耳嚢 井伊家質素の事
「耳嚢」に「井伊家質素の事」を収載した(今回は不明な部分があり、同僚の日本史の先生の御教授を願って、納得出来る訳に仕上げることが出来た。ここに記して感謝致します)。
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天明元年若年寄被仰付ける兵部少輔(ひやうぶせういう)は、井伊家の惣領家なれど高貳萬石也。當兵部少輔實子無之故、掃部頭次男を養子に仰付けるに、掃部頭より兵部少輔へ養子の合力(かふりよく)四百石宛の由也。然るに兵部少輔は小身の上不勝手に付、家來より掃部頭家來迄、右合力増の儀内々申談候處、成程尤の事ながら、掃部頭は三十萬石の高ながら、嫡子玄蕃頭いまだ部屋住の折ならば五百石の合力に侯間、増候儀難成事の由、挨拶有し候と聞傳へし旨、山村信濃守物語ぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:三つ前の「江戸武氣自然の事」の天明元年の出来事で連関。
・「井伊家」これについては、井伊宗家である井伊掃部頭家と、分家でありながら、本文に表わされるように「惣領家」である兵部少輔家について説明が必要である。以下はウィキの「井伊氏」に拠る。
藤原氏の後裔を称する井伊氏は、天正18(1590)年、井伊直政(後に徳川四天王の一人として知られる)は家康の関東入府に伴って『上野国箕輪12万石、関ヶ原の戦いの後には近江国佐和山に18万石を与えられる。直政の死後、直政の子の井伊直勝は1604年(慶長9年)に近江国彦根に移り築城したが、1615年(元和元年)幕命により弟の掃部頭直孝に彦根藩主の座を譲った』(ウィキの記載では『直勝は病弱だったといわれる』とあるからそれが理由か。また、本文では「三十萬石」とあるが、直孝の代には更に天領の城付米預かりとして2万石(知行高換算5万石)を付与されて35万石の格式の譜代大名となっている)。江戸時代の彦根藩家は直澄、直該(、直幸、直亮、直弼と』歴代『の大老職を出すなど、譜代大名筆頭の家柄』であった。
一方、井伊直政の長男直勝は亡父の官名である兵部少輔を世襲し、3万石として安中藩藩主となって分家となった。宗家とは反対に『この直勝が興した系統は、安中藩から西尾藩、掛川藩と転封された。直勝の曾孫である当時の掛川藩主・兵部少輔直朝が精神病だったために改易』の憂目にも遭っている。『しかし、宗家・掃部頭家から直興(直該)の4男・直矩を兵部少輔家5代目に迎えての家名再興存続が許されて、城を持たない2万石の与板藩主となった。その後、10代・井伊直朗が若年寄となったため、城主格に昇格した』と記す。これが分家でありながら、嫡流の再興ということから、「惣領家」と呼ばれる所以なのであろう。
・「天明元年」は西暦1781年。
・「兵部少輔」井伊直朗(なおあきら 寛延3(1750)年~文政2(1820)年)のこと。越後与板藩第6代藩主で、直勝の井伊兵部少輔家10代に当る。彼は4代藩主井伊直存(なおあり)の三男であったが、宝暦10(1760)年、先代藩主の兄井伊直郡(なおくに)の死去前日にその養嗣子となり、翌年、後を継いで藩主となっている。後、大坂城加番(かばん:正規の大番の加勢役)や『奏者番を努め、天明元年(1781年)9月には西の丸若年寄、文化元年(1804年)8月には城主格とな』っている。『婿養子としていた井伊直広は寛政4年(1792年)閏2月に早世していたため、その子の井伊直暉が後を継いだ』とある(以上はウィキの「井伊直朗」を参照した)。但し、底本の鈴木氏注では天明6(1809)年から若年寄とし、誤りと断ずるが、これは恐らく鈴木氏の誤りである。
・「掃部頭二男」「掃部頭」は当時の井伊宗家宗主、井伊直幸(享保14(1729)年~寛政元(1789)年)のこと。彦根藩第12代藩主で江戸幕府大老であった。ウィキの「井伊直幸」によると、『幕政では田沼意次と共に執政していたが、田沼に賄賂を積んで大老の座を手に入れたという噂もあった。天明6年(1786年)に将軍・家治が死去すると、若年寄で同族の井伊直朗や大奥と共謀して次の権力の座を狙ったが、政争に敗れ天明7年(1787年)、大老職を辞』した、とある。その「二男」は井伊直広(なおひろ 明和6(1769)年~寛政4(1792)年)井伊直幸の八男(二男は単なる誤伝であろう)であったが、本文にある通り、越後与板藩6代藩主井伊直朗の養子となった。しかし、没年でお分かりの通り、家督相続前、23歳で死去、代わって、直広の長男であった直暉が井伊直朗嫡子となった(以上、直広についてはウィキの「井伊直広」を参照した)。
