耳嚢 柳生但馬守心法は澤庵の弟子たる事
「耳嚢」に「柳生但馬守心法は澤庵の弟子たる事」を収載した。
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柳生但馬守心法は澤庵の弟子たる事
柳生但馬守門前へ托鉢の僧來りて劍術稽古の音を聞、大概には聞けれど、御師範などゝは事おかしと嘲りけるに、門番咎侍れば聊不取合。但馬守へ斯と告けるに、早々其僧呼入よとて座敷へ通し對面いたし、御身出家なるが劍術の業心懸しと見へたり、何流を學び給ふやと尋ねければ、彼僧答て、御身は天下の御師範たる由ながら劍術は下手也、流儀といふは劍術の極意にあらず、劍を遣ふも何か流儀かあらんと笑ひし。柳生もさるものと思ひて、然らば立合見られよと有ければ、心へし由にて稽古場にいたり、但馬守木刀を持て、御僧は何をか持給ふと尋ければ、某(それがし)出家なれば何をか持べき、すみやかに何を以成(もつてなり)と打すへ給へと稽古場の眞中に立居たり。但馬守も不埒成事を申もの哉と思ひながら、いざといふて打懸らんと思ひしが、右僧のありさま、中々打ちかゝらばいかやうにか手ごめにも可成(なるべき)程に思われければ、流石に但馬守、木刀を下に置拜謁し、誠に御身は智識道德の人也、心法(しんぽふ)の修行をこそ教へ給へかしとひたすら望みければ、彼僧も、劍術におゐては普(あまね)く御身に續く者なしと稱し、互に極意を契りけると也。右僧後に但馬守より申上、大樹家光公へ昵近(ぢつこん)せし東海寺開山澤庵和尚なり。
□やぶちゃん注
・「柳生但馬守」柳生宗矩(むねのり 元亀2(1571)年~正保3(1646)年)大名にして柳生新陰流(江戸柳生)を不動のものとした名剣術家。徳川将軍家剣術師範役。大和国柳生藩初代藩主。永禄8(1565)年に新陰流開祖上泉信綱(かみいずみのぶつな)から新陰流の印可状を伝えられた大和国柳生領主柳生石舟斎宗厳(むねよし)の五男であった。家康に仕え、29歳の時の関ヶ原の戦いでも武功があった。慶長6(1601)年に後の二代将軍秀忠の剣術師範役となり、三代将軍家光にも剣術師範役として仕えた。慶長20(1615)年の大坂の役にあっては将軍秀忠に従軍、秀忠の元に迫った豊臣方7人を斬り捨てたという(宗矩が人を斬ったという事実記録はこの一件のみとも言う)。寛永6(1629)年、従五位下に叙位され、但馬守となろ、寛永9(1632)年には諸大名監察権を持つ初代幕府惣目付(大目付)に就任、寛永13(1636)年に一万石の大名となり、大和国柳生藩を立藩した。本記事に現れたように剣術の極意として禅宗の教えを取り入れた『活人剣』『剣禅一致』の思想を唱え、人の道としての武道を創始したと言い得る。柳生家伝書「兵法家伝書」に示されたそれは、後の「葉隠」の思想にも影響を与えている。記事の最後に示された通り、友人の禅僧沢庵宗彭(後注参照)と共に、特に家光の厚い信頼を受けた(以上は主にウィキの「柳生宗矩」を参照した。
・「心法」仏教用語で、一切のものを心(しん:非実体としての真(まこと)。精神。)と色(しき:五感によって認識し得る物質・肉体・存在物。物。)とに分ける際の心。心の働きや心の在り方を総称する語。心王。また、そこから広く心や精神面の修練法・修養法という意にも用いる。ここでは仏教的な奥義としての意で用いている。従って西洋哲学の概念である「精神」とか「精神面」と言った訳を用いず、そのままの「心法」を用いた。「しんぼふ(しんぼう)」とも読む。
・「澤庵」江戸前期の臨済宗の名僧澤庵宗彭(たくあんそうほう 天正元(1573)年~正保2(1646)年)のこと。かつて住持をした大徳寺での紫衣(しえ)事件(後水尾天皇が幕府に無断で紫衣着用の勅許を下したこと)に関わって抗議を行い、出羽に流罪となる。その後、二代将軍秀忠の死去に伴う大赦で赦され、家康のブレーンで、後の秀忠・家光にまで仕えた謎の天台僧南光坊天海や柳生宗矩から噂を聞いていた家光の深い帰依を受けて、萬松山東海寺を草創した(前掲の「萬年石の事」を参照)。書画・詩文・茶道にも通じ、祐筆家でもあった。柳生宗矩の『活人剣』『剣禅一致』の思想は沢庵に負うところが大きい。
・「思われければ」ママ。
