耳嚢 奇病并鍼術の事
「耳嚢」に「奇病并鍼術の事」を収載した。
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奇病并鍼術の事
廣瀨伯鱗は放蕩不羈にして、鍼醫(しんい)を業とし予が方へも來りし事あり。口并兩手双足(りやうあし)に鍼をはさみ人に一度に施す故、吉原町抔にては五鍼先生といへる由。彼者安藤霜臺(さうたい)の方へ來りし時、同人祐筆(いうひつ)何某(なにがし)を見て、御身は不快なる哉(や)と尋けるに、不快也と答ふ。暫有て惣身(そうみ)汗を流し面色土のごとく也。伯鱗是を見て肩へ一鍼を下しければウンといふて氣絶せしを、足の爪先へ又一鍼を下(おろ)し息を返し、夫より一兩日療治して快氣しける。伯鱗教示しけるは、御身來年の今頃を用心し給へ、又かゝる病氣あるべし、其時療治せば命恙なしと語りしが、翌年に至り其身も忘れけるや、霜臺のもとを暇を乞ふて神樂坂邊の武家に勤けるが、果して翌年同病にて身まかりしとや。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。寧ろ、祐筆の命に関わる奇病は、二項前の「天命自然の事」と連関するか。それにしてもこの奇病、致命的疾患は一体、何だろう。循環器系、脳血管系、心臓疾患等が疑われるか。鍼灸術から言えば肩に一鍼が勘所らしいが、医師・鍼灸医の方、お分かりになるならば、是非とも御教授を願う次第である。
・「廣瀨伯鱗は放蕩不羈にして」「廣瀨伯鱗」なる鍼医は不詳。「放蕩不羈」(ほうとうふき)は一般には、我儘で、好き勝手に振舞い、酒色に耽って品行定まらざるマイナス・イメージであるが、ここではもう少しフラットに、何ものにも束縛されず、思う儘に人生を送っていることを言うか。但し、かの吉原(これは勿論、新吉原)で五鍼先生と呼ばれるという辺りは、酒色も無縁ではなさそうだ。
・「安藤霜臺」(正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)安藤郷右衛門(ごうえもん)惟要(これとし)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。お馴染みの根岸の情報源。
・「祐筆」右筆とも。武家の職名で、各種文書・記録の作成・書写・代筆を掌る。
■やぶちゃん現代語訳
奇病並びに鍼術の事
広瀬伯鱗は自由闊達、勝手気儘な人柄で、鍼医を生業(なりわい)と致いており、私のもとにも訪ねて来たことがある。何でも口並びに両手指・両足指の五箇所に計五本の鍼を同時に挟み、それをまた、一気に施すことが出来るとかで、吉原町なんどでは『五鍼先生』と呼ばれて評判の由。
さて、この者が、私の友人安藤霜台殿の屋敷を訪ねた折りのことである。伯鱗が、同席して御座った安藤家祐筆の様子をまじまじと見て、
「……御身は御気分が優れぬのでは御座らぬか?……」
と徐ろに訊ねた。祐筆は、
「……如何にも、何やらん不調にて御座って……」
と答えたが、やがて瞬く間に、総身から汗を吹き出だしたかと思うと、顔色もまるで土の如くに生気を失ってゆく――そばに御座った伯鱗、これを見るや、
――祐筆が肩へ、さっと一鍼打ち下す――と――祐筆、
「ウ――ン!」
と唸ったかと思うと、気を失う――伯鱗、間髪を入れず、
――足の爪先へ、すっと一鍼打ち下す――と――祐筆、
「プ――ウ!」
と息を吹き返した――。
……何でも、そのまま伯鱗が一両日療治を施し、快気致いたという。
……ただ、快気の後、この祐筆に対して伯鱗が言うことには、
「……御身、来年の丁度、今頃――用心なされよ――再び、このような症状が現れることで御座ろう――その際に、再応、同じ療治を施さば――この病、完治致す――その後は、この病にては、命に関わることは一切なくなり申す……。」
とのことで御座った。
……ところが翌年になって……この祐筆、伯鱗の言葉をうっかり忘れてでもいたので御座ろうか――実は彼、この療治の一件のあった後、霜台殿に暇を乞うて、神楽坂辺りの別な御武家に勤め替えをして御座ったれば、霜台殿も是非に及ばず――果たして翌年同じ時節、この同じ病いにて……身罷ったということで御座った……。

