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2009/11/17

耳嚢 烏丸光榮入道卜山の事

「耳嚢」に「烏丸光榮入道卜山の事」を収載した。人物考証をしたため、本文に比して注が異様に長い。

 烏丸光榮入道卜山の事

 光榮は和歌の聖ともいゝ侍りけるが、寶暦の此にや、親鸞上人大師號願ひの事にて、敕勘を蒙り蟄居ありしが、天明の帝御即位の御いわゐに勅免ありければ、

 思はずよ惠みの露の玉くしげふたゝび身にもかゝるべしとは

□やぶちゃん注

・「烏丸光榮入道卜山」人名の誤り。まず、烏丸光栄(からすまるみつひで 元禄2(1689)年~延享5(1748)年)は公卿にして歌人で、『烏丸宣定の子。正室は松平綱昌の娘。累進して、正二位内大臣に至る。なお、烏丸家で内大臣にまで至ったのは、この光榮だけである。号は、不昧真院。法名は、海院浄春。和歌を霊元天皇をはじめ中院通躬や武者小路実陰に師事した。また和歌の門下には有栖川宮職仁親王や桜町天皇がいる。また、三上藩主である遠藤胤忠にも古今伝授を授けた。』『優れた歌人であり、「栄葉和歌集」や「詠歌覚悟」などの著書がある』(ウィキ「烏丸光栄」より引用)のであるが、ここで語られているような事件には関わっていないし、「入道」でもないし、従って「卜山」(ぼくざん)という法号も持たない。従って、これは烏丸光栄ではない。「入道」であり、法号「卜山」であり、本文に類似したエピソードの持ち主であり、更に烏丸光栄と誤りそうな者としては、その光栄の子である烏丸光胤(からすまるみつたね 享保6(1721)年又は享保8(1723)年~安永9(1780)年)がいる。彼は清胤とも言い、宝暦101760)年に出家し「入道」となっており、その法名も「卜山」と言った。従二位権大納言であったが、宝暦事件に連座して厳しい処分を受けている。この宝暦事件とは(以下、ウィキ「宝暦事件」より引用)、

『江戸時代中期尊王論者が弾圧された最初の事件。首謀者と目された人物の名前から竹内式部一件(たけうちしきぶいっけん)とも』呼ばれる事件で、『桜町天皇から桃園天皇の時代(元文・寛保年間)、江戸幕府から朝廷運営の一切を任されていた摂関家は衰退の危機にあった。一条家以外の各家で若年の当主が相次ぎ、満足な運営が出来ない状況に陥ったからである。これに対して政務に関与できない他家、特に若い公家達の間で不満が高まりつつあった。』『その頃、徳大寺家の家臣で山崎闇斎の学説を奉じる竹内式部が、大義名分の立場から桃園天皇の近習である徳大寺公城をはじめ久我敏通・正親町三条公積・烏丸光胤・坊城俊逸・今出川公言・中院通雅・西洞院時名・高野隆古らに神書・儒書を講じた。幕府の専制と摂関家による朝廷支配に憤慨していたこれらの公家たちは侍講から天皇へ式部の学説を進講させた。やがて1756年(宝暦6年)には式部による桃園天皇への直接進講が実現する。』『これに対して朝幕関係の悪化を憂慮した時の関白一条道香は近衛内前・鷹司輔平・九条尚実と図って天皇近習7名(徳大寺・正親町三条・烏丸・坊城・中院・西洞院・高野)の追放を断行、ついで一条は公卿の武芸稽古を理由に1758年(宝暦8年)式部を京都所司代に告訴し、徳大寺など関係した公卿を罷免・永蟄居・謹慎に処した。一方、式部は京都所司代の審理を受け翌1759年(明暦9年)重追放に処せられた』

という事件である。岩波版長谷川氏注では、この事件よって烏丸光胤は官を止められた上、『安永七年(1778)に蟄居、同九年九月に没』していると記す。延々と引いたのは、これは本話柄と烏丸光胤は必ずしも一致しないからである。まず、この事件は本文にある「親鸞上人大師號願ひの事にて、敕勘を蒙り蟄居ありしが、天明の帝御即位の御いわゐに敕免あり」云々の事件とは、全く異なるという点(この事件については後注参照)、更に長谷川氏の記載を素直に読むならば、烏丸光胤は蟄居の果てに不遇の内に没したという記載と読んで問題ないと思われ、即ち、彼への勅許による復帰はなかったと読めるのである。但し、後注で示す通り、「天明の帝御即位」は安永8(1779)年11月、彼が死んだのがその5ヵ月後の安永9(1780)年4月なので、光胤が(例えば病態重く)「天明の帝御即位の御いわゐに」特に「勅免」を受けたと考えることは可能である。何れにせよ、事件内容が異なる以上、やはり本話の主人公を烏丸光胤と同定することは出来ない。さて、岩波版では(失礼なもの謂いをさせて戴くが)校注者である長谷川強氏が、勝手に、本文を「光胤」に『訂正』されている。しかし、以上述べてきたように本記載はその全体から見て、「光胤」とすることを『訂正』とは言い難い。私はそのままの状態で示すこととした。なお、底本で鈴木氏は『中山栄観の誤』とされている。この人物とその同定の是非については、次の「親鸞上人大師號願ひの事にて、敕勘を蒙り蟄居ありし」の注で考察する。

