耳嚢 犬に位を給はりし事
「耳嚢」に「犬に位を給はりし事」を収載した。
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犬に位を給はりし事
天明元年に酒井雅樂頭(うたのかみ)、蒙臺命(たいめいをかうむり)上京ありしが、雅樂頭はいまだ壯年にて常に狆(ちん)を愛しけるが、右の内最愛の狆は在所往來にも召連給ひしが、此度はおふやけの重き御用故連間數由の所、出立の日に至り駕を離れず、近習(きんじふ)の者駕籠へ入れじと防(ふせぎ)しに、或は吠え或は喰ひ付て中々手に餘りぬれば、品川の驛より返しなんとて品川まで召連れ、右驛に至りける故是より歸しなんと色々なしぬれど、兎角に屋敷にての通り故、是非なく上方迄召連れけるが、よき犬にや有けん、京にも此沙汰ありて、天聽にいれ、畜類ながら其主人の跡を追ふ心の哀れ也迚、六位を給りしとかや。是を聞て事を好む殿上人の口ずさみしや、又は京童(きやうわらべ)の申しけるや、
くらひ付く犬とぞ兼てしるならばみな世の人のうやまわんわん
右は根なし事にもあるぺけれど、其此所々にて取はやしける故、爰に記しぬ。
□やぶちゃん注
・「天明元年」西暦1781年。
・「酒井雅樂頭」酒井忠以(ただざね 宝暦5(1756)年~寛政2(1790)年)播磨姫路藩第二代藩主。雅楽頭系酒井家宗家十代。茶道家としても知られ、また、江戸琳派絵師酒井抱一(本名:忠因)は実弟である。位階は明和5(1768)年に十二歳で従四位下河内守を受けている(以上はウィキの「酒井忠以」を参照した)。
・「蒙臺命」「将軍の命令(を戴き)」。この当時の将軍は第十代徳川家治。岩波版長谷川氏の酒井忠以についての注では、安永9(1780)年の第百十九代『光格天皇即位に使として上洛、翌天明元年に帰る』とあるのだが、光格天皇の即位は安永8(1779)年11月9日のことである。幾ら何でも、即位後に『即位に使として上洛』というのはあり得まい。この話は安永8(1779)年十月のことではあるまいか?
・「いまだ壯年にて」安永8年当時、酒井忠以は実に二十三歳の若さであった。
・「狆」以下、ウィキの「狆」から引く。『日本原産の愛玩犬の1品種。他の小型犬に比べ、長い日本の歴史の中で独特の飼育がされてきた為、抜け毛・体臭が少なく性格は穏和で物静かな愛玩犬である。狆の名称の由来は「ちいさいいぬ」が「ちいさいぬ」、「ちいぬ」とだんだんつまっていき「ちん」となったと云われている。 』「狆」という漢字は『和製漢字で中国にはなく、屋内で飼う(日本では犬は屋外で飼うものと認識されていた)犬と猫の中間の獣の意味から作られたようである』が、『開国後に各種の洋犬が入ってくるまでは、姿・形に関係なく所謂小型犬の事を狆と呼んでいた。庶民には「ちんころ」などと呼ばれていた』。『狆の祖先犬は、当初から日本で唯一の愛玩犬種として改良・繁殖された。つまり、狆は日本最古の改良犬でもある。とは言うものの、現在の容姿に改良・固定された個体を以て狆とされたのは明治期になってからである』。江戸期、犬公方五代将軍徳川綱吉の治世下(1680年~1709年)にあっては、『江戸城で座敷犬、抱き犬として飼育された。結果、狆には高貴ながイメージが付きまとい、これをまねて豪商等も狆を飼育するようになり、価格の高騰を招いた。また、吉原の遊女も好んで狆を愛玩したと』される。香川大学神原文庫蔵の「狆育様療治」によれば、『高価な狆を多く得る為に江戸時代には今で言うブリーダーが存在し、今日の動物愛護の見地から見れば非道とも言える程、盛んに繁殖が行われていた。本書は繁殖時期についても言及しており、頻繁に交尾させた結果雄の狆が疲労したさまや、そうした狆に対して与える』ためのスタミナ食や回春剤についての記載さえあるという。『近親交配の結果、奇形の子犬が産まれることがあったが、当時こうした事象の原因は「雄の狆が疲れていた為」と考えられていた』ことがここから知られる。『江戸時代以降も、主に花柳界などの間で飼われていたが、大正時代に数が激減、第二次世界大戦によって壊滅状態になった。しかし戦後、海外から逆輸入し、高度成長期の頃までは見かけたが、洋犬の人気に押され、日本犬でありながら、今日では非常に稀な存在となり、年配者以外の世代の者は、この犬種の存在さえ知らない事が殆どである』。と記すのだが……俺は年配者かい!
