耳嚢 人性忌嫌ふものある事
「耳嚢」に「人性忌嫌ふものある事」を収載した。
実はこれ、僕が「卷之一」の中でもとびっきり好きなものの一つなのだ。
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人性忌嫌ふものある事
享保の頃御先手を勤めし鈴木伊兵衞は極めて百合の花を嫌ひしが、或時茶會にて四五人集りし折から、吸物出て何れも箸をとりしに、伊兵衞以の外不快にて色もあしく箸も不取故、何れも樣子尋しに、若(もし)此吸物に百合の根などはなきやといひし故、兼て嫌ひをも存ぜし事なれば、曾て右やうの事になしと挨拶に及びけるに、一座の内(うち)膳に百合の繪書きたるありける。人々驚て早速引(ひか)せければ元の如く快氣なりしと松下隱州かたりぬ。又土屋能登守殿の家來に樋口小學といへる醫師の有しが、鼠を嫌ふ事甚敷、鼠の居候座敷にて果して其樣子を知りけるが、或時同寮共相催し茶飯抔振廻(ふるまひ)しに、小學をも招きけるが、折節小學は跡より來りし故、兼て渠(かれ)が鼠嫌ひも餘り事樣也。いかゞ實事や難斗(はかりがたし)とて、鼠の死たるを取求、小學が可居(ゐべき)疊の下に入置、客知らぬ※(かほ)にて相待しに、無程小學も來りし故、彼是座を讓り右の疊の上へ着座いたさせ膳をも出させけるに、小學頻に顏色あしく惣身(そうみ)より汗を流し甚不快の樣子故、いかゞいたし候や抔と何れも申けるに、挨拶成兼候程の樣子、若右鼠の事など申出さば打果しもせんけしき故何れも口を閉、彼是介抱し、歸宅の事を乞ひける故人抔付て送り返しけるが、去(さる)にても不思議の嫌ひ也とて、無程人を遣(つかはし)樣子を聞けるに、宿へ歸りては何の障(さはり)もなき由、其席に連りし同家の鍼師(はりし)山本東作咄なり。
[やぶちゃん字注:「※」=「白」(上)+「ハ」(下)。]
□やぶちゃん注
○前項連関:蜂と蛇に纏わる奇体なまじないと、百合と鼠に纏わる奇体な生理的嫌悪感で何となくしっくり連関。
・「享保の頃」西暦1716年から1735年迄。
・「御先手」先手組(さきてぐみ)のこと。江戸幕府軍制の一つ。若年寄配下で、将軍家外出時や諸門の警備その他、江戸城下の治安維持全般を業務とした。ウィキの「先手組」によれば、『先手とは先陣・先鋒という意味であり、戦闘時には徳川家の先鋒足軽隊を勤めた。徳川家創成期には弓・鉄砲足軽を編制した部隊として合戦に参加した』者を由来とし、『時代により組数に変動があり、一例として弓組約10組と筒組(鉄砲組)約20組の計30組で、各組には組頭1騎、与力が10騎、同心が30から50人程配置され』、『同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられた』とある。
・「鈴木伊兵衞」岩波版長谷川氏では鈴木英政(ひでまさ 宝永3(1706)年~明和7(1770)年)とし、『享保十二年(一七二七)御書院番、小十人頭・目付・御船手など歴任』とあり、これを見ると彼は「御先手」であったことはない。底本の鈴木氏注では、やはり英政か、とされ、後に出てくる『御先手とあるは、松下昭永と混同したものか』と記す。
・「百合の花を嫌ひし」単子葉植物綱ユリ目ユリ科ユリ属 Lilium に対するアレルギー。実際にユリ科の花粉に対する強いアレルギー症状(蕁麻疹・喘息等)が報告されているが、この人の場合は、ちょっと特殊。アレルギーに加えてLilium phobia百合恐怖症とも言うべき一種の心因性神経症が疑われ、恐らく何等かの幼児体験に基づくトラウマがあるものと思われる。
・「松下隱州」松下隠岐守昭永(あきなが 享保6(1721)年~寛政9(1797)年)。岩波版長谷川氏注に、御先手鉄炮頭・作事奉行・鑓(やり)奉行を歴任したとある。
・「土屋能登守殿」土屋能登守篤直(あつなお 享保17(1732)年~安永(1776)年)常陸土浦藩第4代藩主。
・「樋口小學」不詳。後に「打果しもせんけしき」とあるが、当時の医師は武士階級ではないものの、庶民よりは上という、微妙な地位にあって、名字帯刀が許されていた。
