耳嚢 鬼谷子心取物語の事
「耳嚢」に「鬼谷子心取物語の事」を収載した。
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鬼谷子心取物語の事
安永の頃、淺草馬道に鬼谷子といひて鍼治の業をなし、且雲氣の學を以人の吉凶等を悟り抔したる奇翁あり。其年百歳餘といへ共誰も其年をしる人なし。右の門人予が許へ來りて語りけるは、此程鬼谷子を久留米侯より呼れしに、甚其術信仰の上、老翁なるを以尊敬又類ひなし、或時老人の事故玄關より駕(かご)に乘、門の出入も駕の儘可致とて其譯申渡、時々呼れしが、兩三度目にもありなん、例の通り裏門へ參り乘輿(じやうよ)の儘通りけるを門番人咎めけるは、何者なれば乘輿の儘通るとありし故、しかじかの免(ゆる)しありと附添の人斷しが、番士何分承知無之故駕を下り通りしが、最早重ては久留米侯へ召さるも斷を申參るまじと申故、右門人諌けるは、大家(たいけ)の事なれば左程の事はあるべき也。是迄の老生を御惠み有りとて駕にて門内を通行も又類ひなき事也、是迄の通立入侯方可然と申ければ、鬼谷子曰、我富貴金銀の望なしといへども、下賤の老翁を二十萬石餘の諸侯より招き恩遇ある事、いかでかいなみ嫌ふ事更になし、然しながら人と參會懇意にするに合氣と成候ではゆかぬ事あるもの也、至て親しきもてなしの内へ一節ふしを付れば恩遇不絶もの故、某(それがし)輕き身分を大家の門内駕にて通路はその寵過の過たるなれども、纔二十萬石の家にて、門内駕にての通路をゆるし、又門にて咎るといふ、號令の不行屆也、重てまいりまじきと申遣けるは、定て右の門番の心得違などゝ申被相招候半(まうしあひまねかれさふらはん)、其節はいか樣にも此身をへりくだりて、重ては門内駕にては不通行樣可致(つうかうせざるやういたすべし)、此時上下和合して永く交歡をたたざるもの也と語りしが、果して左ありしとかや。
□やぶちゃん注
○前項連関:老中首座でありながら御入用方を兼務出来ぬ、門内駕籠にて通行可と言われながら門番が罷りならぬという、道理に合わぬ事実という点で連関。
・「鬼谷子」この名は元来は、「史記」に現われ、合従連衡で知られる縦横家の蘇秦及び張儀の師とされている(両者の列伝に「鬼谷先生」の名が掲げられている)が、鬼谷の伝は他になく、実在は疑われている。所謂、算命学(干支暦や陰陽五行説を元にした本邦の易占い)の祖とされる。その名を名乗るとは、なかなかの強者と言うべきであろう。
・「心取」辞書には、機嫌をとる、ご機嫌取りのこととあるが、この場合、所謂、深謀遠慮によって、人の心を素早く正確に読み取り、それに最も最適の行動をいち早くとれることを言っているように思われる。
・「安永の頃」西暦1772年~1780年。
・「淺草馬道」浅草寺の北東部を南北に走る通り。浅草から昔の吉原土手に向う馬道町のこと。現在は浅草2丁目及び花川戸1~2丁目に跨る馬道商店街となっている(一説には新吉原の客が馬で通った道に由来するとも言う)。
・「雲氣」空中に立ち上るところの精神的エネルギ、所謂、オーラのこと。古来、天候・勝敗・吉凶・生死など、広く人や事象の未来を予知する根拠とした。
・「久留米侯」有馬頼徸(よりゆき 正徳4(1714)年~天明3(1783)年)。筑後国久留米藩第7代藩主。摂津有馬氏の庶流で、21万石。ウィキの「有馬頼ゆき」(ブラウザ標題ひらがなママ)によれば、彼は『有職故実や様々な法令の知識に優れており、学問にも長けていた。特に頼徸が優れていたのは和算であった。和算は江戸時代前期に関孝和によって成立したもので、当時は代数式、行列式、円に関する計算などがそれであった。頼徸はその和算に対して深く興味を持ち、関流の教えを継ぐ山路主住に師事してこれを学んだ』。『頼徸は、それまでは52桁しか算出されていなかった円周率を、さらに30桁算出し、少数の計算まで成立させた。明和6年(1769年)には豊田文景の偽名で「拾機算法」五巻を著した。これは、関孝和の算法を自分自身でさらに研究し進めたものをまとめたものである』。その評価を見ると『幕府からその才能を認められて江戸増上寺の御火消役に任じられると共に、官位もこれまでの歴代藩主よりさらに上である左少将に叙任されることとなった。また、将軍が狩猟で仕留めた鶴を拝領することができるという「国鶴下賜」を三度も受けている。これは徳川御三家や伊達氏、島津氏、前田氏などの大藩しか賜らないという厚遇であったため、有馬氏は頼徸の時代に大大名と肩を並べる厚遇を受けることとなった』とあり、『頼徸の治世は54年の長きに渡り、また頼徸自身が優れた藩主だったこともあって久留米藩の藩政は比較的安定化し、頼徸はその治績から「久留米藩の吉宗」と賞賛されるに至った。なお、頼徸と同時期の教養人、新発田藩・溝口直温、松江藩・松平宗衍と並んで「風流三大名」と称される』と、大絶賛である(記号の一部を変更した)。
