耳嚢 兩國橋幾世餠起立の事
「耳嚢」に「兩國橋幾世餠起立の事」を収載した。
これが僕の本年最後の仕儀となった。
では、よいお年を!
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兩國橋幾世餠起立の事
幾世餠は淺草御門内藤屋(ふぢや)市郎兵衞方元祖にて、兩國橋の方小松屋は元來橋本町邊住居せし輕き餠賣也しが、新吉原町の遊女幾世といへるを妻として夫婦にて餠を拵へ、毎朝兩國橋へ持出、菜市(ないち)の者へ賣渡しける。年も盛りぬる女ながら、吉原町のいくよ/\と申觸(まうしふら)し、殊の外商ひも有しに、今の鄽(みせ)に九尺店ありしを買ひ右の所へ引移り、兩國橋幾世餠と妻の古名を名代(なだい)にて商ひせしが、幾世曲輪(くるわ)にありし此(ころ)の馴染の客追々世話いたし、暖簾をそめさせ抔いたし、右世話人共思ひ付て日本一流幾世餠と染てかけ渡しけるに付、藤屋より論を申立、其頃の町奉行大岡越前守方へ訴出けるは、幾世餠の儀は本來藤屋一軒にて則暖簾にも藤の丸の印相用ひ候處、近年近所に同樣の商を始、暖簾も藤の丸を染候事難心得旨申立故、小松屋を呼出吟味ありしに、小松屋申立るは同人妻は元遊女にて幾世と申候故、自然と幾世餠と人々唱へ候儀にて紋所は前々より用ひ候所に有と、暖簾看板いづれも已前幾世客の給りしと答ふ。是又申所そのいわれなきに非ず、双方申所を以自分存寄(ぞんじより)あり、右の存寄に隨ひ可申哉(や)と越前守尋(たづぬる)ゆへ、何れも可奉畏(かしこまりたてまつるべき)旨答ける故、双方共に一所に居候故事やかまし、され共小松屋幾世餠といへるも其名を用るも商ひ筋の儀、藤屋は古よりの事の由、是又可致樣なし。然るに双方とも江戸一と看板に印し今より江戸の入口に右江戸一の譯を可記(しるすべし)、藤屋は四ツ谷内藤宿へ引越、江戸一の看板出し可申、小松屋は葛西新宿(あらしゆく)へ引越商可致、何れも新宿と唱ふる所なれば汝等が同名を爭ふ所も相立可然と申れければ、双方邊鄙(へんぴ)へ引越の儀大きに當惑し、熟談の上願下げいたし今の通商ひいたしけるとかや。
□やぶちゃん注
○前項連関:商売絡みで連関し、また、大木傳四郎の売薬の店(あたらし橋)と小松屋の元店の場所(あたらし橋の南。後注参照)が近接する。複数既出の根岸が尊敬した大岡越前守忠相関連の事件でもある。江戸時代の商標登録訴訟の一場面として、また、名に知れた大岡裁きの機知の実際に触れることが出来る貴重な一篇である。
・「幾世餠」越智月久氏のメール・マガジン「名作落語大全集」の74号に、搗米屋(つきごめや:米問屋から米を買い、それを精米して米屋に売る職業。)の奉公人清蔵と遊女幾代の落語「幾代餅」の梗概を記した後に、『1704年(元禄17)、両国の小松屋喜兵衛が餅をざっと焼いて餡を絡めたものを売り出したが、女房が吉原で幾代という名だったので、いつか「幾代餅」と呼ばれた。餅はうまかったが、茶はまずかったという』とあり、更に『小松屋の主人は禅を収め、自宅でも僧を集めて問答をしたので、その奇声が近所の評判となったという。女房の幾代は中村七三郎が舞台でその姿を写したほどの美人。娘のお松は一流の書家として三社権現に真行草三体の揮毫を奉額したという。親子三人がそろって有名だが、店は維新前に廃絶した。一方の藤屋は無断で幾代餅を売る店が増えて行き詰まり、1886年(明治9)に廃業している』とある。越智氏の末尾の言については、岩波版長谷川氏の注にも『浅草の藤屋、両国橋西詰の小松屋喜兵衛、吉川町若松屋が有名』とあるので、有象無象の幾世餅が江戸市中には存在したことが窺われる。餅の形状についてはやはり長谷川氏の注に『餅をざっと焼いて餡をつけたもの』とある。また、底本の鈴木氏の注では、小松屋喜兵衛は橋本町に住む元は『車力頭であったが、上野中堂の建設で金を儲け、両国に餅屋を出した。吉原の河岸見世で女郎をしていたいくよを妻にして、はじめはいくよが自分で餅を焼いて売った(墨水消夏録)』ともある。「墨水消夏録」は文化年間(1804~1817)に記された伊東蘭洲著になる江戸の地理や墳墓の話及び人物の伝記を記した随筆。日本橋に始まり、八百屋お七の墓で終わる一種の江戸の地誌。
