ふ。跡の事抔念頃に申置伊勢へ旅立ける。無程參宮共濟て立歸り見れば、我住し店(たな)にはあき店の札を張て女房の行衞も不知(しれず)。こはいかにと家主へ尋ければ、是はいかなる事ぞや、御身は出奔の由、町内へも女房より申斷(まうしことわり)、我等も其(それ)斷故、公儀へも訴、店受(たなうけ)何某(なにがし)へ妻并家財は引渡(ひきわたせし)旨に付、扨は女房勤の内より外に男ありてかくなしけると、頻に憤りて店受を尋しに、是又行衞しれざればいかにせん方もなく、空腹に成し故、田町の正直蕎麥へ立寄て蕎麥抔給(たべ)て、迚(とて)も疵持(もつ)足なれば、此上いづちへ行ん、入水して身を果しなん心躰(しんてい)爰に極りし折から、同じく蕎麥を喰居(くひゐ)たりし醫者樣の男、蕎麥やの下女を呼て、向ふに居たる男は身命今日に極りし相(さう)有と語りけるを、右女聞て、いか成事や仕出さん早くも歸れかしと心にて、何となく御身は甚不快に相見へ、色もあしく、あれに居給ふ人の申さるゝにも、御命甚危き由申され候間、早く歸りて養生なし給へと申ければ、彼男大に驚き、右醫師樣のおのこに申けるは、偖々御身は不思議の相人(さうにん)かな、成程我等かゝる譯にて身命を捨んと覺悟をいたせし事也と申ければ、只今捨ん命を何卒助りて世を渡る心ありやと申ければ、只今は何しに我も捨身(しやしん)を好むべきと答ふ。然らば我等方へ來り給へと、夫より並木邊彼醫師の宅へ召つれ、下男同樣にいたし置、或時申けるは、汝が妻の行衞尋たきや、左あらば某が思案ありとて、淺黄頭巾に伊達羽織を拵へ飴賣に仕立、元來出家なれば哥念佛を教へて、是を以江戸中賣歩行(あるけ)ば、定めて右女房を見出さざる事あるまじと申故、右の如くいたし歩行(あるき)けるが、
此飴賣は安永酉年の夏頃より翌成年迄
専ら御府内を賣歩行き流行せし也。其
樣浅黄頭巾に袖なし羽織を着し、日傘
に赤き切れを下げ、鉦を打ならし唄を
うたひ歩行し也。其歌當時の役者或ひ
は世の中の事など聲おかしく唄ひける。
文句色々ありといへども、其ひとつ二
ツは覺しまゝにしるす。
扱當世の立物は、仲藏幸四郎半四郎、
かわいの/\結綿や、御家の目玉はこ
わいだ、なまいだこわいだぶつ
或時麻布六本木にて我女房むかひの酒屋より出て外の家へ入り、又酒屋へ立歸りけるを見て早々宿に歸り、彼醫者に語りければ、さらば女房を取歸し候仕方もあるべしとて、日数十日程も過て、右醫者、今日こそ取計かたありとて右の者を供に連、糀町邊の裏屋にて格子作りの所の親分ともいふべき方に至り、何か對談しければ、大方此間の事も取極りたり、今日彼方へ罷越候べしと申ければ、心得し由右醫者念頃に挨拶して、麻布六本木彼酒屋の最寄に至り、商屋の鄽(みせ)を借りて、汝は少しの内爰に居るべし、押付(おつつけ)呼候はゞ早々來るべしといひて、彼醫師は酒屋に至り、居酒し給ふやは知らね共少々酒を給(たべ)度(たき)由申ければ、居酒はいたし不申由を申けるが、念頃に述て南鐐銀(なんれうぎん)一枚與へければ酒を出し、女房やうのもの酒を持出て酌などいたしける。彼醫師申けるは、御内儀に逢せ侯者ありとて呼ける時、女房驚き立入らんとせし袖をとらへ、右家來に向ひ、此女中にてあるべしと言しかば、成程無相違由を申ける故、女房も大に赤面したる躰にて勝手へ入ければ、彼是相應の禮を其夫へ對し取繕申越て歸りけるが、その二三日過て椛町の男両三人連にて罷越、扨々働き六本木の身上(しんしやう)を振(ふる)ひ、漸(やうやう)金子百兩調達せしと申ければ、右醫師金子を受取り、此間の骨折賃也とて貳拾兩椛町の者へ差遣、扨旦那寺を招き、急度(きつ)したる料理にて終日振舞などいたしける儘、此上いかゞいたし候やと彼男も思ひ居ければ、膳もとれ酒も濟て、扨彼男を呼出し旦那寺へ引合(ひきあはせ)、此者はかく/\の譯にて死んとせしを、助けたる者也。