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2009/12/01

耳嚢 江戸贔屓發句の事

「耳嚢」に「江戸贔屓發句の事」を収載した。句解釈で納得が行くのに手間取った話柄である。

 江戸贔屓發句の事

 京都さる堂上(たうしやう)の、あづまの祭禮を笑ひて、其頃の俳諧師其角へ一首の狂歌を給りぬ。

  あづまなる鄙の拍子のあなるかな神田祭りの鼓うつ音

 其角いきどふりて、

  花薄大名衆をまつり哉

 かくいたしけると也。近き頃百萬といへる俳諧師、其角のこゝろを追て江戸自慢を、

  人留めて涼しく通る祭かな

□やぶちゃん注

○前項連関:前とは特に連関を感じさせないが、二つ前の「小刀の銘の事」の討ち入りと本話に登場する俳人其角はよく知られた関係がある(後注参照)。また、ここまで「犬に位を給はりし事」以降は、直前の「水野家士岩崎彦右衞門が事」が岡崎で中部地方である以外、総て上方の話であった。そうした流れへの一石とも言えるか。

・「堂上」堂上家のこと。公家の格式の一つで、清涼殿昇殿を許されているか、公卿に就任することが可能な家柄を言う。

・「其角」宝井其角(たからいきかく<当初は母方の姓である榎本を名乗る>寛文元(1661)年~宝永4(1707)年)蕉門十哲の一人。江戸堀江町で近江国膳所藩御殿医の長男として出生、父の紹介で松尾芭蕉の門弟となった。芭蕉没後は「虚栗」(みなしぐり)「枯尾花」等を編し、日本橋茅場町に江戸座を開いて、江戸俳諧の最大勢力となった。句集「五元集」等。彼は大阪の井原西鶴とも親しく、知られる限りでは2度上方へ上り、西鶴に面会している。また、彼は赤穂義士討入前夜、四十七士の一人であった大高源五と知り合い意気投合、討入も傍見したとよく言われる。真偽の程は定かでないが、しばしば「忠臣蔵」のドラマ等でも登場し、其角の豪放磊落にして喧嘩っ早く酒好きといった気質は、確かに義士を讃える江戸っ子として、正にぴったりな人物と言えるであろう(以上は、主にウィキの「宝井其角」を参考にした)。この話が事実譚として信じられていたのならば(以下の発句の錯誤からこれは明らかな都市伝説なのであるが)、この堂上は西鶴辺りから其角を知っていたという設定なのかも知れない。

・「あづまなる鄙の拍子のあなるかな神田祭りの鼓うつ音」「あづま」の「あ」に対して、「あなる」(「あんなる」の撥音便無表記で「なり」は伝聞推定――実は婉曲――と判断し、あるそうだ、あるという、の意。断定「なり」の場合もあるが採らない)が頭韻を踏み、更にその「あなる」と「悪(あ)なる」が掛けられている。後は洒落て私の勝手気儘訳にさせてもらいましたえ(←京都弁のイントネーションで)――狂歌だろうが、和歌は苦手なので、よく分からない。他に隠れた修辞がありせば御教授を乞う。「神田祭」は神田明神(神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場等の総氏神)祭礼で江戸三大祭の一つ。当時は隔年で旧暦九月十五日に行われ、その頃は山車を繰り出す祭りであった(山車は関東大震災で殆んどが焼失して廃されたという)。

やぶちゃんの通釈:

東夷(「あ」ずまえびす)の ど田舎の 祭りの太鼓は なんやえろう おかしな拍子で 「あ」んのどすてなぁ――「あ」、かんポン!――「あ」、かんポン!――神田(「かん」「だ」)祭りも「あかなんだ」 なんとまあ 拍子抜けたる 拍子よのぅ

・「花薄大名衆をまつり哉」底本では右に『尊經閣本「夕月や大名達を花すゝき」』とある。実は、ここに至ってこの話が都市伝説であることが判明する。この句は其角の句ではないことが判明するからである。本話柄は芭蕉七部集の第五になる「猿蓑」(松尾芭蕉監修・向井去来及び野沢凡兆撰になる蕉門の発句及び連句集の第五編。芭蕉は元禄4(1691)年5~6月に京都でこれを修している)の「巻之四」に現れる次の連句を元に捏造されたものである(岩波文庫昭和411966)年刊の中村俊定校注「芭蕉七部集」より引用)。

