耳嚢 雷を嫌ふ事あるまじき事/碁所道智御答の事
「耳嚢」に「雷を嫌ふ事あるまじき事」及び「碁所道智御答の事」の二件を収載。
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雷を嫌ふ事あるまじき事
長崎の御代官を勤し高木作右衞門が租父は市中の長也しが、至て雷を嫌ひ雷の時の爲とて穴室(あなむろ)を拵へ、なを横穴を掘、石槨(せきくわく)を拵へ置、雷の強き折柄は右石槨の内へ入て凌(しのぎ)けるが、身分結構に被仰付候節、江戸表へ召れ崎陽を發駕しけるが、その留守夏の事也けるが、夥敷雷にて所々へ餘りしが、右穴室の上へも落て石槨を微塵になしけるを、歸府の上見聞きて、公(おほやけ)の難有を彌(いや)覺、夫よりは運を感じけるや、雷を怖れざりしとかや。
□やぶちゃん注
○前項連関:天災・災害で前項大火及び前々項噴火と連関。
・「長崎の御代官を勤し高木作右衞門」底本鈴木氏は高木忠興(ただおき 享保21・元文元(1736)年~元明元(1781)年)とするが、岩波版長谷川氏注は当時はこの忠興の嗣子『忠任(ただより)』の代とし、『その祖父は作右衞門忠与(ただよ)。彼の時に御用物役から代官になった』とする。長谷川氏に分がある。この高木家、遡ると、初代高木作右衞門忠雄(生没年不詳)は、安土桃山から江戸初期の長崎の役人兼豪商(但し藤原氏の出身)であった。肥前高木(現・佐賀市)に城を築いていたが、永禄年間(1558~70)に長崎に移り、商人となった。唐蘭貿易に従事、元和2(1616)年摩陸国(モルッカ)あての海外渡航朱印状を幕府より与えられ、長崎頭人となった。以後、作右衛門が歴代名となった。2代忠次も長崎町年寄で、末次平蔵と共に民衆のキリスト棄教を推進、幕府より褒賞を受ける。3代宗能の時には、新たに御用物役に抜擢された。この話柄に現れた長崎町年寄8代目高木作右衛門忠与が長崎近郊の幕府領3000石の代官に任命されたのは元文4(1739)年2月23日のことで、高木家初の長崎代官となり、同時に幕臣となっている。以後、幕末まで歴代作右衛門が長崎代官を世襲した(高木家については主に「朝日日本歴史人物事典」の武野要子氏の記載に依った)。元文4(1739)年は本「耳嚢」巻之一の記載時から遡ること、30年程前のことである。
・「石槨」「せっかく」と読んでよい。石製の棺を入れる箱状の外郭。古墳に見られもので、この高木が建造している退避用地下シェルターの構造は、失礼乍ら、羨道を備えた石室そのもので、不信心な私などでも聊か不気味にして不遜なものに見える。雷、落ちちゃえ!