此度御弟子にいたし元の出家と致度間、今日剃髮なさしめ給へとて、湯よ髮剃よといひける故、彼男大きに驚き、我等一旦出家を落ちたる身の、いかなれば又出家すべき、女房も不取戻(とりもどさず)、今出家せよとはいかにと申ければ、さればとよ、汝出家を落(おち)、在家を欺きし科(とが)まぬかれん樣なし。一旦死を遁れしは莫大の恩に非(あらず)や。今又出家になれば少しは罪を助る道理也とて、難なく出家させ、扨此度汝が女房を奪取たる者より誤(あやまり)の申譯に金子差出し候へ共、此間右に付段々骨折し者へ差遣し、此度御寺へも金子廿兩差遣間、彼が罪障消滅をなし給はるべし、汝にも金子拾兩遣間得度(とくど)の入用ともすべし、残りは汝が食料(くひれう)其外入用に此方に留置也と申ける。右醫師はおそろしきしれもの也。かの再び出家せし男は、今は花川戸邊に徘徊して托鉢いたし居候となり。
□やぶちゃん注
・「山事」本来は森林や鉱山などの売り買いに関わることを言い、そこでは危険な賭けや怪しげな取引があるところから、投機的な事業や仕事のことを言うようになった。ここでは、そこから犯罪の意となった詐欺の謂いである。そうしたもろもろの「山事」を行うの者を「山師」と呼ぶのである。
・「公事」現在で言う民事訴訟。その審理や裁判をも含めて言う語。
・「旦中」岩波版では『旦那中』とある。旦那達。寺の檀家連中。
・「馬道」浅草寺の北東部を南北に走る通り。浅草から昔の吉原土手に向う馬道町のこと。現在は浅草2丁目及び花川戸1~2丁目に跨る馬道商店街となっている(一説には新吉原の客が馬で通った道に由来するとも言う)。
・「亡八(くつわ)」読みは底本にある。仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌の八徳を失った者若しくは八徳を忘れさせてしまうほど誘惑に満ちたものの意から、遊廓で遊ぶこと、その人、更には、女郎屋や差配する置屋、そうした屋の主人をも指した。「くつわ」という当て読みは、女郎屋やその主人を指す語。「くつわ」は「轡」で馬に手綱をつけるため口に嚙ませる金具で、主人を特定する意なら、遊女の束ねからの謂いであろうか。曲輪(くるわ:遊廓を堀や塀で囲ったことに由来)の転訛のようにも見える。
・「伊勢講」伊勢参宮を目的とした講(寺社への参詣・寄進を主目的に構成された地域の信者の互助団体。旅費を積み立て、籤で選んだ代表が交代で参詣出来るシステムをとった)。中世末から近世にかけて大山講(現神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社)や富士講と共に盛んに行われた。
・「初尾」初穂料。本来はその年最初に収穫し、神仏や権力者に差し出した穀物等の農作物を言う。後、その代わりとなる賽銭や金銭を言うようになる。
・「店受」近世、借家を借り受ける際の身元保証書の保証人に立つこと。または、その保証人を指す。店請。
・「田町の正直蕎麥」底本及び岩波版長谷川氏注釈によれば、「田町」は『新吉原の東方、日本堤の南浅草田町一・二丁目があった』(長谷川)が、「正直蕎麥」はここではなく、『浅草の北馬道町にあった蕎麦屋』(長谷川)で、『勘右衛門の蕎麦の名でも知られ』(鈴木)、先祖が『浅草境内に葦簀張りの店を出し、黒椀に生蕎麦を盛って戸板の上で売ったのが、安価で盛りがよいところから正直蕎麦の名をとって繁盛し、後に北馬道町の町屋に店を持った。寛保三年から、あく抜蕎麦を始め、文政八年当時は七代目であった』(鈴木)。岩波版注では、この田町は主人公の男の住んでいた馬道町の『すぐ北に当るので田町と誤った』(長谷川)、とする(寛保3年は西暦1746年で、筆者根岸鎮衛の生年は元文2(1737)年であるから、この男がたぐっているのは「あく抜蕎麦」なる新商品である)。但し、鈴木氏の注の文政8(1824)年『当時』という表現は誤解を生む。