耳嚢 天道の論諭の事
「耳嚢」に「天道の論諭の事」を収載した。
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天道の論諭の事
或儒者の申けるは、君父を弑(しい)し或は盜賊をなし人倫に背きし事あれば、公儀或は地頭領主より踵(くびす)を廻らさず誅戮(ちうりく)を加へ給ふ、是天道の常也。然るにさまでの惡事にはあらねど、日用の小事にも道に背きたる事あれども、これは誅戮を上より加へ給ふ程に至らず。然れども天道ゆるし給はぬ日には、たとへば三間(げん)の道も一間づゝせまくなし給ふ道理也といひぬ。實(げに)も面白き諭(たと)へならん。父母の子を思ふも君の臣を見給ふも此心あるべし。聊の惡と見ても愼むべき事ならんと爰に記す。
□やぶちゃん注
○前項連関:言葉を用いた技巧・機転という点で連関する。
・「君父を弑し」「弑」は、正に家臣・家来が君主を、子が親を殺す場合にのみ用いる語である。弑虐。⇔誅。
・「誅戮」罪科ある者とその縁者を武力を以って討伐すること。一族を罪に処して殺し尽くすこと。
・「三間」1間=6尺=約1.82mであるから、約5.46m。
・「實(げに)」は底本のルビ。
・「諭(たと)へ」本字義には、教え諭す、とは別に「喩」との同義を持つ。題名も同じく比喩を用いた言説(ディスクール)という意味の「論諭」である。
■やぶちゃん現代語訳
天下の道理について比喩を効果的に用いた論説の事
ある儒学者が申したこと――
――主君や父を弑(しい)し、或いは盜賊となって非道の行いを成し、人の「倫(みち)」に背くことあれば――御公儀或いは地頭や領主といったお方が瞬く間に誅戮をお加えになられる、ということ――これは天下の「道理」というものの常識である。――
――然るに、弑虐(しいぎゃく)・大盗人(おおぬすっと)と言った極悪の行い、ではなく――それ程までの悪事ではないけれども――日常のちょっとした場面の中にあっても――道に背くことは――ある――あるけれども、これに対しては、御公儀或いは地頭や領主といったお方は、誅戮を上よりお加へなられる程のことには至らぬ。――
――然れども、そのちょっとした悪を――「天道」がお許しになられぬ場合には――喩えて言えば――
――その者が歩む人生の三間(さんげん)の「道」を――一間(いっけん)ずつ――だんだんに――狭くなさるる――
――これぞ「道」理というものなのである――
実に面白い比喩であると思う。父母が子のことを慮(おも)う場合も、また主君が臣を監(み)る場合にも、この心がなくてはなるまい。また、我らも、ちょっとした悪事・悪戯といった程度のことと思うことをも、必ずや慎まねばならぬこと、と思うこと頻り、ここに記して自戒と致す。