  神田祭

   さればこそひなの拍子のあなる哉

    神田祭の鼓うつ音    蚊足

   拍子さへあづまなりとや 

花すゝき大名衆をまつり哉       嵐雪

即ち、この句は宝井其角と同じく蕉門十哲の一人(彼は延宝元(1673)年入門で十哲中最古参)であった服部嵐雪(はっとりらんせつ 承応3(1654)年~宝永4(1707)年)の吟なのである。以下、岩波文庫1989年刊の堀切実編注「蕉門名家句選(上)」の堀切実氏の注を参考にしながらも、なるべくオリジナルに、これを読み解いてみたい。

まず、前句(堀切氏は俳諧歌と呼称される)の「蚊足」(ぶんそく)という人物であるが、これについて堀切氏は『上州館林藩藩士であった嵐雪の友人の蕉門丁亥郎蚊足か。京の談林系俳人和田蚊足と見る説もある』とされる(中村俊定氏は前者に断定)。この後者の「蚊足」なる人物は芭蕉の去来宛書簡にも登場し、和田蚊足も後に江戸蕉門となっている点、この「耳嚢」の話の設定からも、『京の談林系』という履歴はしっくりくる。

さて、まず前句で、この蚊足が神田祭を揶揄する。

やぶちゃん通釈:

神田祭り言うてもな 葵祭とちっとも似とらしまへん 「徒然草」の一節(ひとふし)やないけれど さればこそ田舎の者の祭りやおへんか 太鼓の拍子の音一つにも なーんやおかしい響きがおますな

それに対して、嵐雪はまず「拍子さへあづまなりとや」と付句する。これらは総て次の句の一種の前書群として読むのが正しいのだろうが、私には破調の付句のように見えるのだ。

やぶちゃん通釈:

この野郎! 東(あずま)を夷(えびす)と言うにことかき 祭太鼓の拍子の音(ね)さえ 夷太鼓(えびすだいこ)と言うんかい!

本話と一致した憤怒のポーズである。堀切氏はこれに「拾遺和歌集」巻七に所収する『「吾妻にて養はれたる人の子は舌だみてこそ物はいひけれ」などを下敷きにした表現か』と推測されている。

それを受けて、嵐雪自身が、神田祭の豪華さを発句形式で謳い上げるのである。堀切氏は「花すゝき」に注して「俳諧七部集大鏡」から引いて『「諸候方よりも祭礼の警固を仕給ふを行列を花芒といへるなるべし」と説く』とされ、更に『神田祭で「造花の尾花に張抜きの月を配した」山車を「武蔵野」と称したことから、「花すゝき」が着想されたとみる説(川島つゆ『芭蕉七部集俳句鑑賞』)も参考になろう』と付説されている。山車(前注参照)の実際の造花の尾花の他、警護の武者の旗指物などをススキに見立てたものか。この後半は尊経閣本「耳嚢」の「夕月や」という表現と三つ巴になってきて、如何にもヴィジュアルに面白くなってくる。

やぶちゃん通釈:

警護の武者の群れ――旗指物は武蔵野一面に薄が花開いたかのようだ――神田祭はさながら――かの大名衆を芒の穂の如く靡き打ちそろえた――祭り!――

・「百萬」底本注で鈴木氏は明和年間の俳諧師で俳諧選集「八題集」を編んだと記す。岩波版長谷川氏注には『安永ごろ八丁堀住の伽羅庵小栗百万あり』とも記す。何れの俳諧師についても、私はそれ以上のことを捜し得なかった。なお、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「百葉」とあるが、これは所謂、烏焉馬の誤りであろう。「萬」と「葉」は明らかに草書で似通う。