文政8(1824)年『当時』では筆者根岸鎮衛はとっくに死んでいる(筆者の没年は文化12(1815)年)し、本件記事について、正に鈴木氏の「耳嚢」著述年代推定によれば、この記事の下限は天明2(1782)年の春迄で、更に後に出てくる作中の飴売りの風俗が、その本文注(根岸自身によるもの)安永6(1777)年から翌年にかけての流行と書かれるのであってみれば、文政8(1824)年『当時』よりも有に46~47年から42年も前のことであるから、これは六代目であった可能性も示唆せねばなるまい。なお、徹底的に登場人物が騙し騙される本件にあって確信犯的に登場する「正直」という屋号であり、面白い仕掛けであると私は思う。訳では正しく「北馬道にある正直蕎麦」と補正して訳した。
・「給(たべ)て」のルビは底本にある。
・「心躰」底本には右に「(心底)」と注する。
・「いか成事や仕出さん早くも歸れかしと心にて」底本では末尾「と心」に右に「(の脱カ)」と注する。「いか成事や仕出さん早くも歸れかしとの心にて」。この医師は住居が並木町でもあり、正直蕎麦の常連であったのであろう。幾ら下女でも、医師風とは言え、初対面の客の忠告を真に受けて、即座にかく応対するとは思えない。
・「偖々」扨々。
・「並木」並木町。浅草雷門前を真っ直ぐに駒形へ南下する通りの両側の町名。
・「淺黄頭巾」緑がかった薄い藍色の投頭巾(なげずきん)。投頭巾は当時の飴売り等に特徴的なもので、袋状に四角に縫ったものを横に被り、余った部分を後ろへ折り返したものを言う。
・「伊達羽織」人込でも目立つ派手な文様や色の羽織を言う一般名詞。
・「安永酉年」安永6(1777)年。
・「唄念佛」歌念仏。江戸初期に伏鉦(ふせがね)を打ち鳴らして、念仏に節をつけて種々の歌や文句を歌い込んだ門付芸の一種。
・「文句」について底本注で鈴木氏は、ここで根岸が掲げた唄の歌詞は『最もまじめな文句といってよい』とし、実際には、かなり下世話な内容のものが主流であったことを窺わせる。なお、唄の訳の最後の念仏風の部分は私が勝手にそれらしい漢字を当てたものに過ぎず、何か意味があるわけではない。ご注意あれ。
・「立役者」一般には芝居の一座で中心となる売れっ子役者を言うが、江戸時代には特に歌舞伎の「名題役者」のことを言った。興行の際、劇場正面に掲げる看板の中で、特段に大きな一日の狂言総ての題名を記した大名題看板というものがあり、その上方に一座の主要な俳優たちの舞台姿を絵や人形で飾ったが、ここに載る俳優のことを名題役者若しくは略して名題と呼んだのである。立者。立役。
・「仲蔵」初代中村仲蔵(元文元(1736)年~寛政2(1790)年)。「名人仲蔵」と呼ばれた名優で、浪人(一説に渡し守)の子として生まれ、『門閥外から大看板となった立志伝中の』人物。『立役・敵役・女形』や『舞踊を得意とし』、『今日上演される「三番叟」は途絶えていたものを初代仲蔵が復元したもので』、他には「忠臣蔵」の定九郎、『「義経千本桜」の権太・「関の扉」の関兵衛・「戻籠」の次郎作などが当たり役』である(以上、主にウィキの「初代中村仲蔵」を参照した)。
・「幸四郎」四世松本幸四郎(元文2(1737)年~享和2(1802)年)四代目市川団十郎の若手俳優養成塾「修業講」での修練が評価され、宝暦12(1762)年に初代市川染五郎を襲名、安永元(1772)年、四代目松本幸四郎を襲名している。時代物・世話物を中心に多様な役をこなした実力派であった。『特に天川屋義兵衛、幡随院長兵衛などの男伊達や絹川谷蔵などの力士役を得意とした』が、『門閥外から幹部に出世するだけあってかなりの研究熱心で』あると同時に、『性格も強く、五代目市川團十郎ら出演者としばしば衝突した』。『とくに初代尾上菊五郎との確執は有名で、菊五郎が憤慨のあまり舞台で幸四郎に小道具を投げつけ観客に怒りの口上を述べ、怒った幸四郎が菊五郎につかみかかるほどの大騒ぎとなった。この事件を根に持って菊五郎は京に帰ってしまい、後年幸四郎が上方に客演した際は、上方劇壇から嫌味をいわれたという』とある。いい話だね。役者はこれくらいじゃなきゃ、だめよ(以上、ウィキの「松本幸四郎(4代目)」を参照した)。
