耳嚢 諺歌の事
諺歌の事
或人予にかたりけるは、此頃世にあふ歌世にあわぬ歌とて人のみせ候由、懷にして來りぬ。此歌の心げにかくあるぺけれども、一概に信じけんは不實薄情のはし也。心ありて見給ふべし。
世にあふ歌
世にあふは左樣でござる御尤これは格別大事ないこと
世にあわぬ歌
世にあはじそふでござらぬ去ながら是は御無用先規(せんき)ない事
□やぶちゃん注
・「諺歌」「げんか」と読み、諺言戯歌のこと。諺を借りた当世流行の戯(ざ)れ歌。
・「世にあふ歌世にあわぬ歌」上手く世渡りするための歌と世渡り下手(べた)の歌。
・「世にあふは左樣でござる御尤これは格別大事ないこと」「ない」はママ。当時のこの口語表現が既にイ音便化していた証左としてこのまま示す。
やぶちゃんの通釈:
世の中を 上手に渡る その秘訣――「左様に御座いまする♡」「それはもう、ごもっともなことで♡」「これは誠(まっこと)結構なことで♡」「いや、全然、差し支え御座いませんです、はい♡」――
なお、底本で鈴木氏はこの歌に注して、老中田沼意次が幕政を主導して重商主義を敷いた時代(明和4(1767)年~天明6(1786)年までの約20年間)に『士風の頽廃ぶりを端的に示す好資料として、しばしば引用される』本諺歌に相似したものとして、以下を掲げている。
世の中は左樣で御座る御尤何と御座るかしかと存ぜぬ
これは通釈すれば、
世の中と 言うもの――「左様に御座いまする♡」「それはもう、ごもっともなことで♡」……「何と仰る! 理不尽な!」「そんなことは、まるで、存ぜぬ!」
といった、ここでの二つの諺歌のハイブリッドなものともとれるように思われるのは、私の錯覚か。
・「世にあはじそふでこざらぬ去ながら是は御無用先規ない事」「そふ」はママ。「左右」であるから、当時の口語化の変遷過程示すものではあるが、現代仮名遣としてもおかしく、分かり易くするためにも、現代語訳の和歌提示では正仮名遣に正した。「先規ない」もママであるが、これは当時のこの口語表現が既にイ音便化していた証左としてこのまま示す。「先規」は以前からのしきたり・決まり。先例の意。「せんぎ」とも読む。
やぶちゃんの通釈:
世渡りの 如何にも 下手なその例(ためし)――「そうでは御座らぬ!」「そうではあるが……しかし、ねぇ!」「いや、御気遣いは御無用!」「そんな先例は、ない!」――
■やぶちゃん現代語訳
戯れ歌の事
或る人が私に語ったこと――彼は、最近、「上手く世渡りするための歌」というのと「世渡り下手の歌」というのを、或る人から見せられたと言って、それを書いたものを実際に持参して来たのであるが――まあ、この歌の言わんとするところ、確かに……それはそれ……如何にもそうであろうとは思うけれども……これをまた……無批判に鵜呑みにして信じ込んでしまうというのも……これまた……不誠実にして義理人情を解さぬ冷血の極み、である。心してご覧あれかし。
上手く世渡りするための歌
世に合ふは左様で御座る御尤もこれは格別大事ない事
世渡り下手の歌
世に合はじさうで御座らぬ去りながら是は御無用先規(せんき)ない事
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「耳嚢」に「諺歌の事」を収載した。