「こゝろ」3種(+1)映像作品評≪リロード≫ 追記:新藤兼人監督作品「心」について
僕は過去、今まで以下の三本の「こゝろ」の映像化作品を見ている。どれも「こゝろ」を愛する人には、お薦め出来ないことを最初に断わっておく。これは僕の感想であるが、これらについて僕は議論することも嫌である(それほどこれらはおぞましい)。僕の記載に不快になったらそれ以上お読みにならないようにされたい。「これらの映像作品の何れかを愛する方」と議論する気は、僕には全くないからである(あなたは僕とは違った世界に住んでおり、同じ空気は絶対に吸えない。あなたの呼吸する空気は僕にとっては高濃度の酸素であり、僕は即座に絶命するからである。但し、逆に一緒に笑い飛ばそうというのであれば、その限りではない。是非とも一杯やりながら、一緒に笑い飛ばそうではないか。それは、それが同時に『僕らの「こゝろ」論』となるからである)。なお、最後に本日全編を視聴した2009年10月に日本テレビで放映されたアニメーション「青い文学シリーズ一時間スペシャル こころ」についても附記した。すべてに渡ってネタバレがあることも、「覚悟」の上、お読みになるのならば、では、どうぞ――
①映画 日活(1955年製作)
●スタッフ
監督:市川崑
脚色:猪俣勝人・長谷部慶次
撮影:伊藤武夫・藤岡条信
美術:小池一美
○キャスト
日置(=私):安井昌二
野淵(=先生):森雅之
奥さん(=静):新珠三千代
梶(=K):三橋達也
未亡人(=奥さん):田村秋子
女中・粂:奈良岡朋子
②TVドラマ(1991年12月15日放映 TBS 第1816回東芝日曜劇場 番組時間54分 実質ドラマ部分43分)
●スタッフ
演出:池田徹郎
脚本:宮内婦貴子
○キャスト
私:別所哲也
先生:イッセー尾形
K:平田満
静:毬谷友子
奥さん:佐々木愛
③TVドラマ(1994年10月31日 テレビ東京 番組時間1時間54分)
●スタッフ
演出:大山勝美
脚本:山田信夫
○キャスト
私:鶴見辰吾
先生:加藤剛(現在)
勝村政信(学生時代)
小宮(=K):香川照之
静:高橋恵子(現在)
葉月里緒菜(御嬢さん)
奥さん:佐々木愛
①は「野武士然として数々の主演女優を愛人にして平然としていた「百人斬り」の糞野郎である市川昆監督が半端に真面目に撮ると、あの真面目な「こころ」がこうもお笑いになってしまう、という命題は真である、と僕に感じさせるものであった。
鎌倉の水浴シーンでは一部に水槽を用い、先生が犬掻きをして、まず一発目の哄笑。
満を持したKの登場シーンでは、あの黒澤の「天国と地獄」のような軽薄にして冷淡卑屈な役こそ得意な三橋達也が、如何にもとってつけたような真面目な表情で現われ、その眉は、ビートたけし見たようにくっ付けたような三角形の眉で、「こゝろ」を愛する人で、あの梶の初登場シーンに失笑しない人はいない、と僕は断言したい程である。
安房誕生寺のシーン、Kと僧侶二人が画面右手で、確かカメラは左端の道端にいる「先生」を撮っているのだが、僧が「日蓮は草日蓮といわれるくらい……」とKに語り出したところで、Kが遮り、そんなことはどうでもいい、彼の思想について聞きたいのだといった内容の台詞を突如叫ぶのだが、その瞬間、そのKの一声に吃驚した先生が美事にコケるのだ……私はこれを「こゝろ」を総て暗誦している僕の教え子にして友人である青年とビデオで見ながら、思わず二人して大笑いをしてしまったのを覚えている。
1979年岩波ホール刊の「映画で見る日本文学史」によれば、撮影を見学に来た作家十返肇は、このラスト・シーンで日置(=私)が忌中の紙の下がった先生の家に駆け込み、悄然と出てきた静の前に土下座して、「……僕の力が足りなかったのです……」と言って謝罪するという本作のオリジナル解釈を評して「原作にないこの日置の言葉で、この映画は生きた」と言ったというが、引っ繰り返せば、それ以外の部分では、この映画はとことん死んでいるという皮肉じゃないか、と僕は思ったものである。因みに、この十返が評価した付けたりのエンディング自体、私は「こゝろ」を汚すものだと考えている。なお、この台詞は脚色を担当した長谷部慶次の師和田夏十(市川昆の妻であるシナリオ・ライター)の助言によるものである旨、長谷部の記載にあり、そこには和田の言として『日置が、先生の口から直接打ち明け話をきいてやれなかったのは、日置もまた家意識から抜け出せなかった故なのだから、「先生」を死に至らしめたのは「……僕の力が足りなかったのです……」と言わせるべきだ』(末尾の文脈がおかしいがママである。下線は僕)とある。そして長谷部の文章の最後は先に示した十返の評を記し、『和田夏十氏はその時のことを未だに自慢している』と締め括る。下線部に一言。見当違いも甚だしい。