・「橋本町」現在の千代田区東神田(昔の橋本町・江川町・富松町・久右衛門町が合併したもの)江戸城東方に位置する。ここは本来は寺町であったが、天和(てんな)2(1682)年に起こった有名な八百屋お七の大火によって、ここにあった願行寺(がんぎょうじ)・法善寺・本誓寺の三つが移転、その跡地に橋本町が開かれた。橋本町の町名は、牛馬の売買や仲買をする幕府の博労役橋本源七がこの辺りの土地を与えられたことに因なむとされる。橋本町の南に接する馬喰町((現在の日本橋馬喰町)には多くの博労が居住していて、馬市が盛んに開かれていた(以上は千代田区総合HPの町名由来板ガイドを参照した)。
・「九尺店」一尺≒30.3㎝であるから、約2m73㎝。当時の単位では一間半(一間≒1.8m)に相当する。間口九尺・奥行き二間(約3.6m)というのは、実は江戸時代にあって最も狭い長屋一室の大きさであった。
・「名代」名目として掲げる名前。名目。名義。ここでは勿論、屋号ではなく、商標としての「幾世餅」を指す。
・「町奉行大岡越前守」大岡忠相(おおおかただすけ 延宝5(1677)年~宝暦元(1752)年)西大平藩初代藩主。八代将軍徳川吉宗の享保の改革期に、町奉行として江戸の市中行政に辣腕を揮い、評定所一座(幕政の重要事項・大名旗本の訴訟・複数の奉行管轄に関わる事件の裁判を行なった当時の最高裁判機関)にも加わった。最後は寺社奉行兼奏者番(そうじゃばん:城中での武家礼式を管理する職)に至る。「大岡政談」等で知られる名奉行であるが、ウィキの「大岡忠相」の事蹟によれば、『市政においては、町代の廃止(享保6年)や町名主の減員など町政改革も行なう一方、木造家屋の過密地域である町人域の防火体制再編のため、享保3年(1718年)には町火消組合を創設して防火負担の軽減を図り、享保5年(1720年)にはさらに町火消組織を「いろは四十七組(のちに四十八組)」の小組に再編成した。また、瓦葺屋根や土蔵など防火建築の奨励や火除地の設定、火の見制度の確立などを行う。これらの政策は一部町名主の反発を招いたものの、江戸の防火体制は強化された。享保10年(1725年)9月には2000石を加増され3920石となる。風俗取締では私娼の禁止、心中や賭博などの取締りを強化』した。厚生事業や農事関連として、『享保7年(1722年)に直接訴願のため設置された目安箱に町医師小川笙船から貧病人のための養生院設置の要望が寄せられると、吉宗から検討を命じられ、小石川薬園内に小石川養生所が設置された。また、与力の加藤枝直(又左衛門)を通じて紹介された青木昆陽(文蔵)を書物奉行に任命し、飢饉対策作物として試作されていたサツマイモ(薩摩芋)の栽培を助成する。将軍吉宗が主導した米価対策では米会所の設置や公定価格の徹底指導を行い、物価対策では株仲間の公認など組合政策を指導し、貨幣政策では流通量の拡大を進言して』もいる。また、現在、書籍の最終ページには奥付が必ず記載されているが、『これは出版された書籍の素性を明らかにさせる目的で1721年(享保6年)に大岡越前が強制的に奥付を付けさせることを義務化させたことにより一般化した』ものであるという。面白い。彼が町奉行(南町奉行)であったのは享保2(1717)年から寺社奉行となった元文元(1736)年8月迄(但し、評定所一座を引き続き務めている)で、越前守という官位も町奉行に就任した折りに賜ったものである。因みに、本「耳嚢」の作者根岸鎮衛は、この大岡忠相と並ぶ名町奉行として有名であった。
