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2009/11/27

耳嚢 酒井忠實儉約を守る事

「耳嚢」に「酒井忠實儉約を守る事」を収載した。

 酒井忠實儉約を守る事

 酒井修理太夫(しゆりのたいふ)忠實は未年若の人なるが、學問を好み下屋敷に學校を置て家中老少となく學文を專として、武藝の事をも殊外世話いたされけると也。奧方は京都久我(こが)家の息女にて有し。右婚姻のまへに木綿衣類十、待受として出來(しゆつたい)しける故、老臣老女抔も是はいかなる事と申ければ、我等儉約を專らにするは、江戸在所大勢の家中を養育し、且公儀より被仰付御用向を無滯勤度存(とどこほりなくつとめたき)心より、常に自分も綿服をなしける上は、我等の妻たらん者、隨分綿服を可用事也。若しいなみ侯事ならば上方へ返し候迄の事とて、縁女江戸着の上婚姻のまへ是を贈り給ひしとかや。當時人の評判せし人にて、家中とも身上(しんしやう)相應に暮しける由、人の語りゆる儘に記之。

□やぶちゃん注

○前項連関:倹約のエピソードで連関。

・「酒井修理太夫忠實は未年若の人なるが」「實」は「貫」の誤り。現代語訳では正した。以下、ウィキの「酒井忠貫」よれば、酒井忠貫(さかいただつら 宝暦2(1752)年~文化3(1806)年)は若狭小浜藩第9代藩主(小浜藩酒井家10代)であった。妻は正室は伊達宗村の娘であったが、後妻は久我通兄の娘、さらにその後、大炊御門家孝の娘(久我信通の養女)を迎え入れている(それぞれ死別か離縁による生別かは不明であるが、同族の久我家から三度目の妻を迎え入れているところから、少なくとも二度目の妻久我通兄の娘とは死別であろう。……薄い木綿の衣服で風邪を引き、肺炎から亡くなった、のでなければよいのだが……)。彼は宝暦121762)年に父の死去により後を継いで藩主となり、本文通り、宝暦13年(1763)年に従五位下で修理大夫に叙任している。天明3(1783)年から天明の大飢饉の影響で凶作が相次ぎ、それに対する対応策と復興のための資金繰りで財政難に悩まされた、とある。天明4(1784)年には従四位下に昇進、寛政4(1792)年のラクスマン来航の際には、根室の防備を務めたりしている(ウィキの「アダム・ラクスマン」によれば、Адам Кириллович Лаксманアダム・キリロヴィチ・ラクスマン(1766~?)はロマノフ朝ロシア帝国陸軍中尉で、漂流して助けられた大黒屋光太夫の送還を兼ねてシベリア総督の通商要望の信書を手渡すためにロシア最初の遣日使節となった。1792年9月に根室に到着している)。本「耳嚢」巻之一記載の下限である天明2(1782)年には、酒井忠貫は未だ30歳、「當時」という表現からは、20代の折りの話と考えてよい。

・「學校」藩校。諸藩が藩士の子弟を教育するために設立した学問所。

・「下屋敷」大名が参勤交代で江戸に滞在するための藩邸を「上屋敷」と称したが、それとは別に多く江戸郊外に置いた別邸を「下屋敷」と呼んだ。

・「久我家」村上源氏の総本家に当る公家。江戸時代には摂関家に次ぐ清華家(せいがけ:公家の家格の一。最上位の摂関家に次ぎ、大臣家の上)の家格を保持してはいたものの、実際には不振が続いた、とウィキの「久我家」にはある。……なお、私は日本人の好きな女優というと二番に久我美子を挙げる。……いっとう美しいのは黒澤明の「白痴」の大野綾子(アグラーヤ)であろう。あの亀田欽司(ムイシュキン)の唇に触れた彼女の指!……そして、この映画は私にとって最も忘れ得ぬ映画なのである……何故なら私が最も愛する女優原節子も那須妙子(ナスターシャ)役で出ているからなのである(関係ない! けど、綺麗なんだもん!)。

・「待受」新婦の到来を待ち受ける儀式若しくはその時期に新婦に差し出す結納品か。広い意味で、婚儀に先立ち、初めて新婦を迎えるに際して新郎側が用意しておく花嫁のためのプレゼントを指すものと考えてよいであろう。

・「縁女」許婚(いいなずけ)。新婦。因みに、現行民法以前の戸籍に関わる制度の中には、適齢に達した際には戸主の子と婚姻させることを目的として、幼少の女性を事前に入籍させ、入籍者戸籍欄には「長男某縁女」と記載した、と個人のHP「元市民課職員の危ない話」の「過去の戸籍なんでも掲示板」にある(関係ない! けど、なるへそ、だ!)。

■やぶちゃん現代語訳

 酒井忠貫殿が倹約に努めた事

 酒井修理太夫忠貫(ただつら)殿は、未だ年若のお人ではあるが、学問を好み、その下屋敷には学問所を設け、老若を問わず藩士子弟をして勉学させ、また、武芸についても殊の外、ご奨励なされ、ご自身も指導なされたと聞くほどに、好学尚武のお方であられる。

 その奥方は京都の久賀家の息女であられた。

 その婚姻の儀に先立ち、修理太夫殿は粗末な木綿の衣類十点のみを、新婦を迎える待ち受けの品として作らせ、控えの間に置いた。殿の老臣や年かさの奥女中たちはこれを見、あまりのことに、

「……これは、一体、如何なる御事(おんこと)にて御座候や……」

と恐る恐る申し上げたところ、殿は、

「我らが倹約に勤めておるは、江戸在住の大勢の家臣達一人洩らさず、その生活を養い、学問をも施し、且つまた、御公儀より仰せつけられた如何なる御用向きをも滞りなく勤めようという所存故である――さればこそ、常に我らは木綿の服を着用致いておる――さればこそ、我らが妻にならんとする者、当然のこととして木綿の服を用いねばならぬ――もし、それを嫌だというので御座れば――上方へお返し申すまでのこと。」

ときっぱりと仰せられ、新婦久賀家息女江戸御到着

の後、婚礼の儀の前に、これをお贈りになられた、ということである。

 倹約家修理太夫殿は、その当時、痛く評判となったお人で、藩主のみならず、御家中の方々も共に、倹約質素に相応しい暮しに徹しておった、とのことである。

 人の語ったそのままを、ここに記す。

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