・「半四郎」四代目岩井半四郎(延享4(1747)年~寛政12(1800)年)。女形の岩井家の基礎を築いた名優。江戸の人形遣辰松重三郎の子であったが、二代目松本幸四郎(後の四代目市川団十郎)門下となり、7歳で初舞台を踏んでいる。明和2(1765)年、岩井家養子となって四代目岩井半四郎を襲名した。丸顔の愛嬌のある女形で、「お多福半四郎」と呼ばれた。『生世話を得意とし、悪婆という役柄に先鞭をつけた人物としても有名』で、『江戸を代表する女形として高い人気を誇り』、この唄でも直ぐ後に並び出る、三代目瀬川菊之丞と人気を二分した。この二人は当時、『「女方の両横綱」と併称された』。(以上、ウィキの「岩井半四郎(4代目)」を参照した)。
・「かわいの/\結綿」三代目瀬川菊之丞(宝暦元(1751)年~文化7(1810)年)。女形。「結綿」(ゆいわた)はその紋所の名称。上方の出身で、日本舞踊市山流の初世市山七十郎の次男として生まれた。安永2(1773)年に江戸に下り、二代目瀬川菊之丞の門に入って瀬川富三郎と改名した。『二代目菊之丞の死後、その遺言により養子として三代目瀬川菊之丞を襲名』し、文化5(1808)年には女形ながら座頭となったほど、『人気・実力ともに江戸歌舞伎の最高峰として活躍』した。美貌にして口跡(こうせき:歌舞伎の台詞回しや声色を言う)も優れ、『世話物の娘役と傾城を得意とし、舞踊にも優れ』た(以上、ウィキの「瀬川菊之丞(3代目)」を参照した)。
・「御家の目玉」岩波版の長谷川氏の注では五代目市川団十郎(寛保元(1741)年~文化3(1806)年)を同定候補としている。生没年と先行する役者群と並べて見ても、この同定で正しいものと思われる。荒事での眼力等からの渾名であろうか。有名な東洲斎写楽の寛政6(1794)年作の市川鰕蔵(えびぞう=五代目市川団十郎)の『恋女房染分手綱』「竹村定之進」の絵でも、眼が特徴的で、一見忘れられない。『18世紀後半における江戸歌舞伎の黄金時代を作り上げた名優』である。二代目松本幸四郎の子で、宝暦4(1754)年に『父が四代目團十郎を襲名すると同時に三代目松本幸四郎を襲名。市川家の御曹司として名を売る一方で着実に実力を上げ』、宝暦7(1757)年、『江戸中村座で父が三代目市川海老蔵襲名を機に、五代目市川團十郎を襲名。『暫』を初代團十郎から累代伝来の衣装で勤める。父の死後は江戸歌舞伎の第一人者として君臨し、1791年(寛政3年)11月、江戸市村座において、市川蝦蔵を襲名したが、これは「父は海老蔵と称したが、おのれは謙遜して雑魚えびの蝦」と遠慮したものだった。同時に俳名を白猿とし、「白猿も祖父栢筵の音だけを取り、名人には毛が三本足らぬ」という口上を述ている。養子四代目海老蔵に、六代目市川團十郎の名跡を譲っ』て、引退したが、寛政11(1799)年に六代目市川団十郎が早世した翌寛政12年に『市村座で市川家元祖百年忌追善興行及び孫の五代目市川海老蔵の七代目市川團十郎襲名の口上とだんまりの大伴山主役』にて本格的な再復帰を果たし、享和元(1801)年の『河原崎座で三代目桜田治助作の『名歌徳三升玉垣』に般若五郎をつとめたのを最後に翌年引退』した。その所作は『細工をしないおおらかな芸風で、荒事の他、実悪、女形など様々な役柄をつとめ分け「東夷南蛮・北狗西戎・四夷八荒・天地乾坤」の間にある名人と評された。どんな役でもくさらず懸命につとめ、生活面も真面目で、多くの人たちから尊敬され「戯場の君子」とまで呼ばれた』(以上、ウィキの「市川団十郎(5代目)」を参照した)。
