耳嚢 池田多治見が妻和歌の事
「耳嚢」に「池田多治見が妻和歌の事」を収載した。
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池田多治見が妻和歌の事
備前の家士池田多治見が妻は坊城大納言の妹也しが、常に菊を好作りけるに、或時夫の心に不叶事やありけん、離縁を申出ければ其妻かくなん、
身の程はしらでわかるゝ宿ながらあと榮え行千代の白菊
と詠けるを、其友たる者聞て、夫に背き憤る心にてはかくは詠むまじきとて、多治見が短き心を諌め、元のごとく夫婦と成榮えけると也。
□やぶちゃん注
・「備前」備前国岡山藩(現・岡山県岡山市)。「耳嚢 巻之一」の下限は天明2(1782)年春までであるので、本話時の藩主は池田治政(寛延3(1750)年~文政元(1819)年 藩主在位:明和元(1764)年~寛政6(1794)年)であったと考えてよい。下限から遡ること、18年前までが治世でカバーできるからである(因みに治政が藩主に就いた寛延3(1750)年では根岸は未だ27歳である)。
・「家士」岡山藩藩士。
・「坊城大納言」坊城家は鎌倉末期に創設された藤原氏北家高藤流勧修寺庶流で、岩波版長谷川氏注では、従一位権大納言であった坊城家14代俊清(としきよ 寛文7(1667)年~寛保3(1743)年)、若しくは正二位前権大納言であった15代俊将(としまさ 元禄12(1699)年~寛延2(1749)年)か、とする。俊清は12代俊広の子で、姉か妹がいた。俊将は勧修寺尹隆(かじゅうじただたか:藤原氏北家高藤流甘露寺支流)の子で、やはり姉か妹がいたことまでは確認出来た。
・「身の程はしらでわかるゝ宿ながらあと榮え行千代の白菊」「しらで」と「白菊(しらぎく)」の掛詞以外は、鈍感なために歌の好さがよく分からない。識者の御教授を乞う。
やぶちゃんの通釈:
身のほども弁えぬことを成して……御勘気を受け、お別れせねばならぬ我が家……けれど、けれど、ただ一つ願うことは……後に残してゆく純白の菊の花、その全き白とともに……永遠に池田の家が栄える続けますように――。
■やぶちゃん現代語訳
池田多治見の妻の和歌の事
備前の家士、池田多治見殿の妻は坊城大納言卿の妹であり、日頃、菊作りを好んでいたのだが、ある時、夫に何やらんひどく気に入らぬことがあったのか、妻に離縁を言い渡した。妻は、家を出る折り、
身の程は 知らで別るる 宿ながら あと栄え行く 千代の白菊
という歌を詠んで去ったという。
後日、この歌を治見殿の友人が聞き、
「夫に背き反感を抱いているような下種の女心にては、このように素直な歌は詠めまいぞ――」
と多治見殿の短慮を諌めた。多治見殿も己が誤りを認めて、元通りに復縁致し、後々まで幸せに暮らした、ということである。

