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2009/11/03

耳嚢 山事の手段は人の非に乘ずる事

「耳嚢」に「山事の手段は人の非に乘ずる事」を収載。

 山事の手段は人の非に乘ずる事

 

 近き比の事とや、上總邊一寺の住職、公事(くじ)にて江戸表へ出けるが、破戒無慙(むざん)の惡僧にて、新吉原へ入込、金銀を遣ひ捨いかんともすべきやうなく、一旦在所へ歸りて旦中へ公事入用の由僞り、金銀才覺し或は什物(じふもつ)を質入して、金子貳三百兩持て猶江戸表へ出しが、又々傾城に打込、金子も遣ひ果し、詮方なく馬道(うまみち)の邊にて借屋をかり、右傾城の殘る年季を亡八(くつわ)へ渡して、金子少し差出し曲輪(くるわ)を出し妻となして一ケ月程暮しけるが、町内若者の伊勢講中間(なかま)へ入て、今年伊勢への代參に參り侯樣申けるを、品々辭退しけるが兎角可參旨故いなみ難く、初尾路銀などを請取て妻にかくと語りければ、留守の事はいかやうにもいたし可置儘、迷惑ながら行給へと答ふ。跡の事抔念頃に申置伊勢へ旅立ける。無程參宮共濟て立歸り見れば、我住し店(たな)にはあき店の札を張て女房の行衞も不知(しれず)。こはいかにと家主へ尋ければ、是はいかなる事ぞや、御身は出奔の由、町内へも女房より申斷(まうしことわり)、我等も其(それ)斷故、公儀へも訴、店受(たなうけ)何某(なにがし)へ妻并家財は引渡(ひきわたせし)旨に付、扨は女房勤の内より外に男ありてかくなしけると、頻に憤りて店受を尋しに、是又行衞しれざればいかにせん方もなく、空腹に成し故、田町の正直蕎麥へ立寄て蕎麥抔給(たべ)て、迚(とて)も疵持(もつ)足なれば、此上いづちへ行ん、入水して身を果しなん心躰(しんてい)爰に極りし折から、同じく蕎麥を喰居(くひゐ)たりし醫者樣の男、蕎麥やの下女を呼て、向ふに居たる男は身命今日に極りし相(さう)有と語りけるを、右女聞て、いか成事や仕出さん早くも歸れかしと心にて、何となく御身は甚不快に相見へ、色もあしく、あれに居給ふ人の申さるゝにも、御命甚危き由申され候間、早く歸りて養生なし給へと申ければ、彼男大に驚き、右醫師樣のおのこに申けるは、偖々御身は不思議の相人(さうにん)かな、成程我等かゝる譯にて身命を捨んと覺悟をいたせし事也と申ければ、只今捨ん命を何卒助りて世を渡る心ありやと申ければ、只今は何しに我も捨身(しやしん)を好むべきと答ふ。然らば我等方へ來り給へと、夫より並木邊彼醫師の宅へ召つれ、下男同樣にいたし置、或時申けるは、汝が妻の行衞尋たきや、左あらば某が思案ありとて、淺黄頭巾に伊達羽織を拵へ飴賣に仕立、元來出家なれば哥念佛を教へて、是を以江戸中賣歩行(あるけ)ば、定めて右女房を見出さざる事あるまじと申故、右の如くいたし歩行(あるき)けるが、