・「鼠を嫌ふ事甚敷」これは当然あるアレルギーであろうと検索すると、ズバリ、「日本免疫学会会報」のロックフェラー大学アーロン・ダイアモンド・エイズ研究所ニューヨーク大学医学部医分子寄生虫学教室でマラリアとエイズの疫学・ワクチン開発をなさっている辻守哉氏(彼は免疫学の碩学多田富雄先生の薫陶を受けておられる)の書かれた「ニューヨーク16年の走馬灯」に『大学院時代を含めてネズミの研究に携わってもう20年ほどになるが8年ほど前からネズミアレルギーになった.手袋やマスクの完全防着でしかも抗ヒスタミン剤を手にしていないとネズミの実験に自ら取り組むことができない.ところがマラリアはネズミの実験系が確立されているので,マラリアの予防に重要なT細胞を効率よく誘導するマラリアワクチンの開発にはネズミの系が第一選択である.ネズミアレルギーもきっかけとなって,サルやヒトの実験系がしっかりし,やはりT細胞がキーであるエイズの免疫やワクチンの研究を学んでみようと思った』という記載がある。人生、意気に感ず、である。
・「同寮」底本ではこの「寮」の右に『(僚)』とある。
・「事樣也」底本ではこの「事」の右に『(異カ)』とある。
・「山本東作」不詳。根岸家出入りの鍼医でもあったのであろう。彼も根岸の情報源の一人であろう。
■やぶちゃん現代語訳
人には生理的に忌み嫌うものがある事
享保の頃、御先手を勤めて御座った鈴木伊兵衛なる者は、異常なまでに百合の花を嫌っていた。
ある時、とある屋敷で茶会が行われ、鈴木伊兵衛を含めて四、五人の者が集って御座ったが、その折りの会食の席に吸い物が出され、誰もが箸を取って頂戴致いたのだが、独り、伊兵衛だけは、顔を真っ青にして箸さえ取ろうとしない。皆して、
「……如何がなされた?……」
と訊ねたところが、伊兵衛、
「……もしや、この吸い物には……百合の根なんど……入っては御座らぬか?……」
と申す故、茶会の主(あるじ)が、
「かねてより、貴殿が百合を嫌うことは重々承知のことなれば、決してそのような仕儀は御座らぬ。」
ときっぱりと受けおうたので御座った。
……が……
……何と……よく見ると、一座の内の膳の一つの器に……百合の絵を描いた物が御座った……人々は驚いて、半信半疑ながらも、その器を早速に座敷より下げさせたところ……伊兵衛はみるみるうちに顔色が戻り、元気になったという……これは、松下隠岐守昭永(あきなが)殿が語った話で御座った。
同曲の話、今一つ。
また、土屋能登守篤直(あつなお)殿の御家来衆に、樋口小学と申す医師が御座ったが、この者、鼠を嫌うこと甚だしく、鼠が天井や床下に巣くって御座る座敷なんどは、入る前にすぐにそれと察して入らぬとのこと。
さても、ある時のこと、小学の同僚達が相集うて、茶飯なんどの振る舞まいを致すということで、その座に小学も招かれて御座った。折りから、小学はよんどころない用事があり、少々、後になってやってくることになって御座ったのだが、その間に、ある者が、
「……かねてより、彼の鼠嫌いは、余りにも異様に感ぜらるる。……如何にも、本当のこととも思い難い。……訳は知らねど、もしや、何やらん、芝居でもして御座るのでは、あるまいか?」
と言い出し、者ども、面白おかしく詮議するうち、遂に鼠の死骸をそこらからから探し求め参って、小学の座と決めた畳を上げ、右鼠の死骸を、その床下に置いて、元通り戻し、皆、そ知らぬ顔で小学の到来を待って御座った。
ほどなく小学も来たので、それぞれ、座を譲り譲り致し、先程の畳の上へ、まんまと着座致させて膳を出だいたところ……小学の顔色が……みるみる変わり始めた……総身より汗が滂沱と流れ落ち、甚だもって体調よろしからざる様なればこそ、
「……如何なされた?……」
なんどと座の誰もがとぼけた声をかける……が……小学の顔は、見るも恐ろしいまでに歪み、返答も出来ざるほどの苦しみようで……いやもう、もしここで、床下の鼠のことなんどを申そうものなら……小学、抜刀して、それこそ刃傷沙汰にでもなりかねぬといったゆゆしき趣き……されば、座の者どもは皆、かの悪戯(いたずら)も口に出来ぬまま、おっかなびっくり、あれこれ、介抱致し……小学本人も、甚だ不調に付き帰宅致すと申すが故に、人まで付けて自宅へと送り返したので御座った……。
その後、茶飯の座では、
「……いや……それにしても……全くもって不思議な鼠嫌いよのう……」
なんどと語り合い、少し経ってから、人を遣わして小学の様子を尋ねさせたところ……帰宅してからは、もう見違えるように元気になって、何の問題も、これ御座らぬ、とのことで御座った……その一座に御座った土屋家出入りの鍼師、山本東作が物語った話で御座る。