耳嚢 巻之二 小兒に異物ある事
「耳嚢 巻之二」に「小兒に異物ある事」を収載した。
早朝にアップしたが、ニフティの不具合でブログ管理ページにアクセス出来なかったため、こちらのアップが遅れた。
――これも個人的に
「だ~い好きな話だよ!」
オチが、良いんだな、これが――
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小兒に異物ある事
予が許へ常に來れる大木金助といへる者有しが、繪抔書て醫業を官務の間になして、予が家の小兒など不快の折からは其業(わざ)をも賴けるが、或日來りて語りけるは、世には不思議の生質(せいしつ)も有もの哉、去年堺町歌舞妓芝居へ行しに、右茶屋の倅(せがれ)十三才に成ぬるが、何卒繪を習ひ度由を申ける故、繪本など認(みとめ)遣しけるが、右倅近き頃金助方へ來りて專ら繪を習ひ或は素讀などいたし侍る。其起(おこり)を承(うけたまはる)に、其倅直(ぢき)に芝居の向ふに住けるに、狂言抔見る事甚嫌ひにて、明暮學問抔いたしける故、其父母家業に相應せずとて不斷叱り憤りて、辨當など芝居へはこびけるをも厭ひ嫌ひて、聊場所柄の浮氣繁花(うはきはんくわ)の有樣を心に留ざれば、迚も渠(かれ)は相續いたすまじとて、金助を頼み同人方へ寄宿爲致(いたさせ)ける。金助も其親々へかけ合けれど、當人願の上は宜相頼旨故、此程まで差置侍る由。歌舞妓茶屋ながら人も相應に召仕ひける者の倅、金助方へ來りては茶を運び、或は朝夕の給仕等をなしていくばくか苦しき事ならんと、物好成者もある也といひし。或日右の親共來りて、右倅の儀は迚も相續いたし役に立べき者にあらず、かゝる不了簡の者は侍にでも致さずば相成間敷(あひなるまじき)と申けると、大笑ひしける也。
□やぶちゃん注
○前項連関:小蛇の異物が龍となり、小児の異物が大器とならんか。いやいや、これは夫婦して蛇飼う親、夫婦して学問好きの子を貶す親とは、今流行りのモンスター・ペアレンツで、ズバリ、連関じゃ!
・「大木金助」底本の鈴木氏注によれば、大木真則(まさのり)なる人物で、西丸台所番(西丸は引退した将軍或いは御世継の居所)であった大木真親の子とする。宝暦7(1759)年に親から『遺跡を継ぎ、二丸・本丸の火番などを経て、寛政五年台所頭の見習。時に五十八歳。九年賄頭、兼表御台所頭』とある。寛政五年は西暦1793年であるから、この記事記載(「卷之二」の下限は天明6(1786)年まで)よりも少し後で、この話柄は二丸・本丸火番であった頃の話であろう。
・「堺町歌舞妓芝居」現在の日本橋人形町3丁目にあった歌舞伎劇場、江戸三座の一つであった中村座のこと。ウィキの「中村座」によれば、『1624年(寛永元年)、猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が江戸の中橋南地(現在の京橋の辺り)に創設したもので、これが江戸歌舞伎の始まりである。当初猿若座と称し、その後、中村座と改称された。1632年(寛永9年)、江戸城に近いという理由で中橋から禰宜町(現・日本橋堀留町2丁目あたり)へ移転、1651年(慶安4年)には堺町(現・日本橋人形町3丁目)へ移転した』とある。更に後、『1841年(天保12年)12月、中村座からの出火により葺屋町の市村座ともに焼失、天保の改革によって浅草聖天町(現・台東区浅草6丁目)へ移転させられた。この地には歌舞伎3座を含む5つの芝居小屋が建てられ、町名は初代勘三郎に因んで猿若町と命名され』、『884年(明治17年)11月、浅草西鳥越町(現・台東区鳥越1丁目)へ移転し、猿若座と改称されたが、1893年(明治26年)1月の火災で焼失した後は再建されずに廃座となった』とある。
・「浮氣繁花」歌舞伎界(梨園)及びそれに付属する茶屋遊興の場、当然、そこに更に関わる花柳界の浮ついた、華やかな、婀娜にして徒なる世界を総体的に言う語であろう。
■やぶちゃん現代語訳
子供にも変わり者がおる事
私の元によく訪ねて来る大木金助という者が御座る。絵など描くことを趣味と致し、また、公務の合間には、医術を学んで患者の診断や治療なども致し、私の家の子供なども体調を崩した折りなんどには診て貰(もろ)うたりしたもので御座ったが、その金助が、ある日、訪ねて来た折り、語った話である――。
「……世の中には、これまた、不思議な性質(たち)を持った者が御座るもので……去年のこと、堺町の中村座へ歌舞伎芝居を見に参りました折り、中村座向かいの茶屋の、十三歳に相なる小倅(こせがれ)が、何卒、絵を習いたき由申します故、何冊か絵の手本などを渡したことが御座ったが……実は、最近、この小倅……拙者の家に寄宿致し、絵を習い或いは漢文の素読なんどを致いて御座る。……」
とのこと――。私が、これまた、芝居茶屋の子倅が、何故にかく一念発起致いたのか、と訊ねた――
……いや、その子、芝居小屋の真向かいの茶屋に生れたにも拘わらず、……歌舞伎狂言なんどは、見るも忌まわしく、甚だ以って大嫌い、……ひがな一日、書を開き、学問なんどを致いて御座る故、その父母、甚だ以って家業に相応しからずと、日頃から、しっきりなしに意見致し、叱っては憤って御座った……。
……何でも、芝居ばかりか、客に売る弁当なんどを芝居小屋へ運ぶことすら嫌い、梨園・御茶屋の、あの浮かれ陽気に包まれた、豪華絢爛愛憎絵巻の世界には、聊かも心留める気配もなければ、……両親、口を揃えて、
「――とてものこと! こ奴は我が家業を相続致さずと存知まして――」
と、……拙者のところに頼みに御座って、かく、拙宅に寄宿致させて御座る次第……。
……勿論、拙者もこの両親にはあれこれと意見致し、まずは様子見の上と、掛け合(お)うてはみましたれども、……
「――いえ! もう、当人が強く望んでおりますること故――どうか一つ! そこのところ、よろしぅお願い申し上げ奉りまする――」
と、……いや、もう、けんもほろろにて……仕方のう、今に至る迄、拙者の書生の見習いのように致いて、さし置いて御座る……。
……一口に芝居小屋とは申しましてもな、沢山の下男下女をも相応に召し使うて御座る者の倅にて……拙者の茅屋(ぼうおく)に参って、しぶ茶を運び、毎日の食事・洗濯・掃除・留守番なんど……どれほど苦しかろうに、と察するのでは御座るが……それがまた、本人、至って平気の平左、学ぶことに嬉々として御座る……いや! もう……この世には想像も出来ぬよな、物好きな者が御座ることじゃ……。
……そうそう!……先だっては、こ奴の両親、うち揃うて参って御座っての。
「――矢張り、この倅にはとても家業を相続致すこと叶わず――全く以って役立たずの者――かかる了見違いの不届き者は――最早、侍にでもするより他は、どうしようもない、と二人して相談致いて御座る程にて……」
と言いよりました……。
……と金助殿が語り終えた。
私と二人、大笑いしたことは――言うまでもない。
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