片山廣子 しろき猫 或いは 「――廣子さん、狐になって、彼のところへお行きなさい――」
片山廣子 49歳 昭和2(1927)年11月
雑誌「令女界」第6巻第11号掲載の廣子の全和歌
しろき猫
坂路のわか葉の中にかぜふきて鸚鵡のさけぶ聲するゆふかた
どくだみの花多くあるがけのうへの二階の障子やぶれてあるかな
りん鳴りていづこの門かあくらしきわがひとりあるくほそみちの闇に
しろき猫くらき芝生をすぐるとき立ちどまりてわれを見たるやうに思ふ
小窓あけ夜中の庭の樹のうへに一つ星のまばたくを見たり
あけがたの雨ふる庭をみてゐたり遠くに人の死ぬともしらず
輕井沢にて
霧のまく土手のうへの木にさまざまの小鳥あつまりて聲々に鳴けり
こころよくここに寝て死にたし風つよき碓氷のうへのくま笹のやま
*
……白い猫でも黒い猫でも……廣子にとっては「彼」である……ここに現れた星も、「あの」時と同じマアルス、である……
……「彼」の犬嫌いは頓に知られているが、殊の外、猫好きであったことは余り知られているとは思われない……片山廣子「黑猫」を読まれるがよい……
……あけがたの雨ふる庭をみてゐたり遠くに人の死ぬともしらず……
……この歌は本誌掲載から遡ること、3箇月前、昭和2(1927)年8月8日附の片山廣子の山川柳子宛書簡に、歌の後に「七月二十四日朝のこと」と記して初出する……私の「片山廣子琴線抄」を参照されよ……
……あけがたの雨ふる庭をみてゐたり遠くに人の死ぬともしらず……
……これは昭和2(1927)年7月24日早朝に自死した「彼」への挽歌なのであってみれば……それを最後に配した「しろき猫」歌群は全体が「彼」へのオードであるとしなくては不自然である……
……更に言うならば、「彼」へのオードである歌群に、無関係な歌を合わせて寄稿するような無神経な廣子ではない……そのオードの余韻を微かに響き返すような効果として、続く「輕井沢にて」は読まれることを「秘かに」期待している……
……この年の夏……「彼」の死んだ直後の夏……この年はひどく暑かったのだ……廣子は恐らく例年通り、軽井沢に避暑に行ったに違いない……しかし、そこには永遠に「彼」は来ない……重なり合った深い霧の中、人気はない……野鳥のさえずりが聴こえるだけ……しかし、この表面上は濃い霧の中のさまざまの小鳥の声を伝える叙景の一首、一首として切り離しても私には朗らかに響いては来ぬ……小鳥だけが聴覚の天然色を示しながら……あくまで眼前は乳を流した如き孤独なモノクロームの情景である……そしてその小鳥たちは「何の鳥だ」かは分からないのである……「あの」時の思い出の、碓氷峠の鳥のように……『何處からか彼は小さなまるい眼を光らして私』『を見てゐるのだらうと思つた』……そう「私たち」ではなく……独りぼっちの私を……
……その心象風景が次の歌へとカット・バックする……あの思い出の碓氷峠……それは誰もが知っている「あの」では、ない……あの、「五月と六月」に廣子が描いた、秘密「あの」思い出の碓氷峠……彼女が、「彼」の前で狐になり……不思議な花びらが『たつた五六片、私たちの顏の前をすつと流れて谿の上に』散った――「廣子さん、あれは、貴女と「彼」のときじくの花だったのですよ」(これはこのブログを記している僕が碓氷峠の上で彼女に語りかける台詞である)――
……しかし……廣子は……もう独りだ……強い風……ときじくの花びらは、もう散らない……ここなら……ここなら、こころよく寝て……死ねる……死にたい……「彼」との思い出の、この場所なら……碓氷峠の上の……熊笹の山の……その奥へ……生死を抱きとめる、彼女の愛したアイルランドの神話の自然のように……それが彼女を抱きとめてくれるであろう…………「廣子さん、行きなさい、狐になって、「彼」の元へ……」(これもこのブログを記している僕が碓氷峠の上で彼女にかけるコーダである)
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この歌群は廣子の歌集には一首も採られていない。従って、読まれる機会も少ない。しかし、これは廣子の和歌の中で、どうしても銘記されなくてはならぬ歌であると、僕は思うのである――
(底本は月曜社2006年刊片山廣子/松村みね子「短歌集+資料編 野に住みて」の短歌のパートの「拾遺」301p所収のものを用いたが、表記は恣意的に正字に直してある。)