耳嚢 金春太夫藝評を申上し事
「耳嚢」に「金春太夫藝評を申上し事」を収載した。
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金春太夫藝評を申上し事
有德院樣御代、金春太夫は上手の聞へありしが、或とき、御前へ罷出候筋、寶生太夫は上手也と世上にも沙汰致侯由、尤上手に候哉(や)と御尋有ければ、他流の事に付何れとも難申上、宜いたし候段御答申上ければ、夫は一通りの事也、御尋の上は心に存候所有の儘可申上と、御小姓衆より再應(さいわう)御尋ありければ、甚こまりけるが、左候はゞ可申上、此間御大名衆へ被召呼(めしよばれ)能(のう)仕(つかまつり)、料理抔相濟み楊枝を遣ひ候節、寶生太夫儀楊枝をつかひ仕廻、楊枝差へ一遍差侯て又引出し、一寸程離れける投入申候。寶生太夫が藝は是にて御勘辨可被下御答申上ければ、上にて兼て思召所も符合いたし候と御わらひ遊しけると也。此寶生太夫能はよくいたしけれども、常に正風躰(しやうふうてい)無之、仕打を好む氣性金春が氣に不入故、かく申上けると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:非人と金春太夫の類似した皮肉な機知で連関。先行する「金春太夫の事」他の能楽系統で連関。
・「金春太夫」底本の鈴木氏の注では、この『吉宗時代の金春座太夫は八郎衛門、八郎、伝左衛門など。なお「金春六郎」とした』「耳嚢写本」もあるとする。岩波版長谷川氏注では絞り込んで、『金春八郎休良か』とする。八郎休良(やすよし? 宝永3(1706)年~元文4(1739)年)であれば、先の「金春太夫の事」でも候補として上がった人物である。
・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。
・「寶生太夫」底本鈴木氏の注では、当時の宝生座の太夫は『丹次郎、九郎』とするが、岩波版長谷川氏注では、『享保ごろでは九郎友春(十三年没)、九郎暢栄(十五年没)など』と記し、同定出来ない。
・「離れける」底本ではこの右に『(一本「離れ侯て」)』と傍注する。この傍注を採用して訳した。
・「御勘辨可被下」底本ではこの右に『一本「御勘辨可有之と」』と傍注する。こちらは本文を採る。
・「正風躰」本来は歌学用語で、伝統的作風を守った品格の高い歌体を言う。ここではまず能の伝統的な正しい演技法を指しながら、同時にその人の風体(ふうてい)、人として当たり前に持つべき常識や品性をも掛けて言っているものと思われる。
・「仕打」これは芸能用語としては俳優の舞台での仕草を言う語である。ここでは前の「正風躰」が全く欠けていることから、伝統から外れたオーバー・アクトであるという悪評と同時に、金春が前に掲げた内容から、「仕打ち」本来の意味であるところの、非常識な下卑た振る舞いという意味も掛けられていよう。
■やぶちゃん現代語訳
金春太夫が宝生太夫の芸風についての評を吉宗公に申し上げた事
有徳院吉宗様の御代、金春太夫は特に名人との評判で御座った。
ある時、御前に罷り出でた折り、有徳院様より、
「宝生太夫は能の上手――と世間でも評されてもおるようじゃが――ほんに上手か?」
とお尋ねがあった。金春太夫は、
「……他流のことに御座れば、何とも申し上げ難く……何卒、その儀、平に御容赦の程……」
とお答え申し上げたところが、それを聞いた御小姓衆より、
「異なことを申すでない! そはお主の如き輩同士での、通り一遍の言いに過ぎぬ! 上様がお尋ねになる以上は――お主が心に思うておる、有りの儘を申し上げねばならぬ――」
と疑義が出、再度必ずや、お答えせよ、とのこと。
金春太夫は甚だ困りきった様子で畏まって御座ったが、暫くして、
「……されば、申し上げます。……過日、我ら共に、さる御大名衆の元よりお召しを受け、能を御披露致しましたが……舞い終えました後、料理なども頂戴致し……さても、爪楊枝を使うて御座った折りのこと……宝生太夫殿、楊枝を使い、すっかり歯をせせり終えた後……その楊枝を、一遍、元の楊枝差しへ差し戻し入れまして……また、引き出して……今度は、一寸ほど離れたところより……ぽん……と、美事……投げ入れまして御座る。――宝生太夫殿が芸の上手の例(ためし)は、……これにてご勘弁下さりませ――。」
とお答え申し上げたところ、上様にあらせられては、
「予が兼ねて思っておったことと、ぴたり! 一致致いたわ!」
とお笑い遊ばされたということで御座る。
この宝生太夫の――能は上手なれど、常に伝統的な舞や謡いをわざと外し、品性にも欠け、大袈裟で派手な演技を好み、下卑た振る舞いを敢えてするという――人柄が、金春には大いに気に入らなかったが故、かく上様にお答え致いた、というのが、どうも真相で御座ったようじゃ。
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