・「人留めて涼しく通る祭かな」口の干ぬ間にの感があるので言い難いが、当初、これは本当に神田祭若しくは江戸自慢の祭りの句なのであろうか、と思わず疑ってしまった。単純に考えると「涼しく」に引かれる「祭」は明らかに夏の葵祭であろう。そうなると俄然、こちらは葵祭の揶揄のようにも見えてくるのである。しかし、そうすると「其角のこゝろを追て江戸自慢」という根岸の言葉は矛盾して響く。「江戸自慢」が響いてこないのである。いや、更によく考えてみると、「涼し」と「祭」では禁則の二重の季詞となる。されば、これはやはり「神田祭」の「祭」であって、その固有名詞によって季は秋ということになろう。「涼し」は、さすれば季語としてではなく、様態としての「すっきりしている、煩わしさがなくて気が楽だ」「潔くて立派だ」という意味で用いられたということになる。神田祭の、そこにこそ、東国武士、江戸っ子の真骨頂としての「祭」の真の姿を見ている、という解が私のこの句への到達点である。

やぶちゃん通釈:

神田祭の山車と武者行列が通って行く――人々は立ち止って晴れやかに にこやかに それを迎える――それは奇態な僑奢や鼻につくおすましとは無縁――すっきりと潔く立派なその「通り」――これぞ、「祭り」を見たというもんさ!

なお、私の畏敬する「耳嚢」現代語訳サイトの当記事現代語訳「江戸びいきの句のこと」では、これらの後半二句の「祭」を正統的歳時記から夏の季語と採って、更に中古に於ける「祭」=京都賀茂神社例祭=葵祭とし、両句共に、京の葵祭を揶揄したものとする解が示されている。それは吉田氏への投稿者の句解釈を採用したものであって、訳の末尾にその投稿者の解説が示されている(詳しくはリンク先を参照)。その解釈は連句の解釈に長けた方の手になるものと思われ、句の表現の裏の裏を読んで、葵祭にシンボライズされるところの京の存在を完膚なきまでにこきおろした凄い解釈で、誠に面白いものではある(これは確かに掛け値なしに面白い。是非ご覧あれ)。しかし乍ら、「猿蓑」所収のものは、表記の通り、「神田祭」を題(前書)とする句であり、「まつり」は秋祭たる神田祭を指すことは疑いようがない。蚊足の揶揄を受けて、根岸の言う通り、「江戸贔屓發句」として神田祭を読んだものであることも明白である。テクスト論的には可能であり、都市伝説としての尾鰭をつけた解釈としても舌を巻くもの乍ら、徹頭徹尾、観念的で映像が見えてこない点で俳諧解釈としては致命的な瑕疵があり、私にはいずれの訳も、当該句の解釈の一選択肢としても、また、連句的多層的読みの許容範囲としても、残念ながら肯じ得ないものである。若年の頃は乱暴狼藉廓通いにとち狂ったという実際の作句者嵐雪の意識の中にも、また、都市伝説上の作者俠客めいた「大兵肥滿(だいひやうひまん)の晉子(しんし)」其角の意識の中にも、更には、これを現に書き記しているところの作者根岸鎮衛の意識の中にも、このような悪意としての機智の働きは、ない、何より、この両句は江戸自慢の句でなくてはならない、と私は思うものである。

・「明和」西暦1764年から1772年迄。「耳嚢 巻之一」の下限は天明2(1782)年春までであるから、最近でよいであろう。其角や嵐雪(彼等は偶然にも没年が一緒である)の生きた時代を閉鎖区間と捉え、本句所収の「猿蓑」成立の元禄4(1691)年を最下限とすれば、凡そ8090年の隔たりがあることになる。

■やぶちゃん現代語訳

 江戸贔屓の発句の事 

 京都のさる堂上のお公家さまが、東の祭礼の野卑を嘲笑(あざわら)い、その頃京でも知られていた宝井其角に、一首の狂歌をお送りなさった。

  あづまなる鄙の拍子のあなるかな神田祭の鼓うつ音

これを読んだ其角は激怒して、

  花薄大名衆をまつりかな

と返しを致いたそうである。

 さても、最近のこと、百萬という俳諧師が、この其角の心を追慕して、詠んだ江戸自慢の句。

  人留めて涼しく通る祭かな

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