耳嚢 爲廣塚の事
「耳嚢」に「爲廣塚の事」を収載した。
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爲廣塚の事
加賀能登の境に、冷泉爲廣の歌塚といへるもの有し由。左に記す。
季世爾殘牟 爲廣塚加能 跡動無建碑
如斯して歌に詠み侍れば、
末の世に殘さんがため廣塚の跡動ぎなく建るいし文
□やぶちゃん注
・「爲廣塚」現存する。「石川県津幡町オフィシャルサイト」の「文化財・観光」のページに以下のように記されている。これによれば、旧来あった場所は冷泉為広の墳墓であったことが分かる。
■為広塚(清水)
昭和38(1963)年5月10日 津幡町文化財指定
為広塚は入道前大納言贈一品冷泉為広卿の塚である。
為広は冷泉家(藤原道長の六男長家に始まり、平安末から鎌倉期の代表的歌人俊成、定家を先祖に持つ和歌の家)五代為冨卿の長男として生まれ、義竹軒と号し、定家流の書で知られた。
当時、京都では細川氏が勢力をはり、その難を避けるために、親しくしていた七尾城主畠山左衛門尉の館に身を寄せ、大永6(1526)年、77歳で生涯を閉じた。
寛延の頃(1750年前後)、清水八幡神社のそばにあった広塚と呼ばれるところを俳人河合見風らが調査考証した結果、冷泉為広の墓であることを明らかにした。そのことを子孫の為村が聞き、明和2(1765)年霜月二十八日、加賀藩の重臣前田土佐守直躬(なおみ)や見風とはかり、石碑を建立した。
塚のそばには五層石塔や塔守屋敷があったといわれ、里人らは、塔屋敷、広塚などと呼び親しんでいたそうである。
昭和43(1963)年、周囲の環境変化により津幡小学校前庭へ移転した。
引用に際し、西暦表示の位置を移動し、一部表記を省略・変更、句読点・読みを増やした。
・「冷泉爲廣」(れいぜいためひろ 宝徳2(1450)年- 大永6(1526)年)室町時代の公卿にして歌人。冷泉家(上冷泉家)当主。永正3(1506)年に権大納言、民部卿に就任したが、永正5(1508)年に大内義興(よしおき)の前将軍義植(よしたね)復権工作で第十一代将軍足利義澄が将軍職を追われると同時に出家、宗清と号した。能登の守護職であった畠山義元と極めて親しく、能登に永く在国、能登で逝去したとも言われる。歌集に「為広卿集」「為広詠草」等(以上は主にウィキの「冷泉為広」を参照した)。
・「季世爾殘牟 爲廣塚加能 跡動無建碑」すべてひらがなで読み下せば、
すゑのよにのこさむが ためひろつかの あとゆるぎなくたつるいしふみ
である。通釈すれば、
――後々の世までも、我が為広の名を残さんが為に、この広い塚を、この加賀と能登の国境(くにざかい)の――越中との境の彼方には石動(いするぎ)があるが――その永遠に動(ゆる)がぬ石の印として、建立する、この碑(いしぶみ)を――
といった感じか。「殘牟爲廣塚」(残さむが為広塚)で「残すための広い塚」と本名「為広」とが、「塚加能」(塚の)の特殊仮名遣に「塚の」と「加賀・能登」の国境を、「跡動無建碑」(跡動ぎなき建つる碑)に「永遠に動(ゆる)がぬ石の印として建立する碑」と「ゆるがぬ石」の「動」と「石ぶみ」から越中との国境倶梨伽羅峠の越中側の地名である「石動」をも掛けているものと思われる。もう少し何かが仕掛けられているようにも思われるが、和歌に暗い私には修辞技巧の解剖はそこまでである。通釈も「我が為広の名を残さんが為に」という部分が私にはやや不審ではある。識者の御教授を願う。
■やぶちゃん現代語訳
為広塚の事
加賀と能登の国境(くにざかい)に、冷泉為広の歌塚と言い伝えるものがあるとのことである。伝え聞いた碑文を左に記しておく。
季世爾殘牟 爲廣塚加能 跡動無建碑
このように漢字で書かれているもので、試みに、これを和歌として詠んで御座ったれば、
末の世に 残さむが為 広塚の 跡動ぎなく 建つる碑(いしぶみ)
となろう。