耳嚢 澤庵壁書の事 / 200000アクセス記念テクスト暴露
「耳嚢」に「澤庵壁書の事」を収載した。
200000アクセスのために、無為に見て貰うのは、勿論、僕の本意からは遙かにはずれる。今日は、今日中に何とか「耳嚢」をもう一本、掲載して、アクセスして呉れている奇特な方々への、せめてもの御礼と致す。
因みに、現在、12月23日午後11:14
アクセス数199768
一日平均アクセスは151.8であるから、微妙である――
――されど僕は、明後日、早くに名古屋に旅立たねばならぬ。
――さればこそ、明日の午後、200000に達しようが、達しまいが、僕は休みをとって、みなさんが未だ見たことのない、昨年発見された、
幻の芥川龍之介の遺書のやぶちゃん版オリジナル翻刻
をお目にかけようと――既に決心してしまっているのである――
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澤庵壁書の事
澤庵の書(かけ)る壁書を、山村信州所持の由にて寫し給りぬ。
飯は何の爲に食ものぞ。ひだるきをやむためにくふ物歟。ひだるき事なくばくふて不入物に、さらばさてもしかるにそへ物なくては飯はくらはれぬと皆人のいふぞひが事なる。偏にひだるさ止(やめ)ん爲のはかりごと也。役にくふ飯にはあらず。そへ物なくて飯のくらわれぬは、いまだ飢の來らざる也。飢きたらずば一生くわであらむ。若(もし)飢きたらば、其時におゐては糟糠(さうかう)をも嫌ふべからず。況や飯におゐておや。何のそへものかいらん。受食(しよくをうくるは)如服藥(くすりをぶくするごとく)せよと佛も遺教(ゆいけう)し給ひし。衣類も又如此。人は衣食住の三にこそ一生を苦しむれ。此心あるにより我は三のくるしみうすし。これぞ我が反故のうち也。錬金法印のかけとある程に書もの也。
元和の酉の冬に 宗 彭
□やぶちゃん注
○前項連関:戦場訓は人生訓に通底連関。
・「澤庵」江戸前期の臨済宗の名僧澤庵宗彭(たくあんそうほう 天正元(1573)年~正保2(1646)年)のこと。かつて住持をした大徳寺での紫衣(しえ)事件(後水尾天皇が幕府に無断で紫衣着用の勅許を下したこと)に関わって抗議を行い、出羽に流罪となる。その後、二代将軍秀忠の死去に伴う大赦で赦され、家康のブレーンで、後の秀忠・家光にまで仕えた謎の天台僧南光坊天海及び将軍家剣術指南役柳生宗矩から噂を聞いていた家光の深い帰依を受け、寛永16(1639)年に萬松山東海寺を草創した(前掲の「萬年石の事」を参照)。書画・詩文・茶道にも通じ、祐筆家でもあった。
・「壁書」本来は室町期に命令・布告や掟て等を板や紙に書いて壁に貼り付けたもの、若しくはその法令そのものを言ったが、ここでは、禅家の心得や戒文を書いて壁に掲げたものを称している。
・「山村信州」山村十郎右衛門良旺(たかあきら 生没年探索不及)宝暦3(1753)年に西丸御小納戸、同8(1758)年に本丸御小納戸、明和5(1768)年に御目付、安永2(1772)年には京都町奉行に就任、同年中に信濃守となった。安永7(1777)年には御勘定奉行となった。根岸との接点は、良旺が御目付で、根岸が評定所留役若しくは勘定組頭であった前後のことであろうと思われる。やはり、根岸の情報源の一人と思しい。
・「役」は難しい。真に生きるために為す有意なる行為、とりあえず、誠に「生きる」という営みをする、と訳した。
・「一生くわで」の「くわ」はママ。
・「其時におゐては」は「おゐて」はママ。
・「おゐておや」「おゐて」も「おや」もどちらもママ。
・「遺教」釈迦が説き遺した教えの意で広く仏教・仏法を指す語でもあるが、実は以下の引用は「仏垂般涅槃略説教誡経」、一般に「遺教経」(ゆいぎょうきょう)「仏遺教経」と呼ばれる、釈迦がマッラ国の首都クシナガラの沙羅双樹(サーラの樹の間)にてまさに寂滅しようとする最後の説法を記したとされる経典にある語である。そこで釈迦は、智者というものは五感を制御し、そこからややもすると生ずるところの五つの獰猛にして恐るべき欲望に惑わされることはない、いや、あってはならないのだとし、以下のように語る。美事な弁証法である(原文は真言宗泉涌寺派大本山法楽寺のHP内の「『遺教経』を読む(2)」にある原文を正字化して用いたが、同ページの書き下し文や訳文は参考に留め、オリジナルな解釈を旨とした)。
汝等比丘。受諸飲食當如服藥。於好於惡勿生増減。趣得支身以除飢渇、如蜂採花但取其味不損色香。比丘亦爾。受人供養取自除惱。無得多求壞其善心。譬如智者籌量牛力所堪多少。不令過分以竭其力。
