耳囊 小刀銘の事
「耳嚢」に「小刀銘の事」を収載した。
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小刀銘の事
大石良雄小刀の由、喜多伴五郞とて鎗術の指南をなせる者所持いたせるを見たる由、柘植(つげ)長州物語也。木束(きづか)の小刀にて銘彫左の通。
萬山不重君恩重 一髮不輕我命輕
右の句、良雄親彫付て良雄にあたへしを、良雄所持して報仇(ほうきう)の後に泉嶽寺へ納しを、伴五郞申受て今に所持せると也。自然に内藏助長雄志を勵す父が遺筆、暗に通じけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:藩主酒井忠貫の下、若狭小浜藩が「家中とも身上相應に暮し」ていたように、土地も豊かで百姓も豊かに暮らしていた播磨国赤穂藩に、降って湧いた元禄赤穂事件であった。
・「大石良雄」御存知「忠臣蔵」播磨国赤穂藩筆頭家老大石内蔵助良雄(よしお 又は よしたか 万治2(1659)年~元禄16(1703)年3月20日)。討ち入りは元禄15(1702)年12月14日であるから、本「耳嚢」巻之一記載の下限である天明2(1782)年迄は、実に80年が経過していることになる。
・「喜多伴五郞」不詳。
・「柘植長州」柘植長門守正寔(まさたね 生没年未詳)岩波版長谷川氏の注によれば、宝暦元(1751)年『十七歳で家を継ぎ、目付・佐渡奉行・長崎奉行』(安永4(1775)年~天明3(1783)年)・『勘定奉行など』を歴任したとある。在任期間と、本「耳嚢」巻之一記載の下限である天明2(1782)年を考え合わせると、これは彼が長崎奉行にあった折りのことと考えてよいか。
・「萬山不重君恩重 一髮不輕我命輕」
やぶちゃんの訓読:
萬山(ばんざん) 重からずして 君恩は重し
一髪 輕(かろ)からずして 我が命は輕し
やぶちゃんの通釈:
万重(ばんちょう)の山など 重くない 何より重いもの それは主君の恩寵
一筋の髪など 軽くない 何より軽いもの それは主君に捧ぐる我が命(いのち)
・「良雄親」大石良昭(よしあき 寛永17(1640)年~延宝元(1673)年)のこと。以下、ウィキの「大石良昭」によれば、赤穂藩浅野家筆頭家老の大石内蔵助良欽(よしたか 元和4(1618)年~延宝5(1677)年)は)の嫡男。万治2(1659)年に長男である後の大石内蔵助良雄が誕生している。『父の死後には赤穂藩の筆頭家老になるはずだったが、赤穂藩の大坂屋敷に勤めていた延宝元年(1673年)9月6日に父良欽に先立って同地で死去してしま』い、『良昭は家督前に没してしまったため、良昭の長男である良雄は良欽の養嗣子となって大石家の家督を継ぐことにな』ったとある(この時、大石14歳。この叙述から言えば、「親」は養父にして祖父である大石良欽の可能性もないとは言えない)。
・「泉嶽寺」泉岳寺。曹洞宗。現在、東京都港区高輪にあるが、慶長17(1612)年に徳川家康が創建した際には外桜田にあった。寛永18(1741)年の寛永の大火で焼失、三代将軍家光の命により現在の高輪の地に再建されたものである。主君仇討ちを果たした義士一行は吉良邸を出た後、直ちに主君浅野内匠頭墓所がある泉岳寺に赴き、墓前に吉良上野介首級を供えて、本懐を遂げたことを報じた。後に切腹を申し渡された彼等赤穂義士46名もここに葬られた。以上引用は主にウィキの「泉岳寺」に拠ったが、そこには『義士の討ち入り後、当時の住職が義士の所持品を売り払って収益を得たことに世間の批判が集まり、あわててこれらの品を買い戻しに走ったことがある』という記述があり、この引用元については『勝部真長1994『日本人的心情の回帰点 忠臣蔵と日本人』(PHP研究所)p.169-73 - 当時の住職、酬山の強欲振りとそれに対する社会から向けられた批判について詳しい記述あり』と記載する。正にこの折りに流出した品と考えてよいか。
■やぶちゃん現代語訳
小刀の銘の事
大石良雄の小刀(さすが)と称するものを、喜多伴五郎と言う、槍術の指南をしている者が所持致いておるのを見たことがあるという――柘植長門守正寔(まさたね)殿の話である。
純木製の柄(つか)の小刀で、銘が彫られており、それは次の通り。
万山重からず君恩重し 一髪軽からず我が命軽し
この句は、この小刀に良雄の父親自らが彫りつけ、良雄に直(ぢか)に与えたもので、良雄はこれを所持して仇討ちを遂げた。その後(のち)、彼はこれを泉岳寺に納めた。それをかの喜多伴五郎が貰い受け、今に所持しておる、とのことであった。これは玄妙にも時空を超えて、自然、内蔵助の内なる誠の志しを励ます父の遺志が、内蔵助のあの事蹟に、美事、暗に伝わったものと、言えるのである。
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