耳嚢 傾城奸計の事
「耳嚢」に「傾城奸計の事」を収載した。
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傾城奸計の事
享保の此にや、田所町の名主、傾城を請出して宿の妻となし偕老の語ひ成しけるが、彼妻常に手馴し箪笥に朝夕錠をおろし人に手かけさせざる引出しあり。夫にも深く隱しける樣子故、夫も元來勤(つとめ)の事故、深く疑ひ色々尋けれども、事に寄て染々(しみじみ)答へざりければ、彌々疑ひてせちに尋ければ、彼妻無據(よんどころなき)さまにて申けるは、大金を以我身を請出し給ふ御身の心を慰んとの事なれ、今引出しを見せ申さんには、御心の慰も薄くあらん事を恐れ深く包みけるが、疑ひ給はゞ見せ奉らんと引出し取出して見せけるに、案に相違して袈裟衣鉢等の佛具也。夫大きに驚きて、こわいか成事と尋ければ、さればとよ、我身事、勤の初より馴染し男ありしが、浮川竹(うきかはたけ)の中ながら倶に死を誓ひし程に契りたりしに、右男はかなくも壯年にて身まかりけるゆへ、其日より我身も出家と心得けれど、親方抱の身なればまゝにも成難く、表は傾城の常なれば笑ひを賣、閨房の戲れを事にし侍れど、心は出家淨身の專らとせしが、御身請出し妻とし給へば、是又大金に我身を賣し事なれば、聊此内心を色目にあらはさずと泪ながらに語りければ、夫も涙を催して、扨々奇特(きどく)成(ばる)女哉(かな)、我も名の知れたる男也と粹(いき)自慢の心より、暇を遣すまゝ出家得道いたすべしとありければ、こわ難有(ありがたし)と涙にむせび悦びしが、我も大金にて受出せし汝なれ共、汝が心底をも感じ、且は右の咄を聞ては妻となして面白からず、早々菩提所をまねき剃髮いたすべしとありければ、こは勿躰なき事哉、出家するならば三界に家なし、今日より托鉢して露命をつなぎ申(まうす)こそ戒行(かいぎやう)全きとも申べけれと、一兩日過て暇乞、いづくともなく立出ける故、夫も外々の人も扨/\珍らしき女哉とこれのみ咄しけるが、暫く程過て餘り遠からぬ所に、右女、髮結やうの者の妻と成て暮しけるとかや。曲輪より馴染約束の者にてありし故申合、かくはからひて夫に暇を貰ひ、右の密夫と夫婦と成しと也。實に傾城に誠なしといふ諺に引くらべ、恐しき女の手段と人の語りはべりき。
□やぶちゃん注
・「享保」西暦1716年から1735年。
・「田所町」現在の中央区日本橋堀留町のことか。大正13(1924)年に区画整理で隣接する長谷川町と合併して、この町名は現存しない。
・「名主」町名主。江戸の各町の民政責任者。
・「宿」本人の家を言う語。
・「勤」廓勤め。
・「染々(しみじみ)」は底本のルビ。
・「こわ成事」「こわ」はママ。
・「浮川竹」「浮き」は「憂き」に掛け、川の畔りに生えている竹の笹が川面を空しく流れ去る様から、無常薄幸の遊女の身の上や遊女を指して言う語である。
・「こわ難有」「こわ」はママ。
・「戒行」仏法の戒律を守って修行に励むこと。
・「傾城に誠なし」諺。遊女は客の金だけが目当て、思わせぶりや契りだ命だなんどと言っても口先だけのこと、その心に真実(まこと)はかけらもないものだ、という意。
■やぶちゃん現代語訳
傾城の悪だくみの事
享保年間のことであったか、田所町の名主が傾城を請け出して妻とし、偕老同穴の誓いを立てて暮らし始めた。
さても、この妻には傾城の頃から大切にし、嫁入り道具として持ち込んだ箪笥があった。その箪笥には、妻が朝夕必ず鍵をおろし、決して他人に手を触れさせぬ抽出があった。夫にさえ触れさせず、見るからに不審なる様子であったので、夫も、妻の元の勤めが勤めなだけに、何やらん傾城の頃に深く契った男にでも関わる一物か何かを隠しおるのではなかろうかと深く疑い、しつこくその中身を訊ねたのだが、妻は何かとはぐらかしては、ただ凝っと淋しそうに黙って夫を見つめているばかりであった。
