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2009/11/13

耳嚢 下わらびの事

「耳嚢」に「下わらびの事」を収載した。

 下わらびの事

 天明元の年夏の初、予が許へ來る自寛といへる翁、下わらびと記せし二三葉の書を見せけるに、面白き事故、直に其著をありの儘に左に記しぬ。伊奈氏半左衛門手代小川藤兵衛の妻は、何か言つのりて離縁し侍る。女房常に歌よみければかくなん、

  假初(かりそめ)のことの葉草に風立て露の此身のおき所なき

とよみてふすまに書付て歸りぬ。その頃旦那寺の僧は、麻布一向宗にて京都の人也。夫婦とも冷泉爲村卿へ心安く参りける。或夜御伽に出まいらせしに、此物語申上ければ、左程やさしき心ばへならば、いかではしたなき事のありしものをとの給ひしを、下りて藤兵衛に語りぬ。みじかき心を悔みて亦も呼返しぬ、女房はいか計忝く、又常に好める道の事なれば何とぞして御門入(ごもんいり)を願ひける。僧吹擧し侍れども、打咲み給ふ斗にて御免しなかりけるを、切に願ひ奉りければ、さればその女房を一目見し事はなけれども、まへに我言しは、歌を詠む程の者ならば、左のみはしたなき事はあらじものをと言より、呼返しけるとなん、わがけそうしたらんよりと、人の思はんも道におゐて勿躰なし。此女房にかぎりては三神(さんじん)をかけまいらせ弟子にしがたし、歌はいく度も見てとらすべしと仰られけるとぞ。恰も驚き、歸りて女房にいひ聞せければ、かゝる正しき御心まします御弟子に叶はざる事を深くなげき、明暮涙にむせびていつとなくやまふにつき、今はのときにいたりて筆をこひて、

  知る人もなき深山木の下わらびもゆとも誰(たれ)か折はやすべき

と書て身まかりぬ。かの僧上京して爲村卿へしかじかの事申上ければ憐を給ひて、

  今は世になき深山木の下わらびもへし煙の行衛しらずも

と御短冊御染筆ありて、猶も御香典精香二斤送らん、よきに手向よと下され、其女房に子なきやと御尋有ければ、ことし十ばかりにもなりなん女子壹人を侍るよし申上ぬ。歌はよみならはずやとねんごろに尋させ給ふにぞ、稚き故歌はよみ侍らず、去ながら母の子にて百人一首などは常に詠侍ると申上ければ、その女はわが弟子なるぞと、此段言聞せよと仰られしとぞ。僧もあまり忝きに衣の袖をしぼり、江戸に歸りて藤兵衛親子に言聞せ、又爲村卿の御弟子磯野丹波守政武のぬしへも語りしかば、たゞにさしおくべきにあらずとて、則其金子をもて位牌を作り、佛の事共委敷(くはしく)政武みづから書て彫しめ、彼寺に納め置ぬ。此事の始終りを育て下蕨と號するとぞ、政武のぬし物語ありしをあらまし書とめ侍る。

□やぶちゃん注

・「下わらび」下蕨(したわらび)。シダ植物門シダ綱シダ目コバノイシカグマ科ワラビ Pteridium aquilinum の、春から初夏にかけて萌え出でた葉の開いてない若芽を言う。ここでは「知る人もなき」目立たない小さな存在の比喩として示されるが、実際のワラビは、所謂、鬱蒼とした森林に植生することは少なく、どちらかと言えば、開けて日当たりの良い場所に生育し、大きな群落を作る点では「知る人もなき深山木の下わらびもゆ」という表現は、必ずしも的確とは言えない。

・「天明元」西暦1781年。辛丑(かのとうし)。この年は安永10年として始まるが、光格天皇の即位のため4月2日に天明元年に改元している。ここでは「夏」とあるので勿論、天明元年で正しい。根岸は当時、勘定吟味役であった。

・「自寛」不詳。僧号にも見えるが、であればそのように記すはずであるし、武士ならば当然、明記するはずであるから、これは当時、江戸に無数にいた町人身分の好事家の一人ではなかろうかと思われる。根岸の「耳嚢」の情報源の一人であったのだろう。

・「伊奈氏半左衛門」伊奈忠尊(いなただたか 明和元(1764)年~寛政6(1794)年)伊奈氏最期の関東郡代(郡代在位は1778年から1792年)。ウィキの「伊奈忠尊」によれば、まさに本件の記載時である『天明元年(1781年)織物糸綿改所の騒動を解決した。天明4年(1784年)勘定吟味役上座に就任しこれを兼任する。天明7年(1787年)5月に赤坂の20軒の米問屋の襲撃から始った江戸の打ち壊しは、本来なら江戸町奉行の管轄だが手に負えず、関東郡代である忠尊が各地から買い集めた米を江戸市中に大放出し、事態を収拾させた。天明の大飢饉で全国的な凶作であり買い付けはたいへんであったが、それを集められたのは伊奈氏の人気のほどを伺わせる』とあって、その才覚人望の程が知られる。しかし、その後は藩主後継に纏わる一部の家臣団との離反や幕閣との確執によって『寛政4年(1792年)39日、勤務中の不行跡、家中不取締りの罪で改易され、所領没収永蟄居』となり、2年後に『お預け先の南部内蔵頭の屋敷で31歳で没した』。