・「椛町」東京都千代田区の地名。古くは糀村(こうじむら)と呼ばれたと言われる。『徳川家康の江戸城入場後に城の西側の半蔵門から西へ延びる甲州道中(甲州街道)沿いに町人町が形成されるようになり』、それが麹町となった。現在残る地域よりも遥かに広大で、『半蔵門から順に一丁目から十三丁目まであった。このうち十丁目までが四谷見附の東側(内側)にあり、十一~十三丁目は外濠をはさんだ西側にあ』り、現在の新宿区の方まで及ぶものであった(以上はウィキの「麹町」を参照し、岩波版の長谷川氏の注を加味して作成した)。
・「鄽」店。店先。
・「給(たべ)度(たき)」のルビは底本にある。但し、それぞれの単語に分解して示した。
・「南鐐銀」南鐐二朱銀のこと。以下に記す通り、1両の1/8。『江戸時代に流通した銀貨の一種で、初期に発行された良質の二朱銀を指す。形状は長方形で、表面には「以南鐐八片換小判一兩」と明記されている。「南鐐」とは「南挺」とも呼ばれ、良質の灰吹銀、すなわち純銀という意味であり、実際に南鐐二朱銀の純度は98パーセントと当時としては極めて高いものであった』。明和9(1772年)年、『田沼意次の命を受けた勘定奉行の川井久敬の建策により創鋳される。寛政の改革時に一旦鋳造禁止されたが、程なく発行』再開されている(以上、ウィキの「南鐐二朱銀」を参照した)。
・「彼是相應の禮を其夫へ對し取繕申越て歸りける」この場面、夫も既に事実を知っているとした方が臨場感が出る(時間的な短さからは夫は何も知らない可能性も勿論あるが)。何をされるか、言い出されるかと、ビビりまくっている酒屋の主人を映像としてイメージした方が面白い。そのように訳した。
・「扨々」底本では「扨々(色々)」とあって、右側に「(尊經閣本)」と注する。この「色々」も訳で贅沢に使わせてもらった。
・「身上を振ひ」恐喝して財産を巻き上げ、金を振り出させる、ことを言うのであろう。
・「花川戸」現在の台東区東部、浅草寺東南の隅田川岸に沿った一帯の地名。かつては履物問屋街であった。南部は雷門通りに接し、西部は馬道通りに接する。故郷には帰れぬ男にとって、ここ浅草しか生きる場所はなかったのであろう。
■やぶちゃん現代語訳
詐欺の手練は相手の弱みにつけこむことにある事
最近のことであろう、上総辺りにある寺の住職が、寺の訴訟絡みの公事で江戸御府内へと上ったのだが、この男、途轍もない破戒無惨の悪僧で、江戸に着くや、公事はそっちのけで新吉原へくり込むと、そこの傾城に一目惚れ、訴訟に預かってきた金子をすっかり使い込んでしまい、すっからかんになって如何ともするなく、一旦、在所へ帰ると、檀家の者どもに、
「訴訟が長引き、預かった金子も使い果たいたが、今少し、勝訴には入り用じゃ。」
と偽り、巧妙に金子を集め、寺の宝物をも質入れして、金子二、三百両を持って江戸へ向かうと、またしてもかの傾城に入れ込み、あっという間に殆んど使い果たしてしまった。――
どうしようもなくなった結果、男は馬道(うまみち)辺りに家を借りて――辛くも手元に残った金は、その傾城の残った年季にはまるで足りなかったのだが――そこは同じ穴の狢の悪僧、亡八(くつわ)者同士、女郎屋の主人と丁丁発止の交渉の上、金子を少しばかり出いて、廓(くるわ)から請け出すと妻としたのであった。――
――さて、そうして暮らすこと、一と月ばかり後のことである。
その頃、男は、町内の若い衆で作った伊勢講に入っておったのだが、その連中から急に、
「今年の講中の伊勢への代参をよろしゅうお願い申す。」
と頼まれた。手元不如意にして新入り、未だ女房ももらったばかりなんどと、いろいろ理由を並べ立てて辞退しようとしたのだが、
「最早、籤(くじ)で決まったこと、兎も角も参宮してもらわねばなるまいよ。」
の一点張り、どうにも断り切れず、参宮の際の初穂料から道中の路銀も受け取ってしまった。
家に帰った男が妻にかくかくしかじかと愚痴をこぼすと、
「おまえさんが留守の間は、あちき一人のこと、どんなにしても暮らして行けますから、どうか難儀ながら、安心してお行きになって下しゃんせ。」
