耳嚢 名君世の助を捨給はざる事
「耳嚢」に「名君世の助を捨給はざる事」を収載。
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名君世の助を捨給はざる事
有德院横風與(ふと)御考有て、夏の夕軒に群れ蚊を御近侍へ仰付られ、戻子(もぢ)の袋を拾へふり候て御取らせ被遊けるが、蚊もそれだけ少くありしに、右の蚊を御外科衆へ被仰付、膏藥にいたし吸膏藥に用ひ給ひしに、膿腦を吸ふ事に奇驗有しと安藤霜臺の語り給ひし故、予が許へ來る醫師に其事語りければ、都ての藥劑も道理を責て相用ひ候事多き也、明君の御賢慮難有事と答へぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:「一心の決處願ひ」が成就するのも、「名君世の助を捨給はざる」も、天道の道理故である。一貫して認められる根岸の畏敬する徳川吉宗の事蹟連関である。
・「戻子の袋」底本には「戻子」の「戻」の右に「(綟)」と注する。この「綟子」は「綟」(もじ)で、麻糸で織った目の粗い布を言う。蚊帳や夏季の衣服などに用いた。ここは一般的な麻袋をイメージすればよい。
・「御外科衆」将軍の診察および医薬を掌る職掌を奥医師と呼んだが(定員十数人で若年寄支配、高200俵に役料200俵が付いた)、医療パートは他に奥外科・鍼科などに分かれていた。奥医師が一種の臨床医・内科医的存在だとすれば、こちらは文字通り、実際的な施術を施す外科や皮膚科に相当するか。
・「吸膏藥」吸出し。蚊が血を吸うことからの類感呪術である。
・「膿腦」膿悩。腫物。腫瘍。
■やぶちゃん現代語訳
名君は世の助けとなるものであればちょっとしたものであってもお捨てにはなられぬという事
有徳院吉宗様、ある時、ふとお考えになられ、夏の夕暮れ、軒に群れて御座った蚊を、御近侍の者へ麻袋で捕らえるよう、仰せ付け遊ばされ、五月蠅い蚊もその分、少なくなったので御座ったが、外科の者たちに仰せ付けられ、この捕えた蚊を吸膏薬の原料に致し、調剤、それを実際に用いてみたところが、重い腫れ物を吸うに、極めて有効で御座った、と安藤霜台殿が語って御座ったことがある。そこで、それを私の許へ来る医師にも話したところが、
「全ての薬剤も道理の核心まで突き詰めて適用することが多いのですが、誠、君の御明晰なる御賢慮は測り難く、有り難きことにて御座りまするのう……」
と答えた。