・「手代」は郡代や代官等の下役として農政を担当した下級官吏。出身は百姓・町人身分であった。

・「かりそめのことの葉草に風立ちて露のこの身のおき所なき」離縁申し渡しは、妻の何気ない一言を夫藤兵衛が曲解して激昂した結果というシチュエーションとして捉えて訳してみた。「妻は、何か言つのりて」というのは、「何気ない一言」でないようにも読めるが、ここは「夫が何か言つのりて(妻を)離縁し」たという捩れが示されていると読む。「大風」は勿論、夫の激昂、振り落とされた露は言わずもがな、離縁された妻である。

やぶちゃんの通釈:

 草――私のちょっとした言葉、その言の葉の草――に大風が吹きすさび、その草に置いたはかない露――の如き私――は、あっという間に振り落とされて……孤独なこの身は、最早……この世に置きどころとて御座いませぬ……

・「麻布一向宗」これは恐らく、現在の東京都港区元麻布にある麻布山善福寺派であることを称していると思われる。善福寺は天長元(824)年に弘法大師によって開かれた真言宗の寺院であったが、鎌倉時代、越後配流を許された親鸞聖人が立ち寄り、それを迎えた当時の住持了海上人(当時17歳)が親鸞に傾倒、一山を挙げて浄土真宗に改宗した。後のこの了海上人は真宗の関東六老僧に数えられる名僧となった。一向一揆の際の石山本願寺での織田信長と交戦の際にも、善福寺は籠城する僧に援軍を送っている(以上は麻布山善福寺のHPの「歴史のご紹介」を参照した)。但し、この書き方は、善福寺そのものではなく、その末寺であることを意味しているように思われる。

・「夫婦」その麻布一向宗善福寺派の「旦那寺の僧」夫婦である。真宗の僧はその宗旨から、江戸時代にあっても妻帯が許されていた。

・「冷泉爲村」(れいぜいためむら 正徳2(1712)年~ 安永3(1774(年)公家・歌人。歌道の宗匠家の一つである冷泉派歌道を家業として継承してきた冷泉家の中興の祖。享保6(1721)年に霊元上皇から古今伝授を受けている。宝暦9(1759)年、正三位権大納言。但し、この話柄の頃には既に落飾していた。歌集「冷泉為村卿家集」。

・「伽」退屈を慰めるために話し相手をすることを言う。

・「三神」和歌の道を守護する三柱の神。住吉明神・玉津島明神・柿本人麻呂、衣通姫(そとおりひめ)・柿本人麻呂・山部赤人など、名数には諸説がある。

・「知る人もなき深山木の下わらびもゆとも誰か折はやすべき」の「はやす」は「生やす」で、「切る」の忌み言葉であろう。折り千切るということである。勿論、それに「栄やす」(褒めそやす)の意を掛ける。

やぶちゃんの通釈:

 蕨……誰(たれ)一人として知る人とてない……深山(みやま)の奥の木の下に……小さな蕨が萌え出でたとて……それを……誰一人摘んで折り取っては――蕨の如き妾(わらわ)を褒めては――……下さらない――

・「今は世になき深山木の下わらびもへし煙の行衛しらずも」「萌えし」は「燃えし」を掛け、火葬の煙を引き出す。

やぶちゃんの通釈:

 今はもう消えてしまった蕨……深山(みやま)の奥の木の下に……萌え出でた可憐な蕨――そんな貴女(あなた)は、もう亡くなってしまわれた――その蕨を燃やした、その煙――鳥部山の煙――は、一体、何処へと消え去ってしまったのであろうか……

・「精香」薫香で線香のことを指すか、若しくは「精華」で弔花を指すか。とりあえず高価な御香ととっておいた。識者の御教授を乞う。

・「二斤」1斤=16両=160匁=約600gであるから、約1200g。但し、軽量対象によって換算が異なるようである。

・「磯野丹波守政武」(宝永3(1706)年~安永5(1776)年)八代将軍徳川吉宗の御小姓として知られ、御書院番・小納戸役・寄合(旗本寄合席の正式名称)などを歴任した人物であるが、同時に石野広通・萩原宗固らと共に江戸冷泉派を代表する歌人でもあった。この没年から判断すると、やや本話の真実性には疑義が生ずる。このヒロインは関東郡代であった「伊奈氏半左衛門手代小川藤兵衛の妻」となているが、伊奈忠尊の関東郡代就任は1778年のことで、この磯野政武が逝去した1776年には、未だ郡代となっていないのである。磯野政武が伊奈半左衛門郡代手代である小川藤兵衛の妻の噂を聞く、というのは有り得ないのである。何より、安永5(1776)年当時、伊奈半左衛門は未だ12歳なのである。

■やぶちゃん現代語訳

 物語「下蕨」の事

 天明元年、夏の初め、私の家をちょくちょく訪ねて来る自寛という老人が、「下(した)わらび」と題した二、三葉の書き物を私に見せた。なかなか趣きのあるよい物語だったので、その場で直ぐに、以下の通り、そのまま書き写した。その話。