  此飴賣は安永酉年の夏頃より翌成年迄

  専ら御府内を賣歩行き流行せし也。其

  樣浅黄頭巾に袖なし羽織を着し、日傘

  に赤き切れを下げ、鉦を打ならし唄を

  うたひ歩行し也。其歌當時の役者或ひ

  は世の中の事など聲おかしく唄ひける。

  文句色々ありといへども、其ひとつ二

  ツは覺しまゝにしるす。

  扱當世の立物は、仲藏幸四郎半四郎、

  かわいの/\結綿や、御家の目玉はこ

  わいだ、なまいだこわいだぶつ

 或時麻布六本木にて我女房むかひの酒屋より出て外の家へ入り、又酒屋へ立歸りけるを見て早々宿に歸り、彼醫者に語りければ、さらば女房を取歸し候仕方もあるべしとて、日数十日程も過て、右醫者、今日こそ取計かたありとて右の者を供に連、糀町邊の裏屋にて格子作りの所の親分ともいふべき方に至り、何か對談しければ、大方此間の事も取極りたり、今日彼方へ罷越候べしと申ければ、心得し由右醫者念頃に挨拶して、麻布六本木彼酒屋の最寄に至り、商屋の鄽(みせ)を借りて、汝は少しの内爰に居るべし、押付(おつつけ)呼候はゞ早々來るべしといひて、彼醫師は酒屋に至り、居酒し給ふやは知らね共少々酒を給(たべ)度(たき)由申ければ、居酒はいたし不申由を申けるが、念頃に述て南鐐銀(なんれうぎん)一枚與へければ酒を出し、女房やうのもの酒を持出て酌などいたしける。彼醫師申けるは、御内儀に逢せ侯者ありとて呼ける時、女房驚き立入らんとせし袖をとらへ、右家來に向ひ、此女中にてあるべしと言しかば、成程無相違由を申ける故、女房も大に赤面したる躰にて勝手へ入ければ、彼是相應の禮を其夫へ對し取繕申越て歸りけるが、その二三日過て椛町の男両三人連にて罷越、扨々働き六本木の身上(しんしやう)を振(ふる)ひ、漸(やうやう)金子百兩調達せしと申ければ、右醫師金子を受取り、此間の骨折賃也とて貳拾兩椛町の者へ差遣、扨旦那寺を招き、急度(きつ)したる料理にて終日振舞などいたしける儘、此上いかゞいたし候やと彼男も思ひ居ければ、膳もとれ酒も濟て、扨彼男を呼出し旦那寺へ引合(ひきあはせ)、此者はかく/\の譯にて死んとせしを、助けたる者也。此度御弟子にいたし元の出家と致度間、今日剃髮なさしめ給へとて、湯よ髮剃よといひける故、彼男大きに驚き、我等一旦出家を落ちたる身の、いかなれば又出家すべき、女房も不取戻(とりもどさず)、今出家せよとはいかにと申ければ、さればとよ、汝出家を落(おち)、在家を欺きし科(とが)まぬかれん樣なし。一旦死を遁れしは莫大の恩に非(あらず)や。今又出家になれば少しは罪を助る道理也とて、難なく出家させ、扨此度汝が女房を奪取たる者より誤(あやまり)の申譯に金子差出し候へ共、此間右に付段々骨折し者へ差遣し、此度御寺へも金子廿兩差遣間、彼が罪障消滅をなし給はるべし、汝にも金子拾兩遣間得度(とくど)の入用ともすべし、残りは汝が食料(くひれう)其外入用に此方に留置也と申ける。右醫師はおそろしきしれもの也。かの再び出家せし男は、今は花川戸邊に徘徊して托鉢いたし居候となり。

 

□やぶちゃん注

・「山事」本来は森林や鉱山などの売り買いに関わることを言い、そこでは危険な賭けや怪しげな取引があるところから、投機的な事業や仕事のことを言うようになった。ここでは、そこから犯罪の意となった詐欺の謂いである。そうしたもろもろの「山事」を行うの者を「山師」と呼ぶのである。

・「公事」現在で言う民事訴訟。その審理や裁判をも含めて言う語。

・「旦中」岩波版では『旦那中』とある。旦那達。寺の檀家連中。

・「馬道」浅草寺の北東部を南北に走る通り。浅草から昔の吉原土手に向う馬道町のこと。現在は浅草2丁目及び花川戸1~2丁目に跨る馬道商店街となっている(一説には新吉原の客が馬で通った道に由来するとも言う)。

・「亡八(くつわ)」読みは底本にある。仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌の八徳を失った者若しくは八徳を忘れさせてしまうほど誘惑に満ちたものの意から、遊廓で遊ぶこと、その人、更には、女郎屋や差配する置屋、そうした屋の主人をも指した。「くつわ」という当て読みは、女郎屋やその主人を指す語。「くつわ」は「轡」で馬に手綱をつけるため口に嚙ませる金具で、主人を特定する意なら、遊女の束ねからの謂いであろうか。曲輪(くるわ:遊廓を堀や塀で囲ったことに由来)の転訛のようにも見える。

・「伊勢講」伊勢参宮を目的とした講(寺社への参詣・寄進を主目的に構成された地域の信者の互助団体。旅費を積み立て、籤で選んだ代表が交代で参詣出来るシステムをとった)。中世末から近世にかけて大山講(現神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社)や富士講と共に盛んに行われた。

