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2009/12/23

耳嚢 山中鹿之助武邊評判段の事

「耳嚢」に「山中鹿之助武邊評判段の事」を収載した。

 山中鹿之助武邊評判段の事

 山中鹿之助は往古武邊場數(ばかず)類ひなく武勇の男也しが、或合戰濟て其日初陣(うひぢん)の若武者兩人虎之助に向ひ、某(それがし)今日初陣にて敵と鑓合(やりあはせ)の折柄は、兼て思ひしとは違ひ、敵に向ひては先づ震ひを生じ、中々差(さす)敵をしかとみる事難成、仕合に踏込鑓付て首を揚候得共鎧の毛より不覺、かゝるものにてありやと尋ければ、隨分精を出し給へ、遖(あつはれ)武邊の人に成給はんと答。今壱人申しけるは、某は左程には不存、さす敵と名乘合、敵は何おどしの鎧にて何毛の馬に乘りしが、鑓付し場所其外あざやかに語りければ、鹿之助同じく答してける。右兩士其席を立て後、傍の人此論を康之助に尋ければ、最初に尋し若侍は遖れ武邊の士に成ぺし。後に尋しおのこは甚心元なし、若(もし)拾ひ首にてはなきや、左もなくば重ての軍(いくさ)には討れ可申といひしが、果して後日(ごにち)その言葉の如し。鹿之助申けるは、某抔初陣或は二三度目の鑓合は、最初の武士がいひし通り震ひを生じ、中々眼をひらき向ふを見らるゝ者にてなし、只一身に向ふを突臥(つきふせ)しと思ひ、幸ひに首をとりし也。度々場數を踏てこそ其樣子も知るゝもの也と語りし由。

□やぶちゃん注

○前項連関:「プラシーボ効果」から殺人時の異常心理、記憶障害へと連関して読める。

・「山中鹿之助」山中幸盛(天文141545)年?~天正6(1578)年)のこと。ウィキの「山中幸盛」によれば、『戦国時代の山陰地方の武将。出雲国能義郡(現島根県安来市広瀬町)に生まれる。戦国大名尼子氏の家臣。本姓は源氏。実名は幸盛(ゆきもり)、通称鹿介だが、講談の類で鹿之助とされたため一般には山中鹿之助(しかのすけ)なる誤った表記で知られる。幼名は甚次郎。優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」の異名を取』った。衰亡した主家尼子氏の再興のため、『忠誠を尽くして戦い続け、その有り様が後人の琴線に触れ、講談などによる潤色の素地となった。特に江戸時代には忠義の武将としての側面が描かれ、悲運の英雄としての「山中鹿之助」が創られていく。これが世に広く知られ、武士道を精神的な支柱とした明治以降の国民教育の題材として、月に七難八苦を祈った話が教科書に採用された』とする。また、『勇猛な美男子であったといい、毛利軍で猛将として知られた菊池音八や、有名な品川大膳との闘い、信貴山城攻略での松永久秀の家臣河合将監をいずれも一騎打ちで討ち取ったという逸話が知られる。後世において、鹿介は尼子十勇士の一人として称えられている』とある。

・「武邊」武道に関する色々な事柄。華々しき戦歴の数々、またその人。

・「差(さす)敵」目指す敵。

・「鎧の毛」 鎧の小札(こざね)を綴った糸や革のことを言う。小札については以下にウィキの「大鎧」から引用しておく。『大鎧の主体部は小札と呼ばれる牛の皮革製、または鉄製の短冊状の小さな板で構成されている。小札には縦に2列または3列の小穴が開けられ、表面には漆が塗られている。これを横方向へ少しずつ重ねながら連結した板状のものを、縦方向へ幾段にも繋ぎ合わせる(威す・おどす)ことにより鎧が形成されている。こうした構成により、着用者の体の屈伸を助ける。なお、重量軽減のため、革小札を主体として、要所に適宜鉄小札を混じえる例が多い。これは金交(かなまぜ)と呼ばれる』。

・「何おどしの鎧」「おどし」は縅毛(おどしげ)のこと。前注の通り、小札(こざね)を、『色糸やなめし革の紐を用いて縦方向に連結することを「威す」といい(「緒通す」がその語源とされている)、連結したものを縅と言う。小札の穴を通して繋ぎ合わせる組紐(絲)や韋(かわ)。威の色・模様・材質等により紺絲威(こんいとおどし)、匂威(においおどし)、小桜韋黄返威(こざくらがわきがえしおどし)等と呼ばれ、色彩豊かな国風の鎧が形成された』(以上、引用は同じくウィキの「大鎧」から)。本来は、この「何」には上記のような縅の名が入っていた。訳では「××縅の鎧」とした。