・「親鸞上人大師號願ひの事にて、勅勘を蒙り蟄居ありし」この事件はまずその首謀者松下烏石から説明する必要がある(以下、彼の事蹟については好古齋氏のHP中の「松下烏石」を参照した)。松下烏石(元禄121699)年~安永8年(1779)年)は書家として知られる人物で、本姓は葛山氏、烏石は号である。荻生徂徠の流れを受ける服部南郭門下の儒学者であったが、無頼放蕩を繰り返し、放埓にして問題のある性格の持ち主であった。晩年に京都に移ってから西本願寺門跡賓客となったが、丁度、宝暦111761)年が親鸞五百回忌に当たっており、それを受けて親鸞に対し朝廷から大師号を授けて戴けるよう、東西両本願寺が朝廷に願い出ていたが(陳情自体は宝暦41754)年より始まっていた。結局、この申請は却下される)、烏石は中山栄親・土御門泰邦・園基衡・高辻家長らの公家と謀り、西本願寺及びその関係者に、金を出せば大師号宣下が可能になるという話を持ち込み、多額の出資をさせた。ところがそれが虚偽であり、烏石が当該出資金を着服していたことが暴露告発されるに及び、上記公家連中が蟄居させられた。これが本文に言う「敕勘」事件である(烏石の処分は不明とされる)。そうすると本話のモデル候補としては、この連座した公家の中の一人と目されるので(名前に「烏」とか「山」とかの字があるから「烏丸光榮入道卜山」と間違える要素があるので松下烏石自身をそれに加えても良いように思われはするが、彼は有名な書家ではあったが、その華々しい不良履歴から「和歌の聖」と呼ばれたとは、到底、思われないし、彼の処分は「蟄居」であったかどうかは「不明」なのであるから――というより彼のような不行跡の輩に蟄居が効果的な処罰であったとは思われない――一応、この同定候補からは除去する)、各人の生没年を記しておくと、

中山栄親 (なるちか 宝永6(1709)年~明和8(1771)年)

土御門泰邦(やすくに 正徳元(1711)年~天明4(1784)年)陰陽家。杜撰な宝暦暦の編纂者。

園基衡  (もとひら 享保5(1720)年~寛政6(1794)年)華道家。

高辻家長 (いえなが 正徳5(1715)年~ 安永5(1776)年)

これに後述する安永8(1779)年11月の「天明の帝御即位」の縛りが掛かるため、それ以前に死んでいる底本で鈴木氏が同定している中山栄親は消去され、同様に高辻家長も消える。残る土御門泰邦・園基衡二人は、上記のように陰陽家と華道家としては知られているが、「和歌の聖」と呼ばれた事実はない。

因みに中山栄親の息子である中山愛親(なかやま なるちか 寛保元(1741)年~文化111814)年)は歌人として知られ、「耳嚢」巻之一の下限である天明2(1782)年に議奏となり、光格天皇に近侍、天皇の父閑院宮典仁(すけひと)親王に対し太上天皇号を宣下することに腐心したが、幕府はこれを認めず事態が紛糾(これを「尊号一件」という)、寛政5(1792)年、幕府の命により武家伝奏正親町公明(おおぎまちきんあき)と共に江戸に喚問されて、老中松平定信と対談釈明したが、閉門を命じられた。帰京したのち蟄居、議奏を罷免されている(以上は主にウィキの「中山愛親」を参照した)。如何にも本話のモデルの一人として挙げたい程魅力的人物であるのだが、やや時代が後ろにずれてしまい、無理がある。

結局のところ、

烏丸光榮入道卜山=烏丸光栄+烏丸光胤+中山栄親+α

という等式で示すしかない「烏丸光榮入道卜山」なる人物は、当時の都市伝説中の架空人物であった、というのが私の見解である。

・「天明の帝御即位」光格天皇(明和8(1771)年~天保111840)年)の即位のこと。即位は安永8(1779)年11月9日。

・「思はずよ惠みの露の玉くしげふたゝび身にもかゝるべしとは」「玉くしげ」は「ふた」の枕詞。「露」「玉」「かゝる」は縁語。もしかすると『此の「身」』は、『木の「実」』の掛詞か。

やぶちゃんの通釈:

思ってもみなかったことだ! 帝の御慈悲の恵みの露が、再び、この身に慈雨のごと降りかかってくるであろうなんどとは!

■やぶちゃん現代語訳

 烏丸光榮入道ト山の事

 光榮殿は和歌の聖とも称された人物で御座ったが、宝暦の頃のことであったか、親鸞上人五百回忌に関わる大師号の一件で勅勘を蒙り、蟄居の身であったのが、天明の帝光格天皇の御即位のお祝いとして大赦が御座った、その赦免状を受け取った折りに詠まれたという歌。

  思はずよ恵の露の玉櫛笥再び身にも懸かるべしとは

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