耳嚢 前生なきとも難極事
「耳嚢」に「前生なきとも難極事」を収載した。
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前生なきとも難極事
紀州南陵院殿逝去巳前御遺辭あつて、若(もし)御逝去あらば岡の山といへる所に葬り奉るべき旨也。右場所は若山御城近くにありし由。然る所、御逝去に付其場所へ御廟穴を掘けるが、一丈餘りも掘りて一つの石槨(せきかく)あり。右石槨の内に一鉢一杖あつて外には何もなし。石槨の蓋に南陵の二字顯然とありけるが、其巳前御法號は御菩提所より差上しに南陵院と有之、誠に符節を合たる事と、其頃の人驚歎し今も紀陽に申傳侯由、安藤霜臺(さうたい)物語也。
□やぶちゃん注
○前項連関:石川自寛の第一話の徳川吉宗の故郷、紀州藩で連関。
・「紀州南陵院」「陵」は同音の「龍」の誤り。以下同じ(現代語訳では補正した)。徳川頼宣(慶長7(1602)年~寛文11(1671)年)のこと。徳川家康十男。常陸国水戸藩・駿河国駿府藩から紀伊国和歌山藩の藩主となって、紀州徳川家の祖となった。八代将軍吉宗の祖父である。尊称を南龍公と言い、戒名の院号が南龍院である。岩波カリフォルニア大学バークレー校版では正しく「南竜院」とある。現代語訳では補正した。
・「岡の山」徳川頼宣は寛文11(1671)年1月11日に逝去、現在の和歌山県海南市にある天台宗慶徳山長保寺(一条天皇の勅願により長保2(1000)年創建された寺)埋葬された。以後、この紀州家菩提寺長保寺背後の山(これが「岡の山」であろう)の斜面には歴代藩主が葬られているが、藩主の墓所としては日本最大の規模を誇るという。和歌山城より直線で十数㎞南方に位置する。
・「若山」和歌山。
・「石槨」石造りの棺を入れる外箱・部屋。本邦の古墳に見られる構造で、これも何らかの古墳を掘り当てたようにも見えるが、内に一鉢一杖というのであれば、これは密教僧(長保寺は天台宗である)の即身成仏の跡と考えた方がよいように思われる。
・「安藤霜臺」(正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)安藤郷右衛門(ごうえもん)惟要(これとし)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。お馴染みの根岸の情報源。
■やぶちゃん現代語訳
前世はないとも言い難い事
紀州南龍院殿が逝去される大分以前のこと、御遺言があり、
「もし予が死せし時は岡の山という場所に葬るように。」
ということであらせられた。そこは何でも和歌山の御城近くに御座ったらしい。
然る後、御逝去なされ、右岡の山に御廟穴を掘ったところが、一丈程掘り進んだ先に、一つの石郭があった。その内部には一鉢一杖があっただけで、外には遺体や副葬品等の葬られた人を明らかにするような何ものもなかった。
ところが――その石郭の蓋を見ると――そこには『南龍』の二文字が、くっきりと彫り込まれて御座った……
それよりずっと以前、御法号については――菩提寺長保寺から差し上げた奉書に――「南龍院」――とこれあり……誠(まっこと)不可思議なことに美事なる符合で御座ると、当時の人々も吃驚仰天、以後、今も、前世これある証しなり、と和歌山にては申し伝えられて御座る由、友人安藤霜台殿の物語った話で御座る。