・「初尾」初穂料。本来はその年最初に収穫し、神仏や権力者に差し出した穀物等の農作物を言う。後、その代わりとなる賽銭や金銭を言うようになる。

・「店受」近世、借家を借り受ける際の身元保証書の保証人に立つこと。または、その保証人を指す。店請。

・「田町の正直蕎麥」底本及び岩波版長谷川氏注釈によれば、「田町」は『新吉原の東方、日本堤の南浅草田町一・二丁目があった』(長谷川)が、「正直蕎麥」はここではなく、『浅草の北馬道町にあった蕎麦屋』(長谷川)で、『勘右衛門の蕎麦の名でも知られ』(鈴木)、先祖が『浅草境内に葦簀張りの店を出し、黒椀に生蕎麦を盛って戸板の上で売ったのが、安価で盛りがよいところから正直蕎麦の名をとって繁盛し、後に北馬道町の町屋に店を持った。寛保三年から、あく抜蕎麦を始め、文政八年当時は七代目であった』(鈴木)。岩波版注では、この田町は主人公の男の住んでいた馬道町の『すぐ北に当るので田町と誤った』(長谷川)、とする(寛保3年は西暦1746年で、筆者根岸鎮衛の生年は元文2(1737)年であるから、この男がたぐっているのは「あく抜蕎麦」なる新商品である)。但し、鈴木氏の注の文政8(1824)年『当時』という表現は誤解を生む。文政8(1824)年『当時』では筆者根岸鎮衛はとっくに死んでいる(筆者の没年は文化121815)年)し、本件記事について、正に鈴木氏の「耳嚢」著述年代推定によれば、この記事の下限は天明2(1782)年の春迄で、更に後に出てくる作中の飴売りの風俗が、その本文注(根岸自身によるもの)安永6(1777)年から翌年にかけての流行と書かれるのであってみれば、文政8(1824)年『当時』よりも有に4647年から42年も前のことであるから、これは六代目であった可能性も示唆せねばなるまい。なお、徹底的に登場人物が騙し騙される本件にあって確信犯的に登場する「正直」という屋号であり、面白い仕掛けであると私は思う。訳では正しく「北馬道にある正直蕎麦」と補正して訳した。

・「給(たべ)て」のルビは底本にある。

・「心躰」底本には右に「(心底)」と注する。

・「いか成事や仕出さん早くも歸れかしと心にて」底本では末尾「と心」に右に「(の脱カ)」と注する。「いか成事や仕出さん早くも歸れかしとの心にて」。この医師は住居が並木町でもあり、正直蕎麦の常連であったのであろう。幾ら下女でも、医師風とは言え、初対面の客の忠告を真に受けて、即座にかく応対するとは思えない。

・「偖々」扨々。

・「並木」並木町。浅草雷門前を真っ直ぐに駒形へ南下する通りの両側の町名。

・「淺黄頭巾」緑がかった薄い藍色の投頭巾(なげずきん)。投頭巾は当時の飴売り等に特徴的なもので、袋状に四角に縫ったものを横に被り、余った部分を後ろへ折り返したものを言う。

・「伊達羽織」人込でも目立つ派手な文様や色の羽織を言う一般名詞。

・「安永酉年」安永6(1777)年。

・「唄念佛」歌念仏。江戸初期に伏鉦(ふせがね)を打ち鳴らして、念仏に節をつけて種々の歌や文句を歌い込んだ門付芸の一種。

・「文句」について底本注で鈴木氏は、ここで根岸が掲げた唄の歌詞は『最もまじめな文句といってよい』とし、実際には、かなり下世話な内容のものが主流であったことを窺わせる。なお、唄の訳の最後の念仏風の部分は私が勝手にそれらしい漢字を当てたものに過ぎず、何か意味があるわけではない。ご注意あれ。

・「立役者」一般には芝居の一座で中心となる売れっ子役者を言うが、江戸時代には特に歌舞伎の「名題役者」のことを言った。興行の際、劇場正面に掲げる看板の中で、特段に大きな一日の狂言総ての題名を記した大名題看板というものがあり、その上方に一座の主要な俳優たちの舞台姿を絵や人形で飾ったが、ここに載る俳優のことを名題役者若しくは略して名題と呼んだのである。立者。立役。

・「仲蔵」初代中村仲蔵(元文元(1736)年~寛政21790)年)。「名人仲蔵」と呼ばれた名優で、浪人(一説に渡し守)の子として生まれ、『門閥外から大看板となった立志伝中の』人物。『立役・敵役・女形』や『舞踊を得意とし』、『今日上演される「三番叟」は途絶えていたものを初代仲蔵が復元したもので』、他には「忠臣蔵」の定九郎、『「義経千本桜」の権太・「関の扉」の関兵衛・「戻籠」の次郎作などが当たり役』である(以上、主にウィキの「初代中村仲蔵」を参照した)。