ある日、遂に堪忍袋の尾が切れた名主は、妻に厳しく問い質した。
すると――妻は、溜め息を一つつくと、最早これまでといった風に、
「……ご不審ながら、今日までの所業……大金を以って妾(わらわ)を請け出し下しゃんした旦那さまのお気持ち……それを、ありがたきことと慮ってのことにてありんす……今、この抽出を開いて、お見せ致しゃんせば……旦那さまの妾へのお気持ち……それが、離れ離れていかしゃんすかと……それが恐(こ)おて……ずっとずっと、今の今まで、深く深く、包み隠いて致しゃんした……なれど……お疑いになられるとならば……お見せ申し上げ……致しゃんす……」
と、言うや、かちんと錠を外して、すうっとその抽出を抜き出いて――見せた――案に相違して、そこに入っていたものは――袈裟・衣鉢といった仏具一式――
夫は訳も分からず呆然とそれを眺めていたが、徐ろに、
「……これは……どういうことじゃ?……」
と妻に訊ねた。妻は、
「……されば……妾は遊女勤めの初めより、言い交わした人がおりやんした……憂き河竹と客の仲とは言え……供に死を誓うたほどに契りおうたに……(長き沈黙)……そのお方は……そのお方は、儚くも若こうして身罷りやんした……(再び長き沈黙)……その日から……その日から、私も出家致さんと心得やんした……やんしたが……親方に抱えられた、この身、己が自由にも成りがたく……上べは傾城の常なれば、媚びも売り、閨房の戯れも仕事と割り切り致いておりやんした……なれど……なれど、心は不断に出家浄身のことのみ思うて参ったので御座います……そうして……そうして、旦那さまに身請けして頂き……こうして妻として頂きますればこそ……これもまた、妾の身を……大金を払いて『売り買い』なさった……ことなればこそ……と思い……聊かもこのような妾の我儘なる心……表に出いては申し訳なきことと……」
と涙ながらに語った。話を聞いているうちに夫も思わず涙を誘われ、
「……さてもさても、何という貞節な女じゃ!……儂もこの辺りじゃ名の知れた男、今日只今、離縁遣わす故、思うがままに出家致すがよいぞ!」
ときっぱり、しかし優しく言い渡いた。妻は、
「――!――これは、何と有難きこと!……」
と涙に咽んで答える。それを見た夫は、付け加えて、
「儂も――大枚叩(はた)いて請け出いたそなたじゃが――そなたの心底には深く心打たれた。まいて、このような話を聞いておきながら、平然と己(おの)が妻としておくというのもすっきりせぬ。早々に菩提寺の僧を招く故、剃髪致すがよいぞ――」
と言い添えた。
「これはもう勿体なきこと……なれど、出家致しまするからには、最早……三界に家なし……今日只今より托鉢して露命を繋ぐ覚悟にてこそ……全き戒行の成就とは申しますれば――」
と夫の申し出を断り、そうして一日、二日しないうちに、夫に暇乞いをすると、何処(いずこ)ともなく立ち去って行った。――
夫は勿論、この話をその名主からを聞いた人々も、
――さてさて、今時、誠(まっこと)稀な、貞女じゃて。――
とばかり褒めそやしたという。
――が――
……暫くしてから、田所からそう遠くない所で、この女が、髪結いらしい男の妻となって暮らしていた、とかいうことであった……
廓時代から馴染みの、言い交わした男があって――いや、その男は死ぬどころか、髪結として(また下半身も)文字通り「ぴんぴん」していたわけだ――その男と密かに巧妙な作り話を拵え上げ、このように夫をうまく騙してまんまと離縁を引き出し、この男と目出度く夫婦になったというのが事実であったのだ。
――いやいや、誠(まっこと)、諺にも「傾城に誠なし」というが……はて、恐ろしき、女の手管じゃ!――
と私の知人が語って御座った。