耳嚢 柳生家門番の事
「耳嚢」に「柳生家門番の事」を収載した。
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柳生家門番の事
或時但馬守の方へ澤庵來りけるに、門番所に一首の偈(げ)あり。
蒼海魚龍住、山林禽獸家、六十六國、無所入小身
右の通張てあり。面白き文句ながら末の句に病ありと澤庵口ずさみければ、門番申けるは、聊病なし、某が句也と答ぬ。澤庵驚きいかなる者と段々尋けるに、朝鮮の人にて本國を奔命して日本に渡り、但馬守方門番をなし居たる也。但馬守聞て、何ぞ身を入るに所なき事や有ると貳百石給り、侍に取立ける由。今に柳生家に右の子孫ありとかや。
□やぶちゃん注
・「但馬守」柳生宗矩。前項「柳生但馬守心法は澤庵の弟子たる事」注参照。
・「澤庵」澤庵宗彭。前項「柳生但馬守心法は澤庵の弟子たる事」注参照。
・「偈」(サンスクリット語“gaathaa”ガータの漢訳語)は仏教にあって本来は、仏の教えやその徳を韻文形式で述べたものを指す。中国や日本では特に禅僧が悟達の境地を同様の韻文形式で述べたものをこう呼ぶ。『中国の偈は押韻しているのが普通であるが、日本人の詩偈と呼ぶ儀式に使用される法語には破格のものも多い』(以上はウィキの「偈」を参照した)。
・「病」文芸作品に於ける修辞学上の欠点。この場合は、沢庵にとって大袈裟に感じられた意味内容とも取れるし、もっと感覚的に、日本語で読んだ沢庵が、日本語の漢詩表現として奇異なものを感じたか、若しくは中国音での平仄押韻上の疑義を感じたかのようにも受け取れる。訳ではそこを誤魔化して「難」と訳した。
・「蒼海魚龍住、山林禽獸家、六十六國、無所入小身」訓読すれば「蒼海に魚龍住み、山林は禽獸の家、六十六國、小身を入るる所無し。」である。これは通釈すれば「大海に魚や竜は住み、山林は獣らの棲家――しかし、この広い日本にこの小さな私の、この身の置きどころとて、ない――」といった感じである。
■やぶちゃん現代語訳
柳生家の門番の事
ある時、柳生但馬守の屋敷を沢庵が訪れた際、門番の詰所に一首の偈が掲げられておった。
蒼海魚竜住 蒼海に魚龍住み
山林禽獣家 山林は禽獣の家
六十六国 六十六国
無所入小身 小身を入るる所無し
と書いて張ってある。それを眺めながら、沢庵は、
「――なかなか面白い偈じゃ――但し、末の句に、聊か難があるな――」
と沢庵が独り言をつぶやいていると、門番がそれを聞き咎めて、
「いや。難など、ない。私の創った句だから。」
沢庵は――かく巧みな偈を門番如きが創ろうとは――と驚いて、
「お前は何者か。」
と、いろいろ話を聞き質いてみたところが、実はこの門番、朝鮮の者で、本国から亡命して日本に渡り、縁あって但馬守方の門番を致いておるという次第。
さてもその日、沢庵和尚に対面し、この話を聞いた但馬守は、
「どうしてどうして――身の置きどころとてない――なんどということは、ない――」
と、この門番の男に二百石を与え、侍に取り立てたという。
今もなお、柳生家にはその子孫が伺候しておる、とのことである。