・「天聽」天皇に知られること。当然、これは光格天皇(明和8(1771)年~天保11(1840)年)であるから、当時、安永8(1779)年11月9日即位直後ならば、実に八、九歳の子供店長、犬に官位を賜わったとしても不思議ではない。
・「六位」正六位は『律令制下において六位は下国の国司及び国府の次官である介が叙せられる位であった。地下人の位階とされ、五位以上の貴族(通貴)とは一線を画する位階であり昇殿は許されなかった。但し、蔵人の場合、その職務上、六位であっても昇殿が許され、五位以上の者と六位蔵人の者を合わせて殿上人と称した』。『明治時代以降は、少佐の階級にある者などがこの位に叙せられた。また、今日では警察官では警視正、消防吏員では消防監などがこの位に叙せられる他、市町村議会議長にあった者、特別施設や学校創立者その他、業種等で功労ある者などが没後に叙せられる』という(ウィキの「正六位」から引用)。また従(じゅ)六位ならば『律令制において従六位は、さらに従六位上と従六位下の二階に分けられた。中務省の少丞、中監物、その他の省の少丞、少判事、中宮職の大進・少進、上国の介、下国の守などに相当』し、明治以降の『栄典として従六位は、戦前に軍神として名高かった海軍中佐の広瀬武夫に叙されている』とある(ウィキの「従六位」から引用)。ここでは多分、従六位かと思われるが、あの杉野は何処の広瀬中佐が、狆と同じにされた日にゃ、たまったもんじゃねえぜ!
・「京童」京都の若者・大衆のことを言うが、一般に「口さがない京雀」というのと同義で、口うるさい京の民衆の謂いである。
・「くらひ付く犬とぞ兼てしるならばみな世の人のうやまわんわん」「うやまわん」はママであるが、これは犬の鳴き声と掛けた一種の確信犯であるから(但し、岩波版は「うやまはんはん」)、現代語訳でもそのままとした。「くらひ付く」は「食らひ付く」と「位(くらゐ)付く」を掛け、「うやまわんうやまわん」は「うやまわんわん」であるから、「敬はん」と「ワンン! ワン!」という犬の鳴き声を掛ける。
やぶちゃんの通釈:
――後(のち)に位が付くことに なってる食らい付いてくる 犬だとすでに分かっておれば 世の人皆(みんな)この犬の ことを心底敬ったわぁん! ウー! ワン!――
■やぶちゃん現代語訳
犬に位を賜わるというの事
天明元年のこと、酒井雅楽頭忠以殿が、光格天皇即位式御使者として、将軍家御家命を受け、上京致いた折りのこと――その当時、未だ雅楽頭殿は青年で御座って、いつも数匹の狆を可愛がっておった。その中でも最愛の一匹は、御在所播磨姫路と江戸の行き来にも召し連れなさって御座ったが、今度ばかりは、公(おおやけ)の重い御用故、連れて行くわけには参るまいとお思いになっておられたところ――出立の日になって、この狆、雅楽頭殿のお駕籠を離れない。――近習の者どもが、お駕籠の中に入れまいといろいろ手を尽いたのじゃが――或いはわんわんと吠え叫び、或いはがぶがぶと嚙みつく、大暴れして手におえない――致し方なく、まあ、とりあえず、品川の宿駅まで連れ行き、そこから何とか騙しすかして帰そう、ということに相なった――さても、品川に辿り着いたので、さて、ここから帰そうと、これまた、いろいろやってみたのであるが――またぞろ、最前の屋敷でと同様、駕籠から下ろそうにも手が付けられぬ――仕方なく、とうとう上方まで召し連れて御座った。
なかなかに目立つ良犬であったのであろうか、京でもこの狆、痛く評判となり、天子さまのお耳にさえ達して、
「――畜生の身乍ら、その主人(あるじ)が跡を追わんとするは、その心懸け、ほんに美事なり――」
と、六位を賜はれたとか……。
これを聞いた、噂好きの殿上人が口から出任せに詠ったのか、或いは口さがない京雀が囃いたのか、
くらひ付く犬とぞ兼て知るならば皆世の人の敬わんわん
と詠んだとか……。
以上は、根拠のない戯れ言であろうけれども、当時、さまざまな所で囃し立てられた有名な話である故、ここに記しておく。
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