・「幸四郎」四世松本幸四郎(元文21737)年~享和21802)年)四代目市川団十郎の若手俳優養成塾「修業講」での修練が評価され、宝暦121762)年に初代市川染五郎を襲名、安永元(1772)年、四代目松本幸四郎を襲名している。時代物・世話物を中心に多様な役をこなした実力派であった。『特に天川屋義兵衛、幡随院長兵衛などの男伊達や絹川谷蔵などの力士役を得意とした』が、『門閥外から幹部に出世するだけあってかなりの研究熱心で』あると同時に、『性格も強く、五代目市川團十郎ら出演者としばしば衝突した』。『とくに初代尾上菊五郎との確執は有名で、菊五郎が憤慨のあまり舞台で幸四郎に小道具を投げつけ観客に怒りの口上を述べ、怒った幸四郎が菊五郎につかみかかるほどの大騒ぎとなった。この事件を根に持って菊五郎は京に帰ってしまい、後年幸四郎が上方に客演した際は、上方劇壇から嫌味をいわれたという』とある。いい話だね。役者はこれくらいじゃなきゃ、だめよ(以上、ウィキの「松本幸四郎(代目)」を参照した)。

・「半四郎」四代目岩井半四郎(延享41747)年~寛政121800)年)。女形の岩井家の基礎を築いた名優。江戸の人形遣辰松重三郎の子であったが、二代目松本幸四郎(後の四代目市川団十郎)門下となり、7歳で初舞台を踏んでいる。明和2(1765)年、岩井家養子となって四代目岩井半四郎を襲名した。丸顔の愛嬌のある女形で、「お多福半四郎」と呼ばれた。『生世話を得意とし、悪婆という役柄に先鞭をつけた人物としても有名』で、『江戸を代表する女形として高い人気を誇り』、この唄でも直ぐ後に並び出る、三代目瀬川菊之丞と人気を二分した。この二人は当時、『「女方の両横綱」と併称された』。(以上、ウィキの「岩井半四郎(代目)を参照した)。

・「かわいの/\結綿」三代目瀬川菊之丞(宝暦元(1751)年~文化71810)年)。女形。「結綿」(ゆいわた)はその紋所の名称。上方の出身で、日本舞踊市山流の初世市山七十郎の次男として生まれた。安永21773)年に江戸に下り、二代目瀬川菊之丞の門に入って瀬川富三郎と改名した。『二代目菊之丞の死後、その遺言により養子として三代目瀬川菊之丞を襲名』し、文化5(1808)年には女形ながら座頭となったほど、『人気・実力ともに江戸歌舞伎の最高峰として活躍』した。美貌にして口跡(こうせき:歌舞伎の台詞回しや声色を言う)も優れ、『世話物の娘役と傾城を得意とし、舞踊にも優れ』た(以上、ウィキの「瀬川菊之丞(3代目)」を参照した)。

・「御家の目玉」岩波版の長谷川氏の注では五代目市川団十郎(寛保元(1741)年~文化31806)年)を同定候補としている。生没年と先行する役者群と並べて見ても、この同定で正しいものと思われる。荒事での眼力等からの渾名であろうか。有名な東洲斎写楽の寛政6(1794)年作の市川鰕蔵(えびぞう=五代目市川団十郎)の『恋女房染分手綱』「竹村定之進」の絵でも、眼が特徴的で、一見忘れられない。『18世紀後半における江戸歌舞伎の黄金時代を作り上げた名優』である。二代目松本幸四郎の子で、宝暦4(1754)年に『父が四代目團十郎を襲名すると同時に三代目松本幸四郎を襲名。市川家の御曹司として名を売る一方で着実に実力を上げ』、宝暦7(1757)年、『江戸中村座で父が三代目市川海老蔵襲名を機に、五代目市川團十郎を襲名。『暫』を初代團十郎から累代伝来の衣装で勤める。父の死後は江戸歌舞伎の第一人者として君臨し、1791年(寛政3年)11月、江戸市村座において、市川蝦蔵を襲名したが、これは「父は海老蔵と称したが、おのれは謙遜して雑魚えびの蝦」と遠慮したものだった。同時に俳名を白猿とし、「白猿も祖父栢筵の音だけを取り、名人には毛が三本足らぬ」という口上を述ている。養子四代目海老蔵に、六代目市川團十郎の名跡を譲っ』て、引退したが、寛政111799)年に六代目市川団十郎が早世した翌寛政12年に『市村座で市川家元祖百年忌追善興行及び孫の五代目市川海老蔵の七代目市川團十郎襲名の口上とだんまりの大伴山主役』にて本格的な再復帰を果たし、享和元(1801)年の『河原崎座で三代目桜田治助作の『名歌徳三升玉垣』に般若五郎をつとめたのを最後に翌年引退』した。その所作は『細工をしないおおらかな芸風で、荒事の他、実悪、女形など様々な役柄をつとめ分け「東夷南蛮・北狗西戎・四夷八荒・天地乾坤」の間にある名人と評された。どんな役でもくさらず懸命につとめ、生活面も真面目で、多くの人たちから尊敬され「戯場の君子」とまで呼ばれた』(以上、ウィキの「市川団十郎(5代目)」を参照した)。