■やぶちゃん現代語訳
鬼谷子の深謀遠慮の語りについての事
安永の頃、浅草馬道に鬼谷子という鍼治療を生業(なりわい)と成し、且つまた、雲気の学を以って人の吉凶を占うという奇体な老人が御座った。その年齢は百歳とも言われるが、実際のところ、知る者は御座らぬ。私の知り合いで、その鬼谷子の門人の一人であった者がおり、私の家へ訪ねて来た折りに語ったことで御座る――。
最近、鬼谷先生は久留米侯有馬頼徸(よりゆき)殿の屋敷に招かれまして、その鍼術・雲気観相の学、殊の外、御崇敬御信心になられ、また、老翁にてあらせらるることによりても、御尊敬なされておられた。ある時、特に高齢の老人のこと故、屋敷の玄関を出たところから直ぐに駕籠に乗ることを特に許され、また、裏門の出入りの折りも、駕籠に乗ったままにて致すがよい、と藩主頼徸殿から直々の御達しにて、その後もたびたび呼ばれて御座った。
ところが、確か三度目のことで御座ったか、例の通り、裏門に回って駕籠のまま入ろうとしたところが、門の番人がこれを咎めて、
「何者かッ!? 駕籠のまま、入らんとするは!?」
大仰に叫ぶ。
「これこれの由、既にお許しを戴いて御座りまする。」
と鬼谷先生お付きの者が、慇懃に断わりを入れたのだが、番士は、知らぬ存ぜぬの一点張り。なればと、鬼谷先生は駕籠を降りて通った。その際、鬼谷先生は付き添いの者に次のように告げた。
「……最早、向後、重ねて久留米候からのお召しがあろうともお断り申し上げよ。もうこちらへは参るまいよ……。」
これに、その付き添いの者は、
「……先生、大家にては、得てして、こういうことがよく御座りまする……。御老体を慮らるるとて、駕籠にて門内通行御構いなし、という有り難いお達しからして、これはもう例なきことにて御座いまするれば……。どうか、これまで通り、お召しに従ごうが、よろしかろうと存知まするが……。」
と久留米候の格式と温情に配慮し、また、せっかくの厚遇を惜しんで申し上げたところ、鬼谷先生応えて曰く、
「……儂は金銀財宝地位権勢なんどにはまるで興味はない……ない、とは言うても、驕りは、せぬて……儂の如き下賤の爺、それを二十万石余の御諸侯方よりお招きに預かり、これまた御厚遇頂いておるを……何故、厭い嫌うなんどということが御座ろうか……いやもう、誠(まっこと)、有り難きことと思うておる……思うておるが……しかし乍らじゃ……人が人と交わり合って、それぞれの志を理解し合い、互いに誠の懇意を深うするには……互いの「気」と「気」が、ぴたりと「合」とならいでは、ゆかぬものじゃして……到って親しき御もてなしを受けておる、その中に、今、一つの影を射すような変化が生じた……しかし、その変異に対する対応如何によっては……その手厚い待遇が、殊更に高まる、ちゅう所以よ……儂の如、軽い身分の者が、大家の門内を駕籠のまま通るなんどということは……そりゃ、はあ、過ぎた御寵愛、御厚遇じゃ……じゃが……たかが、二十万石の御一家にあって……藩主が門内駕籠にての通行を許したものが……かたや、はたまた、下賤の門番が門で咎むるなんどということは……凡そ、藩主の号令が、まるで行き届いておらぬということじゃ……さても、そこでじゃ……『もうこちらへは参りますまい』……と申し上ぐれば……きっと……『これは門番の心得違いにて』……なんどと仰せられて……再びお招き頂くことに相成るわけじゃ……さても、その節にこそは……この身を如何様にもへり下ってじゃな、二度とは門内駕籠にては通らぬように致す……それが、よいのじゃ……その時こそ、総ての「上」なるものと「下」なるものが和合致いて……そうして……我らの交歓も永く絶えざる堅固なものと、なるのじゃて。」
と語ったので御座るが……、果して後日、久留米侯御家中と鬼谷子とは、ここで語った通り、睦まじき縁を永く保ったとか、言うことで御座った。
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