との応え。男は後の事など、いろいろ気を付けるよう、懇ろに女に言い置いて、まずは伊勢へと旅立ったのであった。――
――さて、やがて男は何事もなく無事、伊勢参宮を終えて江戸へ立ち返った――と、住んでおった店(たな)は『明きや』の札が貼られ、女房も行方知れず。これは一体如何なることか、と家主の家に駆け込んで訊いてみると……
「こりゃ、こっちが、『一体如何なることか』、ですよ! お前さんが講中の初穂と路銀を抱えたまんま、家を出奔致しましたとの由……町内の者どもへお前さんのお上さんから、相済まぬことと相成り申したとの由、申し出、あたしの所へも、そんな風に殊勝に頭を下げに来ましたからね……ご公儀へも訴え出て、店(たな)を貸した折りの保証人の、××という男に、お前のお上さんと、家財道具一切合財、引き渡しちまいましたよ……。」
とのこと。
「さては女房の野郎! もうせん、廓にいるうちから、ほかに好いた男がいたかッ――!」
と、怒り心頭に発し、保証人の××の住まうというところを尋ねてみたところが、これまた、行方知れずとなっておった……。
男はどうにも仕様がなくなり、腹も減ったから、北馬道にある正直蕎麦へ立ち寄り、蕎麦なんどを、たぐりながら、考えた――
『……もう、だめだ……こんな脛(すね)に傷持つ身じゃ……この上、どこへ行き場があるもんけ……身投げして果てるしかあんめえ……』
なんどと、心底ここに極まった、という面持ちで、たぐり上げた蕎麦を口元近くに揚げたまんま、ぶるぶると震わせていた――
と、近くの席で同じく蕎麦をたぐっていた医師風の男、その様子を凝っと見ておったのが、蕎麦屋の下女を呼んで、徐ろに、
「――向こうに座っておる男は身命(しんみょう)今日に極まれる相じゃ、な――」
下女はそれを聞くと血相を変え、
『――ここで死なれちゃあ、大変だし――確かに、あの男――えらく顔色、悪いわ!――死相の浮いた男なんぞ――おーっ! 桑原、桑原!――何を仕出かすか分かりゃしない!――面倒起される前に、さっさと早く出ってもらうが一番だわ!――』
とでも思ったものか、急いで当の死相男の卓に赴き、
「――お客さん――お前さん、何だかひどく気分悪そうだよ――顔色も滅法悪いしさ――言っちゃ、何だけどさ――あたいじゃないんだよ、あそこに座ってらっしゃる御仁が、おっしゃるには、だよ――お前さんの顔には、ね――『命の危険がアブナイ』って――感じが浮かんでるって、お言いなさんのさ――だからさ、早く帰って養生なさいまし、な――」
と声をかけた。
それを聞いた当の男は、これまた大層驚いて、その医師風の男の所におずおずと近寄る。そうして、
「……さてもさても、あなた様は、摩訶不思議の人相見であられる……仰る通り、拙者、只今、かくなる訳にて……身命を捨てんと致いておりました……」
と、かくなった仔細を含めて告白した。
一通り、男の話を聞き終えると、その医師体(てい)の男は、きっぱりと、
「――只今、一度は捨てんとした命――その命を自ずから助けて――今一度、世を渡らんとする心は、あるや!?――」
と男に訊ねた。男は、
「只今、かく有難き御仁にお逢い致し、お言葉を拝領した上は――今や、どうして拙者も軽々しく命を捨てんことを好みましょうや。」
と応える。されば、医師体の男、
「されば、私の方へ来られるがよい。」
と、並木通にあるこの医師の家へと召し連れられて行き、爾来、そこで下男同様に使われておった。――
――ある時、医師が男に言った。
「――お主は――先のお主の妻の行方――尋ねたくは、ないか?……ふむ、そうか?……されば、某(それがし)に少し考えがあるでの――」
そう言うと、医師は男のために、浅黄頭巾と伊達羽織を誂えて、彼を所謂、飴売りの体(てい)に仕立てると、元来お主は出家なればお手の物であろうと、かの飴売りに独特の歌念仏を教えた上、
「――この風体にて江戸市中を売り歩いたれば――その女房を見出すこと、必定ならん――」