・「なを」はママ。
・「崎陽」長崎の漢文風の美称。「陽」は「洛陽」等の大都の趣きであろう。
・「雷を怖れざりし」典型的なプラシーボ効果である。
■やぶちゃん現代語訳
雷は毛嫌いしてはならぬという事
長崎の御代官を勤めた高木作右衛門忠与殿は――かの御仁は御祖父迄は、長崎市中の長(おさ)を勤める身で御座ったが――至って雷を嫌い、雷が鳴った時のためにとて、庭に穴を掘って地下室を作り、更にそこから横穴を掘り進めて、四方を石で固めた石室を拵え置き、雷が強く近くで鳴る折りには、即座にこの石郭の内に逃げ込んで雷が過ぎるのを凌いで御座ったということである。
ところが、元文四年、長年の高木家の長崎での業績を鑑み、長崎代官就任という相応な身分をお上より仰せ付けられたので御座った。その年のことで御座ったか、御用のため江戸表へ召し出され、長崎を出立致いたので御座った。
その留守中のことである。
夏のことでは御座ったが、長崎では嘗て例にない夥しい雷が鳴り、また各所に落雷致いたので御座ったが、何と例の地下室の真上を直撃、石郭を粉々に打ち砕いたので御座った。
作右衛門殿、帰府後、この惨状を実見致すに及び、己(おの)が命を救っ下さった御公儀の深慮、身に染みて、いや増しに覚えること頻り――それからというもの……己が強運をも感じたのでも御座ろうか……作右衛門殿儀、雷を全く恐れるなくなった、とか。
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碁所道智御答の事
有德院樣御代、或時碁所(ごどころ)の者へ御尋有けるは、碁の力同樣の者に候はゞ、先ン手の者果して勝べき事と思召候旨、御尋ありければ、道智(だうち)申上るは、上意の通に御座候得共、年齡同樣にて某日の氣分も同樣にて碁力人同樣に侯はゞ、先ンの者勝ち可申段御答申上しとや。流石の上手の御答也と曲淵甲斐守咄しあり。
□やぶちゃん注
○前項連関:先行する吉宗関連でもよいが、石室に居れば落雷に遭わぬと考えることと、先手必勝という故事は論理的な誤りであることで私には美事連関して見える。
・「有德院樣」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。
・「碁所」ウィキの「碁所」によれば、江戸幕府の役職の一つで、『職務は御城碁の管理、全国の囲碁棋士の総轄など。寺社奉行の管轄下で定員は1名(空位のときもある)、50石20人扶持、お目見え以上。囲碁家元である本因坊家、井上家、安井家、林家の四家より選ばれ、就任するためには名人の技量を持っていなければならない。徳川家康が囲碁を愛好したことなどから、将棋所よりも上位に位置づけられていた』とあり、『寛文2年(1662年)に囲碁、将棋が寺社奉行の管轄下に置かれるなど、幕府の政治機構の整備に伴い碁方の正式な長が必要となった。そのため寛文8年(1668年)10月18日、幕府により安井算知を碁所に任命したのがはじまりで』、『各家元はこの碁所の地位をめぐって争碁、政治工作などを展開させた。水戸藩主徳川斉昭、老中松平康任、寺社奉行なども巻きこんだ本因坊丈和、井上幻庵因碩による抗争は有名であり、「天保の暗闘」として知られている』とある。『碁所の起源は、天正16年(1588年)に豊臣秀吉が時の第一人者であり名人の呼称を許されていた本因坊算砂に20石20人扶持を支給したことなどの、碁打衆の専業化が始まるところにある。続いて幕府を開いた徳川家康が慶長17年(1612年)に囲碁・将棋の強者である碁打衆将棋衆8名に俸録を与えることとした。その筆頭は囲碁・将棋の両方において本因坊算砂で、五十石五人扶持であった』。『これ以降は、算砂と、その後を継いで元和9年(1623年)に名人となった中村道碩が、事実上の碁打衆の頭領格となっていたと思われる』とする(将棋については慶長17(1612)年に算砂から大橋宗桂に地位を譲ったとある)。『寛永7年(1630年)の道碩の死後、その地位を巡って本因坊算悦と安井算知が争碁を行うが決着が付かなかった(碁所詮議)。本因坊算悦は万治元年(1658年)に死去し、安井算知は名人の手合に進むこととなり、同時に碁所となった。この頃から、碁所という名称が公に文書で使われるようになり、後の本因坊道策への御證書にも碁所の名称が使われている』。『またこの時期から本因坊家、安井家、中村道碩を継いだ井上家の三家に家録が支給されるようになり、後に林家も加わって家元四家となった』とのこと、私は囲碁将棋には全く暗いが、ここまで政治に深く関与していたというのは、驚きである。しかし考えてみれば、泰平の世にあって、男は正に戦闘のシュミレーションをここでやっていたのだなあ、と感心するところ頻りである。