・「何毛の馬」本来は、この「何」には以下のような馬の毛色を示す名が入っていた。馬の毛色には鹿毛(かげ:「しかげ」ではない。最も一般的な毛色の一つで、鹿の毛のような茶褐色であるが鬣・尾・足首に黒い毛が混じったものを言う)・黒鹿毛(くろかげ:黒みがかった鹿毛。胴体がやや褐色を帯びている)・青鹿毛(あおかげ:黒鹿毛より黒く全身ほぼ黒一色のもの。鼻先や臀部などに僅かに褐色が入るものもある)・青毛(あおげ:全身黒一色。季節によって毛先が褐色を帯びて青鹿毛に近くなる場合がある。但し、古典で「青馬」(あをうま)と言った場合は白馬を指すので注意が必要)・栗毛(全身褐色で最も一般的な毛色の一つ。黒味が強い順に黒栗毛・紅梅栗毛・紅栗毛・栃栗毛・栗毛・柑子栗毛(こうじくりげ)・白栗毛などの呼称もある)・蘆毛(灰色。生時は灰色や黒であるが、経年変化のなかで白くなる)・佐目毛(さめげ:全身が白色又は象牙色で、肌の色はピンク。本邦では道産の和種に稀に見られる)・河原毛(かわらげ:全体は淡黄褐色又は亜麻色で、四肢下部と長毛が黒いものを言う。道産和種等に見られる)・月毛(クリーム系の色のもの。本邦では道産の和種などに時々現われる。栗佐目毛と栗毛の人為交配によって産生が可能。上杉謙信の愛馬放生月毛が知られる)・白毛(最も白い毛色のもの。蘆毛と異なり、出生時より全身が真っ白で肌もピンク。但し、これはアルビノではない。馬では純粋なアルビノは知られていないそうである)・粕毛(かすげ:栗・鹿・青の原毛色の地で、肩・頸・下肢などに白い刺毛(さしげ:白いぶち・白斑のこと)が混生するもの。比較的古い品種に見られるもので、道産の和種では半数以上に及ぶ)等がある(以上は、ウィキの「馬の毛色」を参照した)。何だか、訳もなく楽しくなってきて、みんな挙げてしまった。中には江戸時代の馬では見られないものもあるやも知れぬ。訳では「××毛の馬」とした。

・「遖(あつはれ)」は底本のルビ。「あつぱれ」には感動詞・副詞・連体詞・形容動詞としての用法がある。その何れでもここでは機能するものと思われるが(形容動詞の場合も語幹の用法で考え得る)、私は連体詞でとって訳した。迫力はなくなるが、尊敬語を用いて落ち着いている原文の雰囲気としては自然であると思う。

・「拾ひ首」戦場にあって、実は他人が殺した敵将の首を拾い取り、若しくはかき取って、自分の手柄としてしまうことを言う。

■やぶちゃん現代語訳

  名将山中鹿之助の武辺判断に関わる事

 山中鹿之助は、去(い)んぬる頃、武功の誉れ高く、数多(あまた)の戦場にあって類稀なる戦歴を恣ままに致いた武勇一番の男であった。

 とある合戦の済んで、その日、初陣(ういじん)を果たいた若武者両人、山中鹿之助に進み出ると、まず一人が次のように語った。

「それがしは今日初陣にて、初めて、敵(かたき)と槍合わせ致しました折柄、……恥かしいこと乍ら、兼ねて念じておった心構えとはうって変わって、……敵に向かい合(お)うては先ず身に震えを生じ、……なかなか敵の顔さえしかと見ることならず、……槍を合わせ、踏(ふ)ん込(ご)み、己(おの)が槍を突き出だいて……確かに首を挙げることが出来申したのですが、……拙者の記憶は敵の鎧の毛の色の外は、ふつに覚えずという体たらくにて……武人たるもの……このようでよろしいので御座ろうか?……」

と訊いてきた。鹿之助は、

「向後、随分、精を出されるがよいぞ。されば立派な武辺の人となられるであろう。」

と答えた。

 ところが、今一人の若武者はそれに続けて、

「――某(それがし)は左程のことは御ざらなんだ――目指す敵と名乗り合を致いたが、その敵は××縅(おどし)の鎧にて、××毛の馬に乗って御座った……」

以下、槍を突いた戦場(いくさば)の様子、突いた敵の部位其の外、あたかもその瞬間が美事、眼に浮かぶかの如く、鮮やかに語ってみせた。

 鹿之助は、

「向後、随分、精を出されるがよいぞ。されば立派な武辺の人となられるであろう。」

と、こちらの若武者へも同じ答えをしたという。

 ――この両人が席を立って後のこと、鹿之助の傍にいた武将の一人が、

「……さても只今の武辺御判断、何れが、真(しん)なるや?……」

と訊ねた。すると鹿之助は、

「――最初に訊ねた若侍――これは誠、随分、立派なる武辺の士となるに間違い、ない――しかし――後に訊いた男――あれは、甚だ心許無い――もしや、この度の首、拾い首にてはなかろうか――まあ、そうでなかったと致いても――次の戦さにては――あの男――恐らく討たれるであろう。」

――果たして後日(ごにち)、その言葉通りと相成った――。

 その後、鹿之助が申したこと。

「――某なんどは――初陣の折りも、更に二、三度目の合戦の槍合わせの折りでさえも――最初の若侍が言った通り、総身(そうみ)に震えを生じ、なかなか目を見開くこと出来ず、いや、己(おの)が顔を上ぐることすらも出来なんだて――ただもう、無二無三に敵を突き伏せたと思うたところが――気がつけば、幸いにも首級を取って御座った――数多の場数を踏みてこそ、冷静な判断、その記憶というものは御座るものじゃ――」

と語った、とのことである。

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