と言う。そこで男は、言うがままに、飴売りとなって売り歩いた。すると……
この飴売りは、安永酉年の夏頃から翌
戌年迄、専ら江戸御府内を売り歩いて、
大いに流行ったものであった。その売
り姿は、浅黄頭巾に袖無しの羽織を着、
挿した日傘に赤い布切れをぶら下げ、
鉦を打ち鳴らしながら歌を歌うという
体(てい)のものであった。その歌は、
当時の歌舞伎役者や世間の出来事を面
白おかしく歌い込んだものであった。
その唄の文句はいろいろあったけれど
も、その内、一つ二つは覚えておるの
で、ここに記しておく。
さても当世の立役者
仲蔵 幸四郎 半四郎
可愛い可愛いは菊之丞
恐いは目玉の団十郎
恐畏陀
南無阿弥陀(なまいだ)
虚波畏仏(こはいだぶつ)
……するとある時、麻布六本木で飴売りをしていたところが、昔のあの女房が、男が飴を売っている道の向かいの酒屋から出て来て、他の家へと入り、また酒屋へと戻って行ったのを見た。男は即座に主家にとって帰すと、かの医師に目撃した事実を語った。すると、
「――そうか――遂に見出いたか――では――お主の女房を取り返す仕儀も、あろう程に――」
と言った。
それから十日程が過ぎたある日のこと、医師は、
「――今日、お主の女房を取り返すべき取り計らい方――出で来たり――」
と、男を連れて、麹町の裏通りにある格子戸を巡らした、如何にもいわく有り気な――所謂、その辺り一帯を取り仕切っている親分らしき――家へ至り、何やらん相談を始めた。
「――大方、話しゃ、つきやしたぜ――今日辺り、彼奴(きゃつ)のお店(たな)へお行きなさるがええ――」
という親分らしき男の最後の言葉に、医師は、
「――心得た――」
と、えらく丁重に礼を述べた。
そうして、その足で、二人して麻布六本木へ向かい、例の酒屋の近くにある商家の軒先をちょいと借りると、
「――お主は暫くの間、ここで待っておるがよい――まあ、追っ付け呼ぶ。呼んだら、直ぐに来るがよい――」
と男に言い含めて、医師自身は酒屋へと入って行った。――
医師は、酒屋に入ると、
「立ち飲みはしていなさらんかのう。いや、少しばかりでよいから呑ませて欲しいのじゃ。」
と言う。丁稚が、
「立ち飲みは致しておりませんです。」
と断った。すると、医師は懐から大枚銀1枚を取り出して丁稚に与えた。さすれば、丁稚から番頭、番頭から主人へ話が伝わり、早速に酒が出だされ、女房らしき女まで現れて、酌などさえし始めた。
――流石は元傾城よ――酌も手馴れて、愛想の笑みも堂に入ったものじゃ――
「時に。ご内儀。貴女に是非引き逢わせたい御仁がおりましてのう。」
と医師は徐ろに言うと、店先に出て、彼方の商家の軒先に佇んでいる男を呼び入れた。――
――入って来た男を見ると、女房は驚いて、小さく、あっ、と叫ぶや、家内(いえうち)に走り込もうとするのを、医師は素早く袖を捕え、かの家来の男に向かい、
「――この女に間違いないな?――」
と厳かに言う。
「誠(まっこと)相違御座らぬ!」
と瞋恚に燃えた眼で男が答える。
女房は言葉も出ず、医師が袖を離すや、ただただ顔を真っ赤にしたまま、奥へと走り去った。――
――それから――それから医師は酒屋の主を呼び出だすと、今、起こったことも知らぬ気に、
「普段なさらぬ立ち飲みをさせて戴き、また、嬉しきこと甚だしゅう御座った。」
と丁重な禮と、如何にも馬鹿丁寧な挨拶をして――体を震わせている「妻を取られた男」の手を引くと――泰然と――その足をがたつかせて立っているのがやっとの、青い顔をした「妻を取った男の」前を――辞したのであった。――
――それから二、三日が過ぎた。
例の麹町の親分が、子分を三人程連れて医師の家にやって来た。
「――さてもさても――いろいろと――やらかさせてもらいやした――例の六本木の身上(しんしょう)から――すっかり振り出さしてね――漸く金子百両ほどは調達しやしたぜ――」
と、親分は金子百両をぽんと差し出す。医師はそれを受け取ると、そこから、
