耳嚢 江戸武氣自然の事
「耳嚢」に「江戸武氣自然の事」を収載した。
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江戸武氣自然の事
浪華(なには)の鴻池善右衞門(こうのいけぜんゑもん)といへるは洛陽第一の豪家にて、大小の諸侯の用金等不引請(ひきうけざる)はなし。天明元年牧野越中守どの諸司代被仰付、土岐美濃守御城代被仰付、未在江戸にて被居(をられ)し折から、善右衞門儀伊勢參宮いたし江戸表へ出候處、牧野家は親しき譯も有之哉、濱町中屋敷の長屋をかし、家來分にて右善右衞門居(をり)たりける。當時金銀用向等相賴候諸家よりの饗應大かたならず、日々菓子珍味等給りけると也。或日善右衞門借用の長屋前にて、家中の子供大勢遊び居たりしを、善右衞門見及び手代に申けるは、所々より給りし菓子夥しく捨(すつ)る外なし、あの子供衆へ振廻ひ可然(しかるべし)と申ける故、手代ども右の子供を呼侯て菓子を出し、その譯申けるに、右子供申けるは、我々は侍の子也、捨る菓子を可喰(くふべき)や、善右術門は何程富貴也とも元來町人なり、不埒の申し條かなとて菓子を投返し、或は石を打抔いたし以の外騷ぎしかば、手代色々詫言して、全く右躰(みぎてい)の儀に無之(これなき)段申ければ、流石に子供故了簡いたしけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:子であろうと天下の道理は大人の武士と同じで連関する。
・「浪華」は大阪の古称。浪速・難波・浪花などと表記する。
・「鴻池善右衞門」は、当時の関西きっての豪商鴻池家で代々当主に受け継がれた名前。ここでは天明元(1781)年から判断して6代目(5代目は明和元・宝暦14(1764)年に死去している)か。鴻池家についてはウィキの「鴻池善右衞門」によれば、『遠祖は尼子氏家臣の山中鹿介(幸盛)であると言われている。兵庫県伊丹市で造酒業を営んでいた鹿介の子の鴻池新六幸元から、初代の正成(生年不詳 - 1693年)、2代目の之宗(1667年 - 1736年)、3代目の宗利と続き、摂津国鴻池醸造業から、初代正成が1619年に大坂へ移り、1625年には大坂と江戸の間の海運、蔵物輸送や酒造などを手がけ、1656年には酒造を廃業して両替商をはじめ、大名貸、町人貸、問屋融通など事業を拡大し鴻池財閥を形成する。3代目宗利は新田開発や市街地整備も手がけ地代を得る。上方落語の「鴻池の犬」、「はてなの茶碗」に鴻池善右衛門の名前が登場する』とある。因みに、以降の記載に拠れば、10代目鴻池善右衛門(天保12(1841)年~大正9(1920)年)は、明治10(1877)年に第十三国立銀行(現・三菱東京UFJ銀行)を創設、その後は日本生命保険の初代社長に就任、近代日本の金融・貿易界の発展に尽力した人物として銘記される人物である。
・「洛陽」中国のそれに擬えた京都の異称であるが、ここでは広く京阪神を言うのであろう。
・「牧野越中守どの」牧野貞長(享保18(1733)年~寛政8(1796)年)のこと。常陸笠間藩(現・茨城県笠間市)主。寺社奉行・大坂城代・京都所司代・老中を歴任。官位は従四位下、備後守、侍従。天明元(1781)年は、大坂城代から京都所司代に転じた年である。
・「諸司代」所司代が通常表記。前掲注よりこれは京都所司代。京都の治安維持を職務とする。
・「土岐美濃守」土岐定経(享保13(1728)~天明2(1782)年))のこと。上野国沼田藩第3代藩主。官位は従四位下、美濃守。に奏者番から寺社奉行となり、天明元年(1781)年に大坂城代となっている。ここで彼を提示した意図が今一つ分からないが、彼も当時、大金を善右衞門から借り受けていた人物として知られていたのであろう。そこを勘案して、後の訳に再登場させた。