但し、日置(=私)役の安井昌二・野淵先生(=先生)役の森雅之・奥さん(=静)役の新珠三千代の相対的演技や役の把握は、極めて正統的であり、①~③の中では群を抜いて素晴らしい(特に森雅之のような演技臭くない演技が出来る役者は稀になった気がする)。他に日置の母役で北林谷栄、周旋屋役に下条正巳らが出演している。因みに音楽は大木正夫。ロケーションも今では相応しい場所を探すのが至難であることを考えれば、その点では一見の価値はあると言える。
しかし、中でも出色の演技を見せているのが未亡人(=奥さん)役の田村秋子である。私が原作で考えている『何もかも分かっていて分からないふりをしている』奥さんを、彼女は美事に演じ切っているのだ! これは、画期的な「こゝろ」の解釈を俳優田村秋子が行っている! それは監督市川昆の手柄では決してないということも、演劇をかじったことのある僕には、分かる、のである。僕なら「この映画は、これで生きた」と言いたいくらいである。
最後に。女中の粂なる人物が、この作品には異例な解釈として登場する。何だか、ひどく意味深な、不思議な存在として、確信犯でこの粂なる人物を描いている――謎だ! 変だ! 原作には勿論ない(女中はいるが、無視出来る程度に描かれていない)――でも、それは瑕疵では、決してないのである、僕にとっては、だ――何故かって? 奈良岡朋子は僕の大好きな女優(原節子・久我美子に次ぐ)の一人だから、さ――
②これは確かほとんどがスタジオ・セットによる撮影だったように記憶する。その風呂屋の富士山みたようなイッちゃってるキッチュさが、逆に明治から大正という最早、現在と断絶してしまった『時代なるもの』を感じさせる面白い効果を持たせていたと思う。オーバー・アクトなイッセー尾形は残念ながら、僕の好きな俳優ではないのだが、その狂的な似非笑いは、もしかすると、こういうイッちゃってる「先生」もありかな、と不思議に思わせるものであった(未見乍らソクーロフの映画「太陽」での彼の昭和天皇というのは、ソソるものがある。イッセー尾形はいい意味でも悪い意味でもイッちゃってるフツーじゃない役者なのである)。但し、学生時代もイッセー尾形が演じたのは、幾ら大道具が舞台的描割だからといっても、無理がある。学生時代の「先生」には、女の恋心をそそる方の「キレ」がなくてはならない。イッセー尾形にはいかれた方の「キレ」は豊富にあるが、そっちの「キレ」は残念ながら、ない。
毬谷友子の静は「奥さん」パートではやや妖艶に過ぎるものの、「御嬢さん」パートでは、「御嬢さん」に欠くべからざる少女の持つ曖昧性を保持しており、△。
K役の平田満は僕の好きな俳優であり、抑制のきいた、ある淋しさが本領で、本作の光栄は彼に輝くと言ってよい。他の方のブログ記載を見ていて思い出したのだが、食事のシーンで納豆が糸を引いたのを、手で拭って、それを和服の襟で拭くのを御嬢さんが見て笑うというシーン、確かに効果的なKの朴訥な性格描写であり、御嬢さんの反応描写としても極めて効果的であった。
しかし、忘れられない本作の上手さはエンディングにあった。あの瞬間、私は糞市川のそれではないが、「このシーンで、この作品は生きた」と思ったのを覚えている。
――海岸。切れた数珠の珠を投げ打つ先生(この脚本の解釈も素晴らしいものである)――その笑顔――
である。僕はあのイッセー尾形の『すがすがしい笑顔』を、正に原作「こゝろ」の最後にまざまざと見ているからである。そして――何よりもこのシーンにかぶるのがバッハの――BWV846前奏曲平均律クラヴィーア曲集第一巻第一番前奏曲――であったことが僕の心を打ったのであった(その演奏はジョン・ルイスであった)。
味である。
「やられたな」と心底、思った。