「――この間(かん)のお骨折り賃に――」
と言って、二十両をさし返した。――
――さて、その日のことである。
医師は自身が檀家である寺の僧どもを招き、特に男も末席に召し出して、如何にも立派な料理を並べて終日豪勢な宴席の場と相成った。男は遠慮しいしい、ちびりちびりと酒を飲んでいたが、内心、
『……ご主人はこれからどうして下さるお積りなんじゃろう……何時になったら女房を取り返して下さるんじゃろう……飴売りにまで身を窶(やつ)して見つけたあいつじゃ……ともかくも取り戻さずば、諦めきれん……』
と思っている内、漸く膳も下げられ、酒も済んだ。――
――すると、医師は彼を自分の前に呼び寄せ、檀家寺の住職に引き合わせると、
「――この者は、先般、かくかくしかじかの訳を以て死なんとせしところを、私めが助命致いた者で御座る――この度は、貴僧の御弟子として、再び元の通りの出家と致したく存知候間、今日只今、剃髪の儀、成さしめ給え――」
と告げるや、僧どもは、話し半分、酔った勢いで、
「……そりゃ奇特な話じゃ!……ほりゃ! 湯、沸かしょう! 剃刀、持てこい!……」
と言い出したから、男は晴天の霹靂、
「(酔った僧どもに向かって大声で)あっしは……あっしは、その、一旦……その、僧から俗に、落ちた身で御座んして……そんな、都合よく……その、また出家出来ようなんて法は御座ろうはずもありませぬ!……(振り返って主家の医師に、小声で)それに、あっしの女房も取り返してくれず……(再び大声で)何で、今また出家せよ、とは! 殺生じゃ!……」
すると、医師は男の襟首をむんずと摑み――どこにこんな力が潜んでいるのやら、恐ろしくなるほどの強烈な臂力で自分の眼前に男を引きつけると――実に穏やかな、しかし、否とは言わせぬ響きを以って、
「――さればこそじゃ、な――お主は、破戒し、俗に落ちた――その在家(ざいけ)を欺いた仏法の大罪は、免れる法は、ない――一旦、死を遁れることが出来たは、そりゃもう、莫大な恩ではないか?――いや、それは、儂の恩では、ない――仏の、お慈悲じゃ――じゃて、のう、今また、出家となれば――いや、仏のお慈悲は無辺大じゃて、仏は必ず許さりょう――さすれば、少しは、その大罪より救われようという、もんじゃ、ないか――のう――あん?」
と凄んだ。
男はぶるっと来ると、思わず黙って相槌を打っていた。――
男の出家剃髪の儀は滞りなく済んだ。
医師は剃り跡も青々としたつるつる頭に、半べそをかいた顔をぶら下げた男の脇に、晴れ晴れしい笑顔を浮かべて連座すると、如何にも満足気に、ちらちらと男の金柑頭に眼を向けながら、声も高らかに、次のように述べて宴を締め括った。
「この度、そなたから妻を奪った不埒者からは、心より申し訳なきことと、慰謝料として金子を差し出だいて参ったので御座るが、この度の一件つきては、中に入って最も互いが傷つかぬよう配慮を致し、様々な骨折りをして呉れた者がおる。まずはその者に謝金を遣わしまして御座る。また、この度は、かく罪業深き者の、再度の出家剃髪の儀をお受け下さったお寺様には、金子二十両を差し上げ候故、屹度、この男の大いなる罪障の消滅をもなさしめ下さいまするものと存知ずる。――さても、お前様にも金子十両を遣わす故、出家得度の費用ともするがよいぞ――それで――まあ少しばかりの残りが御座るが――これは、今までのお前様の面倒を見るに掛かったところの、その、食費その他必要経費として、私の方に留め置いておくことと致す――よい、な――」
この医師、恐ろしいまでに悪知恵のきく曲者ではないか。
その、再び出家した男というのは、乞食坊主となって、今も花川戸辺りを徘徊しては托鉢致いて住まっておる、ということである。
万平ホテルに宿泊、芥川龍之介と片山廣子の密会を実地に検証して来た。近いうちに、その成果を公開する。――フランス料理攻めで、文字通り、フォアグラ状態になって帰還した――