耳嚢 紀州治貞公賢德の事
「耳嚢」に「紀州治貞公賢德の事」を収載した。
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紀州治貞公賢德の事
紀州公いまだ左京大夫にてまします頃、甚慈悲深く下々を惠み給ひしが、輕き中間(ちゆうげん)共迄も右仁慈を難有思ひけるや、何卒御厚恩を報じ奉らんも輕き者にて何も御奉公の筋なし、日々厩にて入用の沓(くつ)御買上の分を隙々(ひまひま)に拵へて獻ずべきと頭役(かしらやく)へ願ひし故、頭役より上聞に達しければ、下々の心付奇特に感じ給ひ、左(さ)あらば右沓を可上(あぐべし)、しかし是迄何程に調ひ侯哉(や)と糺(ただし)ありて、縱令(たとへ)ば今迄十錢の沓ならば八錢は中間共にとらせ候ても是迄より益なるべし、殘り貳錢の内を是迄沓の入口(くちいれ)いたし候者急に助成(じよせい)にはなれ候ては難儀の道理故、少し宛(づづ)とらせ候樣にと被仰付ける由、面白き事也。右紀州公は平日木綿織の夜具を用ひ給ひける故、御先例も無之、甚しきの至りと老臣の輩欺き諌けるが、これは儉約にあらず、養生の爲なれば此儘可差置との仰故、自然と泊り番に出る者も木綿夜具を用ひ、自(おのづから)しつそを守りけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:紀伊和歌山藩第9代藩主徳川治貞倹約のエピソードの続き。なお、岩波版長谷川氏注によれば、「三省録」一に所収されており、その出典は「耳嚢」とあるそうである。「三省録」は前項注を参照。
・「紀州公いまだ左京大夫」前項「當紀州公は左京大夫たりし頃」注参照。
・「中間」脇差一つを挿すことが許され、日常は武家の雑用をこなすが、戦時は戦闘要員の一人と見なされる。大名行列等では奴(やっこ)を務めた。「渡り中間」という語に示されるように、一時限りの契約奉公の場合が多かった(ウィキの「武家奉公人」による)。
・「厩にて入用の沓」これは馬に履かせる草鞋(わらじ)を言う。現在は馬の蹄(ひずめ)を保護するために蹄鉄を打つが、これは明治以降に普及したもので、それ以前は「馬の沓(くつ)」と称した草鞋を馬に履かせて蹄の保護や滑り止めとして用いた(「日本はきもの博物館」のHPの「はきものコレクション展・草鞋類」による。このページで牛馬用草鞋の現物が見られる)。
・「助成にはなれ」顧客が消えて商売の助勢がなくなる、商売上がったり、の意であろう。
■やぶちゃん現代語訳
紀州治貞公の賢徳の事
紀州治貞公が未だ左京大夫であられた頃のこと、公は甚だ慈悲深く、下々の者にさえ、厚く慈愛を施されておられたが、至って身分の低い中間どもまでもが、その公の慈雨の如き慈愛を有難く思ったのであろう、
「……我等、何卒、日頃の御厚恩に報い奉らんと思うも、余りに身分軽(かろ)き者にてあれば、御奉公致すべき何ものも御座いませぬ――されば、日頃、厩にて用いておりましたところの馬の沓――これは今まで作られたものを買い入れておりましたのですが――この沓を、せめて皆で、仕事の暇々に拵え、献上致したく存知上げ奉りまする……」
と、上役に願い出た。
その頭役より公の御耳に達したところ、公は下々の者の心遣いを殊の外お喜びになられ、
「されば、早速に、その沓献上の儀、有難く受けようではないか。……しかし、さて、……これまでは、その馬の沓、如何程にて買い入れておったのかのう?」
と、頭役に問い質され、
「……たとえばじゃ、今まで、十銭で買い入れておった沓ならばじゃ、……その買い入れておった代金の内の八銭は、その拵えて呉れよった、その中間どもに手間料としてとらせたとしても、誰もがこれまでより、より豊かな生活を送れる。……さて、その残り二銭じゃが、……これは、これまで馬の沓を入れておった商人(あきんど)に――急に顧客がなくなってしまったのでは商売上がったり、難儀なこと明白にて――暫くの間、恵み、とらせるように。」
と仰せ付けられたということ――誠に面白いことにて御座る。
また、この紀州公は、いつも木綿織の夜具をお召しになっておられたため、
「御先例もこれ御座らねば、御みすぼらしき御姿にて、余りに御見苦しき至りにて御座る!」
なんどと、老臣どもが、こればかりは藩主の御面体(めんてい)に関わることと、頻りに嘆きお諫め申し上げたのであるが、公は、
「これは倹約ではない。健康のために好きでしておることじゃ。うるさいこと言わんと、捨て置くがよいぞ。」
ととぼけたように仰せられたのであった。
その後、自ずと、公のお傍に宿直(とのい)の番で勤仕(ごんし)する者も、木綿の夜具を用いるようになって、誰もが質素を心懸けるようになった、ということである。