・「道智」囲碁棋士の五世本因坊道知(元禄3(1690)年~享保12(1727)年)のこと。以下、ウィキの「本因坊道知」より引く。『父は本郷元町に住み、御小人目付小頭役を勤めた十郎衛門。8歳で囲碁を始め、10歳で道策の門下となる。道策は道的、策元と二人の跡目が夭逝した後に、道知の才能を見て跡目に擬し、1702年(元禄15年)の臨終において13歳の道知を本因坊家の家督を継がせるとともに、井上道節因碩を後見として道知の育成を託した。道知は同年の御城碁に初出仕し、林玄悦門入に先で7目勝ちとする。翌年の御城碁では、四段格で安井仙角に先で5目勝ち。これで道節は道知に六段の力ありと見て、1705年(宝永2年)の御城碁で六段の仙角に互先の手合割を申し入れるが、仙角は承知しなかったため道知先相先で争碁となり、この御城碁を第1局として翌年にかけて道知が3連勝して、仙角は互先の手合を了承した。この争碁は「宝永の争碁」と呼ばれる。1706年に道節と定先での十番碁を打って3勝6敗1ジゴ。この翌年には道知先相先で七番を打ち、道知勝ち越しにより七段を認められ、道節は後見を解く』とある。「ジゴ」とは黒地と白地の数が同じで引き分けることを言う。『1710年に琉球国中山王の貢使随員の屋良里之子と向三子で対戦して勝ち、この時に屋良に免状発行するために道節を碁所に推す。その後1719年(享保4年)の道節死後、1720年に他の家元三家に働きかけて、準名人(八段)に推薦されてこの年の御城碁では井上策雲因碩に向先の手合となり、続いて翌1721年に井上、林両家の推薦を受けて名人碁所とな』り、『1722年(享保7年)に甥の井口知伯を跡目と』した。『道知は道策の実子であったという説もある。また門下の長谷川知仙は安井仙角跡目となるが、早世した。将棋も強く、六段と言われ、七段の因理という者に香落ちで勝った際には、その場にいた大橋宗桂、安井仙角らから「盤上の聖」と讃えられたという』。
・「曲淵甲斐守」曲淵甲斐守景漸(かげつぐ 享保10(1725)年~寛政12(1800)年)のこと。前項複数に既出。以下、ウィキの「曲淵景漸」によれば、『武田信玄に仕え武功を挙げた曲淵吉景の後裔』で、『1743年、兄・景福の死去に伴い家督を継承、1748年に小姓組番士となり、小十人頭、目付と昇進、1765年、41歳で大坂西町奉行に抜擢され、甲斐守に叙任される。1769年に江戸北町奉行に就任し、役十八年間に渡って奉行職を務めて江戸の統治に尽力』、『1786年に天明の大飢饉が原因で江戸に大規模な打ちこわしが起こり、景漸はこの折町人達への対処に失態があったとされ、これを咎められ翌年奉行を罷免、西ノ丸留守居に降格させられた。松平定信が老中に就任すると勘定奉行として抜擢され、定信失脚後まで務めたが、1796年、72歳の時致仕を願い出て翌年辞任した』。天明の大飢饉の際に『町人との問答中に「米がなければ犬を食え」と発言し、この舌禍が打ちこわしを誘発するなど失態もあったが、根岸鎮衛と伯仲する当時の名奉行として、庶民の人気が高かった』とある。根岸よりも一回り上の先輩に当たる。
■やぶちゃん現代語訳
碁所本因坊道智の有徳院吉宗様への御答えの事
……有徳院吉宗様の御代のことで御座る。
ある時、上様が碁所の者にお尋ねになられたは、
「碁の力量が同様の者同士であれば、先手の者が必ずや勝つものであろうと思うが、如何(いかん)?」
との趣きで御座った。
そのお尋ねに対して、当世の本因坊道智が、
「誠に上意の通りで御座いまするが――それは――年齢も同じで、その日の気分や健康状態も同様で御座って――その上で碁の力量も同様というので御座れば――先手が必ずや勝つものと存じまする――」
と申し上げたとか言うことで御座る……
「……いや、流石、名人の御(おん)答えで御座ったな……」
と、曲淵甲斐守景漸(かげつぐ)殿が私に話したことが御座った。