――それから2年後、1993年に僕はグールドのカナダ製作の自伝的映画「グレン・グールドをめぐる32章」(フランソワ・ジラール監督)を見た。現在でも僕の好きな一本であるが、そのラスト・シーンで氷結した湖を向うへと消えてゆくコルム・フィオール扮するグールドに、ボイジャーに搭載され、永遠に外宇宙を漂い続けるグールド自身の演奏になるBWV846前奏曲平均律クラヴィーア曲集第一巻第一番前奏曲がかかった時、その満足感とともに……これは何処かで味わったことがあるぞ?!……と思った。当時はそれをデジャ・ヴュだと思っていたのだが……今更ながら分かった……このシーン、故だったのだ――
③はほぼ全壊全焼焼死体累々たる「こゝろ」である。見ているうちに、ホントに気持ちが悪くなったのを覚えている。
「私」の鶴見辰吾の属性として仄かに匂ってくるホモセクシャルな感じはよいのだが、脚本家は明らかに静に対するベクトルを結末に向けてセットしてしまっており、その齟齬感のために、何だか塵(ごみ)の入った目のようにゴロゴロするのだ。
腐女子系漫画見たような巨大な目の中に星が浮かんでいる真正ホモセクシャル・ステロタイプを滲み出す加藤剛(彼は秦恒平のおぞましい「戯曲 こころ」の「先生」役でもある。但し、彼の「こゝろ」の朗読は悪くない)、そして、正露丸糖衣の宣伝が総てのシーンでダブってしまう羽毛のように軽いステップの勝村政信――いや、何より、この二人が同一人物に、見えないのである。
小宮(=K)役の香川照之は、役者としては文句なしに上手いと思うが、勝村政信の「先生」の一万倍の『肉』を感じさせる役者であるから、パラレル・ワールドの作品「こゝろ+エロス=自殺」を見ている気がして来る程、異様なKであった。
いや――何より最もおぞましいのは――二人の静――である。
高橋惠子(現在)・葉月里緒菜(御嬢さん)――何れも、絶対に見たくない、いや、あってはならない「奥さん」であり「御嬢さん」である。
高橋惠子なんぞは、「先生」の留守を学生が守るシーンで、猫なんぞを抱いて色気プンプンのあの豊満な肉体で風呂上りで登場、先生は結婚してから一度もあたしの体に触れてくれない風な驚天動地の言葉さえ吐くのである。これは、秦恒平以上の場外乱闘掟破りの脚本である(間違えてはいけない。私も先生と静は少なくとも「上」の中では最早セックスレスであると思う。しかし、それを口に出して「私」に言ってしまうのは絶対に「静」ではないということである)。葉月里緒菜、言わずもがなだ、印象・実生活共にこれ見よがしの小悪魔的女優に「静」を演じさせては、ならない。本作は静を冒瀆した愚劣な作品であると言い切れる。
エンディングの静と学生の私の海岸シーンは、秦恒平のおぞましい「戯曲 こころ」に感染した致命的な曲解であり、その点に於いても、あの作品を僕は高校生には見せたくない。解釈の一つとして伝えることと、ビジュアルに見せてしまうことには大きな懸隔がある。
面白いのは、今回気がついたが、奥さん役が佐々木愛で、②のキャスティングと同じなのであった。失礼ながら特にこれといって示すところの印象はどちらもないのだが、違和感もなかったから印象がないとも言え、このドラマでは唯一、瑕疵のない配役と言えるのかも知れない。佐々木さん、妙な褒め方になってしまい、ごめんなさい。
以上は、ほとんど初見時の記憶に基づいて書いたもので、再見して書いたものではない。細部には勘違いや誤りがあるかもしれないことを断わっておく。スタッフ・データはネット上の幾つかの記載から確認したものである。
□蛇足:僕の①~③のキャスト・ランキング
注・これは演技力というよりその役にあっているかどうかという視点の方が強く作用しているものである。不等式の「……」は激しく隔たりがあることを示すものである。
・先生
森雅之≻加藤剛≧イッセー尾形≻勝村政信
・私
安井昌二≻別所哲也≧鶴見辰吾
・静
新珠三千代≻……≻毬谷友子≻……≻高橋惠子≧葉月里緒菜
・K
平田満≻……≻香川照之≻三橋達也
*
こんなことを考えていた矢先、偶然にも先日、知人がこんなミス・キャラクターのものがある、と「こゝろ」のアニメーションを教えてくれた。
……先生の(声)をやる『アブナイ笑み』堺雅人は大好きな俳優なのだが……Kの声は……これはいかん! これはもう、すぐ静に手つけるで! だって女好きの「ER」のロス先生じゃないか! ジョージ・クルーニー小山力也だもん!