・「互に極意を契りける」この「互に」は「相互に」という意味ではやや奇異な感じがする。勿論、沢庵和尚が禅の心法を宗矩に、宗矩が剣術の精神論の核心を沢庵和尚に伝授する、というのも禅の世界にあっては、決しておかしな謂いではないのだが、そのような禅の境地まで認識して根岸がこの語を用いているようには(彼に失礼乍ら)、思われない。寧ろこれはここに瞬時にして生じた相対する二人の新しい関係、『沢庵という師と宗矩という弟子の関係の中で』という意味であろう。そうして「極意を契りける」というのは、正しい仏法を正しく、師から弟子へと伝えるように、正に『剣禅一致』といった仏道と剣道の融合した境地の極意を、伝えることを契った、という意味であろう。そこで現代語訳では、正しい仏法を師から弟子へと代々伝えることを意味する「血脈」(けちみゃく)という語を用いた。
・「大樹」将軍又は征夷大将軍の異称。「後漢書」の馮異(ひょうい)伝に、馮異という将軍は戦場にあって諸将が武功を誇っている折にも、独り大樹の木の下に下がって、功を誇らなかった真の武将であった、という故事に基づく。ここでは家光を指す。
・「昵近」昵懇。親しいこと。心安いこと。「入魂」とも。国訓である。岩波版は「じつきん」のルビを振るが、採らない。
・「東海寺」萬松山(ばんしょうざん)東海寺。現在の東京都品川区にある臨済宗大徳寺派寺院。寛永16(1639年)年に徳川家光が沢庵宗彭を招聘して創建した。当時、徳川家菩提寺兼別荘相当の格式であった(前掲の「萬年石の事」を参照)。
■やぶちゃん現代語訳
柳生但馬守はその心法に於いて沢庵和尚の弟子であるという事
柳生但馬守宗矩の屋敷の門前を一人の僧が通りかかり、そこでふっと立ち止まって、撃剣の稽古の音を聞くや、
「――そこそこの使い手ではある――しかし、この程度で御師範なんどとは、しゃらくさいわい――」
それを聞いた門番、聞き捨てならぬその物言いに、これを咎めたのじゃが、この僧、一向にとり合わない。憤慨した門番が、直ちに但馬守へこれこれと注進に及んだところ、但馬守は、
「直ちにその僧を屋敷に呼び入れよ。」
と命じ、僧を座敷へ通し、対面致いた。但馬守は丁重に挨拶を交わすと、
「さて、御身は御出家の御様子乍ら、剣の術を修行なされたものとお見受け致す。さても、何流を学ばれたか?」
と訊ねた。すると僧は、乱暴な口調で、
「――御身は天下の御師範役と聞いておるがの――、しかし、なんとまあ、剣術は下手、よ。――何流か、じゃと? 流儀なんどというものは剣術の極意では、ない。――剣を遣うに、何の流儀が、いるものか!――」
と言い放った。但馬守、聊かカチンと来た。
「しからば、一手御立ち合い願いたい。」
と申し入れた。僧はきっぱりと、
「――心得た。――」
と受けると、但馬守と共に稽古場に赴いた。
但馬守、木刀を取り、
「御坊は、何をお持ちになられるか。」
と訊ねたところ、
「――某(それがし)は出家の身じゃ――。何を持つか?――何も持つべきものなど、ない!――速やかに、何を以ってなりと――この我を打ち据えなさるがよい!――」
と言い捨てて、稽古場の真ん中に――両手をゆったりと広げて、大股に――すくっと立った。――
流石の但馬守も、内心、
……ふざけたことを申す坊主じゃ!……
と憤って、一気に撃ち懸かってやろうと、木刀を上段に構えた……。
……が……
……打ち込めぬ!……
……どうしても!……打ち込めぬ!……
その僧の立ち姿を前にした但馬守には、
……どう打ち込んだとしても……その瞬間……如何(どう)にかして――その如何(どう)にかが何であるかが分からぬのだが――ともかく如何(どう)にかして……打ち返され……間違いなく……間違いなく、負ける!――
という確信の直覚が走った。
ここに至って、流石の但馬守も、即座に木刀を床に置くと、平伏して、
「誠(まっこと)御身は知識道徳の御仁なり! どうか、拙者に、その心法(しんぽう)の修行をこそお教え下さいまし!」
と、只管(ひたすら)、額を床に擦り付けて懇請した。
するとかの僧は、しゃがみこんで優しく、
「――剣術に於いては――この世広しと雖も――後にも前(さき)にも――そなたに続く者は、おらん――」
彼を褒め讃え、但馬守に、その禅の極意を伝授する血脈(けちみゃく)を即座に与えたという。
この僧こそが、後に但馬守宗矩より御注進御推挙の上、大樹家光公に近しくなられた、かの東海寺開山の沢庵和尚その人なのであった。