・「同人妻は元遊女にて幾世と申候故、自然と幾世餠と人々唱へ候儀にて紋所は前々より用ひ候所に有と、暖簾看板いづれも已前幾世客の給りし」藤屋の商標侵害に対する異議申し立てに対する小松屋の反対陳述であるが、やや苦しい気がする。まず、幾世餅という名称は「菜市の者へ」「吉原町のいくよ/\と」幾世が「申觸し」たことを起点として発生した商標であって、「自然と幾世餠と人々唱へ候」故ではない。また、「紋所は前々より用ひ候所に有」るものであるのならば、小松屋喜兵衛であるからには何故に「藤の丸の印」の紋所を用いておるかを論理的に納得し得るよう弁論する必要がある(ここのところ、実際の弁論ではそれがあったのかも知れない。何故ならここで「有と」となって、引用を表わす格助詞によって、陳述が一回切られているからである。訳では「……」で繋げた)。また、暖簾のことは陳述通りであるが、看板については疑わしい。商標を侵害している『両国橋幾世餅』という看板が出店時にあった以上、これは「已前幾世客の給りし」ものではない可能性の方が遙かに高い。以上から、私は本小松屋の陳述、大岡のように素直には承服し難い。いや、恐らく大岡はそこまで全部見通して、如何にもとぼけて驚天動地の裏技の裁可を下したというのが真相であろう。
・「存寄」考え。意見。
・「尋(たづぬる)」岩波版では「尋(たづね)」とし、訊ねること、という名詞で読んでいる。これが恐らく正しいものと思われるが、私は自分が音読した際、如何にも不自然なこれを肯んずることが出来ない。故に敢えて動詞で読んだ。
・「四ツ谷内藤宿」現在の新宿(新宿駅のある東京都新宿区新宿三丁目及び西新宿一丁目を中心とする地区呼称)。その名は甲州街道の宿場町内藤新宿(ないとうしんじゅく)に由来する。ウィキの「新宿」によれば、『江戸時代、甲州街道は起点である日本橋から最初の宿駅である高井戸まで4里(約16km)という距離であり、起点と宿場までの間が長いため多くの旅人が難儀していた』ため、元禄11(1698)年に『この地に新しい宿駅が設けられた。当時の信州高遠藩主であった内藤氏の中屋敷があったため、内藤新宿と称したことに起因している。この中屋敷跡が現在の新宿御苑であり、御苑のある地名も「内藤町」となっている』とする。なお、同ウィキには『東京方言における「新宿」の本来の発音は「しんじく」であるとされていた』とある。即ち、「四ツ谷内藤宿」は甲州街道の最初の宿駅江戸の『西の果て』ということになる。両国の小松屋の本格的な創業が元禄17(1704)年であるから、この藤屋による民事訴訟はその直後と考えられ、その頃の新宿は正に新宿、恐らく20年も経っていない。正にここは江戸とは名ばかりの、内実、江戸っ子にとっては「江戸じゃねえ!」地であったと考えられる。
・「葛西新宿」現在の葛飾区新宿(にいじゅく)。中川(葛西川)の東岸にあり、水戸街道千住宿から一つ目の宿場町である。古くは新居の宿で「あらしゅく」と呼ばれていたらしいが、現在は「にいじゅく」と呼称している。本文では古称で示した。ここは小田原北条氏によって開拓された古い「新宿」である。しかし、江戸から『東北に向かう最初の宿駅』なのである。芭蕉の「奥の細道」でも千住は前途三千里の思いを致す場所、その先に、この「新宿」はあるのである。即ち、ここも「四ツ谷内藤宿」と同じく、江戸っ子に言わせれば「江戸たあ! しゃらくせえ!」地であったと考えられる。なお、大岡の裁可では、正式に「にいじゅく(にいじく)」と発音している可能性があるが、ここは大岡が言うように、江戸の外れの「新宿」であるという点が重要なのであるから、私は「しんじく」と発音しているものとして、現代語訳ではルビを振らなかった。
■やぶちゃん現代語訳
両国橋幾世餅事始の事