○やぶちゃんの書き下し文
汝等、比丘、諸々の飲食(をんじき)を受けるに、當に藥を服(ぶく)するがごとくすべし。好くものに於いても、惡(にく)きものに於いても、増減を生ずること勿かれ。趣に身を支ふることを得、以て飢渇(きけち)を除くべし、蜂の花を採るに、但だ其の味を取りて色香を損ぜざるが如く。比丘も亦、爾(これ)なり。人の供養を受くるに、自(おのづか)ら取つて惱を除くべし。多くを求め、其の善心を壞(こぼ)つるを得ること無かれ。譬へば、智者の牛力(ぎうりき)の堪ふる所の多少を籌量(ちうりやう)して、分に過ぎて以てその力を竭(つく)さしめざるがごときものなり。
○やぶちゃんの現代語訳
さればこそ、汝ら比丘よ、托鉢によって得た諸々の飲食(おんじき)は、そうした愚かな五感によって感得される見た目や音声(おんじょう)や香や味や触感に拘ることなく、ただ身体(からだ)を健やかに保つための薬を服用するが如く摂るべきものである。得た飲食物が世俗で言うところの良いものあっても、悪いものであっても、そこに、「生を保つための薬」であるもの以上の、更なる欲求や不足への不満の思いを持ってはならぬ。与えられたもの、得たものそのものに満足し、その身を安らかに支える――そのようにして、飢渇を鮮やかに取り除くがよい――それは譬えるなら、蜜蜂が花から蜜を採るのに、ただその蜜だけを鮮やかに吸い乍ら、その美しい花の色や香を決して損なうことがないのと同じである。比丘が食を摂るということ、これもまた、蜜蜂と同じい。人々から托鉢供養を受くる際には、自然、そのままに受け取り、それで、鮮やかに煩悩を断つ。――そこで、より多くの供養を求めようなんどという心を起こし、供養してくれた当の人々の真心を損なうようなことは、決してあってははならぬ。それは丁度、智者が、牛を労役するに際し、その牛の自然の体力の耐え得る間合いをよく見極めて使い、限度を超えてしまって、その牛の総てをだめにしてしまうことがないのと、同じことである。
・「錬金法印」未詳。諸注も黙して語らず。何れにせよ、「錬金」という法印名(「法印」は正式には「法印大和尚位」で、僧位の最上位、僧綱(そうごう)の僧正に相当するもの)は私には極めて奇異な感じがする。尤も、法印という称号は中世以降には、僧に準じて医師・絵師・儒学者・仏師・連歌師などに対しても与えられたから、もしかするとそうした人物(それも風雅の道の絵師・仏師・連歌師:俳諧師か)なのかも知れない。私が正式な法印なら「錬金」なんどという法印はやると言われても付けたくない。
・「元和の酉」元和7(1621)年。将軍は家光。目立った事件はないが、幾つか列挙しておく。この年、柳生宗矩が家光に剣法を伝授。幕府による純金・粒銀の改鋳が行われた。七月、幕府は九州の諸大名に対して邦人の外国船での渡航・外国との武器輸出入・外国人への日本人の人身売買を禁じ、同八月には西国諸大名に対し、難破・漂着船救助に関わる法度を発布し、鎖国政策を強めた年でもあった。
■やぶちゃん現代語訳
沢庵禅師壁書の事
沢庵禅師が書いたという壁書を山村信濃守殿が所持なされておる由、承り、以下、実見の上、書写させて頂いたものにて御座る。
飯は何のために喰(く)うもんじゃ?
ひもじさを止めんがために喰うもんか?
ひもじくなくんば、喰わいでもよいものを――
さらば! さても! 然るに!――
なして、添え物なくて飯は喰えぬと人の言うかッ?!
これぞ、誠(まっこと)! 大間違いじゃッ!
これ、ただ、ひもじさを止めんがための、ケチ臭き謀事に過ぎぬ!
誠に「生きる」という営みをするための、飯では、ないぞ!
添え物なくては飯が喰えぬ、なんどと言うは――未だ誠に飢えておらぬ証拠!
飢えることなくんば、一生喰わであらりょうぞ!
一度(たび)飢え来たらば、その時に於いては、酒糟米糠いっかな粗末な喰いものであろうと、嫌(きろ)うてなんど、居られぬ!
況や飯(しゃり)に於いてをや!!!
何の添え物がいるかッ――――!!!
「食物を摂取するに際しては、薬を服用するが如くにせよ。」
と釈迦牟尼仏も遺教なさって御座ったれば――
衣類もまたこれに同じい――
されば、人なればこそ、衣食住の三つに、その生涯を苦しむるのじゃが――
多くの衆生は、このことを心に留(と)めおいておらぬ――
このことを、儂は心に留めおく故に――
この三つの苦しみが、如何にも薄いのじゃて!……
……これは、まあ、儂の落書きの内じゃ……
……錬金法印が書けと言う程に、書いた迄のことに過ぎぬ……
元和の酉の年の冬に 宗彭