・「椛町」東京都千代田区の地名。古くは糀村(こうじむら)と呼ばれたと言われる。『徳川家康の江戸城入場後に城の西側の半蔵門から西へ延びる甲州道中(甲州街道)沿いに町人町が形成されるようになり』、それが麹町となった。現在残る地域よりも遥かに広大で、『半蔵門から順に一丁目から十三丁目まであった。このうち十丁目までが四谷見附の東側(内側)にあり、十一~十三丁目は外濠をはさんだ西側にあ』り、現在の新宿区の方まで及ぶものであった(以上はウィキの「麹町」を参照し、岩波版の長谷川氏の注を加味して作成した)。

・「鄽」店。店先。

・「給(たべ)度(たき)」のルビは底本にある。但し、それぞれの単語に分解して示した。

・「南鐐銀」南鐐二朱銀のこと。以下に記す通り、1両の1/8。『江戸時代に流通した銀貨の一種で、初期に発行された良質の二朱銀を指す。形状は長方形で、表面には「以南鐐八片換小判一兩」と明記されている。「南鐐」とは「南挺」とも呼ばれ、良質の灰吹銀、すなわち純銀という意味であり、実際に南鐐二朱銀の純度は98パーセントと当時としては極めて高いものであった』。明和91772年)年、『田沼意次の命を受けた勘定奉行の川井久敬の建策により創鋳される。寛政の改革時に一旦鋳造禁止されたが、程なく発行』再開されている(以上、ウィキの「南鐐二朱銀」を参照した)。

・「彼是相應の禮を其夫へ對し取繕申越て歸りける」この場面、夫も既に事実を知っているとした方が臨場感が出る(時間的な短さからは夫は何も知らない可能性も勿論あるが)。何をされるか、言い出されるかと、ビビりまくっている酒屋の主人を映像としてイメージした方が面白い。そのように訳した。

・「扨々」底本では「扨々(色々)」とあって、右側に「(尊經閣本)」と注する。この「色々」も訳で贅沢に使わせてもらった。

・「身上を振ひ」恐喝して財産を巻き上げ、金を振り出させる、ことを言うのであろう。

・「花川戸」現在の台東区東部、浅草寺東南の隅田川岸に沿った一帯の地名。かつては履物問屋街であった。南部は雷門通りに接し、西部は馬道通りに接する。故郷には帰れぬ男にとって、ここ浅草しか生きる場所はなかったのであろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 詐欺の手練は相手の弱みにつけこむことにある事

 

 最近のことであろう、上総辺りにある寺の住職が、寺の訴訟絡みの公事で江戸御府内へと上ったのだが、この男、途轍もない破戒無惨の悪僧で、江戸に着くや、公事はそっちのけで新吉原へくり込むと、そこの傾城に一目惚れ、訴訟に預かってきた金子をすっかり使い込んでしまい、すっからかんになって如何ともするなく、一旦、在所へ帰ると、檀家の者どもに、

「訴訟が長引き、預かった金子も使い果たいたが、今少し、勝訴には入り用じゃ。」

と偽り、巧妙に金子を集め、寺の宝物をも質入れして、金子二、三百両を持って江戸へ向かうと、またしてもかの傾城に入れ込み、あっという間に殆んど使い果たしてしまった。――

 どうしようもなくなった結果、男は馬道(うまみち)辺りに家を借りて――辛くも手元に残った金は、その傾城の残った年季にはまるで足りなかったのだが――そこは同じ穴の狢の悪僧、亡八(くつわ)者同士、女郎屋の主人と丁丁発止の交渉の上、金子を少しばかり出いて、廓(くるわ)から請け出すと妻としたのであった。――

 