・「御城代」ここでは大坂城代。大坂城の保守警備と大阪在勤の幕府諸役人の統轄、就任と同時に割り当てられる大阪近郊の臨時所領の支配、及び西国大名の監視を職務とする。将軍直属で、有力な譜代大名が任ぜられた(以上、牧野貞長から本件までの注は主にウィキの各項を参照した。リンクは張らないがここに謝して明記する)。
・「濱町」現在の東京都中央区日本橋浜町。新大橋に近い隅田川沿いに牧野家の中屋敷はあった。
・「中屋敷」ウィキの「江戸藩邸」の記載に拠れば、上屋敷(大名とその家族が居住した屋敷で、普通、江戸城に最も近い屋敷が上屋敷となった)の控えとして建てられたもので、多くは隠居した大名・成人した跡継ぎの屋敷とされた。上屋敷近くに位置し、屋敷内に長屋が設けられ、本国から従ってきた家臣・藩士らが居住した。なお、下屋敷は別邸として機能し、江戸郊外に置かれたものが多い、とある。
・「手代」商家にあって番頭と丁稚(でっち)の中位の使用人。
・「全く右躰の儀に無之」恐らく丁稚は当初、「捨てなあかんもんやさかい差し上げまひょ。」ぐらいな軽率な謂いをしたのであろう。子供らの剣幕に「……いえ、その……生菓子やさかい、いつまでももつもんとちゃいますやろ……仰山、もろうてからに、儂らでは食い切れまへんのや……ゆくゆく時間が経って無駄に捨てなあかんことになる前に……もろうたばかりの美味しいお菓子やさかい、お子たちにも分けて差し上げよ……言う、御主人さまのお心遣いですよって……いえ、もう決して、捨てる腐りかけたもんを出したんとは、ちゃいますて……」と言ったような弁解をしたものと思われる。
■やぶちゃん現代語訳
江戸の武家魂は自ずと子供にもあるという事
浪花の鴻池善右衛門という者は京阪随一の富豪で、如何なる大名諸家と雖も、彼に金の貸付を致さざる者はなかったと言ってよい。
時は天明元年、牧野越中守殿が所司代を仰せ付けられ、また、土岐美濃守が御城代を仰せつけられたが、未だ参勤交代の折柄、両人共に江戸に居られた頃のことで御座る。
かの善右衛門、伊勢参参宮りを致いた折り、大きく足を延ばし、江戸表へと罷り出た。その折り、牧野家は、かねてより善右衛門と親しくして御座った縁もあったのか、浜町に御座った中屋敷の長屋を彼に貸し、善右衛門を家中家来の身分にて江戸滞在中の住居として、住まわせて御座った。当時、彼のもとには、当家牧野越中守殿からは勿論のこと、土岐美濃守殿以下、諸家からの金銀御用の用向き引きも切らず、それに関わって日々の善右衞門への饗応も半端ではなかった。彼の長屋には、その賂(まいない)として、日々。豪華な菓子や山海の珍味といったものが、賜れておったということで御座った。
そんなある日のこと、善右衛門が借りて御座った長屋の前にて、牧野家御家中の藩士の子らが大勢遊んで御座った。
善右衛門はそれを見て、己が手代を呼び、
「処々より頂戴致いた菓子、夥しく、最早、捨つるより外、ない。一つ、あの子供衆に振舞ってやるがよかろう。」
と申した。それを聞いた手代は、その子供らを呼び集め、菓子を出だし、それを分け与えんことの仔細を述べたところが、その子らは、
「我等は侍の子じゃ! 捨てねばならぬ菓子なんど、喰らうものか! 善右衛門とか言う者、何程の金持ちか知らんが、所詮、町人じゃ! 如何にも侍の子を馬鹿にした不埒な物謂い!」
と言うが早いか、子ら皆々、善衛門方長屋へ向けて菓子を投げ返し、或いは石など投げ打ち致し、以ての外の大騒動と相成ってしもうた。
されば、手代は慌てて色々と詫び言を致いて、
「……全く以って……その……そのようなことは……一分も御座りませねば……」
と詫びを申したところ、流石に子供らも納得して許した、とのことで御座った。
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