人に打たれひとを打ちえぬ性もちて父がうからは滅びむとする 片山廣子 注追加
昨年得た新知見により、意味の不分明であった廣子の歌集「野に住みて」の一首に注を追加した。僕にとって驚愕であった、その事実を、このブログにも記しておかずには、居られない。
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人に打たれひとを打ちえぬ性(さが)もちて父がうからは滅びむとする
[やぶちゃん注:「父」とは廣子の父、ニューヨーク領事やロンドン総領事などを勤めた外交官吉田二郎。その「父がうから」とは、廣子の弟で吉田家の長男吉田東作を指す。これについて廣子の評伝的小説「ひとつの樹かげ」を書いた作家阿部光子は、その調査の過程で彼について、この歌を示して以下のような事実を述べている。この『歌にこもっている思いは深い。廣子は長女で次女の次子は上田夫人となって平穏な一生を終えたが、末の弟東作は、大正十二年の関東大震災の時、白い麻服を着て外出中、朝鮮人と間違えられて、警防団のなぶりものになった。そのショックから立ち直れず、昭和二十年、世を終えるまで、口も利かなければ、笑いもしないで、いつも白い服を着ているという生活であった。母は本郷に、小さい家を借りて、彼とふたりきりの生活をしていた。』。以上の阿部氏の引用は2005年講談社刊の川村湊「物語の娘 宗瑛を探して」よりの孫引きである。川村氏はこの後、本歌集の後に載る
むかし高麗びと千七百九十九人むさし野に移住すとその子孫かわれも
を引用し、廣子の父二郎は埼玉県大里郡出身であること、埼玉及び都下多摩地区を占める武蔵野が古来、朝鮮半島からの渡来人が住み着いた地と伝承されることを掲げ、この『「むかし高麗びと」という歌も、そうした渡来人の歴史を踏まえた作品であることは自明である』とされ、『だが、弟の東作の身の上に降りかかった悲劇を知った上でこの歌を読むと、「朝鮮人と間違」われたという不幸な偶然を、むしろ「われ(われわれ)も」朝鮮人の子孫なのだという必然に変えようとしてように思われる。それは敷衍していえば、弟の不幸や不運は、「間違い」や「思い違い」や偶然のものではなく、必然的な「父がうから」の悲劇であり、受難であったと片山廣子が受け止めようとしているためと考えられる』。『それは虐げられ、植民地支配されている被植民の国の民族に対する共感であり』、『大英帝国の植民地として、長らく政治的、経済的、文化的な支配を受けてきたアイルランドの文学作品を翻訳し続けてきた「松村みね子」には、植民地となった地域の民族の苦しみや悲しみが共感されないはずはなかった』と記される。この歌の解としてこれ以上の炯眼は他にない。]
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