 ――さて、そうして暮らすこと、一と月ばかり後のことである。

 その頃、男は、町内の若い衆で作った伊勢講に入っておったのだが、その連中から急に、

「今年の講中の伊勢への代参をよろしゅうお願い申す。」

と頼まれた。手元不如意にして新入り、未だ女房ももらったばかりなんどと、いろいろ理由を並べ立てて辞退しようとしたのだが、

「最早、籤(くじ)で決まったこと、兎も角も参宮してもらわねばなるまいよ。」

の一点張り、どうにも断り切れず、参宮の際の初穂料から道中の路銀も受け取ってしまった。

 家に帰った男が妻にかくかくしかじかと愚痴をこぼすと、

「おまえさんが留守の間は、あちき一人のこと、どんなにしても暮らして行けますから、どうか難儀ながら、安心してお行きになって下しゃんせ。」

との応え。男は後の事など、いろいろ気を付けるよう、懇ろに女に言い置いて、まずは伊勢へと旅立ったのであった。――

 

 ――さて、やがて男は何事もなく無事、伊勢参宮を終えて江戸へ立ち返った――と、住んでおった店(たな)は『明きや』の札が貼られ、女房も行方知れず。これは一体如何なることか、と家主の家に駆け込んで訊いてみると……

「こりゃ、こっちが、『一体如何なることか』、ですよ! お前さんが講中の初穂と路銀を抱えたまんま、家を出奔致しましたとの由……町内の者どもへお前さんのお上さんから、相済まぬことと相成り申したとの由、申し出、あたしの所へも、そんな風に殊勝に頭を下げに来ましたからね……ご公儀へも訴え出て、店(たな)を貸した折りの保証人の、××という男に、お前のお上さんと、家財道具一切合財、引き渡しちまいましたよ……。」

とのこと。

「さては女房の野郎! もうせん、廓にいるうちから、ほかに好いた男がいたかッ――!」

と、怒り心頭に発し、保証人の××の住まうというところを尋ねてみたところが、これまた、行方知れずとなっておった……。

 男はどうにも仕様がなくなり、腹も減ったから、北馬道にある正直蕎麦へ立ち寄り、蕎麦なんどを、たぐりながら、考えた――

『……もう、だめだ……こんな脛(すね)に傷持つ身じゃ……この上、どこへ行き場があるもんけ……身投げして果てるしかあんめえ……』

なんどと、心底ここに極まった、という面持ちで、たぐり上げた蕎麦を口元近くに揚げたまんま、ぶるぶると震わせていた――

 と、近くの席で同じく蕎麦をたぐっていた医師風の男、その様子を凝っと見ておったのが、蕎麦屋の下女を呼んで、徐ろに、

「――向こうに座っておる男は身命(しんみょう)今日に極まれる相じゃ、な――」

下女はそれを聞くと血相を変え、

『――ここで死なれちゃあ、大変だし――確かに、あの男――えらく顔色、悪いわ!――死相の浮いた男なんぞ――おーっ! 桑原、桑原!――何を仕出かすか分かりゃしない!――面倒起される前に、さっさと早く出ってもらうが一番だわ!――』

とでも思ったものか、急いで当の死相男の卓に赴き、

「――お客さん――お前さん、何だかひどく気分悪そうだよ――顔色も滅法悪いしさ――言っちゃ、何だけどさ――あたいじゃないんだよ、あそこに座ってらっしゃる御仁が、おっしゃるには、だよ――お前さんの顔には、ね――『命の危険がアブナイ』って――感じが浮かんでるって、お言いなさんのさ――だからさ、早く帰って養生なさいまし、な――」

と声をかけた。

 それを聞いた当の男は、これまた大層驚いて、その医師風の男の所におずおずと近寄る。そうして、

「……さてもさても、あなた様は、摩訶不思議の人相見であられる……仰る通り、拙者、只今、かくなる訳にて……身命を捨てんと致いておりました……」

と、かくなった仔細を含めて告白した。

 一通り、男の話を聞き終えると、その医師体(てい)の男は、きっぱりと、

「――只今、一度は捨てんとした命――その命を自ずから助けて――今一度、世を渡らんとする心は、あるや!?――」

と男に訊ねた。男は、

「只今、かく有難き御仁にお逢い致し、お言葉を拝領した上は――今や、どうして拙者も軽々しく命を捨てんことを好みましょうや。」

と応える。されば、医師体の男、

「されば、私の方へ来られるがよい。」

と、並木通にあるこの医師の家へと召し連れられて行き、爾来、そこで下男同様に使われておった。――

 

