耳嚢 儉約を守る歌の事
「耳嚢」に「儉約を守る歌の事」を収載した。
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儉約を守る歌の事
當紀州公は左京大夫たりし頃より、文武に長じ賢德の聞へありけるに、天明元の夏紀州公御歌の由人の咄けるに、難有事と思ひける儘、虚實は不知とも書留めぬ。
人馬もち武器を用意し勤の役儀をかくまじと思はゞ儉約を守
るべし。其儉約の仕方は我身の不足を堪忍すろ事を知るべし。
事たれば足るに任せて事足らずたらず事足る身こそ安けれ
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を認めないが、先行する人事と和歌の道義的話柄や武士の家訓系話柄の流れに位置づけることが出来、特に違和感はない。
・「當紀州公は左京大夫たりし頃」紀伊和歌山藩第9代藩主徳川治貞(享保13(1728)年~寛政元(1789)年)のこと。以下、ウィキの「徳川治貞」から引用すると、『和歌山藩の第6代藩主徳川宗直の次男として生まれ』たが、『寛保元年(1741年)に紀州藩の支藩である伊予国西条藩の第4代藩主・松平頼邑の養子となり、名を松平頼淳(まつだいら よりあつ)と改める。宝暦3年(1753年)に西条藩の第5代藩主とな』ったが、『安永4年(1775年)2月3日、紀州藩の第8代藩主・徳川重倫が隠居すると、わずか5歳の岩千代(後の第10代藩主・徳川治寶)に代わって重倫の養子となって藩主となり、名を治貞と改める。なお、西条藩主は甥の松平頼謙が継いだ。』紀州の出であった八代将軍徳川吉宗『の享保の改革にならって、藩政改革を行ない、紀州藩の財政再建に貢献している。主に倹約政策などを重視した』。『名君の誉れ高い熊本藩第8代藩主・細川重賢と並び「紀州の麒麟、肥後の鳳凰」と賞された名君で、紀麟公と呼ばれ』、ここに記されているように『紀州藩の財政を再建するため、自ら綿服と粗食を望んだ。冬には火鉢の数を制限するまでして、死去するまでに10万両の蓄えを築いたという。このことから、「倹約殿様」ともいわれる』のだそうである。同記載の官職位階履歴によれば、彼が「左京大夫」であったのは、宝暦3(1753)年に西條藩主となったその年の8月4日から安永4(1775)年2月3日に紀州藩主となった(この時、当時の第十代将軍徳川家治の諱の一字を賜って松平頼淳から徳川治貞と改名した)その2月22日、従三位、参議に補任されて右近衛権中将を兼任するまでの23年間となる。治貞(正しくは頼淳)、25~48歳の砌ということになる。
・「天明元」西暦1781年。
・「事たれば足るに任せて事足らずたらず事足る身こそ安けれ」諸注に「三省録」四に水戸光圀の戒めの歌として載る、とする。「三省録」は天保14年版行された志賀理助(りじょ:理斉とも)著の随筆。同書の千葉大図書館の書誌によれば、『衣、食、住の三つは人間が生きていく上で、必要不可欠のものである。たとえば衣服は元来寒暑をふせぎ膚をあらわにせぬを以て礼とするもの、また分限相応のものを着用するのが正しいとし、松平定信の改革を遵奉して本書を著わしたことが判る。当時の著作物を引用し著者の見解をつけ加えて論評し』たもの、とある。なお、詞書はブラウザの不具合を考えて底本と同じ一行字数で改行した。
やぶちゃんの通釈:
それで何とか 間に合ったなら そこで満足するがよい 足りないところが あったとしても 足りないことにも十全に 満足出来る者ならば その身は永劫安泰じゃ
■やぶちゃん現代語訳
倹約を守る歌の事
当世の紀州公は、左京太夫であられた頃より、文武両道に長ずるばかりでなく、その賢明にして徳高きこと、御評判であられたが、天明元年の夏に、その紀州公の御歌であるという歌を、人が話すのを耳にした。貴(とおと)くもったいないことと思うにつれて、……いや、やや、眉唾か……何度とも思われ……さればこそ、その真偽の程は分からぬが、とりあえず書き留めておいた。
人馬及び武具を用意して、鎮護国家の勤仕(ごんし)の役分
を欠くことなく成さんと思うのであれば、何よりもまず倹約
を守らねばならぬ。その倹約の仕方とは何か?――それは、
自分には「何が欠けているか」「何が足らないか」……自分
が「何を持っていないか」ということを十全に認識し、――
そのことに、ひたすら――「堪える」という事を「知る」こ
とと言えよう。
事たれば足るに任せて事足らずたらず事足る身こそ安けれ
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