・「合力」この場合は、養子を出す側である「三十萬石」の井伊宗家の養子持参金としての養子を受ける「貳萬石」乍ら、井伊「惣領家」でもある井伊兵部少輔家への経済的援助を言う。
・「小身」通常は第一義的には身分が低いことを言うが、ここでは地位は若年寄と高位であるから、無城の与板藩2万石の低い俸禄(石高)を言ったものであろう。
・「玄蕃頭」井伊直富(なおとみ 宝暦13(1763)年~天明7(1787)年)第12代藩主直幸の三男。官位は従四位下、玄蕃頭。ウィキの「井伊直富」によると、『生年は宝暦10年(1760年)ともされる。兄の井伊直尚が早世したため、彦根藩嫡子となる。安永4年(1775年)徳川家治に拝謁し叙任。同9年(1780年)には少将に任ぜられたが天明7年(1787年)に25歳(あるいは28歳)で早世した。代わって、弟の井伊直中が嫡子となった』とある。岩波版で長谷川氏は直幸の六男井伊直中(明和3(1766)年~天保2(1831)年)のこととするが、天明元(1781)年には、まだ直富は生きている(彼も玄蕃頭ではあった)から、「嫡子玄蕃頭」という謂いそのものが有り得ないと思われる。因みに、ウィキの「井伊直中」によれば、その後、『寛政元年(1789年)に直幸が死去したため、家督を継いで彦根藩第13代藩主とな』ったとする。『直中は寛政の改革に倣い積極的な藩政改革を行ない、財政再建のための倹約令や町会所設置による防火制度の整備、殖産興業政策を行ない、寛政11年(1799年)には藩校として稽古館を創設し、算術や天文学、砲術など多岐に指導し人材育成に努めた(後に弘道館と改名)。ほかにも治水工事などの干拓事業を行ない、藩祖の井伊直政らを祀るために井伊神社を創設し、さらに佐和山に石田群霊碑を建立し石田三成の慰霊を行った』ともあり、こうした井伊直中の華々しい事実がこの記事の錯誤を生じた理由かも知れない(但し、その場合、「耳嚢」の初期作品の内容校訂作業が後年に行われことを意味することにもなることを認識する必要がある)。なお、この井伊直中は幕末の大老井伊直弼の実父でもある。
・「いまだ部屋住の折ならば五百石の合力に侯」「部屋住」とは嫡子であるが未だ家を継いでいない状態の男子を言っている。宗家当主である父井伊直幸は未だ健在であったが、幕府大老として江戸表で激務と政争に明け暮れていた。世継である井伊直富は恐らく実質的な藩政を司っていたと思われるが、当時の彼には何と500石の俸禄しか与えていなかったことを指している。実質的な嫡男にさえ500石しか『小遣い』を与えていないのに、二男(正しくは八男)にどうして400石以上の合力(経済援助)なんど出来ようはずがない、と言うのである(以上は同僚の日本史の先生に『合力』を願った結果、到達した見解である)。
・「山村信濃守」山村十郎右衛門良旺(たかあきら 生没年探索不及)宝暦3(1753)年に西丸御小納戸、同8(1758)年に本丸御小納戸、明和5(1768)年に御目付、安永2(1772)年には京都町奉行に就任、同年中に信濃守となった。安永7(1777)年には御勘定奉行となった。根岸との接点は、良旺が御目付で、根岸が評定所留役若しくは勘定組頭であった前後のことであろうと思われる。やはり、根岸の情報源の一人と思しい。
■やぶちゃん現代語訳
井伊家の質素倹約の事
天明元年、若年寄仰せ付けられた井伊兵部少輔直朗(なおあきら)殿は、井伊家嫡流であったが、石高は二万石しかなかった。この兵部少輔直朗殿には男子がなかったため、井伊掃部頭直幸殿の次男であった直広殿を養子にと仰せつけられたところ、養子を出す掃部頭直幸殿から養子となる兵部少輔直朗殿への、合力料としての養子持参金は四百石で、との返答があった。しかし、兵部少輔直朗殿は、若年寄とは申せ、二万石と俸禄が少なかった上に、当時、経済的にも不如意であったことから、直朗殿家来より掃部頭直幸殿御家臣へ、この度の養子合力料の加増の儀に付、非公式に内々の申し入れが御座ったのであるが、掃部頭直幸殿御家臣からは、
「……成程仰せられ候儀、尤ものこと乍ら、掃部頭直幸殿は三十万の石高乍ら……当主直幸殿の嫡子であらせられる玄蕃頭直冨殿でさえ、未だ部屋住の身にて在れば、五百石しか小遣いを与えて御座らぬ――お世継でさえ、かくなる仕儀なれば、お求めになられているような加増の儀は――これ全く、成り難きことにて、御座る。」
ときっぱりとした拒絶の旨、返答が御座った、と伝え聞いて御座る、と山村信濃守良旺(たかあきら)が物語った。