 ――ある時、医師が男に言った。

「――お主は――先のお主の妻の行方――尋ねたくは、ないか?……ふむ、そうか?……されば、某(それがし)に少し考えがあるでの――」

そう言うと、医師は男のために、浅黄頭巾と伊達羽織を誂えて、彼を所謂、飴売りの体(てい)に仕立てると、元来お主は出家なればお手の物であろうと、かの飴売りに独特の歌念仏を教えた上、

「――この風体にて江戸市中を売り歩いたれば――その女房を見出すこと、必定ならん――」

と言う。そこで男は、言うがままに、飴売りとなって売り歩いた。すると……

 

この飴売りは、安永酉年の夏頃から翌

戌年迄、専ら江戸御府内を売り歩いて、

大いに流行ったものであった。その売

り姿は、浅黄頭巾に袖無しの羽織を着、

挿した日傘に赤い布切れをぶら下げ、

鉦を打ち鳴らしながら歌を歌うという

体(てい)のものであった。その歌は、

当時の歌舞伎役者や世間の出来事を面

白おかしく歌い込んだものであった。

その唄の文句はいろいろあったけれど

も、その内、一つ二つは覚えておるの

で、ここに記しておく。

   さても当世の立役者

   仲蔵 幸四郎 半四郎

   可愛い可愛いは菊之丞

   恐いは目玉の団十郎

 恐畏陀

   南無阿弥陀(なまいだ)

   虚波畏仏(こはいだぶつ)

 

 ……するとある時、麻布六本木で飴売りをしていたところが、昔のあの女房が、男が飴を売っている道の向かいの酒屋から出て来て、他の家へと入り、また酒屋へと戻って行ったのを見た。男は即座に主家にとって帰すと、かの医師に目撃した事実を語った。すると、

「――そうか――遂に見出いたか――では――お主の女房を取り返す仕儀も、あろう程に――」

と言った。

 

 それから十日程が過ぎたある日のこと、医師は、

「――今日、お主の女房を取り返すべき取り計らい方――出で来たり――」

と、男を連れて、麹町の裏通りにある格子戸を巡らした、如何にもいわく有り気な――所謂、その辺り一帯を取り仕切っている親分らしき――家へ至り、何やらん相談を始めた。

「――大方、話しゃ、つきやしたぜ――今日辺り、彼奴(きゃつ)のお店(たな)へお行きなさるがええ――」

という親分らしき男の最後の言葉に、医師は、

「――心得た――」

と、えらく丁重に礼を述べた。

 そうして、その足で、二人して麻布六本木へ向かい、例の酒屋の近くにある商家の軒先をちょいと借りると、

「――お主は暫くの間、ここで待っておるがよい――まあ、追っ付け呼ぶ。呼んだら、直ぐに来るがよい――」

と男に言い含めて、医師自身は酒屋へと入って行った。――

 

 医師は、酒屋に入ると、

「立ち飲みはしていなさらんかのう。いや、少しばかりでよいから呑ませて欲しいのじゃ。」

と言う。丁稚が、

「立ち飲みは致しておりませんです。」

と断った。すると、医師は懐から大枚銀1枚を取り出して丁稚に与えた。さすれば、丁稚から番頭、番頭から主人へ話が伝わり、早速に酒が出だされ、女房らしき女まで現れて、酌などさえし始めた。

――流石は元傾城よ――酌も手馴れて、愛想の笑みも堂に入ったものじゃ――

「時に。ご内儀。貴女に是非引き逢わせたい御仁がおりましてのう。」

と医師は徐ろに言うと、店先に出て、彼方の商家の軒先に佇んでいる男を呼び入れた。――

 

 ――入って来た男を見ると、女房は驚いて、小さく、あっ、と叫ぶや、家内(いえうち)に走り込もうとするのを、医師は素早く袖を捕え、かの家来の男に向かい、

「――この女に間違いないな?――」

と厳かに言う。

「誠(まっこと)相違御座らぬ!」

と瞋恚に燃えた眼で男が答える。

 女房は言葉も出ず、医師が袖を離すや、ただただ顔を真っ赤にしたまま、奥へと走り去った。――

 

 ――それから――それから医師は酒屋の主を呼び出だすと、今、起こったことも知らぬ気に、

「普段なさらぬ立ち飲みをさせて戴き、また、嬉しきこと甚だしゅう御座った。」

と丁重な禮と、如何にも馬鹿丁寧な挨拶をして――体を震わせている「妻を取られた男」の手を引くと――泰然と――その足をがたつかせて立っているのがやっとの、青い顔をした「妻を取った男の」前を――辞したのであった。――