幾世餅は、浅草御門内藤屋市郎兵衛が元祖で、両国橋の方の小松屋の幾世餅というのは元来橋本町辺りに住んで御座った何処にでもあるようなただの餅売であったものが、新吉原町の遊女幾世という女を妻に迎え、夫婦で餅を拵えて、毎朝、両国橋近くに持ち出し、同所の食材の朝市に来た客に売って生業(なりわい)として致いて御座った。幾世儀、既に年も盛りを過ぎては御座ったれど、
「吉原町のいくよ~! いくよ~!」
の売り声も高らかに、思いの外、売れ行きもよかったので、両国橋近くに小さな店があったのを買い取り、今の店があるところに引き移って、『両国橋幾世餅』と妻の昔の源氏名を商標として商い致いておったところ、幾世が廓(くるわ)におった頃の馴染み客どもが、これまた、あれやこれやと世話を致いて、ある時、その者どもの思いつきで『日本一流幾世餅』と暖簾に染め出し、店の入り口に掛け渡いて御座った。
こうなっては元祖幾世餅藤屋、黙っては居られぬ。その頃の町奉行大岡越前守殿へ訴え出た。その訴状――
「『幾世餅』商標の儀は、本来、藤屋一軒の所有せる物にして、暖簾にも丸に藤の印を用いておりましたところが、近年、近所にて同様の餅商いを始め、『幾世餅』と偽称するばかりか、暖簾にも丸に藤を染め抜いておりますこと、頗る納得し難きことにて、訴え申上候以上」
そこで越前守は御白州に原告藤屋同座の上、被告小松屋を呼び出だいて、事情を聴取した。その小松屋の申し立て――
「私の妻は元遊女で御座いましてその源氏名を幾世と申します。従って、自然と市井の方々が『幾世餅』と唱えまするようになった次第で。暖簾の紋所は私がずっと以前より使っているもので御座いまして、藤屋さんの紋所とは何の関係もこれなく……暖簾・看板、何れも以前、幾代の客であったお人から貰うたものにて御座いまする。」
という答えであった。
それを聞くや、徐ろに、
「これまた、訊いてみれば、小松屋の申すところも必ずしも肯んじ得ぬものではない――。以上、双方の言い分を訊き終った上は――自分に考えがある――されば、その考えに従う意思は双方共にあるか?」
と越前守殿が訊ねたので、何れもその御裁可に従(したご)う旨、申し上げた。
その越前守様御裁可――
「双方共に同じい場所に居(お)る故、じゃかあしい! 小松屋の商標『幾世餅』が妻の名を用いておるというのも商いにあっては尤もなことである――而れども藤屋は古くから『幾世餅』の商標を用いておる由、これも訴うること尤もなること――これは如何ともし難い――然るに、双方とも『江戸一』と看板に印しておる――こちらの方が不都合千万ではないか?――『江戸一』が二つあろうはずは、ない――されば、どちらかが嘘ということにもなろう――双方は双方とも『江戸一』を真実と申そうぞ――さればこそ、本日只今を以って、江戸の入り口に於いて、何を以って『江戸一』とするか、その理由を記して掲ぐるに若くはない――江戸に入る者やら、江戸を出る者やらが、自然、その『江戸一』であることの真偽をも質してくれることでもあろう――されば、これより――
藤屋儀 甲州街道江戸側四ッ谷内藤宿へ引越!――加えて『江戸一』の看板とその由縁を掲げて商い致すべし!――
小松屋儀 水戸街道江戸側葛西新宿へ引越!――同様に『江戸一』の看板とその由縁を掲げて商い致すべし!――
私が重大な疑義と判断する問題――即ち双方の『江戸一』の広告の件は――かくして一件落着!――
加えて補足しておく――何れの地も新宿と称える江戸の新興地という土地柄である故、汝らが江戸で同名を争わねばならぬという問題も、その限定された『新しい江戸』での『江戸一』という解釈に立てば、共に定立して矛盾を生じないことになる故、二重に合理的である!――どうじゃ? こういう採決は?……」
これを聴いた藤屋と小松屋は吃驚仰天、双方とも、この辺鄙な土地への強制移住という内容に大いに当惑、お白州の場で双方仲良く委細相談の上、即刻、藤屋は訴状取り下げを願い上げたとのこと――。
されば今に、藤屋と小松屋は従来通り、『幾世餅』の商いを続けておるとか言うことで御座った。