脚本:阿部美佳
キャラクター原案:小畑健
監督/キャラクター・デザイン:宮繁之
……「だめだ! こりゃ!」(いかりや長介の口調で)……「惨(むご)い!」――「閲覧注意! 膿盆必須!」――僕はリンク先の続きを見ることさえ最早、不能である……
……と、言いつつ、見てしまった……
……やはり酷(ひど)い……酷過ぎる――これはもう――「こゝろ」では――ないな……
……おや? 後編があるの?……
……………………これは……………………
【再警告! 以下に書かれた呪わしい内容はあなたの身体に重大な霊障を引き起こす虞れがあります! くれぐれも自己責任でお読み下さい! これはネタバレなんどというレベルの問題とは分けが違います! それだけの「覚悟」がある方のみ、では、どうぞ!】
……この阿部美佳という脚本家はやってはいけないことやってしまった……
……平然とこんな下痢便を垂れ流したような似非文学を書けてしまうということ……それを恥ずかし気もなく「原作 夏目漱石」として出せてしまうということ自体……
……僕は『最早、漱石の「こゝろ」は理解されない時代になってしまったのか?』という激しい悲哀感を覚えざるを得ないものである……
――「そうですか」と先生は言った。――
――「Kと静は肉体関係があった……のですか……」――
――これは前後編で夏目漱石の「こゝろ」を芥川龍之介の「藪の中」で、むごたらしく安っぽく愚劣にインスパイアしたものだな――
――多襄丸が先生
――真砂が静
――武弘がK
いっそ「静」の視線版「青い文学シリーズ一時間半スペシャル こころ中編」を中に加えて確信犯たらんとするがよかろうに――ストーリー? 教えてやろうか?――静はね、Kにレイプされちゃうんだ! それを知りながら、先生は敢えてお嬢さんにプロポーズするってダンドリよ! その罪障感からKは自殺した、って、筋書きよ!――総題は――『贋作「こゝろ」+√「藪の中」=Ø』 ――
以上。
――向後――一切――このアニメーションについて僕は語らない。僕自身の記憶から完全に消去したい稀有の作品である。
――「あなたは決してこの作品を見ては不可ませんよ。今に後悔するから。さうして自分が欺むかれた返報に、殘酷な復讐をするやうになるものだから。」――
【追記】この記事を書いてから数年後、中国の動画サイトに未見の以下の作品を見出し(著作権法違反である)、視聴した(現在は削除されている)ので追記する。上記①と②の間に相当する作品である。
○昭和48(1973)年近代映画協会による映画作品「心」(配給ATG)
●スタッフ
監督・脚本:新藤兼人
撮影:黒田清巳
●キャスト
K :松橋登(「K」役ではなく、彼が「先生」役相当)
S :辻萬長(これが「K」役相当)
I子 :杏梨(「静」役相当)
М夫人:乙羽信子(「奥さん」役相当)
Sの父:殿山泰司(「K」の父役相当)
作品内時制も制作された時と現在時間を合わせてある(回想部は十年前)。即ち、当時の現代の物語なのだ。これは見終わった瞬間、
――これは漱石の「心」では全く――ない。「心」の主題や問いかけとは全く無縁な――「心」という作品の額縁だけを借りた――全く別個な作品だ――恐らく当時の学生運動の終焉の予感と、新左翼に対する新藤兼人なりの辛口の決算評価と彼らに対する皮肉な問い掛けなのだ――
と強く感じた。蓼科の山荘と蓼科山は、連合赤軍の「あさま山荘」と、集団リンチ殺人が行われた山岳ベース事件のそれをカリカチャアライズしたものであろう。
従って「こゝろ」の映像化としてどうこう言うレベルの作品ではない。因みに、私は新藤兼人の作品には一本も惹かれない。しかし、「奥さん」の家の二階に主人公が間借りしているのに、その家を写したシーンで平屋という美術ミスは話にならぬ。確信犯なのではないかとさえ思った(仮想現実の作品であるというほくそ笑みでである)。しかもそのシーンが常に同じフィルムの使い回しなのも呆れかえった。金を惜しんだとしか思えないやり口だ。好きな辻萬長と殿山泰司以外は「何じゃこりあ!?!」である。松橋は軽佻浮薄の見本見たよう、杏梨はド派手で肉感ムチムチ、音羽は如何にも以って冷た過ぎである。ともかくも「心」の映像化作品ではないという点だけは肝に銘じて、見るならば見て欲しい。「心」の解読のためには見る必要は全くなく、却って前のアニメとは全く別な意味で有害な作品であるとさえ言える。