 

 ――それから二、三日が過ぎた。

 例の麹町の親分が、子分を三人程連れて医師の家にやって来た。

「――さてもさても――いろいろと――やらかさせてもらいやした――例の六本木の身上(しんしょう)から――すっかり振り出さしてね――漸く金子百両ほどは調達しやしたぜ――」

と、親分は金子百両をぽんと差し出す。医師はそれを受け取ると、そこから、

「――この間(かん)のお骨折り賃に――」

と言って、二十両をさし返した。――

 

 ――さて、その日のことである。

 医師は自身が檀家である寺の僧どもを招き、特に男も末席に召し出して、如何にも立派な料理を並べて終日豪勢な宴席の場と相成った。男は遠慮しいしい、ちびりちびりと酒を飲んでいたが、内心、

『……ご主人はこれからどうして下さるお積りなんじゃろう……何時になったら女房を取り返して下さるんじゃろう……飴売りにまで身を窶(やつ)して見つけたあいつじゃ……ともかくも取り戻さずば、諦めきれん……』

と思っている内、漸く膳も下げられ、酒も済んだ。――

 

 ――すると、医師は彼を自分の前に呼び寄せ、檀家寺の住職に引き合わせると、

「――この者は、先般、かくかくしかじかの訳を以て死なんとせしところを、私めが助命致いた者で御座る――この度は、貴僧の御弟子として、再び元の通りの出家と致したく存知候間、今日只今、剃髪の儀、成さしめ給え――」

と告げるや、僧どもは、話し半分、酔った勢いで、

「……そりゃ奇特な話じゃ!……ほりゃ! 湯、沸かしょう! 剃刀、持てこい!……」

と言い出したから、男は晴天の霹靂、

「(酔った僧どもに向かって大声で)あっしは……あっしは、その、一旦……その、僧から俗に、落ちた身で御座んして……そんな、都合よく……その、また出家出来ようなんて法は御座ろうはずもありませぬ!……(振り返って主家の医師に、小声で)それに、あっしの女房も取り返してくれず……(再び大声で)何で、今また出家せよ、とは! 殺生じゃ!……」

すると、医師は男の襟首をむんずと摑み――どこにこんな力が潜んでいるのやら、恐ろしくなるほどの強烈な臂力で自分の眼前に男を引きつけると――実に穏やかな、しかし、否とは言わせぬ響きを以って、

「――さればこそじゃ、な――お主は、破戒し、俗に落ちた――その在家(ざいけ)を欺いた仏法の大罪は、免れる法は、ない――一旦、死を遁れることが出来たは、そりゃもう、莫大な恩ではないか?――いや、それは、儂の恩では、ない――仏の、お慈悲じゃ――じゃて、のう、今また、出家となれば――いや、仏のお慈悲は無辺大じゃて、仏は必ず許さりょう――さすれば、少しは、その大罪より救われようという、もんじゃ、ないか――のう――あん?」

と凄んだ。

 男はぶるっと来ると、思わず黙って相槌を打っていた。――

 男の出家剃髪の儀は滞りなく済んだ。

 医師は剃り跡も青々としたつるつる頭に、半べそをかいた顔をぶら下げた男の脇に、晴れ晴れしい笑顔を浮かべて連座すると、如何にも満足気に、ちらちらと男の金柑頭に眼を向けながら、声も高らかに、次のように述べて宴を締め括った。

「この度、そなたから妻を奪った不埒者からは、心より申し訳なきことと、慰謝料として金子を差し出だいて参ったので御座るが、この度の一件つきては、中に入って最も互いが傷つかぬよう配慮を致し、様々な骨折りをして呉れた者がおる。まずはその者に謝金を遣わしまして御座る。また、この度は、かく罪業深き者の、再度の出家剃髪の儀をお受け下さったお寺様には、金子二十両を差し上げ候故、屹度、この男の大いなる罪障の消滅をもなさしめ下さいまするものと存知ずる。――さても、お前様にも金子十両を遣わす故、出家得度の費用ともするがよいぞ――それで――まあ少しばかりの残りが御座るが――これは、今までのお前様の面倒を見るに掛かったところの、その、食費その他必要経費として、私の方に留め置いておくことと致す――よい、な――」

 

 この医師、恐ろしいまでに悪知恵のきく曲者ではないか。

 その、再び出家した男というのは、乞食坊主となって、今も花川戸辺りを徘徊しては托鉢致いて住まっておる、ということである。

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