   ――――――

伊奈半左衛門の手代であった小川藤兵衛は、ある時、何やらん自分の妻に激昂し、離縁を申し渡した。その妻という女は日頃、和歌に親しんでいたので、

  仮初めの言の葉草に風立ちて露のこの身の置き所なき

と詠むと、家の襖にそれを書き付けて、実家へと帰って行った。

 さて、夫藤兵衛の檀家寺の住職という人は、麻布一向宗善福寺派に属する京都の人であった。この僧夫婦はまた、共に冷泉為村卿と親しく、卿の屋敷にもよく参上していた。

 ある夜のこと、この僧が卿のお伽に参上致いた際、この物語を申し上げたところ、

「――それ程、優しき心映えなれば、如何にもその奥方には、はしたなきことなんどありゃしまへんやろに――」

とおっしゃられた。

 この僧が江戸に戻った際、この有り難い為村卿の御言葉を藤兵衛に語った。

 それを聞いた藤兵衛は自身の短慮を悔やんで、再び女を呼び戻して妻とした。

 その妻は為村卿の御言葉を誠にかたじけなきものと感じ入り、また、常日頃より好む歌の道のことなればとて、卑賤の身分ながら何卒、御門の末席にお入れ下さりたく、と願い出た。

 僧は身分違いとは存知ながらも、女の歌の上手なればこそと、その女のことを為村卿に推挙申し上げた。

 しかし、為村卿はただ微笑まれるばかりでお許しにはなられない。女を不憫に思うた僧が重ねて願い挙げ申し上げたところ、為村卿は、

「――されば、その奥方のこと、一目と逢(お)うたことはあらしまへん――なれど、先に麻呂(まろ)が言うた――『あのように美事な歌を詠む程の者なれば、そのように、はしたなきことなんどありゃしまへんやろに』――そう言うたがために――その御人が呼び戻いて復縁致いたとのことであらっしゃればこそ――もし、その奥方をお弟子に致いたれば――麻呂がそのお人の妻に、懸想致いておるなんどと、誰(たれ)彼に思われたり致いては――麻呂の――この歌の道を汚すこととなる――それは不都合なこと――されば、この奥方に限っては、三神にかけ参らせて、お弟子には、でけしまへん――なれど――歌は、何度でも見て上げようほどに――」

と仰られたとのであった。

 僧も、卿の、深い御深慮の上のその御言葉に深く打たれ、江戸に帰って後、藤兵衛妻にも、この御言葉を伝え、御弟子成らざる所以を、言い聞かせた。

 女は、しかし、却って、かかる正しき御心をお持ちにあらせられる方の、御弟子として頂くことが叶わぬとは、と深く嘆き、日々泣き暮らしているうち、程なく病みついて、みるみる重くなってゆき、遂に今際(いまわ)の際という折りに、筆を乞い、

  知る人もなき深山木(みやまぎ)の下蕨萌ゆとも誰(たれ)か折りはやすべき

と書き残して、身罷かったのであった――。

 後、かの僧が上洛致いた折り、為村卿へこうした次第を申し上げたところ、卿は深くお哀れみになられて、

  今は世になき深山木の下わらび萌えし煙(けぶり)の行くへ知らずも

とお詠みになり、薄墨にて御短冊に染められたのであった。

 為村卿は加えて、御香奠として高価な御香二斤をその僧に贈り下され、その際、

「――よろしくこれにて手向けと致さっしゃれ――それと――その奥方には、子は、ないか?」

とお尋ねになられた。僧が、

「今年十(とお)ばかりにもなる女子(おなご)が一人御座います。」

との由、申し上げたところ、為村卿は、

「――その子、歌は詠み習(なろ)うてはおらんのか?」

と仔細にお尋ねあらせられたので、僧が、

「流石に、幼(おさの)う御座いますれば未だ歌は詠みおりませんぬ。然りながら、この母の子にてありますれば、百人一首などは、よう詠んで御座いまする。」

と申し上げたところ、卿は即座に、

「――その女子(おなご)は麻呂の弟子なるぞ、と――これ、よく言い聞かすがよい――」

と仰せられたとのことである。

 僧もあまりのかたじけなさに衣の袖を絞る程に心打たれ、江戸に帰ると、藤兵衛親子にこのことを伝え、言い聞かせたのであった。

 さてもまた、当時、江戸にあって為村卿の御弟子であった磯野丹波守政武殿へも、たまたまこの僧がこの話を致いたところが、政武殿は、

「それは聞き捨てておく話では、これ、御座らぬ。」

と、直ちにに小川藤兵衛方を訪ね、身銭を切って、その亡妻の位牌を造らせ、更に件(くだん)のことを政武殿自ら詳しく書き執って位牌の裏に彫らせて、かの僧の寺に納め置いた。

――この一部始終を筆録致し、「下蕨」という題を附けた、と政武殿が徒然の夜話の中で語って御座ったことを、あらまし、書き止めたものに御座る。

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